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砂糖とスパイスをままごとにたとえて





 店の外でメンテナンスを終えたバイクを持ち主に引き渡し、見送ったあと、ゆっくりと体を伸ばす。

 座り込んで作業をしていたため、軋む体が伸びる感覚が気持ち良く、ふう、と無意識に息が漏れる。

 店内で作業をしている龍宮寺に、メンテナンスを終えて客を送り出したことを伝え、その場に広げた工具を片すために、また座り込んだ。

「イヌピー、昼どうする? 食いに行く? 出前?」

「どっちでもいい」

「んじゃ出前にすっか。なに食う?」

「うどん食いてえ。天ぷら」

「分かった、注文しとくな」

 天気は良く、降り注ぐ陽射しは暖かい。冬の終わり、春の兆しを感じさせる陽光は麗らかで心地の良いものだけれど、吹き抜ける風は未だ冬の寒さを残している。

 やっぱ外で作業すんのはまだちょっと冷えるな、と思いながら、使った工具を工具箱にしまっていると、ふいに服の裾を軽く引かれた。

「ん?」

 客かと思い、背後を振り返るが見上げた視線の先には誰も立っておらず、反射的に眉を寄せる。

 なんだ、と振り返ったまま視線を動かせば、着込んだ作業着のわき腹のあたりを握り締めるちいさな手が視界に入った。

「……ままぁ…っ」

「……、は?」

 ちいさな手のさきには細い腕があり、そのさきにはちいさな体とちいさな顔。ふくりとした頬は赤く染まっており、愛らしい大きな瞳からはぼろぼろと大粒の涙が絶え間なく溢れている。

 振り返った先にいたのは3歳か4歳くらいの女の子で、ちいさな手で乾の作業着を握り締め、なぜだかは分からないが乾を「ママ」と呼び、愛らしい顔をぐずぐずに歪めて泣いていた。

「ままぁ…っ!」

「いや、ママじゃねえけど……迷子か?」

 空いた手で顔を拭い、作業着から手をはなしたかと思えば、そのまま乾の首へと移動させ、抱き着いてくる少女を抱き返す。そのまま抱え上げれば更にぎゅうと抱き着かれ、とうとう声を上げて本格的に泣き始めてしまった。

「どした? ってマジでどうしたんだよ。なんだその子、イヌピーの子?」

 九井知ってんのか、と茶化して聞いてくる龍宮寺を睨み、軽く蹴りつける。

 乾の肩に顔をうずめている少女に泣きやむ気配はなく、ちいさな両手は相変わらず力いっぱい作業着を握り締めている。メンテナンスを終えた直後で、作業着にはオイルや汚れも付着していたため、汚れるぞ、と一旦下ろそうとしたが、少女は更に大きな声で泣きわめき、それを許してはくれなかった。

「超懐かれてんじゃねえか、イヌピー。似てんのかな、母親と。お前女顔だし」

「女顔ってだけで女とは間違わねえだろ」

「…まま……」

「ほら。ママだって」

「……ママじゃねえ」

「…っままぁ…ッ」

「分かったから泣くな」

 乾が女児を抱いている様が余程面白いのか、龍宮寺は言葉の端々に滲む笑みを隠そうともせず、事あるごとに笑い声を上げる。

 面白がりやがって。面倒くせえ、と内心で舌を打つが、かといって年端もいかない少女をそのへんに放っておくわけにもいかない。

 ひぐ、としゃくりを上げて泣き続ける少女の涙を拭ってやれば、少女はたっぷりと涙をたたえた大きな瞳で乾を見つめ、「まま……」と舌の足らない甘い声で呟いた。

「交番連れてってやれよ。母親も探してんだろ」

「ああ、そうするわ。店頼む」

「おう。交番行く前に近くの公園寄ってみたらどうだ? 親子連れよく見かけるし、母親そっちいるかもだぜ」

 龍宮寺に言われ、少女の顔を覗き込む。公園、という言葉に反応するかと思ったが、ぐじゅ、と鼻を鳴らすばかりだ。

 乾のなにを見て「ママ」と言っているのか、なにがそんなにこの少女を惹きつけているのは分からないが、引き剥がそうとしても力いっぱい作業着を握り締めて乾からはなれようとしない。

 周囲に幼い子供がいないため、子供の扱いなど分からないが、迷子を保護して交番に連れて行くのは大人の役目だろう。扱いが分からないだけで子供が嫌いというわけでもなかった。

「じゃあ俺ちょっと行ってくる」

「気ぃ付けてな」

 にっこりと笑って乾を見送る龍宮寺はやはりこの状況を楽しんでいるのだろう。明日には佐野か花垣あたりに伝わっているだろうことを思うとを若干憂鬱になる。

 花垣はともかく、佐野は面白がって突いてくるだろう。口止めをしておけば良かった。先程携帯端末を弄っていたからもう遅いだろうが。

 佐野は興味が薄いことはすぐに忘れる。しばらく顔を合わせなければ乾が女児を保護したことなどあっという間に忘れるだろうから、しばらく顔を合わせずにいたいものだ。

 そんなことを考えつつ、とりあえず近所の公園を目指して歩く。

 店を出たときはまだ泣きじゃくっていた少女だが、しばらく歩いているとすこしずつ静かになり、今は、すん、すん、と断続的にしゃくり上げるだけになった。 

 それでもなお、ぎゅっと作業着を握りしめている少女を抱えなおし、様子を伺って顔を覗き込めば、涙でゆらゆらと揺れる大きな瞳が乾へと向けられる。

 でっけえ目、と思っていると作業着から片手をはなした少女はゆっくりと乾の顔に残るケロイドに触れた。

「……どうして、ここ、いろがちがうの?」

「ああ、火傷しちまったんだ」

「やけど? あちってなったの? いたい?」

「もう痛くねえ。すげえ昔のことだから」

 痛くないと告げたにもかかわらず、少女は撫でるような手つきでケロイドに触れる。少女に話した通り余りにも昔の出来事で、ケロイドが残っていることなど忘れてしまうくらいだ。

 顔に残ったことを気にしたこともない。

 ちいさな子供には気になるのだろう。そっと触れる指の感触は不快でもなく、好きにさせておいた。

「ママとどこではぐれたか分かるか? 公園に遊びに行ったか?」

 泣きやんだことで話ができるようになったかと思い尋ねれば、愛らしい顔が心細そうに歪む。ひぐ、とまたしゃくりを上げたが先程のように泣き出すことはなく、こく、とちいさな頭が上下に揺れた。

「じゃあやっぱ公園で探してるかもな。ママがいたら、ちゃんと言えよ」

「……まま…」

 言いながら、ぎゅっと乾に抱き着く。

「俺はママじゃねえ」

 不本意だが、幼い子供に詰め寄っても詮無いことだろう。諦めてため息を吐き、鼻を鳴らす少女を抱えなおす。

 見えてきた公園のスロープを通過し、公園内へと進む。平日の昼下がりではあるが、公園内には親子連れの姿もすくなくない。子供探している母親の姿はないかざっと周囲を見渡して見るが、それらしき姿はなく、確認するために少女へと視線を向けた。

「ママ、いるか?」

 尋ねてみるが、子供は目に涙をためたままふるふると首を横に振り、乾の首にしがみつくばかりだ。

 もう少し公園内を探してみようとは思うけれど、少女の母親が見つかる可能性は低そうだなと息を吐いたとき、背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。

「あれ、イヌピーじゃん」

 反射的に振り返ればそこには九井が立っていて、吊り上がり気味の瞳をぱちんと瞬かせる。

 お互い様だが、平日の昼間の公園で遭遇するなんて思ってもいなかった。

「なにやってんの、こんなとこで。つうかなにそのガキ、イヌピーの隠し子? 子供つくったとか聞いてねえんだけど」

「……ドラケンと同じこと言うなよ」

 白く染めた長い髪を揺らしながら、冗談めかして言う九井を軽く睨む。

 口端を上げて楽しそうに笑う九井はそのまま乾の傍まで寄ってきて、乾の肩口にしがみついている少女の顔を覗き込んだ。

「こんにちは」

 九井に声をかけられた少女はびくりと体を揺らし、乾の作業着をぎゅっと握り締める。ちいさな声で挨拶を返したものの、それは半分ほどしか声にはならず、すぐに乾の肩口に顔を埋めてしまった。

「あらら、嫌われちまったみてえ」

「見た目がこわいんじゃねえか。髪白いし。俺は好きだけど」

「……ガキの前でそういうこと言う?」

「言ったところで分かんねえだろ」

 若干の批難を滲ませて向けられる九井の視線を、素知らぬ振りをして受け流す。

「つうかこわいって……ドラケン見ても泣かなかったんだろ? じゃあ見た目じゃなくね?」

「いやドラケン見る前からずっと泣いてたから、ドラケンがこわくなかったとは限らねえ。けどドラケンってあの見た目でガキにすげえ好かれっからな」

「イヌピーあんま好かれないタイプなのにね。めっちゃ懐いてんじゃん」

 言いながら少女の顔を覗き込む九井へそろりと視線を向けたあと、少女は乾の首にしがみついてくる。

「…まま……」

「……ママ探してんの? それともこれ、イヌピーのことママって言ってんの?」

「…………………」

 その両方だけれど、後者に頷く気にはなれず、前者だけを肯定しておいた。

「なるほど。そんでこの時間に公園にいるわけね」

「ああ。ココは?」

「今日時間空いたから、適当にこのへんで時間潰して、イヌピーが仕事終わったら家行こうと思ってさ。行っていい?」

「いいよ」

 頷けば満足そうな笑顔が返ってくる。不愛想な自分よりよく笑う九井の方が余程子供に好かれそうなものだうが、細い腕はしっかりと乾の首にまわされたままだ。

「子供探してる母親っぽいやつ見なかったか?」

「見てねえな。交番連れてけば?」

「やっぱ交番行くしかねえか。ココはどうする?」

「面白そうだからついてくわ」

「面白がってんじゃねえよ」

 いつものように隣に並ぶ九井と連れ立って公園を横切り、交番へと続く道を歩く。

 九井の出現で涙が引っ込んだのか、少女はしばらく乾の首にしがみついていたが、いつの間にかしゃくり上げる声は聞こえなくなっていた。

 交番に辿り着き、詰めていた警察官に事情を説明する。

 見た目のせいか、初めは訝し気な表情を向けられたが事情を説明すれば誤解は解け、警官の態度はすぐに好意的なものに変わった。

 迷子を保護したお礼を言われ、母親が見つかるまで交番で預かってくれるとのことだったので、警官を少女を引き渡そうとしたのだが、それがまた少女を泣かせることになってしまった。

「ままぁ…っ!」

 ぎゅう、と作業着を握り締めたまま、乾からはなれようとしない。

 警官が抱き寄せようとするが乾の肩口でいやいやと首を振り、明らかな拒絶を示している。

 一度おさまったはずの涙もまた溢れ出し、大きな瞳から大量の涙を流し始めた。

「つうかこれやっぱイヌピーのことママって言ってね?」

 背後から聞こえてきた言葉は聞かなかったことにして、なんとか少女を引き剥がそうと試みる。ちいさな手を掴み、作業着からはなそうとしたが、途端交番中に響き渡るんじゃないかというほど大きな声で泣き叫ばれ、さすがに無理矢理引き剥がすことはできなかった。

「困りましたねえ」

 困りましたねえじゃねえ、なんとかしろよ、と弱り果てている警官に内心で八つ当たりしつつ、作業着を濡らし続けている少女の背中を摩る。

 これだけ泣いて、よく涙が枯れないものだ。こんなちいさな体のどこにこれだけの水分をため込んでいるのだろう。これだけ涙を流せば、干からびてしまいそうなものだが。

 とりあえず警官に勧められた古びたソファに座り、少女が泣きやむのを待つが、すこし静かになったところを見計らって引き剥がそうとすると、また大声で泣き出してしまう。

 泣きわめく子供を置いて帰ることもできるのだけれど、さすがに可哀想だった。

 警官は乾から少女を引き剥がすことを諦め、母親の捜索のために別の警官と話をしている。すげえ泣くじゃん、と顔を覗き込みながら少女に話しかけている九井の楽しそうな声が耳のすぐ傍で聞こえた。

「ココってガキ好きだったか?」

「いや? とくに好きとかねえけど。けど駄々こねてイヌピー困らせてんのが、なんかすげえいいわ」

「……趣味悪」

「冗談だって、怒んなよイヌピー」

 ガキに困らされてるイヌピーって新鮮、とやはり楽しそうな声で言う九井を横目で睨めば、体重を乗せるように圧し掛かられる。

 その際揺れた白く長い髪から憶えのあるにおいがして、それになんだか絆されたような気持ちになって息を吐く。ぐずぐずと肩口でしゃくりを上げている少女の背中を立て続けに軽く叩いてやれば、少女もいくらかは落ち着いたようだった。

「……イヌピー」

「ん?」

「寝た」

 しばらくして乾に寄りかかり、少女の顔を覗き込んでいた九井が顔を上げる。その言葉に少女へと視線を向ければ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、少女は健やかな寝息を立てていた。

 この隙に、と少女を引き剥がそうとしたが、その手は相変わらず乾の作業着を握り締めたままで、はなそうとすると寝顔が泣き顔に変わっていき、慌てて手をはなす。

 どうやら母親が見つかるまで、かかえているしかなさそうだ。

 はあ、と深く息を吐けば、その様が可笑しかったのか、九井が隣でちいさく笑い声を上げた。


 それから間もなく、交番に慌てた様子の女性が駆けこんできた。年齢は乾たちと同じくらいで、ちょっと目をはなした隙に子供がいなくなってしまったらしい。

 話を聞くまでもなくその女性は少女の母親で、警官や乾たちの話を聞き、少女を抱き上げると乾に何度も頭を下げた。

 乾から引き剥がされた少女は、引き剥がされた瞬間こそ泣き声を上げたものの、体を抱き上げたのが母親だと分かるとすぐに泣きやみ、母親にしがみつく。

 母親に抱きかかえられ、肩越しにちいさな手を振る少女を見送ったあと、自分たちも交番を後にすることにした。

 ちなみに少女の母親は明るい色をした髪の長い女性で、その長さも乾と同じくらいだったが、共通点といえばそれくらいのものだった。

「あの母親、全然イヌピーに似てなかったけど、イヌピーに母性でも感じたんかな」

 店に戻る道すがら九井に言われ、眉を寄せる。とんだ災難だった。

 母親とはぐれて余程心細かったのだろう。子供に罪はないと分かってはいるが。

「うるせえぞココ」

「中々ないぜ。いい経験したじゃん」

 ママ、と冗談めかして乾を呼ぶ九井の言葉に足を止める。隣に並んでいた九井をじっと見つめれば、楽しそうに歪んでいた吊り上がり気味の瞳がハッとしたように一度だけ瞬いた。

「…………………」

「ちょ、イヌピー、いてえから……手……」

 反射的に体を引こうとする九井の腕を掴めば、さりげなく掴んだ手から逃れようと腕を引かれるが、はなすつもりはない。

 視線を逸らさずじっと見つめたまま軽く腕を引けば、近くなった顔の距離にすっと視線が逸らされた。

 往来で変な気を起こすつもりはないが、揶揄されるだけ揶揄されて、やられっ放しというのも性に合わない。

 九井の顔から視線を逸らさずただじっと見つめていたら、耐えられなくなったのか、ごめんって、と低く掠れた声が聞こえた。

「……いい」

「、」

「こういうこと、あんまり言いたくねえけど」

 ママじゃねえって後で分からせてやる、と至近距離で呟いてやれば、九井の体がぎしりと硬直したのが分かった。

 九井以外だったら殴って黙らせるのも吝かではないが、こんなことで彼に手を上げるつもりもない。余程効果的な方法も分かっているわけだし、今回はそれで良しとしよう。

 はなれ際、白い髪を手のひらで撫でるようにすくってから、九井から一歩距離を取る。

 このまま家に連れ帰ってしまいたい気持ちもあるけれど、生憎まだ業務時間中だ。仕事を放り出して家に帰ったら龍宮寺にしこたま叱られる羽目になるだろう。

「仕事終わったら連絡する」

「…っ分、かった……」

 相変わらず固まったままの九井に声をかければ、ぎこちない返事が返ってくる。

 そういった行為は幾度も繰り返していて、もう不慣れというわけではないと思うのだけれど、たまにこういった反応をする。

 それにある程度満足して、九井とは一旦別れ、店へ戻るために足を進めた。


 やがて店が見えてきて、そういや昼飯食いそびれたな、とそんなことを思ったとき、店の前に人が佇んでいることに気が付く。

 どうやら店の中にいる龍宮寺となにやら話をしているようだが、そのシルエットは見覚えのあるもので、「げ」と反射的に声が漏れた。

 奥に癖のある黒髪が立っているのが分かる。そして手前には綺麗に切りそろえられた黒い髪。

 さの、と無意識に漏れた声が聞こえたはずもないのに、手前に立っていた男は首の角度を変え、こちらを向いた。

 ……今日は厄日に違いない。


 さいあく、と呟くのと同時に、佐野の顔が愉しげに歪むのが見えた。









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