腹と背中にぬくい温度を感じながらひらいた雑誌のページを捲る。
気になる服があるたびにページをめくる手を止めるが、そのたびにさっさとページをめくれと腹に回った手が急かしてくる。
室内にはコンポから静かな音量で流れる曲だけが響いていて、かすかなその音量が耳に心地良かった。
「三ツ谷ー、次めくれ」
「分かったって」
ページをめくれと急かすたびに腹に回した手でへそのあたりを軽く圧迫され、その感触に思わず龍宮寺の手首を握る。
口に出して言うとどんな答えが返ってくるか、またどんな行動を取られるか分かったものではないから黙っているが、そんなところを押さえ付けるなと言いたい。三ツ谷が異性だったら間違いなく肘を食らわせているところだ。
大きな手が当たる場所が場所だけに微妙なむず痒さを感じ、龍宮寺の腕の中で身じろげば、座り心地が悪いのかと勘違いしたらしく、体ごと抱えなおされた。
「なあ三ツ谷」
「ん?」
「お前、俺のこと考えてて眠くなることあるか?」
「は? なにそれ」
肩に顎を乗せ、顔のすぐ横で言う龍宮寺の言葉に、思わず龍宮寺の顔を見る。龍宮寺は視線を雑誌に向けたまま、三ツ谷の手に手を重ねて雑誌のページを勝手にめくった。
「マイキーが、タケミっちのこと考えてるとなんか眠くなるっつっててよ」
「……………」
龍宮寺が、佐野は花垣に好意を寄せているのかもしれない、と言い出したのはすこし前のことだ。はじめにその話を聞いたとき、きっと龍宮寺の勘違いだろう、と三ツ谷は思っていた。
けれど、それを気にしていた龍宮寺の疑問を晴らしてやろうと、彼とともに花垣といっしょにいるときの佐野の様子を観察した結果、たしかに龍宮寺の言う通りなのかもしれない、と思うようになった。
友情と言われれば友情なのかもしれないが、友情にしては度が過ぎているような。
自分たちには見せない顔で笑ったり、密着することを厭わなかったり、あまつさえ、自分から手を握ったり。
龍宮寺や三ツ谷とて、友人同士での多少のスキンシップはあるため、佐野の花垣に対するそれが、果たして友人に対するものなのか、それともそこに恋愛的な要素が含まれているのか、見極めきれずにいるのだ。
すくなくとも三ツ谷は龍宮寺以外の男と、手を繋ぎたいなどと思ったことはないが、しかし、積極的そんなことを思わないだけで、たとえば友人同士で手を繋ぐような状況になれば、べつにいやというわけでもない。
佐野は常識が通用しないところもあるため、なおさらその真意を探るのが難しかった。
「まあ……普通は好きな相手のこと考えて、眠くはならねえよな」
「だよなあ。けど話聞いてると、タケミっちのこと考えてると、なんかあったかくなって眠くなっちまうらしいんだよ」
「……それは」
どうなんだ、一体。
どうでもよくなって眠くなってしまうのかと思いきや、そうでもないらしい。
そうなると話は変わってくるのではないか。
「どう思う?」
「うーん……」
後頭部を龍宮寺の肩に押し当てるようにして宙を見上げる。
龍宮寺の話だけを聞いていると、考えすぎではないか、と言えるのだけれど、実際に花垣と接している佐野を見ていると、どうと言い切ることができないのだ。
「マイキーがタケミっちのこと好きなのかどうかは分かんねえけど、やっぱりしばらくは口出さずに様子見たほうがいいんじゃねえ? ドラケンとしてはモヤモヤするかもしれねえけどさ」
「ったく、マイキーもハッキリしねえしよお」
わずかに苛立ったような口調で言う龍宮寺に苦笑し、宥めるように太腿をぽんぽんと叩く。
三ツ谷でさえ気になるのだ。龍宮寺はやはり、もどかしい想いをかかえているのだろう。
そのもどかしさを発散するかのように、龍宮寺は三ツ谷の腹に回った片手にぐっと力を込める。
片手とはいえ、ただでさえ力が強い龍宮寺の腕に体を締め付けられ、思わず「うっ」と低い声が出た。
龍宮寺とそんな遣り取りを交わした数日後、三ツ谷は花垣とともに、土砂降りの雨の中を駆け抜けていた。
放課後、手芸で使う素材の買い出しに出かけた際、偶然買い物をしていた花垣と出くわしたのだ。出くわした場所が龍宮寺たちの通う中学の近くだったため、龍宮寺たちがまだ学校に残っているかもしれないから、ちょっと遊びに行ってみよう、とそんな話になり、三ツ谷たちにとっては他校である中学校へ向かっている最中だった。
佐野と花垣が接するのを観察する良い機会だとも思ったのだ。
さいわい、雨が降り出す前に龍宮寺とは連絡が取れ、「帰りてえけどマイキーが起きねえ」とのことで、まだ学校に残っているということは分かっている。
集会などで佐野と花垣がいっしょにいるところに居合わせる機会はあるが、さすがの佐野も総長として皆の前にいるときに、花垣を特別扱いするようなことはしない。そのへんの分別はしっかりしているのがまたややこしくもある。
もうちょっと分かりやすく態度に出してくれれば、龍宮寺もあれほど思い悩むことはないだろうに。
とはいえ、三ツ谷はさほど、ハッキリしろよ、と思っているわけでもない。
もし、佐野が花垣に対してそういった感情をいだいているとするのなら、佐野にとってもそれは初めてのことだろう。
急かしてしまうのは可哀想だとも思う。
そんなわけで、とりあえずふたりを観察するために、ふたりがいっしょにいる機会を作ろうと思い、龍宮寺たちの学校へ向かっていたのだが。
「雨、すごいっすね!」
「天気予報確認しときゃ良かったな! とりあえず走れタケミっち!」
「はい!」
荷物を傘代わりに頭上に掲げてはいるものの雨の勢いは強く、三ツ谷も花垣も、もう既に全身びしょ濡れの状態だ。
気温の低い時期でなくて良かった、と思いながらも、シャツの襟から入り込んでくる雨に不快感を催しつつ全力で雨の中を駆け抜けた。
しばらく走りつづけて見えてきた学校の正門から昇降口へと駆け込む。
放課からしばらく経っているため、駆けこんだ昇降口に人気はなく、しんと静まり返った校舎の中に激しい雨の音と、荒く繰り返す自分たちの呼吸音だけが響いていた。
「うわ、お前等びしょ濡れじゃねえか」
乱れた呼吸を整えていると、ふいに聞き慣れた声がして顔を上げる。廊下には龍宮寺が立っていて、三ツ谷と花垣を手招きした。
「教室にタオルあるから貸してやるよ。ついてこい」
そういって踵を返す龍宮寺に礼のひとつでも言いたいが、息が苦しくてそれどころではない。それは花垣も同様で、なにかを言おうとしているのは分かるけれど、ぜえ、はあ、と声にならない気息だけを忙しなく繰り返していた。
「マイキーは?」
龍宮寺の背中についていきながら、ようやく落ち着いてきた呼吸で尋ねれば、「寝てる」と一言だけ返ってくる。まだ寝ているのか、相変わらずよく寝るやつだ。
ちらりと花垣に視線をやってから、前を歩く龍宮寺へ視線を遣れば、彼も三ツ谷と同じようにちらりとこちらへ視線を向けた。どうやら三ツ谷の思惑を察してくれているようだ。
「教室にタオル取りに行ってくるから、マイキー起こしといてくれ」
そう言って、とある教室の前まで案内される。教室を覗き込めば、たしかに窓際のいちばん後ろの席で、机に突っ伏して眠っている佐野の姿が見えた。
「マイキー。マイキー起きろ」
学ランを肩にかけてすよすよと寝息を立てている佐野の肩を数度揺する。花垣はといえば、物珍しそうに教室を見渡していた。
「……ケンチン、三ツ谷みてえな声する」
突っ伏していた佐野がもぞもぞと身動きしたかと思えば体を起こし、ごしごしと目をこすりながらようやく目を覚ます。ふあ、と大きな欠伸を漏らしたあと、三ツ谷を見て、そのあと花垣へと視線を向けた。
「三ツ谷にタケミっち? なんでいんの?」
「近くで買い物してたらタケミっちに逢ってさ。マイキーたちがまだいるかもしれないから遊びに行こうって、俺が誘ったんだ」
「三ツ谷、タケミっち、タオル持ってきたぞ」
教室の入口から龍宮寺の声がして、やわらかな感触が投げつけられた。
髪のさきから滴り落ち、肌を伝って服の中に入ってくる雫が心地悪く、受け取ったタオルで髪や顔を拭う。
ある程度水分を拭きとるとすこしはマシになったが、張り付くシャツの感触が気持ち悪かった。
「雨すげえな。これじゃマイキー起きても帰れなかったな」
「傘持ってきてねえの?」
「雨降るなんて聞いてねえ」
天気予報くらい見ろよ、と言ってやりたいが、三ツ谷も雨に降られているのだから、言えた義理ではないだろう。
「風邪ひかねえようにちゃんと拭いとけよ、タケミっち」
「はい。タオルありがとうございます」
ぺこりと律儀に頭を下げた花垣は、龍宮寺に言われた通り、髪や顔をタオルで拭っている。
席に座ったまま、ぐっと伸びをしている佐野に、そんな花垣を気にする様子はない。
そんな二人の様子はいつも通りで、とくにふたりの間に気になるような会話はなかったのだけれど。
「タケミっち寒いの?」
「あ、いや……」
ふいにそんな言葉が聞こえ、反射的に花垣と、声を上げた佐野へと視線を向ける。
花垣は困ったように笑っているが、かすかに口元が震えているが分かる。気温は低くない時期とはいえ、制服は夏服で、薄手のシャツ一枚だ。
雨に濡れ、体が冷えてしまったのだろう。
雨の中連れきたのは三ツ谷で、寒がっているのならなにか羽織るものでも貸してやりたいが、あいにく三ツ谷も薄手のシャツを着ているだけだ。
どうしたものかと思っていると、ふいに佐野が立ち上がった。
「これ着てな」
そう言って、肩にかけていた学ランを花垣の背中からかけてやる。
佐野が学ランをかけてやるその仕草が、まるで背後から花垣を抱き込んでいるように見えてギョッとした。
「でも俺濡れてるし、学ラン濡れちゃいますよ」
「いいから。タケミっちただでさえ犬っぽいのに、濡れて震えてると捨て犬みてえなんだもん」
「いぬ……?」
ふたりは何事もないように会話をしているが、なんだ今のは、と思わず一歩後ずされば、背後に立っていた龍宮寺の体に背中がぶつかる。
上を見上げ、見た?、と視線で訴えると、見た、と視線だけで返って来た。
「すいません、ありがとうございます」
やはり寒かったらしく、結局花垣も佐野の学ランを借りることにしたらしい。両手をクロスさせるようにして佐野の学ランを羽織り、すこしはあたたかくなったのか、ほっと息を吐く。
もちろん、花垣が暖を取れたのであれば、それに越したことはないのだが。
三ツ谷が学ランを羽織っていたら、佐野と同じように花垣に貸してやっただろう。……手ずから羽織らせてやるかはべつとして。
ともかく、寒がっている友人に上着を貸してやる、というのはとくべつ他意のある行動ではないだろうけれど。
今目の当たりにした光景について、龍宮寺と話し合いたいが、ふたりを目の前にして話すわけにもいかない。
「なあドラケン、タケミっちも寒いみたいだし、なんかあったかい飲み物ほしいんだけど。自販機どこ?」
ふたりから目をはなすのも惜しいが、今はともかく状況を整理するためにも龍宮寺とふたりで話したい。
わざとらしくならないように提案すれば、龍宮寺はすぐに三ツ谷の思惑を察し、頷いてくれた。
「俺等飲み物買いに行ってくるわ」
「あ、俺も行きますよ」
「マイキーまた寝るかもしれねえし、タケミっちはマイキーと残っててくれ。タケミっちカフェオレでいいか?」
「あ、はい。じゃあすいません、お願いします」
「俺コーヒー」
「分ぁった分ぁった。行くぞ三ツ谷」
佐野と花垣を残し、龍宮寺と連れ立って教室を出る。
しばらく廊下でふたりの会話の内容を盗み聞いたが、
「雨すごいですね」
「やみそうにないね」
と、そんな取り留めない遣り取りを交わしているだけだった。
人気のない薄暗い廊下。
三ツ谷を案内するためにさきを歩く龍宮寺の背中を追いつつ、窓の外へと視線を向ける。
土砂降りの雨は数メートル先の景色さえ輪郭をあやうくさせ、外の風景を水の底に沈めていた。
「さっきのどう思う? たしかにタケミっち寒がってたし上着を貸すくらい、普通のことかなとは思うけど」
すこしだけ前を歩く背中に話しかければ、うーん、とやはり悩まし気な声。
「俺はマイキーが人に服をかけてやってる姿なんて初めて見たぞ、……」
「俺も。なんかさ、マイキーのタケミっちに対する、……なに?」
売店の近くにあるらしい自販機へ行くため、渡り廊下へと歩いてゆく龍宮寺の隣に並びながら、ふと、視線に気が付いて龍宮寺を見上げる。
龍宮寺はわずかに不機嫌そうに眉を寄せ、じっと三ツ谷を見下ろしていた。
「つうか、お前もこれ着てろ」
そう言って、龍宮寺は着ていたカーディガンを脱ぎ、それを三ツ谷に差し出してくる。
目の前に差し出されたカーディガンに、きょと、と瞬きながら龍宮寺を見上げてみる。たしかに雨に降られ、制服は濡れてしまったものの、三ツ谷はさほど寒くはないが。
「俺、べつに寒くないよ」
渡り廊下に出ると外気に晒され、体が冷えてしまうからだろうか。けれどそれくらいで風邪をひくほど、やわではないつもりだ。
龍宮寺の気遣いはありがたいが、ある程度の水分は拭き取ったとはいえ、未だ制服は水分を含んだままだ。龍宮寺のカーディガンを濡らしてしまうのは申し訳ない。
ゆえに彼の申し出を断ろうとしたのだが、それよりさきに深く息を吐いた龍宮寺に腕を掴まれ、建物の陰へと引きずり込まれた。
「ちょ、ドラケン? なんだよ、どうした?」
強い力で腕を掴まれ、無理矢理移動させられる。人目の付かない壁際に抑え込まれ、腕を掴んでいた手が外れたかと思えば、大きな手が伸びてきた。
大きな手は、手の甲でするりと三ツ谷の体を濡れた制服越しに撫で、指の関節で胸を摩る。
「ちょっ、」
「透けてんだよ」
「っ!」
なにが、と聞かずとも、彼の指が触れた場所を考えればそれは明らかで、咄嗟に肌に張り付くシャツを握り、素肌からはなす。
裸など、龍宮寺以外の人間にだって、何度も見られたことがある。女性のようにやわらかな凹凸などなく、平坦の男の体だ。
肌を晒すことに抵抗があるわけでもない。
だが、龍宮寺が示しているのは、そういう問題ではないことも理解している。
龍宮寺が自分のことをどう思っているか、どんな目で見ているか、自惚れではなく自覚している。
不快だから隠せ、と言っているわけではないことなど明白だ。
上から見下ろしてくる龍宮寺と視線を合わせることができず俯けば、シャツを握る手にカーディガンを押し付けられた。
「着てろ」
「……ごめん」
反射的に返した言葉に、「べつに謝らなくていいけど」と低い声が返ってくる。
差し出されたカーディガンを受け取って着込み、龍宮寺を見上げれば、彼はいくらか疲れたように俯き、首を掻いて、再度深い息を吐いた。
「謝らなくていいけど……お前もうちょっと気ぃ付けろ」
「……うん」
「『うん』て……まいいけど」
顔を上げて三ツ谷を見下ろしてくる切れ長の瞳を見つめ返すのはさすがに居たたまれなく、視線を逸らせば、髪をかき混ぜるように大きな手が一度だけ頭を撫でる。
はなれてゆく際、髪の合間に隠れた龍をなぞるように、指先がやわく皮膚を摩るのが分かって、ひく、と首が震えた。
着込んだカーディガンは龍宮寺の体温がうつっているためあたたかく、着込んだ瞬間、冷えた体を温めてくれるが、それが今はいくらか暑いくらいだ。
さきに歩き出した龍宮寺を追って三ツ谷も渡り廊下へと出れば、雨を孕んだわずかに冷えた空気が肌を撫で、その心地良さに息を吐いた。
そんなことがあり、すこしのあいだ居たたまれなさがつづいたが、それは決して不快なものではなく、しばらく隣を歩いていると普通に話ができるまでには三ツ谷の精神も回復した。
「つうか、マイキーたちのこと話したくて教室に残してきちまったけど、ふたりっきりにして大丈夫か?」
「平気だろ。このあいだだっていい雰囲気だと思ったけど、結局なにもなかったじゃん」
人のいない夕暮れの砂浜にふたりきり。静かな波打ち際を手を繋いで歩く佐野と花垣の姿は記憶に新しい。
記憶に新しい、というより衝撃的過ぎて、脳裏にこびりついていると言ったほうが正しいかも知れないが。
手を繋いだのは佐野のほうからで、これはもう確実に花垣に好意をいだいていると思ったのだけれど、戻って来たふたりはまるで幼い子供のように言い合い、龍宮寺にまとわりついていた。
その姿に恋とか愛とか、そういった気配は微塵もなく、やはり龍宮寺と三ツ谷の勘違いなのではないか、という疑いも強くしたのだった。
それでもまだ、佐野が花垣を、という疑惑が晴れたわけでもなく、龍宮寺は三ツ谷よりも気を揉んでいるのだろう。
うーん、と隣で悩まし気な声を上げる龍宮寺に、たしかにあやしいけど、と思いながら渡り廊下を進み、龍宮寺の案内するまま自動販売機へと向かう。
それぞれふたり分ずつ、あたたかい飲み物を購入し、教室に戻るために来た道を引き返す。
雨は未だやむ気配なく降り続けている。
渡り廊下にさしかかり、しばらくはまだ帰れそうにないな、とそんなことを思っていると、ふいに、隣でぱしゃ、となにかが落ちた音がした。
反射的に音がしたほうを見れば、龍宮寺が買ったコーヒーが、渡り廊下にぶちまけられ、紙製のカップが床にころりと転がっている。
彼がそんなミスをするなんて珍しいけれど、どうやらコーヒーのカップを取り落としてしまったらしい。
「おい、なにやってんだよドラケン」
珍しい、と思いながら隣に立っていた龍宮寺を見上げれば、彼は一点を凝視して固まっていた。
「ドラケン?」
不思議に思い、龍宮寺にならうように三ツ谷も顔を上げ、龍宮寺の見ているさきへと視線を向ける。
「……は?」
直後、自分の足元でぱしゃ、となにかが落ちて零れる音が響いたが、そんなことに意識をやっている余裕はなかった。
渡り廊下から龍宮寺が見つめる視線のさきには、先程まで自分たちがいた佐野の教室が見える。
しかし、龍宮寺と三ツ谷が固まったのは、とうぜん、教室が見えたからではなく。
その教室で抱き合っている、佐野と花垣の姿が見えたからだった。
そうやって龍宮寺と三ツ谷がとんでもない光景を目撃するすこしまえ。
飲み物を買いに教室を出て行った龍宮寺と三ツ谷を見送った花垣は、慣れない教室で佐野と話をしながらも、そわそわと周囲を見渡していた。
「雨すごいですね」
「やみそうにないね。つうかタケミっち、さっきからなにキョロキョロしてんの?」
「いや、マイキー君とドラケン君の学校、初めてだなと思って」
佐野や龍宮寺が自分と同じように学校に通っていることは知っているが、とうぜん、彼等が学校で過ごす姿など見たことがなく、想像も余りできない。
けれどこうやって、彼等の学校に来てみれば、やはり彼等も学生として過ごす時間があるのだと実感した。
「ケンチンはべつのクラスだけどね」
「ここ、マイキー君のクラスなんですよね」
「そうだよ。ここ俺の席。タケミっち座っていいよ」
そう言って立ち上がり、自分は隣の席に座って、佐野の席に座るよう促してくる。
遠慮する気持ちはあったけれど、ちょっとした興味もある。佐野の席とはいえ、いち中学校のいち教室、いち机であることに変わりはない。
花垣が通う学校の教室や机とさほど変わりはないと分かっていても、佐野の席に座ってみると佐野の視線が分かって、彼のことをもうすこしだけ知れるような気もしたのだ。
「じゃあ、失礼します」
隣の席に移動し、頬杖をついている佐野に軽く頭を下げてから、佐野の席に腰を下ろしてみる。
卓上に腕を乗せてみたり、黒板へ視線を向けたり、窓から見える外の風景を眺めたり。
普段佐野はこんな風景を眺めているのかと思うと、雨に濡れる景色もどこか面白く、しばらくそうやって佐野の視界を楽しんだ。
「ここがマイキー君の席なんすね。教室にいるマイキー君とか見たことなくて、あんまり想像できなかったんですけど……なんか新鮮ですね」
「そう?」
「はい」
さすがにアホっぽいだろうか、と思いながら佐野を見れば、頬杖をついたままかすかに笑っているのが分かる。
学年が違うため、たとえ同じ学校に通っていたとしても、隣の席に佐野が座ることはないだろうけれど、想像するくらいはゆるされるだろう。
「タケミっちも同じ学校なら良かったのに」
「俺もですか?」
「うん。そしたら毎日逢えるだろ」
頬杖をついたまま、手で口元が隠れているため、佐野が笑っているのかどうかは分からなくなったが、じっと花垣を見つめる瞳がゆる、と歪んだのが分かる。
黒目がちな瞳が自分を見て、優しく笑うのを見るのが好きだ。
彼が笑っているのを見ると嬉しくなるが、その瞳が自分を見て笑うと、ちゃんと自分のことを見ていてくれているんだなということが分かる。
花垣が話す、他愛もないどうでもいいような話も、佐野はいつも笑って聞いてくれる。
「でも学年違うから、毎日逢えるかどうかはちょっと」
「はあ? なんだよ、毎日挨拶しに来いよ」
「挨拶に行っても、マイキー君寝てそうじゃないですか」
「それでも来いよ。俺タケミっちの先輩だよ?」
「そうですけど」
強制するようなことを言いながらも、その声はやはり笑みを孕んだもので、毎日はちょっと、と笑いながら言い返す。
静かな教室に、降り注ぐ雨音とふたりの話し声だけがちいさく響いている。
龍宮寺と三ツ谷はまだ戻ってくる気配はないが、話が途切れることもなく、佐野と会話を交わしていたのだけれど、ふいに、ぞく、と首筋が震えた。
「……、」
さむ、と思いながら肩からかけた佐野の学ランを無意識に握りしめる。
佐野から借りた学ランを羽織ることですこしはあたたまったものの、着込んだシャツはいまだ乾かず、ぐっしょりと濡れた感触が肌に貼り付いているため、どうしたって体温が下がってしまう。
いやな寒さだ。ぞくぞくと体温を奪われてゆく感覚に、ちいさく身震いする。
「やっぱ寒い?」
「すいません……ちょっとだけ」
花垣の異変に気が付いたのか、隣の席に座った佐野に尋ねられ、苦笑しながらも頷く。
嘘を言ったところで表面に出してしまっているから、佐野にはすぐに気付かれるだろう。
「けど、もうすぐ三ツ谷君たちがあったかい飲み物買ってきてくれるから大丈夫っす」
気温はそう低くない。あたかかい飲み物でも飲めば、次第に体温も戻ってくるだろう。
いまだ水分を含んでいるとはいえ、すこしずつシャツも乾いてくるだろうし。
「マイキー君には学ランまで貸してもらったのに、すいません」
呼ばれたわけでもないのに押しかけて、剰え、心配までさせてしまうなんて。
いささか申し訳なく思っていると、ふいにかた、とかすかな物音がして、そちらに意識を向ける前になにかが目の前に伸びてくる。
それが佐野の腕だと認識するよりさきに、佐野の腕の中に抱き締められた。
「これでちょっとはあったかいだろ」
体を抱く腕も、密着してくる体もあたたかく、そのぬくい感触に抱き締められただけで冷えた体から力が抜ける。
「……制服まだ濡れたままだから、マイキー君が濡れちゃいますよ」
「いいよ」
すぐ耳元で聞こえる、いつもより低く聞こえる声は優しく、どこか甘く、その声にすり寄るように思わず頬を寄せる。
良くはない。良くはないのだけれど、密着してくる体があたかかく、ダメですよ、という言葉が出てこない。
すぐそこで揺れるやわらかな髪が頬に触れる。それに埋もれるように、すり、と顔を寄せれば、くすぐったいんだけど、と笑みを孕んだ静かな声が耳元で聞こえた。
「学ラン貸してもらったときも思ったんですけど……マイキー君、いいにおいしますね」
「どんなにおい?」
「……マイキー君のにおい」
体を抱き寄せる佐野の体温がどうしようもなく心地良く、眠くはないのだけれど、すこしだけ睡魔に似た感覚に襲われる。このままでは佐野が着ているシャツも濡れてしまうため、そろそろはなれなければと分かってはいるのだけど、体を包む温度はどうしようもなく手離しがたく。
ゆっくりと佐野の背中に手を回し、その首筋に顔を埋めて目を閉じた。
しばらくそうやって体を温めてくれる佐野の体温に擦り寄っていると、廊下の方からなにやらけたたましい足音が聞こえてくる。
かと思えば教室の入口からものすごい勢いで龍宮寺と三ツ谷が駆けこんできた。
「ま、マ」
「ドラケン落ち着け。つか、なにやってんのお前等」
龍宮寺の背中を追って、教室へと戻って来た三ツ谷は、佐野の席で抱き合っている佐野と花垣の姿に改めて愕然とする。
見間違いじゃ、なかった。幻覚でも幻でもなく。
ただ、普通、抱き合っているところを見られたら、佐野はともかく、花垣は慌てふためきそうなものだが、ふたりとも突然飛び込んできた龍宮寺と三ツ谷を不思議そうに眺めているだけだ。
抱き合ったまま、はなれようともしない。
「……マジでなにやってんだ」
きょと、とこちらを見ているふたりに尋ねれば、ふたりは顔を見合わせ、なにって、と同時に口をひらいた。
「タケミっちがやっぱ寒いって言うから、あっためてやってただけだけど」
「……あっためてやってただけ?」
「他にもう着せるもんねえし。つうか、ケンチンたちこそなにやってんの? 俺のコーヒーは?」
渡り廊下にこぼしてきたが。
それがなにか?、と詰め寄ってやりたくなるのをぐっと堪え、隣で混乱を極めている龍宮寺を落ち着かせるように、背中を撫でてやる。
しかしさしもの三ツ谷も状況がよく理解できず、若干混乱する。
あっためてやっただけ、とは一体どういうことだ。
渡り廊下から抱き合っているふたりが見えたとき、ものすごいものを見てしまったような気になったけれど、ふたりの反応を見るに、そうでもないのだろうか。
いやしかし、好きでもない相手に対し、抱き締めてあたためるなどという発想が出てくるだろうか。
三ツ谷にはそんな発想はないが、いやしかし、相手は佐野だ。三ツ谷の常識とはすこしばかり異なる常識を持った男である。
「飲み物買いに行ったんじゃねえの?」
「……いや、自販機まで行ったんだけど財布忘れてさ。取りに来たんだ」
「そうなんですね。あ、じゃあやっぱり俺買いに行ってきますよ。ふたりを何度も行かせるの申し訳ないですし」
そういって花垣は佐野に腕をはなすように頼む。
「しょーがねえなあ。じゃあ俺も行こっかな。タケミっちひとりじゃ迷いそうだし」
「さすがに迷わないですよ。中学校ってどこも大体同じ作りじゃないですか」
「いいからいいから」
「俺も行く」
「俺も」
「は? 結局ケンチンたちも行くのかよ」
花垣の肩を押し、教室を出て行こうとする佐野を龍宮寺とともに追いかける。
友人のラブシーンなど見たかない。見たかないが、目をはなすとなにが起こるか分からない。
佐野の真意を探るためにも、やはりふたりがいっしょにいるところはしっかり見ておかねばならない。
そしていつか決定的な瞬間をおさえることができれば。
できればいいのだが、佐野が一体どんなつもりで花垣に接しているのかが不明な以上、その決定的な瞬間も訪れるかどうか。
「三ツ谷」
「ん?」
「……三ツ谷」
「……気持ちは分かるけど落ち着けドラケン。気を確かに、な?」
ぎゅっと三ツ谷の腕を握ってくる龍宮寺の顔は、彼にしては珍しく、動揺を隠せずにいる。
制服のシャツから伸びる締まった腕を極力優しく撫で、宥めてやる。
前を歩く当のふたりは、やはり何事もなかったかのように会話を交わしていて、疑問は膨らむばかりだった。
コンポから流れる静かな曲に耳を傾けながら、龍宮寺がひらいた雑誌を見下ろす。
ゆっくりとめくられてゆくページには魅力的なバイクが掲載されているが、どこか集中することができず、大きな手がページをめくるのをぼんやりと眺めていた。
「マイキーに誰にでもあんなことすんのかって聞いたら、タケミっちだからって返ってきたんだけどよ」
「……うん」
「やっぱアイツ、タケミっちのこと好きなんかな」
ぺら、とページをめくる手は止まらないまま、大好きなバイクの雑誌だというのに龍宮寺もやはり、別のことが気になっているらしい。
「……好きなんだと思う。好きなんだと俺は思うんだけど、でもマジでマイキーがタケミっちのこと好きなのかどうかは、正直分かんねえ」
「普通、好きでもないやつにあんなことするか?」
「俺もそう思うよ。けど、そういうつもりでやってるんだったら、もうちょっと照れたりするもんじゃねえ? 慌てたり、はなれたりさ」
「アイツ等全然はなれなかったもんな」
「しかも、それ以外ではわりと普通じゃん。マイキー、タケミっちに逢いに行きたがったり、いっしょにいたがったりするわけでもねえし。こないだタケミっち、『マイキー君から全然メールの返事が返ってこないんです』って言ってたぜ」
もし佐野が花垣に好意をいだいているのだとすれば、逢いに行ったり、自分から連絡を入れたりしても良さそうなものだが。
普段顔を合わせるときも、やはり特別変わったところはないのだ。取り留めのない会話をして、何事もなく別れる。
花垣は松野と仲が良く、ほかにも親しくしている隊員がいて、いつも戯れ合っているけれど、それを目交いにした佐野が嫉妬する素振りを見せることもない。
「うーん……」
すぐ耳元で聞こえる低く悩まし気な声に三ツ谷も唸り声を重ねる。
「まあ、やっぱもうちょっと様子見だな」
背後の体に凭れかかって言えば、雑誌を読むことを諦めたのか、はあ、と深いため息と同時に腹に腕が回り、体を抱えなおされる。
「考えすぎてハゲんなよ、ドラケン」
「いやなこと言うなよ」
すぐ横にある顔に手を回し、こめかみに刻まれた龍を指先で摩ってから頭を撫でる。
する、と腹を撫でる手は下心を感じさせるものではなく、そのあと、ぐ、と腹を押さえられ、言わずにいようと思ったのに、つい「そこ押すのやめてくれる」と声に出してしまった。
無意識にやっていると思っていたのだが、どうやらわざとやっていたらしい。
直後、耳元で低く笑う声がした。
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