放課からいくらか時間が経ち、人がいなくなった教室。隣の校舎の向こう側のグラウンドで部活に励む生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。
その声を聞きながら刺繍枠に張った布に針を刺し、糸を通してカラフルな柄を描いていく。
妹たちが学校へ持っていくための手提げ袋の柄をリクエストされたから、そのためのものだ。
放課後の静かな教室はどこか気怠げで、心地良い空気が流れていく。
膝の上に頭を乗せた龍宮寺も同じように感じているのか、膝の上でふあ、と緩慢な欠伸を漏らした。
「ねっむ……まだ終わんねえのかよ、三ツ谷」
椅子に座る三ツ谷の隣に椅子を複数並べ、人の膝を枕代わりにして横たわりながら訴えてくる龍宮寺を適当にあしらいながら、作業を続ける。
急かすような言葉のわりに、とくに急かしてくるでもない。
なんだかんだ、いつも三ツ谷が作業を終えるのを大人しく待っている。
そんな龍宮寺がふいに、そういえばさあ、と悩まし気な声を上げた。
「聞いてくれよ、三ツ谷」
「なんだよ?」
「マイキー、タケミっちのことが好きなのかも」
「は?」
突然の発言に思わず刺繍の手を止め、膝の上の龍宮寺の顔を見下ろす。とんでもないことを言ったわりには、彼も訝し気な表情を浮かべていて、体を起こしたかと思えば向き合うように体を三ツ谷へと向けた。
「なに急に。どういうこと?」
「いや、アイツ最近タケミっちの話めっちゃ増えてさ」
「まあ……付き合いそんな長くねえから、話題に上がることが増えただけじゃねえ?」
「それはそうなんだけど、なんか……なんつうか、見たことねえ顔すんだよ、タケミっちの話してるとき」
「どんな?」
「いや……どんなって言えねえんだけど」
自身の膝の上に乗せた足に頬杖をつきながら眉を寄せて言う龍宮寺はその時の佐野の表情を思い浮かべているのだろう。
うーん、と悩まし気な声を上げている龍宮寺に、「見たことない顔ねえ」と三ツ谷も想像してみるが、今一ピンとこない。
花垣はともかく、佐野との付き合いは長い方だけれど、彼の口から恋愛に関する話など聞いたことがない。
巷では『無敵』と称されている彼ではあるが、内面は年相応、いやそれ以上に幼い節がある。恋愛など、まだ興味すらないんじゃないか。
「たしかにタケミっちのこと、気に入ってるみたいだけど……だからって恋愛としての好きかどうかは……」
「俺もそう思うんだけど、なんかさあ……」
「疑惑が拭いきれねえんだ?」
「うーん……」
佐野のことをいちばん近くで見ている彼だからこそ、気になるのだろうか。
たしかに、佐野が花垣を、というのは佐野のことを知っている面子からすれば、驚きの事実だろう。
あの佐野が。
恋愛に目覚めただけでなく、あの花垣に惚れているというのだから。
「もうちょっと様子見てみれば?」
「まあ……そうだな」
「俺も気にして見てみるようにはするからさ」
友人として、そして総長を支えるべき副総長として、見て見ぬ振りもできないのだろう。元々面倒見の良い男でもある。
ひとりで背負いこませるのも可哀想で、気休め程度に言ってやれば、それで納得したのか、また三ツ谷の膝を枕代わりにその場に横たわった。
龍宮寺から三ツ谷へそんな相談があった数日後、偶然、三ツ谷と佐野と龍宮寺の間でツーリングの話が持ち上がった。
気温が徐々に上がり始める時期で、すこし遠出をして、海へ行こうと佐野が言い出したのだ。
佐野は思い付きをすぐに実行したがる傾向にあり、今日行こう、と言い出し、慣れている龍宮寺と三ツ谷も、とくに予定がなかったこともあって佐野の提案に同意した。
三人で一旦佐野の家に集まり、そろそろ出かけるかというころ、龍宮寺が思い出したかのように
「タケミっちも誘ってみねえ?」
と言い出した。何気なく龍宮寺へと視線を向けた三ツ谷に、龍宮寺は佐野に気付かれないようアイコンタクトを送ってくる。
たしかに、もし佐野が花垣に対して恋愛感情を抱いているのなら、佐野はその提案に食いつくはずだ。
龍宮寺と視線を合わせたまま、こくりと頷き合い、三ツ谷は佐野の反応を窺った。
「タケミっち? なんで?」
「いや、アイツ最近バイク乗り始めたばっかで、まだ遠出とか慣れてねえだろうし。いっしょに遠出とかしたことねえし、たまにはいいだろ」
咄嗟の言い訳にしてはまあまあかな、と思いながら三ツ谷も不自然にならない程度に賛成する。
「まあ、べつにいいけど」
けれど当の佐野の反応といえば、拒否したり嫌がる素振りは見せないものの、とくに喜んでいるという風でもない。いつも通り、わりとどうでも良さそうなのんびりとした回答である。
「どうなの、あれ。普通好きな子といっしょに遊べるってなったら、もっと喜びそうなもんじゃねえ?」
「けどマイキーだからな。喜ぶところも想像できねえっつうか」
「やっぱドラケンの気のせいなんじゃない?」
「そっかあ……?」
バイクにまたがっている佐野の後ろでこそこそと言葉を交わしていると、「おーい、ケンチン、三ツ谷、行くぞー」と声をかけられる。
何事もない風を装ってそれぞれバイクにまたがり、とりあえず花垣の家を目指すことにした。
道中、花垣に連絡を入れれば、とくに予定はなかったようで、二つ返事で了承される。今から迎えに行くことを伝えると、「待ってます!」と元気な返事が返ってきた。
道すがら佐野の様子を窺ってみるも、やはり普段通りで、とくに浮足立っていたり、舞い上がっているような様子もない。
やはり龍宮寺の気のせいなんじゃないだろうか。
今のところ、とくべつ、佐野が花垣に好意を寄せているような気配は見られない。
龍宮寺は佐野のなにを見て、佐野が花垣を、なんて風に思ったのだろうか。
そんなことを考えつつバイクを走らせていると、間もなく花垣の自宅に到着した。
「タケミっち! 来たぞ!」
往来から叫べば、二階の窓にひょっこりと顔が現れて引っ込み、かと思えば家の中から階段を駆け下りる音がして、玄関の扉から花垣が現れた。
「よお、タケミっち。急で悪いな。マイキーが突然今日行くって言い出してよ」
「なんだよ、俺のせいかよ」
「いえ、全然。むしろ誘ってもらえて嬉しいです」
「ちょっと遠出になるんだけど、大丈夫か? バイクもう慣れた?」
いつものように、佐野と龍宮寺に挟まれ、お互いの圧を一身に受けながら笑っている花垣に三ツ谷が尋ねると、罰が悪そうな笑みが返ってきた。
「いやあ、それがあんまり乗れてなくて……けど、みなさんの足を引っ張らないように頑張ります!」
べつに頑張ることではないとは思うが。いつも一生懸命なのは花垣の良いところだ。
「けど慣れてないと結構疲れるぞ」
「慣れてないときは神経使うしな」
無理をして、事故にでもあったら元も子もない。近場へと場所を変えるか、とそんなことを龍宮寺と話していると、ふいに佐野が声を上げた。
「じゃあタケミっちは俺の後ろに乗せてやるよ」
「え? いやでも、それじゃあ……」
「いいからいいから」
ちょっと目をはなした隙に佐野は花垣の手を掴み、自身のバイクへと引っ張っていく。
「後ろに乗ってればバランスの取り方も体がおぼえてくしさ。タケミっちが事故ったら、海行けなくなるだろ」
言いながらバイクにまたがり、花垣に後ろに乗るように促している。
はじめは遠慮していた花垣も、佐野に促され、最終的には後ろに乗っていくことにしたようだった。
「じゃあ、すいません。失礼します」
そう言って佐野の後ろに乗り込み、前に乗っている佐野の腰に手を添える。
バイク乗りであれば、とくに珍しい光景でもない。三ツ谷も龍宮寺も同じように友人の後ろに乗ったことがあるし、乗せたこともある。
佐野の誘い方はいくらか強引ではあるものの、佐野が強引なのはいつものことだ。その強引さに、自分たちも毎回手を焼かされている。
ゆえに、佐野が自分の後ろに強引に花垣を乗せたことは、別段気になることではなかったのだが。
「こっち」
ふいにそんな言葉が聞こえたかと思えば、背後を振り返った佐野が花垣の手首を掴み、自分の腹に手を回させるように花垣を引き寄せる。
花垣はその勢いで佐野の背中に顔をぶつけていたから見えなかったと思うけれど、三ツ谷と龍宮寺は見てしまった。
今まで自分たちには向けられたことのないような表情で笑う、佐野の顔を。
思わず、勢いよく龍宮寺を見れば、彼もまた、なにかを訴えるように三ツ谷を見下ろしていた。
「しっかり掴まってろよ」
「すいません」
何事もなかったかのように会話を交わしている佐野と花垣を、無言のまま指でちょいちょいちょいちょいと小刻みに示せば、隣の龍宮寺もやはり無言で何度か頷く。
なんだ、今のは。
今まで佐野のあんな顔、見たことがない。
龍宮寺の言っていたのはこういうことだったのか。
いやしかし、佐野が花垣を気に入っているのは周知の事実で、いくら見たことがない表情を見せたからと言っても、それが恋愛だと決めつけるのはいささか早計な気がする。
やはりもうすこし様子を見た方が良いだろう。
龍宮寺と三ツ谷は視線だけでそのような会話を交わし、今はとりあえず、海に向かうべくバイクを走らせることにした。
「なあ、さっきのどう思う?」
「うーん……」
海へ向かう途中のコンビニエンスストア。
休憩がてら立ち寄ったそのコンビニで、三ツ谷と龍宮寺は先程見た佐野と花垣についての密談を交わしていた。
自分達は飲み物を買ってくるから、バイクを見ていてくれと佐野と花垣には外で待ってもらっている。佐野の運転するバイクの後ろに乗っていただけとはいえ、ツーリングに慣れていない花垣も座って休憩できるからと伝えれば、とくに怪しまれることもなかった。
「まあぶっちゃけ、推測の域を出ないって感じではあるけど」
「でもお前も見ただろ、マイキーのあの顔」
「いやまあたしかに、『なんだその顔』とは思ったけど。でも相手はタケミっちだからなあ……世話焼きたくなる気持ちは分かるっつうか」
「けど相手はマイキーだぞ。人に世話を焼いてもらうのが当然だと思ってる奴だぜ」
「いやそれは……ドラケンが世話焼くからそういう風になったんじゃない?」
元からそこそこずぼらな質ではあったが、それに拍車がかかったのは龍宮寺にも一因があるのでは?
若干の呆れを滲ませた瞳で龍宮寺を見上げるが、とくに意に介した風でもない。
大きな図体をすこしだけ屈ませて、商品棚越しにコンビニの外でなにやら話をしている佐野と花垣の様子を窺っている。
「こう見たら普通に話してるだけのように見えるけどな」
「なに話してるんだろうね」
「さすがにこっからは聞こえねえな」
こそこそとふたりがそんな話をしているころ、花垣は縁石に腰を下ろし、慣れないツーリングですこしばかり疲れた体を伸ばしていた。
「疲れた?」
バイクから降りた佐野に尋ねられ、慌てて立ち上がる。花垣は佐野の後ろに乗っていただけで、疲れたというなら佐野の方だろう。
「俺は全然大丈夫です。マイキー君こそ大丈夫ですか?」
「俺を誰だと思ってんの? タケミっち乗せて走ったくらいで、疲れるわけないじゃん」
「ならいいですけど」
コンビニの軒先の影へと歩いてゆく佐野を追って、花垣も軒先へと入る。
陽射しを遮る場所に来れば、吹き抜ける風が肌に心地良かった。
「バランスの取り方、大体分かった?」
「なんとなく、ですけど。俺も早くみんなといっしょにツーリングできるようになりたいな」
「じゃあ早く慣れろよ。折角バイクやったのに、あんまり乗れてねえって」
「いや、乗るようにはしてるんスよ。けど近所走るだけだから、広い道に出るのちょっと不安で……」
「不安ってなんだよ。まあちょっとずつ慣れていけばいいけどさ」
責めるような言葉とは裏腹に声は笑いを孕んでいて、花垣も頭を掻いて笑う。
ちらりとコンビニの中へ視線を遣れば、買い物をしている三ツ谷と龍宮寺が顔を見合わせて何やら話をしているのが見えた。
「買い物、ドラケン君と三ツ谷君に任せて良かったんスかね」
「ふたりがいいって言うんだからいいんじゃね? それよりタケミっち、初めてバイクで遠出した感想は? 疲れた以外で」
「だから疲れてないですって。すげえ楽しいっす! それに気持ちいい!」
尋ねられた言葉に思ったままのことを口にすれば、ふうん、と笑みを孕んだ声が返ってくる。
「ツーリングは楽しいよね。自分で運転するようになれば、もっと楽しいと思うぜ」
「頑張ります。けど、」
「けど?」
「マイキー君といっしょだからこんなに楽しいのかも」
口にするのはいささか恥ずかしかったけれど、思ったことを素直に言葉にする。
総長である佐野と言葉を交わすときはすこし緊張するが、そうでないときの佐野といっしょに過ごすのは存外落ち着けるし楽しい。
穏やかでのんびりしていて、他愛ない話にも耳を傾けてくれているのが分かる。
最初はただこわい人だと思っていたけれど、そんなことは全然なかった。
口にした言葉に嘘はないが、さすがにすこし恥ずかしくて、へへ、と笑いをこぼせば、佐野はきょとんと瞬き、ついで、その大きな瞳をやわく歪ませて笑った。
「そ」
口端を緩ませて、くすぐるような眼差しで花垣を見下ろす。
佐野は意識して笑ったわけではなかったから、自分がどんな顔をしているのかとくに気にしなかったけれど、店内でその様子を見ていた三ツ谷と龍宮寺はそんな佐野の表情をばっちりと目撃していた。
「三ツ谷!」
「ちょドラケン、急にでけえ声出すなって」
「見たかお前今の」
「いや見たけど。なんの話してんだアイツ等」
随分楽しそうだが。とくに佐野が。
いや、花垣も花垣で楽しそうだ。花垣は佐野が笑顔だといつも嬉しそうに笑っている。
たしかに龍宮寺の言うことも一理あるかもしれない。佐野は自分たちに向けて、決してあんな風に笑わない。それは笑顔を見せないという意味ではなく。
「けど決定打ってほどでもないんだよなあ。弟みてえに思ってんのかもしれねえし」
「弟?」
「うん。マイキーって、手がかかる弟みたいなのって今までいなかったじゃん? だからそういうつもりでタケミっちに接してるのかもしれないし」
「まあたしかに」
「ちょっとふたりっきりにしてみる?」
「あ?」
ふたりっきり、と聞き返してくる龍宮寺に頷き、計画を立てる。
「海行って、俺等は適当なこと言ってはなれてさ。日暮れ前の海にふたりっきりだぜ? もしマイキーがタケミっちのこと好きなら、さすがになんか行動起こすんじゃねえ?」
「まあ、それでマイキーが手ぇ出したらハッキリするかもな」
「正直、見たくはないけどな」
友達のラブシーンなど。
だがしかし、今日はそれを確認するためにも花垣を呼んだのだ。三ツ谷はともかく、龍宮寺は少なからず気にしているようだし、ハッキリさせられるならそれに越したことはないだろう。
ふたりで頷き合い、この後の計画も確認したところで買い物を済ませ、コンビニを出る。
店を出た際、さりげなくふたりの会話に耳を欹ててみたけれど、バイクの話をしているだけで、とくに気になる会話を交わしている様子はなかった。
コンビニで休憩をした後は再度バイクを走らせて、一路、海を目指す。
時間をかけてようやく海に到着したころ、既に日は傾きかけていたけれど、周囲は未だ日中の明るさを残しており、青い海面が陽射しを跳ねてきらきらと煌いていた。
「海だー!」
それぞれバイクから降り、防波堤を上ってゆくと、眼前に夕暮れ前の太陽をたたえる空と青い海、人気のない砂浜が広がる。
いちばんに声を上げたのは花垣で、その喜びようといえば大袈裟なほどで、そこまで喜んでもらえるなら誘った甲斐があるなと思った。
「俺、海とか全然来てなくて、超久し振りなんですよ! 砂浜とかもう何年振りだろう……ちょっと行ってきていいすか!?」
「おー行ってこい行ってこい」
わくわくとはしゃいでいる花垣の言葉に龍宮寺がひらひらと手を振る。それを合図にするかのように、花垣は一目散に砂浜へと走って行った。
「元気だなタケミっち」
「あ、こけた」
「小学生かアイツ。おーいタケミっち、はしゃいでケガすんなよ!」
ひとり走り回っている花垣は、さながらリードを外され、喜び勇んで駆け回る小型犬のようだった。
砂浜を駆けていたかと思えば靴を脱ぎ、パンツの裾を捲り上げて波と戯れだした花垣を眺めながら、龍宮寺の服の裾をそっと引っ張る。ちらりと佐野に視線を向ければ、自分たちと同じように花垣を眺めながら、防波堤の上に腰を下ろしていた。
「あー……マイキー」
「ん?」
「俺たちちょっと、向こうのボード屋見てくるから」
「ボード? ケンチン、ボードとか興味あったっけ?」
「三ツ谷がデザインが気になるらしくてよ。見に行きてえらしいから、俺もいっしょに行ってくるわ」
「じゃあ俺も、」
そう言って立ち上がろうとする佐野をすかさず三ツ谷が押し留める。
「いやさすがにタケミっちひとりにするわけにはいかないしさ。久々の海だって言ってたから水差すのも可哀想だし、ちょっと見ててやってよ」
「まあ……べつにいいけど」
「じゃあ俺達ちょっと行ってくるわ」
ボード屋が向こうにあるのかどうかは知らないが、なかったらなかったで、後程場所を間違えていたとかなんとか、誤魔化しはいくらでもきくだろう。
佐野もとくに訝しんでいるような様子はなく、その場に座り直し、海を眺めている。
龍宮寺と目を合わせ、その隙にその場をはなれて、佐野たちからは見えにくい場所でふたりを観察することにした。
「マイキー動きそうにねえな」
「俺達が戻るまで、あのままだったらどうする?」
「まあ、そんときゃそんときだろ。つうかタケミっち、マジでひとりで遊んでんな」
「千冬も連れてきてやれば良かったな」
「じゃあ今度は千冬も連れてくるか」
防波堤に座り込んだまま海を眺めている佐野と、ひとり波と戯れている花垣と。
そんな光景が変化する様子はなく、三ツ谷と龍宮寺の会話も逸れ始めたころ。
ふいに佐野が立ち上がり、砂浜へと降りて行った。
「お、マイキー動いたぞ」
花垣のほうへと歩いてゆく佐野へ、ふたり揃って視線を向ける。花垣もそれに気が付いたのか、波と戯れるのをやめ、佐野の方へと歩いてきた。
何事か言葉を交わしているが、ここからでは一体どんな会話を交わしているのかまでは聞こえてこない。
夜を孕んだ夕暮れ時の風が吹き、淡い色をした佐野の髪が海と空を背景に揺れているのが見えた。
そうやって、佐野と花垣の動向を、三ツ谷と龍宮寺が遠くから観察していることなど露知らず、花垣は足元で打ち寄せては引いてゆく波の感触を楽しんでいた。
佐野たちに伝えたとおり、海にやってくるのは随分と久々なことで、足を濡らすその波の動きや感触がやけに楽しく、心地良い。
つめてえ、とそんなことを思いながら、ぱしゃぱしゃと波を蹴って遊んでいると、ふと、砂浜を歩いてくる佐野の姿に気が付いた。
「マイキー君」
波を蹴るのをやめ、ポケットに両手を突っ込み、のんびりと歩いてくる佐野へと駆け寄る。
長い髪が潮風に揺れ、よくよく見るとまだ幼さの残る顔を時折隠していた。
「楽しそうじゃん、タケミっち」
「海来るのほんと久々で……ちょっとはしゃぎすぎましたかね」
「いいんじゃねえ、べつに」
「ドラケン君と三ツ谷君はどうしたんですか?」
「なんか、ボード見に行くとか言ってどっか行った」
気が付けば龍宮寺と三ツ谷の姿が見当たらない。佐野が残される羽目になったのは、花垣がひとりはしゃいで遊んでいたせいではないかと申し訳なく思ったが、佐野は別段気にした様子もなく、花垣の隣で海を眺めている。
その横顔は凛と前を向いていて、先程感じた幼さとは逆に、年齢よりずっと大人びて見えた。
「綺麗っすね、海」
「ああ、そうだな」
「あ、そういえばこれ」
「ん?」
海を眺めている佐野へ手を差し出せば、それを受け取るように佐野も手を差し出す。
ゆるくひらくその手のひらへ、握り締めていた貝がらを手渡した。
「なにこれ」
「さっき見つけたんすよ。欠けてねえし、穴もあいてないし、珍しいかなって」
先程砂浜を駆け回っているときに見つけた、桜色の薄い貝がら。見つけたときは陽射しを跳ねて煌ていたのに、手に取ってみればそれは透けるように薄く、どこか儚げで、そして美しかった。
「なんで俺に?」
「バイク乗っけてくれたお礼っす。桜貝っていうんですっけ。綺麗だから、マイキー君にと思って」
「…………………」
手のひらに乗せられた桜貝を佐野はじっと見下ろして、しばらくしたあと、口端を上げて笑った。
「お礼に貝がらって……ガキかよ」
「いらないなら返してくださいよ」
「いらないとは言ってねえだろ」
笑いながら茶化してくる佐野にムッとして取り返そうとすれば、佐野は桜貝の乗った手を握り締め、空いた片手で顔を押さえてくる。
ぶんぶんと手を振るが佐野の体には掠りもせず、その様が面白かったのか、佐野の楽しげな笑い声が聞こえた。
顔を押さえられていたせいで、前髪がぐしゃぐしゃになってしまい、もー、と声を上げて抗議するも佐野はちいさく笑うだけ。
人が折角、と思ったけれど、楽しそうに笑う佐野の顔を見ているとなんだかどうでもよくなって、花垣の顔も次第に緩んでいった。
「タケミっち」
しばらくそんな遣り取りを交わしたのち、今度は佐野が手を差し出してくる。
「マイキー君もなんかくれるんすか?」
差し出された手に、先程佐野がそうしたように花垣も手を伸ばせば、手のひらの上になにかを乗せるように、佐野が手をひらく。
けれどその手にはなにも握られておらず、不思議に思って首を傾げたとき、佐野の手がひらいた手に重ねられ、そのままぎゅっと握り締められた。
顔を上げればやわく歪む瞳と目が合う。
「ちょっと歩こ」
そう言って歩き出した佐野に握られたままの手を引かれ、波打ち際を歩く。
ほのかに赤く染まる暮れゆく空の端っこに、夜を孕む紫色が滲んでいる。吹き抜ける風は優しく、潮の香りに混じる甘さを孕むやわらかなにおい。それが佐野のにおいだとすこししてから気が付いた。
ゆっくりと砂を踏む自分たちの足音と静かに打ち寄せる波の音だけが周囲に響いている。
握り締めた手はすこし乾いているけれど、柔らかくあたたかい。
佐野は不良たちで間でその名を知らない者はいないと言われるほど、圧倒的な力を持っていて、花垣も彼の恐ろしさについては充分知っているつもりだ。
けれどふたりでいるときの彼は、そんな恐ろしい彼とはまったく異なり、穏やかで優しく、どこかまろやかであたたかい。
柔らかな手をそっと握り締めれば、同じだけの力で握り返された。
「タケミっちの手、あったかいね」
「マイキー君の手もあったかいですよ」
「タケミっちの方が絶対あったかいって」
「同じようなものですよ」
そんな言葉を交わしながら波打ち際をふたりで歩く。
日暮れ時ということもあり、周囲に人気はなく、そんなふたりを見ている者など誰もいなかった。
そう、龍宮寺と三ツ谷を除いては。
「……おお」
物陰からこっそり佐野と花垣の様子を伺っていた三ツ谷は、目の前で繰り広げられた光景に思わず声を漏らす。
手を繋いで砂浜を歩いているふたりは、どう見てもいい雰囲気と言わざるをえない。手を引かれている花垣にも、無理矢理といった様子はなく、笑いながら佐野と話をしている。
そっと隣を見上げれば、同じ光景を見ていた龍宮寺は言葉もないようで、目を見開いて砂浜を凝視していた。
無理もない。ちょっとした衝撃映像より衝撃的な光景だった。
花垣が佐野になにかを手渡し、ふたりでなにやら戯れていたかと思えば、ふいに佐野が花垣の手を握り、砂浜を歩きはじめたのだ。
一体、なにがどうして、そんな状況になったのかは知れないが、三ツ谷たちにとって重要なのは過程ではなく、佐野がそのような行動に出たことだった。
花垣の手を取った所作は乱暴なものではなくひどく優しいもので、あのマイキーが、と思わずにはいられない。
「これもう決まりかな。ドラケンの言ってたこと、当たってるかも」
そう言って、龍宮寺の腕を叩く。返す言葉もないらしい龍宮寺は、ショックを受けているというよりは余りの衝撃に固まっているのだ。
分かる、分かるぜドラケン、と内心で思いながら、三ツ谷も無意味に数度頷く。
この場にいたのが龍宮寺ではなく、場地や林田であっても同じように固まっていただろう。
いや、パーちんは馬鹿だから理解できないかも、といささか失礼なことを思いつつ、再度砂浜へと視線を向ける。
脳裏を過ったのはやはり、あのマイキーがねえ、とそんな言葉だけだった。
しばらくしてから我に返った龍宮寺とともに防波堤へと戻る。佐野と花垣はこちらへ戻ってきているが、その手はまだ繋がれたままで、その大胆さにわずかに驚いていると、ふたりは手を握ったまま三ツ谷たちの元に戻ってきた。
「いや絶対タケミっちの方があったけえから」
「マイキー君もあったかいですって」
「タケミっちの方が体温高いだろ」
「子供だってことすか? それを言うならマイキー君だって子供みたいにあったかいですよ」
「はあ? そんなわけねえだろ。なあケンチン、タケミっちの手の方があったかいよな?」
そう言って、龍宮寺に詰め寄った佐野は握っていた花垣の手を龍宮寺に握らせる。
「いやいや、マイキー君の方があったかいですよね?」
空いた片手に今度は花垣が、佐野の手を握らせる。
両手に佐野の手と花垣の手を握り締めた龍宮寺は、無言のまま三ツ谷へと視線を向けるが、三ツ谷はその視線から逃れるために顔を逸らした。
そんな目で見られても、三ツ谷にも現状がさっぱり理解できない。
なんなんだ、いい雰囲気だったんじゃないのか。佐野が花垣の手を握ったのは、佐野が花垣に好意を抱いているからだと思ったのだけれど。
「ケンチン、どっち? タケミっちだよな?」
「マイキー君ですよね?」
「……どっちも似たようなもんじゃね?」
佐野と花垣に詰め寄られている龍宮寺を、可哀想に、と思って眺めつつも、巻き込まれたくないので距離を取る。
結局、佐野の花垣に対する感情が友情の域を出ないのか、それとも恋愛なのか、この日は判断するに至らなかった。
友情にしてはいささか度が過ぎるとも思うけれど、佐野にとって花垣が特別であることは、見ていて分かる。だから友情だと言われてしまえば、そういうものか、と納得もできる。
果たして、佐野の本心はどちらなのか。
或いは、佐野も自覚していないという可能性もあるのだが。
遠くで部活に励む生徒たちの声が聞こえてくる。
窓から夕暮れ時の陽射しが差し込み、揺れるカーテンの影を作る。それが教室の中を横切る巨大な魚の尾のようだった。
静かな教室には遠くのグラウンドから聞こえてくる声だけが静かに響いている。
先日の刺繍はとっくに終え、部活の課題をこなす三ツ谷の膝の上で、龍宮寺が間延びした欠伸を漏らした。
「あの後マイキーに、タケミっちのことどう思ってるのか聞いてみたんだよ」
「直球だねえ。マイキーはなんて?」
「変な奴だけどいい奴だって」
「まあ無難な答えだな」
「けど、」
「けど?」
「いっしょにいると楽しくて、あったかくなるって」
……その真意は一体。
ふたり揃って、うーん、と声を漏らすが、どれだけふたりで悩み、考えたところで答えが分かるものでもない。
「けど、もしマイキーがマジでタケミっちのこと好きなんだとしたら、マイキー、初恋になるわけだからさ」
べつに、佐野が花垣のことが好きなのだとして、それについてとやかく言うつもりはない。言えることでもない。それは龍宮寺も同じだろう。
ただ、友人として彼の真意が知りたいだけだ。
あとはまあ、ちょっとした好奇心というか。
「俺等は黙って見守るしかねえな」
「そうだな」
ともかく、これからもしばらく様子を見ることになりそうだ。
膝の上に乗る龍宮寺の頭を軽く手のひらで叩いたあと、作業に戻る。
しばらくして、膝の上から健やかな寝息が聞こえてきて、まるで大きな猫を乗せているようだと思った。
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