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たったひとつの神様より、きみのために祈りたかった





 数字の並ぶ画面を眺め、どの数字を、どのように管理してゆくか思考を巡らせる。

 この数字はそっちの帳簿へ、その数字はあっち帳簿へ、あの数字は裏に回してなかったことに。

 そうやって、細かい数字まで九井が管理しているわけではないけれど、大まかな金の流れはほとんどすべて把握している。

 金額が大きいためいちいち楽ではないけれど、他の連中に任せていたらどうなるか分かったものじゃない。

 組織を動かす金は、その組織内にいる誰か個人の手に渡ることはほぼない。大体佐野や三途の手の中で転がってはいるが、彼等は自分たちの懐へ入れるために金を転がしているわけでもない。

 金の重要さは誰しもが理解しているだろうが、自らの手中におさまるわけでもない金の扱いなどおざなりなもので、画面上の数字となると適当に扱う連中ばかりだ。

 あるべき金を、あるべきとろこへおさめ、動かすべきときに、動かすべきところへ動かさなくてはならない。

 金は生き物と同じだ。動かなければ死んでいるもの同然。息をしてこそ、その真価を発揮する。

 適当に動かしてやればいいというわけでもない。繊細で扱いづらい女のように、気を遣ってやらなければならないし、丁寧に扱ってやらなければならないときもある。

 手をかけ、頭を使って、思考を働かせ、神経を張り巡らせ、望むところへ招いてやれば、必ず九井に報いてくれる。

 人より余程繊細で、遥かに信頼できるもの。九井にとってはそれが金だ。

 ゆえに金の扱いが人より得意で、昔から色んな場所や場面で必要とされ、重宝されてきた。

 最終的に今の組織に落ち着いて十数年。

 何事もなかったというには波乱の多い月日であったし、人の入れ替わりも激しい職業であるゆえに変わった顔触れもあるが、周囲の連中は昔から同じだ。

 ガキの頃から知っている、といっても過言ではないけれど、付き合いが長いからといって、決して仲良しというわけでも、心の底から信頼できるというわけでもない。お互い様だから腹の探り合いは日常茶飯事で、金の計算をしているより彼等を相手にしているほうが余程疲れる。

 さいわい、この組織では金脈としての役割を担っているため、彼等といっしょに現場へ出向く頻度はそう高くないので、気楽といえば気楽なのかもしれないが。

 この日も九井は室内にいて、PCと向かい合い、ひとり事務作業を行っていた。

 指先でキーを叩き、マウスをスクロールさせて画面の数字を上から下へと流してゆく。単調な仕事だが神経を使う。

 画面に集中していたため、途中まで無自覚に周囲の音を遮断していたのだが、ふいに扉の外がわずかに騒がしくなっていることに気が付いた。

 また喧嘩か、と思ったけれど、聞こえてくるのは笑い声やなにやら愉しげな声だ。それらの聞き慣れた声に混じって、おそらく九井の部下たちの焦ったような、困ったような声が聞こえてくる。おおかた、幹部連中が九井に絡みにやってきたのだろう。

 面倒くせえ、暇人共が、と眉を寄せ、舌を打つのと同時に、木製の扉がノックもなしに大きな音を立ててひらかれた。

「おーい、コーコー」

「っせえな。ノックしろって何度も言ってんだろ。兄弟揃っていつまで経ってもマナーってもんをおぼえねえ奴等だな」

 ひらいた扉からあらわれ、歌うような口調で九井を呼んだのは、揃って組織の幹部を務めている兄弟だ。扉をひらいたのは兄の方で、その後ろに弟がいるのが見える。彼等に押しのけられるようにして廊下で蟠っている部下の顔が見切れていて、使えねえ、とまた舌を打ちたい気分だった。

「なんだよ機嫌わりいな。まあ、お前の機嫌が良いことなんか、ほとんどねえけど」

「うるせえ、なんの用だよ」

 床に敷かれた絨毯の上を、扉からまっすぐ九井の座るデスクへとやってきた灰谷の兄のほう、蘭を見上げる。PCのすぐ脇に片手をつき、九井の座る椅子の背もたれにもう片手をついた蘭は、九井を覗き込むようにして上から見下ろしてくる。

 いつものことだが、愉しげに歪んでいる瞳から視線を逸らさず、手だけを動かしてノートパソコンの画面を伏せた。

「そう嫌うなって。今日は、お前のためにおもしれえもん持ってきてやったから。きっと気に入ると思うぜ」

「あ? おもしれえもん?」

「そ。竜胆」

 九井を覗き込んでいた瞳がにっこりと笑ったかと思えば、彼の背後にいる弟、竜胆へと声をかける。ゆっくりと退いて行く蘭の体にならい、そちらへ視線を向ければ、こちらに歩いてくる竜胆と、彼が連れている少年が視界に入った。

「下の組織の奴等んとこに出入りしてたらしいんだけど、今日仕事で行ったときに見っけてさあ。面白そうだったから、お前の護衛にでもと思って連れてきたんだよね」

「うちの幹部の九井だ。名前くらいは知ってんだろ。挨拶しろよ」

 そういって竜胆に背中を押された少年を見て、息を飲んだ。

 息を飲む、という程度ではなかったかもしれない。一瞬、心臓も止まった気がした。

 竜胆に背中を押され、一歩前に出た少年は外側に跳ねる金色の髪に、白い肌。密度の高い睫毛に囲まれた金春色の瞳。わずかばかり太めの眉は一見温厚そうな印象を与えるけれど、このような状況でなければ、その瞳は好戦的に揺れていただろう。

 すこし緊張しているのか固く結ばれた薄い口唇は、けれど意思の強さを現わしている。

 竜胆に促されるまま頭を下げ、名を告げる少年の声は低く、けれど未だ幼さを残したもので、その音さえ九井を動揺させた。

「っ!」

「激似じゃねえ? 生まれ変わりとかか?」

「兄貴、アイツ死んでないよ」

「あれ、そうだっけ?」

 少年の両隣に立ち、顔を見合わせている兄弟の会話など耳に入らず、九井は愕然とした気持ちで目の前の少年を凝視していた。

 余りに似ている、と思う。もちろん同一人物ではないことは分かるし、同じ顔というわけでもない。パッと見て、唯一違うところをあげるとするなら、顔にケロイドがないことだ。

 あくまで他人の空似ではあるのだけれど、それにしたって。

 呼吸の仕方を忘れた喉が、ひゅ、とかすかな音を立てる。彼の名を口にしかけ、咄嗟のところで抑え込んだ。

「ココなら喜んでくれると思ってさ」

「ふ、ざけてんのかテメェ等……」

「この間、護衛の奴がやられちまって、人手が足りねえって言ってたじゃねえか」

「だからってんなガキ連れてきてどうすんだよ! 必要ねえよ、連れて帰れ!」

「まあまあ、本人も引き受けてくれるって言うしさ。追い返したところで帰るとこなんかねえんだから、面倒見てやれよココ」

「なんで俺が…!」

「なんでって、分かってるくせに」

「ああ!?」

「好きにしていいんだぜ? そそるだろ、この顔」

「っ、」

 少年の両肩に手を置き、首を傾けた蘭の瞳が心底愉しそうに歪み、反射的に卓上のライトを掴み、思いきり投げつけた。

 彼等が品のない冗談を言うのはいつものことで、九井の乾に対する感情が劣情であると、本気で勘繰っているわけでもない。いつもの質の悪い冗談だと分かっているから聞き流すのが正解だと頭では分かっていても、湧き上る衝動を抑えることができなかった。

 投げつけたライトは彼等に当たることはなく、けたたましい音を立てて壁に激突し、電球が破裂して周囲に飛び散る。

 一瞬、しんとした静寂がその場に落ち、廊下からこちらを覗き込んでいた部下が青ざめているのが視界の端にうつった。

「こわ」

「あぶねえなあ。当たったらどうすんだよ」

「ちょっとした冗談だろ、そんな怒んなって。男のヒステリーは醜いぜ、ココ」

「うるせえ! 調子に乗んなよクソ共が!」

 怒鳴りつけるが、恫喝など慣れている兄弟はさして怯んだ様子もなく、硬直している部下に「片付けとけよ」などと声をかけている。

「コイツもビビっちまってるじゃねえか。普段はこんな荒っぽい奴じゃねえから安心しろ」

「しっかり面倒見てやれよ、ココ。届物は届けたし、帰るぞ竜胆」

「ふざけんな! 連れて帰れって言ってんだろ!」

「じゃあなココ」

「オイ!」

 ぽん、と少年の肩を叩き、ひらひらと手を振って、兄弟は何事もなかったように軽い足取りで部屋を出て行ってしまった。

 廊下から

「ココがガチギレしてんの久々に見たな。あー面白かった」

「相変わらず良い趣味してんね兄貴」

とそんな会話をする兄弟の声が聞こえてくるが、それも間もなく聞こえなくなり、部屋には九井と少年、破壊された卓上ライトと青ざめた部下だけが残った。

「……っクソが! ふざけやがって…!」

 先程茶化すように言われた言葉がどうしても引っかかってしまって、思いきり椅子を蹴りつける。デスクの脇に立った少年の体がびくりと揺れたのが分かったけれど、少年の顔を直視することがどうしてもできなかった。

「……あの、俺」

「っ喋んな」

 声というのは骨格も影響するとどこかで聞いたことがある。似ているのはやはり顔だけではなく、その声も幼いころの彼を彷彿とさせるもので、できることなら口を塞いでやりたかった。

「全部あいつらのくだらねえ冗談だ。お前みてえなガキに任せる仕事なんかなんもねえ。オイ!」

 廊下の部下を呼びつければ、慌てた様子の部下が部屋に入ってくる。

「連れてけ」

「待ってください、俺なんでもします。どんな汚え仕事だって、」

「っうるせえ! テメェにできることなんてなんもねえって言ってんだよ! とっとと摘まみ出せ!」

 その無謀さ、一種のひたむきさがまた、彼の幻影を思い起こさせる。くそが、と内心で吐き捨て、部下に叫ぶ。

 少年はまだなにか言っていたけれど、部下たちに引きずられるようにして、部屋の外へと引きずり出されて行った。

 静寂が戻ってきた部屋で、崩れ落ちるように椅子に座り込む。

 とんでもねえもん見つけてきやがって、と灰谷兄弟に対して毒づくも、それを彼等に直接言うことなどできるはずもない。それを口にしてしまったら、あの少年を目交いにしたときの衝撃、そしてその原因を彼等の前で認めてしまうことになるからだ。

 椅子に座ったまま頭をかかえ、深く息を吐く。

 忘れられるなんて思っていない。何度も何度も忘れようと努力したけれど、記憶を消す術など持っていない九井は結局、彼と過ごした日々のことを忘れることなどできないのだと思い知っただけだった。

 幼い頃から傍にいて、ともに過ごした時間は長く、濃密なものだった。忘れられるはずもないのだ。

 だから思い出さないことにした。考えないことにした。

 たとえ消えることがないとしても、会わずにいればいずれ、薄れてはゆくだろうと。

 それなのに―――。

「……っうっぜえ」

 ほんとうによく似ていた。思わず心臓が止まったと錯覚するほど。

 顔も声も。ひたむきな眼差しも。

 あのころ、九井が毎日といっていいほど目にしていたものが、まるでそこに再現されたかのように。

 顔にかかる長い前髪に手を差し入れ、ぐしゃりと髪をかき混ぜる。

 いやなものを見てしまった。

 灰谷兄弟にはいずれ、たっぷりと礼をしてやろう、と気持ちを切り替えるように思いながらも、そのあとしばらく、過去の幻影が思考の端からはなれなかった。



 それからなんとか気持ちを立て直し、予定していた仕事を終えたが、時折過る記憶に惑わされ、いつもの数倍時間がかかってしまった。

 そんな大した仕事でもなかったのに、と舌を打ちたい気持ちで思いながらPCを閉じ、椅子の背もたれに体重を預ける。

 窓から見える空は既にとっぷりと暮れていて、眼下の明るい街と黒い夜空が美しい絵画のように広がっているが、目新しさもなく、美しいなどと感じることもない。

 そもそも初めて見たときから、美しいなどとは感じなかった。

 いつもの数倍疲れた気がする体をおし、椅子から立ち上がる。一日中室内に籠っていたから外の空気が吸いたい。事務所が入っているビルからすこしいったところに行きつけの喫茶店があって、そこで一息つきたかった。

「九井さん、どこ行かれるんですか」

「ちょっと出てくる」

「誰か護衛に、」

「いらねえ。すぐそこに珈琲飲みに行くだけだよ」

「ですが……」

「うるっせえな、必要ねえって言ってんだろ。ついてくんな」

 ついてこようとする部下を一蹴し、エレベーターに乗り込んで階下へと向かう。気分が苛々とささくれる原因は分かり切っていて、思わず壁を蹴りつけ、盛大な舌打ちをこぼした。

 地上へと到着したエレベーターを降り、ビルのエントランスを横切って往来へと出る。

 ビルの合間を吹き抜ける夜風は心地良く、それだけですこしだけ気分が凪いでいく気がした。

 事務所が入ったビルのある街は昼も夜も明るいが、それでも日中に比べ人通りはすくなく、空気も夜のものに変わっている。すこしだけ気怠く、ゆるやかに纏わりついてくるような。

 昼より、夜の空気を好むようになったのはいつからだっただろう。

 どれだけ後ろ暗いことをしても後ろ暗さなど感じていないと思っているのに、明るい陽射しの下を歩くのが億劫になったのは。

 ―――俺の人生は白夜の中を歩いているようなものだ。

 ふと、いつだったかに呼んだ小説の一文が脳裏を過る。そういうものなのかもしれないな、とぼんやり思いながら夜の空気に満ちた街を歩く。

 真っ暗ではない、かといって明るくもない。

 九井が歩いているのは、いつしか、そんな道になっていた。

「……太陽の下を、生きたことがないの」

 同じ小説で見た一文を口に出して呟いてみる。

 金のためならんでもやった。

 子供のころはそんなことを口にしていたかもしれないが、それが虚勢であったことが今では分かる。あのころは、なんでもやったつもりになっていただけで、その実、なにもできなかった。

 人を殺した。金になるなら薬にも手を出したし、売春の斡旋もしたし、女も子供も関係なく、暴力だって振るった。

 九井が直接的に手を下したわけではなくても、大人になってゆく過程で様々な罪で手を汚した。そして罪にまみれた大人ができあがったというわけだ。

 もう二度と、明るい道を歩くことなどできないだろう。

 だから。

 だからさ、と内心で。

 呟きかけた言葉をなかったことにして、浅く吐き出した息とともに体の中から追い出した。

 顔を上げ、喫茶店へ行くためにビルの角を曲がろうとしたとき、ふいに丸っこい物体が視界の端に入った。

「あ?」

 ビルの壁に寄りかかるようにして、膝をかかえて人が蹲っている。ビルの端であるため、通行の邪魔にはならないし、人目にもつかない場所だが、何故こんなところで蹲っているのか。

 倒れているわけではなく、膝をかかえて座り込んでいるため、自身の意思でそうしているのだろうが、なにをやっているんだろうか。

 酔っ払いかなにかか、と思いつつ眉を寄せ、通り過ぎようとしたとき、蹲っていた人物がゆっくりと顔を上げた。

「っ、お前……」

 蹲っていたせいで気が付かなかったが、それは件の少年だった。

 追い出されたときに殴られたのか、白い顔には昼間にはなかった痣ができている。

 密度の濃い睫毛に覆われた瞳でじっと九井を見上げてくる少年に動揺し、足を止めてしまった。

「……九井さん」

「っ」

 その声はやはり九井の精神を揺さぶるもので、動揺が治まらない。くそ、と反射的に口に出すが喉が渇いて、声にはならなかった。

 どうしても、動揺せずにいられない。どうして、本人でもないのに。

 本人ではないと、分かっているのに。

 少年はゆっくりと立ち上がり、九井をまっすぐに見つめた。

 昔、彼がそうしたように。

「俺、ほんとうになんでもやります。言うことはなんでも聞きます。絶対裏切ったりしねえから……傍に置いてください」

 お願いします、と頭を下げる少年の口調は切実なもので、かすかに震えているのも分かる。

 九井がこの年ごろだった時期、周囲には帰る場所などない連中はたくさんいた。彼もその類のひとりなのだろう。

 ゆえに九井が属している組織のような場所に居場所を求め、縋ろうとする。

 まだ十代の半ば。ただでさえ子供など使いものにならないのに、他でもない九井が似ていると思うほど、乾によく似ているのだ。

 デメリットこそあれど、九井の傍に置くメリットなどなにもない。

 無視して、知らん振りをするのが賢い判断だと分かっている。今すぐ踵を返して、関わりを持つべきではないと。

 冷静さを取り戻すために浅く息を吐き、少年からはなれようとした瞬間、くう、とどこかで小鳥の鳴くような音が響いた。

「………………」

 直後、頭を下げている少年の髪の合間に見える白い耳が徐々に赤く染まってゆくのが分かる。すいません、と罰の悪そうな声を出した少年の頬が、耳と同じように赤くなっているのが見て取れた。

「……飯食ってねえの?」

「……はい」

 なんで、と頭をかかえたくなった。

 なんで、ちょっと締まらないところまで似ているんだと。

 乾の瞳よりほんのわずかに色の濃い金春の瞳が夜の街の灯りを撥ねて、濡れるように揺れている。

 忘れたい。忘れなければならないのに。

 この少年は、乾ではないと分かっているのに。

 傍に置いたところで、虚しくなるだけだと理解しているのに。

 はあ、と深く息を吐けば、少年が顔を上げたのが分かる。

 昔から、この手の顔に弱い自覚はあるのだ。

「……お前に任せられる仕事なんてねえ。けど、飯くらいは食わせてやるよ」

「、それじゃあ」

「護衛なんてアホなこと考えんなよ。雑用が精々いいとこだ。それと、俺の下で働きてえなら今から言うことは絶対守れ」

「……はい」

「必要以上に喋るな。灰谷たちになんか聞かれても絶対になにも答えるな。もう分かってると思うが、お前は俺の……知ってる奴によく似てる。それについて、絶対に詮索するな。したら殺す」

「分かりました」

「喋んなつったろ。分かったなら頷け」

 脅すように低い声を出せば、少年は素直にこくりと頷いた。

「……ついてこい。飯食わせてやっから」

 言って少年を見ることなく歩き出せば、後ろからついてくる足音が聞こえる。

 なんでこんなことになったんだ、と背後に少年がいなければその場に座り込み、頭をかかえてしまっていただろう。

 そもそも九井の部下に未成年はひとりもいない。部下にしたところで、少年に伝えた通り、雑用程度の仕事しか任せられないだろう。

 下の組織に入れてやれば、使い捨てだったとしてもある程度彼にできることもあっただろうが、九井は梵天の幹部だ。子供が手出しできるような仕事は扱っていない。

 どうすっかなあ、と考えたところで、佐野や三途、ましてや灰谷たちに相談できることでもない。というか他の幹部に相談などできないだろう。

 乾に似た少年を部下にしたことは瞬く間に彼等に伝わるだろうが、いちいち口を出してくる連中は―――灰谷兄弟を除いて―――いない。いたとしても、仕事さえこなしていれば、文句は言われないはずだ。

 はあ、ともう何度目になるか分からないため息を吐いたところで、目的の喫茶店へと辿り着いた。

 店に入り、九井は珈琲を、少年には適当なものを注文してやって食事を摂らせてやる。

 必要以上に昔のことを思い出したくはなかったから、極力少年へ視線は向けず、携帯端末の画面だけをじっと見つめていたが、画面に表示されている情報はほとんど頭に入ってこなかった。

 食事を済ませたあとは、少年を引き連れてビルへと戻る。

 愕然としている部下たちに事情を説明し、雑用としてしばらく下に置くことを伝えた。

「分かってると思うが、仕事はいつも通りお前らに振るから、お前等がコイツにできると思った仕事をやらせてやれ」

「こんなガキにできることなんてねえって、さっき九井さんも言ってたじゃないスか」

「うるせえな。文句あるなら、お前があのクソ兄弟に突っ返して来いよ」

「冗談言わないでください。俺等が行ったら殺されちゃいますよ」

「んじゃ文句言うな」

 九井さあん、と縋ってくる部下を一蹴して、少年の背中を押し、部下へと引き渡す。

 少年は九井の言いつけを守り、部下たちと会話を交わしているあいだ、一言も声を発さず、黙って九井たちの話を聞いていた。

「大体、預かるって言ってもどうするんですか? お前、寝泊りするとこあんのか?」

 聞かれた少年はゆると首を左右に振る。どうするんですか?、と聞かれて、なんで俺がそこまで考えなきゃなんねんだよ、と言ってやりたかったが、九井が直々に連れて帰ってきてしまった以上、部下たちも独断で決めることはできないだろう。

 灰谷に聞け、というのもさすがに酷だ。

「綺麗な面してるし、売りさせてホテル住まいでもさせたらどっすか? 金にもなるし」

 少年の処遇を話し合っていると、ふいにひとりの部下が冗談混じりそんなことを口にした。瞬間、自分でも驚くほど頭に血が上り、考えるより先に体が動いた。

「今なんつったお前」

 足で壁に押さえ付けた部下の口内に銃口を捻じ込んで詰め寄る。

 九井を呼ぶ他の部下の声が思考の端では聞こえたが、耳を貸す気にはならなかった。

「ぅ、が…っ」

「んなことさせるために連れてきたんじゃねえんだよ。まだガキだぞ。借金あるわけでもねえのに、テメェみてえな変態ジジイの相手させろってか? あ?」

 銃口を更に口内深くまで押し込んでやれば、ごり、と嫌な感触が手のひらに伝わってくる。

 自分でも冷静ではないと分かっているが、怒りがおさまらない。

 乾も昔、その手の話題で揶揄されたことがある。気性のわりに整った顔の持ち主で、品のない貶められ方をしていた。

 乾はさほど気にしていなかったが、九井は隣でそれを聞いていて我慢ならなかった。

 当時の怒りがどうしたって甦ってきて、抑えることができない。

 九井よりずっと年上の部下の目元に涙がたまってゆくのが分かり、それがどうしようもない不快感と嫌悪感を感じさせる。

 舌を打って口内から銃口を引き抜き、そのまま横っ面を思いきり殴りつける。

 すんません、と途切れがちに紡がれた言葉に唾を吐き、その部下の服で銃を拭った。

「上に空いてる部屋あっから、そこ使わせろ」

「こ、九井さんといっしょに住むってことですか?」

「あ? なんでだよ、空き部屋つってんだろ。お前耳ついてんのか」

「いやだって、上って全部九井さんが所有してるフロアですよね」

「だからそん中で空いてる部屋つってんだろ。お前もそれでいいな」

 部屋の隅で黙って話を聞いていた少年へ言えば、目の前で繰り広げられた光景に瞠目していた少年は戸惑ったように瞬きを繰り返し、そのあと我に返ったのか、こく、と一度頷いた。

「家具はある程度揃ってるが、必要なもんは自分で買え。しばらく飯はお前等が食わしてやれよ」

 それで決まり、解散解散、とひらひらと手を振れば、少年を部屋に案内するためか、少年を含めた部下たちは部屋を出て行った。

 出ていく間際、少年が九井へと視線を向けていたことは分かったが、気付かない振りをする。

 静かな室内で椅子に座り、ひとりぼんやりと夜の風景を見下ろす。

 仕事はもう片付いたのだから、九井も自宅である上のフロアに向かったって良かった。部下ではなく、九井が少年を案内しても良かったのだけれど、そんなことできるはずもない。

 極力いっしょに行動するのは避けたいし、ふたりきりになるのも嫌だ。

 顔を見るのも、声を聞くのも避けたい。

 それなのに、やはり血迷った判断をしてしまった、と後悔する。

 分かっていたことだ。まだ若く、乾に似た美しい顔を持ったあの子供が、腐った大人たちの目にはどんな風にうつるかなんて。

 それを目の当たりにしたとき、冷静でいられなくなるだろうことも分かっていた。

 九井は腐った大人側の人間だ。そんな自分を棚に上げて、よくもまあ、あんなことを言えたものだと自嘲する。

 白状すれば、あのころ、いやあのころでなくても、彼をいちばん穢れた目で見ていたのは自分なのに。しかも、九井は彼を、抱きたかったわけじゃない。

「……マジさいあく」

 いちばん汚えのはテメェだろうが、と自身を嘲り、目を閉じる。

 目を閉じたところで現実が消えてなくなることなどないと分かっている。

 けれど、まなうらに広がる闇の中に、この体も思考も記憶も、彼に対する感情もなにもかもすべて、溶けて消えてしまえばいいのにと思わずにはいられなかった。



 ひらいたPCの画面に意識を集中させ、無心でキーを叩く。

 室内には九井がキーを叩く音だけが響いていて、まるで世界から切り離されたかのように静かなものだった。

 しばらくして集中がふっと途切れ、ふ、と息を吐いて顔を上げる。大きな窓からは青い空が見え、空の端っこに飛行機雲が伸びているのが見えた。

 ふいに、傍らでかすかな物音がして、反射的にそちらへ視線を向ければ、PCの脇に先程までなかったはずの珈琲が置いてあることに気が付く。ちら、と視線を横に向けると、まだいささか慣れない様子で立っている少年の姿があった。

「……おい、できる仕事をやらせろとは言ったが、お茶汲みさせろとは言ってねえ。つうか必要ねえ」

「仕方ないじゃないですか、任せられる仕事なんかほとんどないんですし。雑用つっても、俺等の飯買いに行かせたりはしてますけど、あとは九井さんの身の回りの世話くらいしかないスよ」

「だから身の回りの世話が必要ねえつってんだよ。自分のことくらい自分でできるわ」

「けど九井さん、仕事始めると飯食うの忘れたりするじゃないですか。そういうときに、ほら」

「いらねえつってんだよ」

 ここ数日常に視界の端にいるため、多少の耐性はついた。数日共に過ごしてみれば、当たり前だけれど乾とは違う部分も見えてくる。

 平均的に言えば余り表情が変わらない方だとは思うが、乾に比べれば表情の変化は顕著だ。驚いたり、困ったり、少年らしく笑ったり。

 こちらもまた当たり前のことだが、九井に対して遠慮が見えるのも、九井の言うことに素直に従うのも、乾とは違うところだ。暴言を吐いたりもしない。

 そして乾となにより違うのは、かすかに煙草のにおいがするところだった。

 喫煙している姿を見たことはないけれど、九井の見えないところで部下たちといっしょに煙草を吸っているらしい。近くに寄ってきたときに、ほのかに甘い煙のにおいがする。

 ガキがイキがってんじゃねえよ、と口で言いはしたものの、自身とて清く正しい大人でもない。喫煙自体を本気で咎める気はなく、好きにさせている。

 乾は煙草を吸わなかった。九井の前だけでなく、見えないところでも。

 理由は分かっている。九井が嫌がったからだ。

 あの顔で煙草を吸われるのが嫌だった。それを口に出したことはないけれど、乾はそう感じていたのだろう。それは分かる。

 けれど、見えないところでは好きにして良いと思っていたのに。

 なにかの折りに、なぜ煙草を吸わないのか聞いてみたことがある。先輩連中と関わることの多かった乾は、勧められることもあっただろうに。

 そのとき乾はなにを考えているのか分からない表情を浮かべたあと、一言だけ「においつくとココが嫌がるから」とそう言った。

 美しく、優しくて、友達想いだった彼は、いつもそうだった。九井が隣にいるのが当たり前だと思っていた。

 ばかじゃねえの、と今でも思う。

 俺はそんなに、お前のことが大事だったわけじゃないんだよ、とまるで言い訳のように。

 だからそんなに大事にしてくれなくて良かったのにと。

 少年を見上げたときに鼻腔を擽った甘い香りに、昔の記憶が脳裏に甦り、一瞬思考が停止してしまう。

 わずかな時間だったと思うのだけれど、間近で見下ろしていた少年は九井の様子がおかしいことに気が付いたのか、躊躇いがちに九井の名を呼んだ。

「、あ?」

「……大丈夫ですか?」

「……ああ」

 必要以上に喋るなと言ってあるのに。

 見下ろしてくる瞳から視線を逸らして素気無く応える。

 物言いたげな視線をあからさまに無視することもあるし、口をひらこうとすれば喋るなと即座に抑え込む。対応はほとんど部下たちに任せているし、なにか意見や要求があるときも他の部下を通すようにしている。

 そうやって極力遠ざけ、避けているにも関わらず、少年は九井の傍にいたがった。傍から見たら煙たがっているように見えるだろうに。

「そういや九井さん、まだ飯食ってないですよね。コイツ連れて飯行って来たらどうすか?」

「は? なんで俺が連れてかなきゃなんねえんだよ。飯はお前等が食わせろって言っただろ」

「だって九井さん、そいつがいればちゃんと飯食うじゃないすか。普段俺たちといっしょのときは、飯食わねえのに」

 たしかに部下たちの前で食事を摂る頻度は極端にすくない。幹部会など、脇に部下を控えさせておかなければならないときと、他の幹部連中に無理矢理引きずって行かれるとき以外は、基本的にひとりで食う。

 食事している姿を余り人に見られたくないというのもあるが、そもそも食事量が極端にすくない。一日に一回摂れば充分なくらいだった。

 けれどこの少年がやってきてから、食事量が増えた。その自覚はある。

 この少年に「飯食わないんですか?」と聞かれると、なぜだか食ってもいいかなという気になるのだ。

「……つうかお前も食ってねえのかよ」

 顔を上げずに少年に尋ねれば、こくんと頷いたのが分かる。

 深く息を吐いて立ち上がり、少年を手招きして部屋の外にでる。部下に席を外すことを伝え、食事を摂るためにビルの外へと出た。

「んな時間に外出んの久々だな」

 大人しく後ろをついてくる少年に言うでもなく、独り言のように呟く。降り注ぐ陽射しは窓越しに降り注ぐものとは違い、視界を灼く。

 平日の昼過ぎとはいえ人通りは多く、雑多な光景の億劫さに辟易しながら足を進める。

 いつもの喫茶店に入り、珈琲とサンドイッチ、少年には好きなものを選ばせて注文を済ませた。

「ちったあ慣れたか?」

 対面で無視するわけにもいかず、端末を弄りながら尋ねれば向かいで少年が頷いたのが分かる。

 周囲を大人に囲まれた環境で、歓迎されているわけでもないのだから過ごしやすいはずもないのに、健気に九井に尽くそうとする。乾に似た外見さえ持っていなければ、目をかけてやっても良かったかもしれない。もっとも、乾に似た外見でなければ、拾われることもなかっただろうが。

 そんなことを考えながら運ばれてきたサンドイッチをかじり、珈琲を飲む。香草の乗ったチキングリルを切り分けていた少年が物言いたげな視線を向けていることが分かったが無視してやった。

 おおかた、これで足りるのかどうか、疑問なのだろう。

 十代の胃といっしょにしないでほしいものだ。成人男性の平均的な食事量と比べてもすくないとは思うが。

 切り分けた鶏肉を頬張ってはもぐもぐと動く頬を眺める。一口が大きく、少年の前に置かれた皿に乗った料理は次々と彼の腹に収まっていく。サラダの野菜をフォークで突き刺し、カップスープを喉を揺らして飲み下す。フォークで白米を器用に食べる姿も、決して行儀の悪いものではなかった。

「……うまそうじゃん」

 美味しそうに料理を平らげてゆく少年を眺めながら無意識に頬が緩む。口から出た声も無意識だったのが、少年はぴたりとフォークを握る手を止めた。

 戸惑ったように皿を見下ろしたあと、切り分けた鶏肉を差し出すような仕草をする。

「あーいらねえいらねえ。お前が全部食え」

 その仕草がなんだかおかしく、笑いながら言えば、ゆるやかに一度瞼を伏せた少年はどこか嬉しそうに笑って頷き、食事を再開した。

 少年が食事を終えるのと同時に九井もサンドイッチを平らげ、会計を済ませて店を出る。

 それから事務所に戻るまでは、一言も会話を交わさなかった。

 けれどその日から、昼食は少年とともに摂るようになった。行くのはいつもの喫茶店で、九井はほぼ毎日サンドイッチを注文したが、少年はいつも違うものを注文した。

 それまで昼食はいつも抜いていたのだけれど、サンドイッチを二切れほどとはいえ、少年といっしょにいるときは食事をするようになって、部下たちも九井の昼食係を少年の仕事のひとつとして決めたようだった。

 少年は九井の言いつけを忠実に守り、いっしょに過ごす時間が増えても、必要以上に喋ろうとはしなかった。声をかけるときや、なにかを聞かれたときは応えるが、頷いたり、否定すれば済むときは、黙って首を振る。

 顔を見ずにいても、頷いたのか、首を横に振ったのかは分かるから、必要以上に彼を思い出すこともない。

 給仕はいらないと言ったのに、部下たちに押し切られ、仕事中ふっと集中が途切れるタイミングで、珈琲が卓上に出てくるようにもなった。

 必要以上に出しゃばってくることもなく、大人たちに揉まれながらも、与えられた仕事を一生懸命こなしている。最初に言っていた通り、九井や部下たちの言うことをよく聞き、言われたことは文句も言わずなんでもやった。ちょっとしたミスをして部下たちに小突かれることもあったようで、時折白い顔に傷を作っていることもあったが、この世界では珍しくもないことだ。それに対し、いちいち口は出すことでもない。

 未成年ということで、犯罪に抵触するような仕事にだけは手出しをさせないよう、部下たちにも言い含めた。

 三途はともかく、佐野や鶴蝶がそれを是とするか微妙なところであったし、或いは非とした場合、咎めを受けるのは九井だ。それを避けたかっただけのことである。

 初めのうちは灰谷兄弟が様子を見に来ることもあったけれど、少年は九井の言いつけ通り、なにを聞かれても特別彼等を楽しませるようなことを口にはしなかった。ゆえに灰谷兄弟が飽きるのもはやく、次第に彼等がやってくる頻度も減った。

 なんだかんだ部下たちにも馴染んできているし、あの顔によく似た、けれど彼ではない顔で九井に懐いてくることにも次第に慣れていった。

 このまましばらく九井の下で面倒を見て、ある程度に使えるようになったら別のところに任せよう。

 

 ―――それは、九井がそんな風に思い始めたころの出来事だった。





 なにやら廊下が騒がしいことに気が付きながら、キーを叩く手は止めず、画面に数字を入力してゆく。

 かたかたと室内に響くキーの音に混じる、聞きおぼえのある声。

 また来やがった、と舌を打ちつつキーを叩けば、騒がしい音を立てて部屋の扉がひらかれた。

「ココー」

「ノックしろ」

 どうせ聞きやしないことなど分かっているが様式美のようなものだ。づかづかと部屋に入り込んできた蘭はデスクの端に腰を下ろし、PCの横に手をついた。

「今日、俺等といっしょにお前も現場だって」

「あ?」

 唐突に言われた言葉に顔を上げれば、いつもの愉しげな表情ではなく、いくらか真面目な顔つきをしている。仕事の話か、と思いつつ、九井も彼等といっしょに現場に向かうというのはどういうことだ、と話を聞く態勢を取る。

 九井は金脈としてこの組織にいるわけで、荒事が苦手なわけではないが、危険が伴う現場に駆り出されることは幹部連中の中でもすくないほうだ。

「今日ちょっとした取引があるんだけど、はじめの段階で相手がちょっと金出し渋るようなこと言ったらしいんだよね」

「だからってなんで幹部が雁首揃えていかなきゃならねえんだ。なんのためにお前等がいるんだよ」

「そうなんだけど、俺等金のことはよく分かんねえし、お前がいればその場で対処できることもあるだろうって、三途が」

「………………」

「そういう建前で、金の計算だけじゃなくて梵天の幹部としての仕事もたまにはやれってことじゃねえ?」

 知らんけど、と心底どうでも良さそうに言う蘭の言葉を聞いて、深く息を吐く。

 画面上の数字を見ているだけだと、自分が犯罪に手を染めている、という自覚が薄れてゆくとでも思っているのか。

 佐野を崇拝しているゆえだろうか。

 三途は佐野のためなら、どんなに汚いこともできる、という忠誠を九井たちにも植え付け、自覚させたいのかも知れない。

 時折こうやって現場に駆り出されることがある。向かった先では人が殺されていたり、女が強姦されていたり、薬物中毒者がのた打ち回っていたり、と凄惨な状況が繰り広げられている、または繰り広げられることが多い。

 三途の気持ちも分からなくもない。支配は恐怖で作り上げるのがもっとも簡単な方法だからだ。

 彼が佐野を崇拝する気持ちも、決して佐野を裏切ることを許さないという気持ちも分かる。

 九井も佐野という男を知っている。

 彼が三途と違うのは、支配を恐怖で作りながらも、支配は恐怖だけでは成り立たないことを知っているところだ。手っ取り早い方法を選んでいるだけで、彼は人心を掌握するのは恐怖だけでは足らないということを理解している。

 昔からそんな佐野を絶対とする者は一定数いた。それがいびつに膨れ上がり、できあがったのが今の組織だ。

 九井は佐野の力を認めているし、彼を王とし、仕える気持ちもある。

 幼いころ、当時の不良たちのなかで、佐野を知らないものはいなかった。それくらい、圧倒的な力を振るっていたのだ。

 けれどあのころ、九井の絶対は佐野ではなかった。

 梵天は金になる。佐野についていけば、余程莫大な金が稼げる。佐野は九井に金を作る場所を提供してくれる。だから佐野についた。

 九井が佐野に求めているのはそれだけだ。佐野もそれは理解しているだろう。

 金を稼げるからではない。理由も理屈もなかった九井の絶対は、他の追随をゆるさないほど圧倒的な力を持った佐野を前にしても揺るがず、きっと一生変わることはないだろう。

 きっと一生変わることがないから捨てるほかなく、それを捨てたとき、崇拝とか、尊敬とか、そんなものも同時に捨てた。

 ゆえに九井は三途のように、佐野に対する陶酔のような崇拝を持ち合わせてはいない。けれどいちおう、忠誠は誓っているつもりだ。

 それをいちいち試すような真似をしやがって。面倒くせえ、の一言に尽きるが、三途は三途で楯突くと厄介だ。彼の絶対はあのころからすこしも揺るがず、佐野だけなのだから。

「……分かった」

「まあお前は金で揉めたとき要員だから、後ろに控えてればいいよ。けど念のため、護衛は連れてけよ」

「出番じゃん、ニセ乾」

「……その呼び方やめろ。連れてくわけねえだろ、ガキになにができんだよ」

「肉壁くらいはできんだろ」

「っだから、」

「託児所じゃねえんだ、預かった以上いつかこうなるって予想できただろうが」

 少年を護衛として連れて行くという蘭に反論するが、彼の表情は変わらず、二藍の瞳がじっと九井を見下ろしてくる。

「連れてきたのは俺等だが、預かるって決めたのはテメェだ、ココ。傍に置くだけ置いてあぶねえことはさせたくねえなんて、んな道理が通るわけねえだろ。ガキだろうがテメェの部下にかわりねえんだ、命張らせるくれえのこと命令できなくてどうすんだよ」

「…っ」

「護衛が足りねえのも事実だしな。それともマジで飼い殺すつもりか?」

 低い声で言われ、奥歯がぎちりと嫌な音を立てた。

「おいガキ」

 黙って九井たちの話を聞いていた少年は蘭に呼ばれ、まっすぐに蘭を見上げる。

「お前をココの護衛として連れて行く。いいか、なにかあったときはお前が死んでもココを守れ。ココになにかあったらお前も殺す」

「……分かってます」

 当然、他の部下も数人護衛として連れては行くし、蘭の言葉を信じるのなら前線に出る可能性はさほど高くはなさそうだが、それでも、少年を護衛として連れて行くことを二つ返事で了承できるわけもない。

 十代の、まだ子供だ。それを自分たち幹部が赴くような場所へ、なにもわざわざ連れて行かなくとも。

 その考えが甘い自覚はある。組織の幹部として部下の命を盾にしても生き延びる覚悟は持っているつもりだが。

「よーし、じゃあ行こうぜココ」

 先程までの低い声からは一変、歌うような口調で九井を呼ぶ蘭へ視線を向ける。その二藍色の瞳に滲むのが、九井に対する好意なのか悪意なのかは分からない。

 けれどこんな状況で、九井の意見が通らないことなど明白だ。蘭の言っていることが正しい。そんな道理、通るわけもない。

 無意識に少年に視線を遣れば、少年はまっすぐに前を向いている。わずかに緊張した面持ちで、けれどなにかを決意したような顔。

 その横顔を知っている。十数年前、関東事変のときも同じ横顔を見た。

 どうしてだ。なにもかも思い通りにいかない。

「……っ」

 握り締めた拳が嫌な音を立てて軋む。けれどそのままその場に立ち尽くしているわけにもいかず、部下を連れ、灰谷兄弟の後を追って九井も部屋を後にした。

 ビルの駐車場で待機していた車に乗り込み、少年を含めた数人の部下たちと車に乗り込む。

 時刻は日暮れ過ぎ。夜が滲み始めている空は、けれど街の明かりに照らされて星など見えず、深い闇のようにただ暗く染まっている。

 車はいつの間にか湾岸沿いに伸びる首都高速に入り、視界を車のライトと道路照明のオレンジがかった光が明滅するように通り過ぎて行く。

 高速道路を走り続ける車はいくつかのジャンクションを通り過ぎ、目的地である出口を抜ける。海底トンネルを通過し、湾外沿いの工場地帯を走り続けていた車はとある古びた倉庫の前で停車した。

 どうやら相手は先に来ていたようで、前方で停車した車から降りた灰谷兄弟が二、三言葉を交わしたあと、竜胆が車から取り出したアタッシュケースを持って、先へと進んでゆく。

 九井もただ見ているわけにはいかず、部下たちとともに車を降りたあと、灰谷たちを追って、倉庫へと進んだ。

 倉庫の中、光源らしい光源はなく、暗い夜を照らす工場地帯の明かりだけが暗闇を照らしている。暗くはあるが、そこにいる人間の顔を視認できないほどではない。

 灰谷たちは荒事に長けているため、傍に護衛等を置くこともなく、不用心にもふたりだけだ。まあ、あのふたりなら突然襲われても大丈夫だとは思うけれど。

 数人いる取引先と言葉を交わしたあと、竜胆が抱えていたアタッシュケースを相手に渡し、同時に相手が抱えていたアタッシュケースを蘭が受け取る。

 とくに問題なく取引自体は成立したようで、お互い中身を確認するために、アタッシュケースの留め金を蘭が外しているのが見えた。

「兄貴!」

 その直後、竜胆が叫ぶ声が聞こえたかと思うと、張りつめた風船が弾けるような音が響き、それと同時に肉と骨がぶつかり合うような鈍い音も聞こえてきた。

 続けざまに響いた竜胆の怒声と、恫喝する聞き覚えのない声に九井を呼ぶ部下の声。

「九井、伏せろ!」

 様々な音や声が混じる中、蘭の声がなぜだか鮮明に耳に届く。刹那、乾いた銃声が響いた。

「っ!」

 もう何度も耳にしたことのある、意外にあっけない音が耳に届いたのと同時に腕を引かれる。何かぬるい液体が顔にかかり、鼻に慣れた鉄のようなにおいと甘い煙の香りがした。

「ふざけやがって舐めた真似してんじゃねえぞコラァ!」

 すぐ脇で怒号を上げる部下の声が聞こえ、視界の端には銃を構えた男の顎を蹴り上げ、罵声を浴びせている竜胆と、拳銃を握りしめ、床に伏せた男の頭に銃口を向けている蘭の姿が映る。

 けれどそれらはどこか遠く、九井は腕の中に倒れ込んできた金色の髪をただ愕然と見下ろしていた。

 じわじわとなにかあたたかい液体が衣服越しに広がっていくのが分かる。上背も体格も、九井とさほど変わらないと思っていたのだけれど、倒れ込んできた少年は九井の腕で抱けるほどで、まだ幼く、未熟な体であることを実感する。

 体に密着してくるあたたかな温度を、ただ愕然と感じながら、何故だか脳裏に長い金色の髪が浮かび上がるように甦った。

 少年が灰谷たちに連れられて九井の前に現れた、そのすこしまえ。

 街で偶然、乾と逢った。

 もう二度と逢うことはないとなぜだか思い込んでいたけれど、遠くはなれた場所で暮らしているわけでもない。万が一の確率だとしても、偶然遭遇してしまうことだってあるだろう。

 現に、九井は乾と顔を合わせてしまったのだから。

 はじめに気が付いたのは九井で、気付かぬ振りをして立ち去ろうと思ったのだけれど、足が動かなかった。

 癖のある金色の髪、白い肌に残るケロイド、密度の高い、髪と同じ色の睫毛に囲まれた色素の薄い水縹の瞳。すこし太めの眉も、すっと通った鼻梁も、ちいさな顎も、美しい顔を縁取るすっきりとした輪郭も。

 俯くようにすこしだけ伏せられた瞼。髪から覗く首筋、幼い頃に比べるとしっかりとした肩、僅かに厚くなった体。

 そのすべてが九井の目を、意識を、神経をその場に釘付けにして、視線を逸らすことさえできなかった。

 伏せられていた瞼がゆるりと上がってゆくのがやけにゆっくりと見えて、水縹の瞳が九井をとらえたとき、九井も彼に気が付いたことを誤魔化すことはできないと悟った。

 大きな瞳が更に大きく見開かれ、お互いにしばらくそのまま硬直して。

 先に動いたのは乾だった。こちらに向かってくるのが分かって、その場から逃げ出そうとしたけれど、それより速く手首を掴まれた。

 ココ、と九井を呼ぶ声はあのころよりすこしだけ低く、けれどあのころのように甘いまま。

 あのとき、九井の手首を掴んだ温度より、すこしだけ高い温度を持った体が、今、腕の中にある。

 気が付けば忙しない呼吸を繰り返し、少年の体を抱く指先がわずかに震えているのが分かる。

 ゆっくりと腕の中の体を見下ろすと、同時にすぐ傍に誰かが駆け寄ってくる音が聞こえた。

「ココ、無事か?」

「っ、ああ、俺は……」

「おいガキ、生きてっか」

 目の前に座り込んだ蘭は髪も顔も服も血まみれになっているにもかかわらず、何事もなかったような顔で九井の腕の中の少年の体を揺する。

 腕の中で、う、とちいさな呻き声が漏れたかと思えば、それまで微動だにしなかった少年が悶えるように腕の中で震えた。

「肩だけで済んだみてえだな」

 竜胆の言葉に改めて少年の体を見下ろせば、九井の体に密着させている肩の部分が赤く滲んでいることが分かる。血の量からしてかすったという程度ではなさそうだが、命に別状はなさそうだった。

「ちゃんとココのために命張ったみてえだな。ガキのわりには根性あるんじゃね」

「にしてもこんなことになるとはな。マイキーになんて説明する?」

「そのまま話すしかねえんじゃねえ? 最初から裏があるのは分かってたし、マイキーだってこうなるかもって予想はしてただろ。けど説明すんの面倒だから頼んだぞ、竜胆」

「やだ。面倒なこと俺に押し付けるのやめてよ。兄ちゃんが説明しろよ」

 そんなことを言い合いながら立ち上がり、九井からはなれて倉庫を出ていく灰谷兄弟の声が背後から聞こえてくる。

「ココー、俺等先帰るぞー」

「ちゃんと医者に診せてやれよ」

 そんな声を聞きながら少年の肩を衣服越しに抑え、出血が落ち着くのを待つ。

 部下に医者に連絡するように告げ、少年の体を支えてやった。

「大丈夫か?」

「……はい」

 眉を寄せながらもしっかりと受け答えができているのを確認して、ようやくほっと息を吐く。

 少年の肩口や手のひらは真っ赤に染まり、頬にも赤い血が飛んでいる。九井の体や手も赤く染まっていて、自分の顔は見えないけれど、髪や顔も飛び散った血液で染まっているだろう。

「九井さんは無事ですか?」

「……………………」

「……俺、九井さんのこと、死んでも守りますから」

 わずかに呼吸を乱しながら、傷が痛むのを抑え、笑って見せる少年を見下ろして歯牙を噛む。

 美しい顔は血にまみれ、痛みをこらえるためか、薄く形良い口唇はわずかに震えている。

 幼いころ、何度も目交いにした傷だらけの顔。自分の容姿に頓着のない彼は、その顔がどれだけ傷付こうと気にしなかった。

 子供の喧嘩だったのだ。顔に傷ができたところで、多少気に入らなくても我慢できた。

 けれど彼が自分のために傷付くことが、耐えられなかった。

 ばかじゃねえの、と今でも思う。

 俺はそんなに、お前のことが大事だったわけじゃないんだよ、とまるで言い訳のように。

 だからそんなに大事にしてくれなくて良かったのにと。

 どうしてだ。なにもかも思い通りにいかない。

 ―――ただ、傍にいて、守りたかっただけのに。

「……いらねえんだよ」

 吐き出した言葉が震えたのは怒りだったのか、それともべつの感情だったのだろうか。

 もう二度と逢うことはないと思っていた。けれど街中で見かけたとき、視線は一目で彼をとらえた。

 もう何年も逢っていなかったのに、忘れられるはずもない姿。

 捨ててきた。守りたかったから。

 きっと彼は自分のために、いずれ命を捨てるほどの無茶をすると思ったから。

「お前の命なんかいらねえんだよ。ガキのくせになにが『死んでも』だ。俺の代わりにお前が死んで、俺が喜ぶとでも思ってんのか」

 彼が乾ではないと分かっている。よく似ているだけの他人の空似。

 けれど思い出さずにはいられない。

 まっすぐに九井を見つめた水縹の瞳。九井を呼ぶ低く甘い声。美しく、優しく、友達想いで、なによりも九井を大切にしようとしてくれていた彼のことを。

 大切だった。なによりも大事だった。

 だから別れることを選んだ。

 あのころ九井は既に金を稼ぐ術に長けていて、きっと稼ぐことをやめようと思っても、そんな九井を金のために利用しようとする者は後を絶たなかったはずだ。

 そうなったら、乾は絶対に九井を守ろうとしただろう。

 だから捨てた。なによりも大事だったものを、なによりも大事だった時間を。

 なによりも守りたいと思ったものだったから。

 なのにどうしてまた、彼と同じ顔をしたものが九井のために傷付くのか。

 九井のために死んでゆこうとするのか。

「……お前はクビだ。もう、俺の下にはいらねえ」

「九井さ、」

「お前はまだガキだから、喧嘩ぐらいしたっていい。多少無茶してもいい。けど……ここは、」

 この道は、白夜の中を歩いているようなものだ。

 なにも見えない暗闇ではない。けれど、明るい陽射しは二度と差し込まない。

 あたたかった。あの日、九井の手に触れた乾の体温が、どうしようもなく。

 まっすぐに九井のもとへ歩いてきて、ただ優しく手を握った乾は、なにも言わなかった。なにも聞かなかった。

 自分についてのこと、九井についてのこと。

 なにをしているとか、なにをしていたのかとか、そんなことはなにも口にせず、たった一言だけ言葉を紡いだ。

 『いっしょに帰ろう』

 そんな、幼い子供みたいな言葉だけを。

 金のためならんでもやった。

 人を殺した。金になるなら薬にも手を出したし、売春の斡旋もしたし、女も子供も関係なく、暴力だって振るった。

 九井が直接的に手を下したわけではなくても、大人になってゆく過程で様々な罪で手を汚した。そして罪にまみれた大人になった。

 もう二度と、明るい道を歩くことなどかなわない。

 ―――だから。

 だからさ、イヌピー、と内心で。

 もう戻れないんだ。帰る場所なんて、もうどこにもないんだよ。

 なりふり構わずただ前に前にまっすぐ進んで、ふと歩みを止めて後ろを振り返ったとき、崖の縁に立っているのだと知った。

 歩いてきた道はなくなって、帰りたい場所があってももう帰れない。引き返すこともできない。

 ほの暗い道の途中で、偶然すれ違った彼の温度があたたかかった。あたたかくて優しくて、まるで光みたいだった。

 けれどあの光が、この道ではあたたかく光り続けていられないことを知っている。

 だからもうどうしようもないんだ。

 戻ることも、はじめることもできないんだよと。

 九井が選んで歩いてきた道は、そんな道なのだから。

「……似合わねえんだよ、お前。ここは、お前のいるべき場所じゃねえ。だからクビだ。もう二度と俺の前に現れるな」

 抑えていた肩からゆっくりと手をはなす。血は止まったようだったけれど、あたたかな感触が九井の手の中には残っていた。

 部下を呼び、少年を預ける。

「医者に診せて、まともなとこ紹介してやれ」

「……いいんですか?」

「ああ。灰谷や佐野には俺から言っとく」

「分かりました」

「九井さん……っ!」

 喋るなって言ったのに。

 部下に支えられ、運ばれてゆく少年の低く甘い声がどうしようもなく彼を思い起こさせる。

 九井の絶対だった彼。なによりも、誰よりも大切で、二十数年生きてきてきっといちばん、ほしいと願った。

「……最後にいっこだけいいか」

 振り返ることなく、余りにも馬鹿らしい願いに自嘲の笑みが漏れる。けれど、これで最後だから。

 馬鹿げた願いを口にすれば、少年は他にも言いたいことがあっただろうに、九井を言葉に反抗することはなく。

 静かに、九井の願いを叶えてくれた。

「………ココ」

 少年はそれ以上なにも言わず、部下に連れられて行った。

 部下たちが出ていき、ひとりになった倉庫の隅で、夜を明るく照らす工場の明かりをぼんやりと眺める。

 分かっていたのに。

 乾ではないと。虚しくなるだけだと。

 それでも、目元からこぼれた涙を抑えることはできなくて。

「……っ…、」

 もう二度と触れることのかなわない、光のことを想った。





***





 数日後、なぜだか先日の事件のことを灰谷のどちらでもなく、九井が説明することになり、不本意ながらも佐野のもとへ向かう。

 佐野はとくべつ気にしないだろうけれど、部下にした少年をクビにしたこともいちおう伝えなければならず、それならついでに、と灰谷たちに押し付けられたのだ。

 ついでの話じゃねえだろ、と思いながらも、仕方がなく佐野がいる部屋の扉をノックする。

 返事はないが、いつものことだ。

 扉を開ければ、部屋の中央に置かれたソファに座った佐野が視線だけで九井を出迎えた。

「こないだの取引中の銃撃について、もう聞いてると思うけど、残党は灰谷たちが潰したらしいぜ」

「ああ、聞いてる」

「取引がダメになるって分かってたんだろ、ボス」

「まあな」

「なんでわざわざ取引まで泳がせといたんだよ」

「おかげで全員殺せただろ」

「まあそうだけど。容赦ねえな、相変わらず」

 表情どころか、視線ひとつ変えず、淡々と話す佐野の言葉にため息を吐く。彼の冷酷さに、今ではすっかり慣れたつもりでいても、背筋が冷えることは間々ある。

 そんな彼だからこそ、梵天という巨大な組織をまとめていられるのだろうけれど。

「それから、こっちは大した報告じゃねえんだけど」

 灰谷たちに連行され、一時は部下にした少年をクビにしたことも報告する。極力私情を挟まぬよう、声に感情が乗らぬよう、事務的に言葉を紡いでゆく。

 佐野にとってはやはりどうでも良いことらしく、ささいな相槌すら返ってこなかった。

 九井と対峙しているにもかかわらず、視線はべつの場所を向き、話を聞いているのかどうかも分からない。

 経験上、聞いてはいるのだと思うけれど、一時間後におぼえているかどうかは微妙なところだ。

 佐野にとってはその程度の話だろう。

「じゃあ、報告もしたし、俺はこれで」

 佐野と長話をするほど親しいわけでもないし、無駄な話を楽しむほど生易しいボスでもない。

 ソファから立ち上がり、部屋を出るために扉へ向かう。

 ドアノブに手をかけたとき、ふいにソファに座ったまま九井へと視線を向けることもなかった佐野が、かすかに笑ったのが分かった。

「お前、まだ乾に縋ってんのか」

 未練しかねえな、と投げられた言葉に、ドアノブを握りしめたままゆっくりと瞬きをする。

「…………………」

 佐野の言っていることは的中している。彼に囚われたまま、忘れることもできない。

 当たりだ。反論の余地はない。

 他人にいちばん突かれたくないところを突かれたが、感じたのは怒りではなかった。

 カッと頭に血が上るような憤りは感じず、静かな気持ちで佐野を振り返る。白く染められ、綺麗に切りそろえられた髪と、うなじに刻まれた見慣れた刺青が見えた。

「……お前こそ」

「あ?」

 振り返ることなく言われた言葉に対して感じたのは、お前も同じ穴の貉だろう、ということだけだった。

「花垣のことは忘れられたかよ、『マイキー君』」

 刹那、切り揃えられた髪が揺れ、その合間からぎょろりとこちらを向いた瞳が見えたかと思えば、凄まじい衝撃が全身に走る。全身が軋むように痛み、一瞬なにが起こったのか分からなかったが、どうしようもない息苦しさを感じ、壁に片手で押さえ付けられ、首を絞められているのだと理解した。

 佐野が座っていたソファから九井が立っていた扉まで距離があったはずなのに、どんな身体能力してんだよ、と思うも、それについて考えている余裕などあるはずもない。

「死にてえの?」

「ぐっ、ぅ…っ」

 ぎりぎりと首を締め付ける力は尋常なものではなく、呼吸が止まる前に首の骨が折れてしまうのではないかと思う。

 至近距離で睨んでくる瞳は、視線だけで人を殺せるんじゃないかと思えるほど殺意に満ち満ちたもので、これはマジで逆鱗に触れたな、と死を覚悟する。

 殺意で塗りつぶされた瞳は空っぽだ。昔は、こんな風じゃなかった。

 昔の彼のことをよく知っているわけではないけれど、こんなおぞましい目をした男じゃなかった。

 大事な人を立て続けに亡くしたと聞いたことがある。

 堕ちていく精神を、それでも支えたいと思っていた者がいたことも知っている。

 きっと佐野には眩しかっただろう。

 九井と同じだ。

 大事だから手放した。

 それにずっと囚われている。

 同じなのだ。お前にだけは言われたくねえわ、と思い知らせてやれたことに満足した。

「…っが、げほ…ッ」

 意識が遠のきかけたころ、ふいに呼吸ができるようになり、床に膝をついて続けざまに咳き込む。なんとか命はあるようだが、首が酷く痛むため、彼の手形が色濃く残っているだろう。

「二度とアイツの名前を口にするな。次は殺す」

 生理的な涙が浮かび、ぼんやりと潤びる視界で佐野を見上げれば、視界の端で白い髪がゆらりと揺れる。

 次、なんて随分お優しいことだ。

 思った言葉を口にすれば、今度こそ確実に殺されるだろうから黙って立ち上がり、部屋を後にした。

 痛む首を摩り、まだ喉に違和感を感じて、げほげほと咳き込む。

 殺される、と思ったときに、恐怖はなかった。もう、死に対しての恐怖はずっと薄いかもしれない。

 死が限りなく近い場所にある。歩いているのはそんな道で、慣れたのか、そもそも初めから死に対する恐怖などさほど問題ではなかったのかもしれないと思う。

 あたたかくて優しい、あの光に寄り添っていたときだけが、自分の生きていた時間だったのではないかと。

 優しく手を握った温度を思い出す。まっすぐに見つめてきた水縹色の瞳のひたむきさを。

 九井を呼んだ、低く甘い声を。

 それらを振り払ったときの、泣きだしそうに歪んだ美しい顔を。

 あんな顔をさせるつもりじゃなかった。けれど、あの優しい手を握り返してしまうわけにはいかなかったから。

 眩しかった。ほの暗い道の途中でぼんやりと淡く瞬く、柔らかな光のようだった。

 なにもかも忘れて、その場で泣き崩れてしまいそうになるほどの安心とあの愛おしさを、一生忘れることはできないだろうけれど。

 ごめん、イヌピー、と声に出さず呟く。

「……もう帰れねえんだ」

 九井が歩く道が明るく照らされることは、きっともう二度とない。

 これから先もこのほの暗い道を歩いてゆくしかない。


 柔らかな光に寄り添っていた時期があった。ほのかに道を照らしてくれる光とすれ違った。九井に寄り添おうとするほんのちいさな光もあった。

 たとえこれから先、道を照らしてくれる光がなくなったとしても。


 その光が明るい場所で、決して消えることはないのだと思えば、自分の歩く道がどれだけ暗くても、たとえその先に破滅しかなかったとしても、歩いてゆけると思った。









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