毎日毎日、砂を噛んでいる。
人間とは不思議なもので、腹は減らないのに食わないと死んでしまう。
べつに、それならそれで、と思うけれど、敢えて死ぬ理由もないし、死ぬつもりもない。
だから毎日毎日、砂を噛んでいる。
美味しくもない、味もしない、ただ栄養があるだけの、まるで砂のようなものを口に押し込み、飲み下し、腹に詰め。
そうやって生きている。
ため息交じりに吐いた息は、目の前で白く濁り、宙に溶けるように消えていく。
肌を刺す空気は冷たく、吐息すら凍り付きそうなのに、溶けてしまったあとは当然だけれど跡形も残らなかった。
「さみぃ……」
呟いた言葉は端から独り言のつもりで、返事を期待していたわけではないけれど、それにしたってすこし前を歩く頭は反応する素振りすらみせない。
足を踏み出すたびに雑踏の光を反射して煌く金髪が、冬の街を透かして揺れる。
わずかに癖のある毛先を眺めながら、またちょっと髪伸びたな、とぼんやりそんなことを考えていると「どっか入るか」と、低い声が静かに響いた。
「、あ?」
「寒いんだろ。腹も減ったし」
どっか入るか、ともう一度。
すこし先を歩く頭は相変わらず振り返ることはないけれど、店を探すようにすこしだけ傾いたのが分かった。
独り言のつもりで呟いた言葉に返事をするつもりがないどころか、聞いてすらいないと思っていたのに、どうやら聞こえていたらしい。無視をするつもりもなかったようだ。
しかし、彼が店に入ることを促すなんて、珍しいことだな、といささか意外に思う。
こっそりふたりで隠れるための場所はあって、窮地や寒さを凌ぐため、いつもいっしょにそこへ駆け込む。
暖房器具なんてない、ろくな家具すらない場所だけれど、不思議と寒さは感じないし、ふたりだけの場所だということもあってか居心地は良かった。
腹が減ったときも適当に食料を買いこんで、そこで食うのが常なのに。
「珍しいな、イヌピーが店入りたがるなんて」
「べつに入りたがってねえ。ココが寒いって言ったんだろ。腹も減ったし、食うならあったけえもんの方がいいかなって」
「あったけえもんって……金あんの?」
「飯食う分くらいはある」
「飯食う分ねえ……」
一歩踏み出して隣に並ぶ。肩をぶつけるようにして顔を見遣れば、そこでようやく水縹色の瞳と目が合った。
髪と同じ色の睫毛が震えるように揺れて、色素の薄い瞳がゆるりとこちらへ視線を遣る。
そこにはぶつけた肩を非難するような色が若干滲んでいるけれど、それがポーズであることくらい分かる。付き合いは短くも、浅くもない。
余り冗談の類を言わない彼が、自分にだけ見せる砕けた態度を九井は思いのほか気に入っていた。
「なんだよ」
「俺が奢るから、店も俺に決めさせろよ。イヌピー、食えればなんでもいいだろ?」
「……いいけど。けど飯代くらい、」
「いーからいーから。さみぃし、俺も丁度腹減ってたからさ。付き合えよ」
「……ココ」
「あったけえもんだったらなんでもいいよな。俺としては和食か洋食つったら、洋食の気分なんだけど、ちょっと行ったとこにうまい店があってさあ」
物言いたげにじっと見つめてくる視線には気付かないふりをして一歩先に出れば、間々あって、背後で浅く息を吐く音がした。
「そこでいいよな?」
「……ああ」
「イヌピーといっしょに飯食うのなんてしょっちゅうだけど、ふたりでちゃんと飯食いに行くなんて久々じゃねえ?」
「そうだな。わりといつも誰かいたり、なんかのついでだったり……てかお前、たまには家帰れよ」
「イヌピーに言われたくねえわ」
「お前と俺じゃ違うだろ」
再度ため息交じりに言われた言葉に、似たようなもんだろと思った言葉は口には出さず、先程とは逆に、すこし後ろを歩く乾を先導するように歩を進める。
彼がきちんと後ろをついてきているか、振り返って確認しなくなったのはいつからだったか。
自分が後ろをついてきているか、彼が振り返って確認しなくなったのはいつからだったか。
遠い昔からだったような気もするし、最近だったような気がする。
付き合いが長いせいか、色々なことが曖昧になっていくことが多い。
あれはいつからだったか、それはいつだったか。
はじまりは、どこだったのか。
息を吐き出せば白く濁り、消える前に頬に刺すように冷たい感触が当たる。
もうすぐ日暮れを迎える暗い空から落ちてきた雪に「げ」と短く声を漏らせば、「降ってきたな」と同じように辟易とした声が背後から聞こえてきた。
間もなく目当ての店に到着し、店の扉に手をかける。木製の扉を押し開けば、冷えた体をあたたかい空気がやわくくるみ、無意識にはあと吐息が漏れた。
「イヌピーなに食う?」
案内されるまま席に座り、アウターを脱いで向かいに座る乾にメニュー表を差し出す。
つい先程まで外の冷気に晒されていたせいか、白い頬が仄かに染まっていて、ガキみてえ、と内心で思った。
自分も同じようなことになっていると思うが。
「なにがうまい?」
「オススメってこと? あったけえのが良いんだったら……グラタンとかビーフシチューとか良いんじゃね?」
「じゃあそれで」
「自分で決めろよ」
「決めただろ」
「飲み物どうする?」
「コーヒーで良い」
「アイス?」
「ホットに決まってんだろ」
凍えさす気か、と抑揚のない声色で言う乾へと視線は向けず、メニュー表を眺めながら口端を上げて笑う。
乾は食が細いわけではないけれど、食に対する執着が薄い。食えればなんでもいい、というその言葉通り、食えないものがないかわりに、特別好物と呼べるものもない。
先日、数日にわたり三食カップ麺で済ませようとしていて、さすがに見かねて別のものを食わせた。
「栄養偏るぜ」と注意したものの、「栄養とか考えるのめんどくせえ」と素気無い返事が返ってくるだけだ。なのに身長は伸びていくし、体格も変わってゆく。
すこし前まで身長は同じだったのに、今はすこしだけ乾の方が高い。
誤差で済ませられる範囲だと九井は思っているし、悔しくはないけれど、誕生日は自分のほうが早いのに、と子供染みたことを思っても詮無いことだ。
寡黙ではないが饒舌でもない乾と他愛ないやりとりをしながらメニューを決め、店員に声をかける。
まだ早い時間であるためか客はさほど多くなく、店員はすぐに自分たちの席へとやってきた。
「ビーフシチューとバケット、あとサラダとチーズオムレツ、それから鶏のトマト煮とパスタ。パスタはボンゴレで。あ、バケットは2人前。食後にホットコーヒーふたつ。デザートなんか食う?」
「いらねえ」
「んじゃフォンダンショコラひとつ」
それだけ言ってメニュー表を閉じ、注文を繰り返してキッチンへと向かう店員の姿を見送る。
視線を乾へと戻せば、じっと自分を見つめる水縹色の瞳と目が合った。
「相変わらずよく食うな。どこに入んだよ」
「逆に腹以外どこに入んだよ。普通だろべつに。頭使ってると腹減んの」
「それじゃ俺が頭使ってねえみてえだろ」
「イヌピーは頭で考えるよりさきに動いちまうタイプだからな。まあ、お前はそれで良いけど。考えることは俺がやるし」
テーブルに頬杖をついて、呆れたような感心したような微妙な表情を浮かべている乾を横目に見つつ、ポケットから取り出した携帯電話や財布を卓上に置く。
九井は携帯電話に登録してある連絡先もわりあいに多いし、金を作るためにあらゆる連絡先へ連絡を取ることも多い。
乾について、チームに属するようになってからは、そこの隊員等と連絡を取ることも増えた。まめではないが、自宅に連絡を入れることもある。
けれど乾が携帯に触るのは稀だ。用事があるときは九井に電話をかけてくることがあるので、触ってはいるのだろうけれど、それ以外で誰かと連絡を取っている姿を余り見たことがない。
乾と365日、24時間いっしょにいるわけではないのに、傍からはそう見られているのか、チームの連絡等は必ず九井の携帯電話にかかってくる。
乾にも伝えとけよ、と最後に毎回付け足される言葉に、自分で連絡しろよ、と思うけれど、それを相手に言うより乾に用件を伝えるほうが楽で面倒もないため、結局九井から伝えるのが常だ。
今だって、なにか連絡がきていないか携帯電話をひらいて確認している自分と違い、乾は携帯電話を取り出す素振りさえ見せず、頬杖をついたまま窓の外を眺めていた。
「本格的に降ってきたな」
「雪? 面倒くせえな。帰り、どっかで傘買う?」
「いらねえ」
「イヌピー、今日家帰んの?」
聞いても、窓の外を眺めたまま、返事が返ってくる様子はない。
24時間、いっしょにいるわけじゃない。いつも別れたあと、彼が家に帰っているのか。それとも別の場所で過ごしているのか、九井にも分からないことはあった。
「お前は傘買って帰れよ、ココ」
窓から視線を逸らさないまま、ふいに手のひらの中で呟かれた言葉にゆるく瞬いたあと、口端を上げて笑う。
いらねえ、と真似て返せば、窓の外を眺めたまま密度の高い睫毛が震えるようにわずかに揺れた。
しばらくして注文したものが次々に運ばれ、テーブルのうえはあっという間に出来立ての料理で満たされる。
どちらともなくカトラリーを手に取り、手を合わせることなく「いただきます」と習慣づいてしまった言葉を律儀に口にして、食事をはじめることにした。
「うまい?」
「うまい」
スプーンですくったビーフシチューを口に運んでいる乾へ尋ねれば、こく、と小さな頷きとともに返事が返ってくる。
スプーンを口元に運ぶ速度は速くもなく、遅くもなく。形良い薄い口唇が会話をするときよりすこしだけ大きくひらいて、煮込まれた野菜や肉を飲み込んでゆく。
食に興味がない奴なのに、乾がものを食っている姿を見るのは気持ちが良い。気持ちが良い、というよりなぜだか気分が良い。
なぜそんな風に感じるのかは、自身にも分からないけれど。
「これも食っていいよ。食えるだろ」
九井が注文した料理を皿に取り分けてやれば、視線だけを皿に向けたあと頷く。もぐもぐと動く頬を見て、動物みてえ、と思った言葉は、さすがに失礼かと思い、口には出さなかった。
「なあ、年少の飯ってマジでまずいの?」
「べつに、普通。量は少ねえけど」
「年少入ってるときにめちゃくちゃ食いたかったものとかある?」
「食いたかったもの? 特にねえ……ああ、甘いもん食いてえってことはあったな」
「甘いもん出ねえの?」
「ほとんど出ねえな。飴は食った」
「飴」
繰り返して笑えば、それを気にした風でもなく頷く。チョコ食いたかった、と返ってきたが、彼の口から『チョコ』なんて言葉が出たのがなぜかおかしくて、しばらく笑いが止まらなかった。
「じゃあ大寿んとこじゃなくて、まず甘いもん食いに連れてってやれば良かったな。特服で甘いもん食ってるイヌピーって、絵面的に面白そうだし」
「いや……甘いもん食いてえって思ったことがあるだけで、年少出たときに食いたかったわけじゃねえから」
「カレーだったよな」
「あ?」
「お前が大寿に負けたあと、いっしょに飯食いに行っただろ。なにが食いたいか聞いたら、カレーが食いたいっつってさ。殴られて口切れてんのにカレーって、って思ったの憶えてるわ」
「ああ……染みてすげえ痛かった」
「しかも白い特服着てな」
当時の痛みを思い出したのか、わずかに眉を寄せる乾の顔を見て、また笑う。
はは、と声をあげて笑えば、乾の眉間に寄っていた皺が消え、分かるか分からないか程度だったけれど、水縹色の瞳がやわく歪んだ。
「……ま、今は好きなもん好きなだけ食えるんだから、いっぱい食えよ」
「ココほどは食えねえけどな。お前マジで見た目のわりにすげえ食うし」
「イヌピーの分も頼んでんの。ほら、これも食っていいぜ」
「そんな食えねえって。つうかお前、マジでこれ全部食えるのか?」
「食えるって」
既に半分くらいは平らげている。九井の分をいくらか分けてやっているため、乾の皿にビーフシチューが残っているが、自分の前に置かれているサラダとオムレツが乗っていた皿はとっくに空にした。
トマト煮とパスタは乾に分けてやったが、半分残ったはずのパスタの皿もそろそろ空になりそうだ。
なにかに集中していて食事を忘れることもすくなくないが、彼の言う通り、元からわりあいに食事量は多い方だと思う。
乾といっしょに食事をしているから食が進むわけじゃない。ひとりのときも、乾以外の誰かといるときも、食事量はさほど変わらない。
味だって、食事をともにしている相手によって変わるわけではなく、作り手によって変わるものだと思う。
彼が食事をしている姿を目交いにしたときの気分の良さが、自分の味覚に変化を齎しているとも思わないけれど。
「イヌピー、チョコあるよ」
「いやもう食えねえから。お前が食え」
食後のコーヒーといっしょに運ばれてきたフォンダンショコラをフォークで切り分けながら言えば、笑みを孕んだ声が返ってくる。満腹感も相俟ってか、低く静かに響く声が心地良かった。
食事を終えて店を出れば、既に日が落ち、街は夜の様相に変わっている。暗く、けれど明るい道をしんしんと降り積もる雪に身震いしたあと舌を打ち、どちらともなく歩き出した。
彼がきちんと後ろをついてきているか、振り返って確認しなくなったのはいつからだったか。
自分が後ろをついてきているか、彼が振り返って確認しなくなったのはいつからだったか。
遠い昔からだったような気もするし、最近だったような気がする。
付き合いが長いせいか、色々なことが曖昧になっていくことが多い。
あれはいつからだったか、それはいつだったか。
はじまりは、どこだったのか。彼に確認しても、彼もきっと憶えていないだろう。もう、確認する気もない。
当たり前のようにそこにある。きっとこれからさきも、失うことなどないと、なんの保証もないのに信じ切っている。
当たり前のようにそこにあるものを、お互いに一度、失ったことがあるにもかかわらず。
或いは、確信というよりも願いに近いのかもしれないと思ったこともある。
当たり前のようにそこにある彼を、失うことがないように、という、そんな。
「この調子じゃ、明日の朝には積もってるかもな」
「移動が面倒くせえー……」
「すべって転ぶなよ、ココ」
「いやこっちの台詞だわ。まあイヌピーは運動神経良いから大丈夫だと思うけど」
早速コートに張り付く雪を手袋をはめた手で払う。新調したばかりのコートが濡れるのがいささか憂鬱で、やっぱ傘買って帰ろうかなと思ったとき、視界の端で金色の髪が揺れた。
肌か、髪に張り付いた雪を払うために、首を左右に揺らしたのだろう。
何気なく視線を向けた乾の頬が、冷気によりほのかに色づいているのが分かる。
けれど、彼が温度を感じさせるのは、その頬の色だけ。
まっすぐに前を向いている彼の横顔は気温を感じさせないものだ。寒いとか、暑いとか、口には出すものの、表情は余り変わらない。
肩にうっすらと雪が積もっているが、それを気にした風でもない。
「……イヌピー、雪、」
払ってやろうと手を伸ばしたのと同時に、名前を呼ばれた彼が振り返る。
夜道でも分かる、色素の薄い水縹の瞳。街の照明を撥ねて、潤びるように揺れる瞳がまっすぐに九井へと向けられる。
名前を呼んだ声にも伸ばした手にも、顕著な反応を示すわけでもなく、ただじっと、まるで九井の瞳をのぞき込むように視線を向けてくる。
ケロイドの残る瞼と白い瞼が緩やかに瞬き、いっしょに髪と同じ色の睫毛が揺れる。
密度の濃い睫毛が縁取る瞳と、長い睫毛に縁取られていた瞳を混同したことなどないのに、それでもその面影を感じずにはいられず。
憂いて、我に返って、心づいて。
刹那、怯むように硬直する思考と体を誤魔化すようになったのはいつからだったか。
「……………」
しかも最近、誤魔化すのがすこしずつ下手になっているんじゃないかと無意識に焦る。
青宗だ、と認識した途端、ぎくりと硬直する思考と体。
彼はそういった機微に敏いほうではないから、気付かずにいてくれるけれど。
いつか気付いてしまうかもしれない。
彼だと認識した途端硬直する思考や体。
それが、彼に対する申し訳なさなどではなく―――。
「……ココ?」
「……あ、いや、雪……肩、」
「、ああ」
伸ばした手が所在なく、なぜか触れるのは憚られて肩を指させば、やはり彼は気にした風でもなく肩を叩く。
無意識に握り締めた手のひらを体の脇に下ろせば、彼はなにも言わず、ただ覗き込むような視線だけを九井に向けて、そのあとは何事もなかったように歩き始めた。
「……傘買ってやるよ」
「え?」
「飯奢ってもらったしな」
「いや、それはべつに……いいって。いらねえって言っただろ。おい、イヌピー」
歩き出した彼を追って言うが、前を向いている横顔に九井の拒否を受け入れる気はなさそうだ。
「……ったく、いらねえって言ってんのに」
こういうとき、乾に何を言っても無駄だと分かっているため、それ以上はなにも言わず黙って彼の隣を歩く。
付き合いは短くなく、浅くもない。性質も、性格も、癖すら知っている。彼に関することで知らないことはないと言えるほど、ずっと傍にいる。
ゆえに九井にとって彼の隣は、他の誰よりも居心地の良い場所だ。
にもかかわらず、この居心地の悪さはなんだ。
気まずい。居たたまれない。落ち着かない。
ふとした瞬間、そんな風に感じるようになったのは、いつからだったか。
分からない。思い出せない。
一体いつから、こんな気持ちをかかえるようになったのか。
傘を買ってやる、という彼のその行動は、九井が乾の世話を焼くのとは違う類のものだ。
彼はそういったことに、余り気が回らない。だから九井がフォローしてやっている。やりたいことがあるというのなら強力してやる。連絡事項だって九井を通して伝えてやる。
九井がそれだけしても、乾は返事を碌に返さないこともあるし、食事に行けば注文はほぼ九井任せで、メニューすら九井に選ばせることもある。
けれど、寒いとたった一言呟いただけで暖かい場所を探そうとする。自分の肩に降り積もる雪は気にした素振りすら見せないのに、九井には傘を買うという。
差し出した皿に首を振って、お前が食えと低い声で言ってかすかに笑う。
九井を見て、分かるか分からないか程度、やわく歪む色素の薄い瞳を目交いにするたび、たまらない気持ちになる。
この気持ちは彼に向けたものではなかったはずなのに、一体いつから。
「……っ」
乾はきっと気付かない。だから九井はこれからもずっと、気付かないふりをしなければならない。
……たとえ乾が気付いていたとしても、彼が気が付いていることに気が付くわけにはいかないのだから。
「今日の店、また行こうぜ」
「……珍しいじゃん、イヌピーがそういうこと言うの。気に入った?」
「ああ。うまかった」
「なら良かった。いつでも付き合うぜ」
肩をぶつければ、ひやりとした空気がお互いの間で揺れて、髪に張り付いた雪が足元へと落ちて行った。
結局その日は乾が買った傘を途中までふたりで差して帰った。別れ際に乾に傘を渡そうとしても彼は受け取らず、九井に押し付けるようにして帰ってしまった。
適当なコンビニエンスストアで適当に買ったビニル傘。
九井は家を出るまで、なんの変哲もないその傘を捨てられずにいた。
***
思考の端で、ここのいさん、と自分を呼ぶ声が聞こえて、反射的に眉を寄せる。
舌打ちや、うるせえ、という言葉を声に出さなかったことを褒めてほしいくらいだ。顔を上げれば見慣れた顔の部下が立っていて、PCと向かい合っている九井を見下ろしていた。
「んだよ。集中してるときに声かけんなつったろ」
「すみません。けど、根詰めすぎじゃ……飯、まだ食ってないですよね。俺なんか買ってきますよ」
機嫌を取っている、というよりは食事もせずに仕事に没頭している九井を心配しているのだろう。
集中が途切れたことにより、わずかに違和感を感じる目頭を指で抑え、椅子の背もたれに体重を預ける。
何気なく窓へと視線を遣れば、いつの間にか雪が降り始めていることに気が付いた。
「………………」
曇天から降り注ぐ雪を目にしたとき、ふいに光を撥ねて潤びるように揺れた色素の薄い瞳がまなうらを過り、それを振り払うように目を閉じる。
今度は思わず舌を打った。
いつまで経ってもいなくならない。余計なものはぜんぶ、置いてきたはずなのに。
スプーンを口元に運ぶ速度は速くもなく、遅くもなく。形良い薄い口唇が会話をするときよりすこしだけ大きくひらいて、煮込まれた野菜や肉を飲み込んでゆく。
ゆっくりと、けれど絶え間なく動く頬を見て、動物みたいだと思った。
さして好きでもないくせに、甘いものが食べたかったと言った。喧嘩の後にカレーを食べたら、スパイスが怪我に染みて痛かったと。
狭い傘のなかで触れた肩とか、傘を押し付けてきた手の感触とか、別れ際に静かに響いた声とか。
もう忘れた。もう二度と思い出すことはない。
何度そう思っても、ふとした瞬間に思い出す。
向かいに座って九井を見つめた眼差しすら鮮明に。
「なんか食いたいもんありますか? すぐ買ってきますけど」
「………食いたいもんとかねえよ。味しねえし」
だから彼と別れたあの日から、なにを食っても味なんか感じられない。
全部忘れられれば、以前のように味を感じるようになるのだろうか。
分からない。どうすることもできない。
分からないまま置いてきてしまったから、もうどうしようもない。
「……あとで適当に食うから気にすんな」
「そう、ですか……」
立ち尽くしている部下を追い払うでもなく言えば、それ以上口を出してくることはなく、頭を下げてはなれていった。
毎日毎日、砂を噛んでいる。
人間とは不思議なもので、腹は減らないのに食わないと死んでしまう。
べつに、それならそれで、と思うけれど、敢えて死ぬ理由もないし、死ぬつもりもない。
だから毎日毎日、砂を噛んでいる。
忘れることが唯一の救いだと分かっていても彼の隣で感じた今なお鮮明な感覚や感情をかかえ、美味しくもない、味もしない、ただ栄養があるだけの、まるで砂のようなものを口に押し込み、飲み下し、腹に詰めて。
濡れたように揺れる色素の薄い瞳も、低い声も、思いのほか高い体温も、ちょっとした癖も、些細な仕草すら忘れられず。
戻ることも進むこともできずに、ひとり、あのころに囚われたまま生きている。
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