top of page

紺褪めて、発火






 遠くを走り抜ける電車の音がかすかに聞こえてくる。

 外は既に夜の色にいろどられ、そのなかで明るい照明に照らされる店は四角くちいさな別世界のようだった。

 ガラスの引き戸を引けば、から、と摩擦の音が響く。違う世界の店内にはゆるやかなチルホップが流れていて、店の奥で既に帰り支度を整えている龍宮寺の背中が見えた。

 依頼されたバイクの修理に必要な部品が店になく、業者に発注をと思ったのだが、現在在庫が切れているらしく、届くまでにしばらく時間がかかるといわれた。

 念のため、別のバイク屋にあたってみたところ、たまたま在庫があるとのことだったので作業中だった龍宮寺に店を任せ、乾が引き取りに行ってきたのだ。

 けれど部品を取るために店を出た時間はわりあいに遅く、部品を取りに行ったバイク屋でもすこし話し込んでしまったせいで、帰りが遅くなってしまった。

 本来ならとっくに仕事を切り上げて、自室に戻っている時間だ。それはとうぜん、龍宮寺も同じだ。修理は明日でも構わないため、さきに帰ってくれて構わなかったのに、律儀に乾を待ってくれていたらしい。

「おかえり。部品受け取ってきたか?」

「ああ。まだ残ってたんだな、さきに帰って良かったのに」

「お前が帰ってくるまで店番してねえとだろ。けど俺もう帰るから、店閉めんの任せていいか?」

「やっとく」

 乾が持ち帰った部品を確認したあと、鍵を投げてくる。それを片手で受け取り、部品を店の奥の棚へ仕舞う。

 急ぎの仕事はないのだけれど、パーツの確認や明日修理するバイクの状態をもうすこし見ておきたい。龍宮寺にそう告げれば「適当なところで切り上げろよ」と頷き、彼は出入口のドアに手をかけた。

「じゃあなイヌピー、お疲れ」

「お疲れ」

「お前ちゃんと飯食えよ」

「分かってるよ」

 帰り際にそんな言葉を残し、龍宮寺が店を出て行ってから間もなくして、バイクのエンジンをかける音が響いて店の前を見慣れたバイクが走り抜けて行った。夜のあわいに余韻を残すその音が心地良く、完全に聞こえなくなるまで無意識に耳で追う。

 反射みたいなものだろうか。バイクの走行音を聞いていると今すぐにでもバイクに乗って走り出したくなる。

 店を放っておくわけにもいかないからそれはかなわないのだけれど、次の休みは走りに行くかな、とそんなことを考えつつ、修理を依頼されたバイクの前に座り込んだ。

 大体の状態は、バイクが店に持ち込まれた際に確認しているし、乾が部品を取りに行っているあいだ、龍宮寺も確認したはずだ。そう思って受付奥のバインダーを確認すれば、案の定、意外に几帳面な見慣れた文字が並んでいた。

「そんなに時間かかんねえか」

 大した破損もなく、修理にさほど時間はかからなさそうだ。バインダーに挟んである紙面に書かれた内容とバイクの状態を照らし合わせて確認しつつ、修理にかかりそうなおおよその時間を弾きだす。

 カスタマイズやメンテナンス、修理なども大分慣れた。働くことは決して楽で楽しいことばかりではないけれど、元々バイクが好きだったため、それらをおぼえるのは苦ではなかった。

 今でもよく思い出す。生まれてはじめて尊敬した人が、こうやってよくバイクの前に座り込んでいたこと。

 幼い乾は邪魔にならないようすこしはなれた場所で、そんな彼を飽くことなく黙って眺めていた。

 気が付けばずっとあの背中を追っている。彼が生きていたら、今の乾を見てなんと言うだろう。

 懐かしいような微笑ましいような、寂しいような気持ちをおぼえながら、手のひらでそっとバイクを撫でる。

 そのとき、ふいに背後で、から、と店の扉がひらく音がした。

 客だろうか。思って反射的に受付側の壁に掛けられた時計へと視線を向ける。時刻は21時半を回ったところだ。仕事をしてはいるが、とっくに閉店時間は過ぎている。

「すいません、今日はもう店閉め、」

「いーぬぴー」

 すぐに済む話なら話だけ聞いて、とりあえず明日また来てもらおう、と思いながら立ち上がり、背後を振り返るのと同時に、聞き慣れた、けれど聞き慣れたそれより間延びしてゆるんだ声が聞こえてきた。

「、ココ」

「まあだ仕事してんの? いつからそんなに働き者になったんだ、俺のイヌピーは」

 窓越しの夜を背景に、黒い髪が揺れている。開けた扉に体重を預けるようにして凭れかかっていた九井は、自重によりすこしずつ開いてゆく扉に「お、お、おお……」と声を漏らしながら傾いでいった。

「おいココ。お前酔ってんのか?」

「まあね。付き合いってやつ? アイツ等気が済むまで飲まさねえと帰してくれねえからさあ」

 アイツ等というのは九井の仕事の関係者だろう。IT会社のトップである彼はパーティー等に参加する機会はあるようだが、普段はそう頻繁に飲み歩くこともなく、ここまで酔っているのは随分珍しいことだ。

 たまにお互いの家で飲むことはあるけれど、それでもここまで酩酊することはない。

 傾いでゆく体に抵抗することなくずるずると座り込もうとする九井に歩み寄り体を支えてやれば、それを待っていたかのように首に腕を回された。

「やさしいじゃん、イヌピー」

「うるせえぞ酔っ払い。ほら、ちゃんと立てって。お前その状態でどうやってここまで来たんだよ」

「タクった」

 抱き上げる体は普段の彼のにおいを掻き消してしまうほど、強いアルコールの香りを帯びている。

 前述のとおり、普段彼がここまで酒に酔うことは滅多にない。

 自身の許容量は知っている奴だし、アルコール度数の低い酒をどれだけ煽ったところで、ジュースだな、と平気な顔をしている。

 ザルや枠とまではいかないが、そこそこ酒には強いのだ。

 一体どれほど強い酒を、どれだけ飲まされたんだ、とかすかな苛立ちを感じつつ、あやうい足取りで密着してくる体を抱きとめた。

「珍しいな、お前が言われるまま飲むなんて」

「んー……ま今は機嫌取っといたほうがいい時期だからな。どーせそのうち、うちが吸収すっけど」

 したら口から酒瓶突っ込んでやる、といくらか呂律のまわらない口調で物騒なことを言っている九井に浅く息を吐く。

 乾と違って計算高く、状況や相手を見極め、その場でいちばん相応しい行動を取ることができる。なにが得で、なにが損か、瞬時に且つ的確に判断できる彼だから、借りはきっちりと返すのだろう。

 ゆえに、心配する必要などないのかもしれないけれど。

「あんま無理すんなよ」

 言えば至近距離で緩慢に瞬く至極の瞳が撓み、ふ、とゆるやかな笑みを漏らした。

「マジで優しいじゃん。大丈夫だって、んなんで潰れるほどやわじゃねえし。つうかイヌピーめっちゃいいにおいすんね」

 なにが楽しいかは知れないが、楽しそうに笑いながら首筋に顔を埋め、頬をすり寄せてくる。

 体重を預けるように凭れかかってくる体を支えつつ、「仕事着だからくせえだろ。はなれろって」と言っても首に回した腕を解こうとも、密着した体をはなそうともしない。

 耳元でなにやらふにゃふにゃと解読不明な言葉を発したかと思えば、ふいにぱっと体をはなす。そして乾を見て笑う。

 完全に酔っ払いの動向だ。

「水持ってくる。上に冷えたやつあるから」

「いいよ」

 店の2階へ行くために適当な椅子に座らせ、一旦はなれようとしたが作業着の裾を掴まれて引き留められる。

「イヌピーんち行こ」

 アルコールを摂取したせいか、ゆる、と水分を孕む瞳が見上げてくる。店の照明を撥ね、潤びるように揺れる至極色の瞳に無意識に目を細めた。

 これが酔っ払い相手でなければ、乾とて吝かではない状況だが。

「そんなふらふらな状態だとうちまでもたねえだろ」

「大丈夫だって。途中の自販機かなんかで水買えばいいじゃん」

「俺、飯もまだだし」

「んじゃコンビニ。つうかイヌピー、マジで飯はちゃんと食えって」

「食ってる。今日は忙しかったんだよ」

 体のほうはあやういわりに、思考は存外明瞭なようだ。

 作業着を掴んだまま立ち上がり、ふら、と横にずれてゆく九井の腕を掴む。

 乾がこうやって九井の世話を焼くなんて稀なことだ。昔からどちらかというと彼に世話を焼かれることが多かった。

 だから、このくらいどうってことないけれど。

 アルコールがまわって軽い睡魔を感じているのか、ゆるやかに伏せられた瞼。わずかな赤みを帯びる、普段は白い頬を指の関節でさすれば目を細めてくすぐったそうに笑った。

「分かった」

「あ?」

「行くんだろ」

 俺んち、と九井の手を引いて店の照明を落とす。店を出て戸締りをしていると、大人しく腕を引かれていた九井が圧し掛かるように寄りかかってきた。

「急にどうした? 珍しいじゃん、素直に俺の言うこと聞いてくれんの」

 静かな夜の空気に響かない程度、囁くように尋ねてくる。その声がすこしだけ掠れているのは酒のせいなのか。

 そう思うとやはり若干の苛立ちは否めなかった。

 密着してくる体に慣れた温度はいつもよりほのかに熱を孕んでいる。わずかに上気する頬も、いくらか潤びった瞳も、甘く掠れた声も、ベッドでの彼を彷彿とさせないでもない。

「いいから帰るぞ」

 余り他人には見せたくはなくて、半ば強引に腕を引く。背後でわずかに笑った気配がしたあと、九井は抵抗することなく後をついてきた。

 まだ日付も変わらない時間だというのに静かな夜道に自分たち以外に人の気配なく、九井の腕を引いたまま、すこしだけ緩やかな速度で夜の中を歩く。

 背後を歩く九井は酔っているせいなのか、いつもより機嫌が良さそうだ。たまに乾を呼んでは、上機嫌に笑う。

 ふたりしかいない場所ならともかく、往来でこんなに無防備な九井も珍しい。

「なあイヌピー」

「ん?」

「もっと高い場所なら、星もちゃんと見えるかな」

 ふいにそんなことを言う九井を振り返れば、空を見上げており、それにならうように乾も空を見上げる。

 周囲は外灯のみでさほど明るくもないのに、街の光に照らされているせいなのか見上げた空に星は見えない。満天の星空なんて、生まれてこの方見たことなどないが。

「このへんじゃ、高いとこに上っても星は見えねえんじゃねえ?」

「じゃあ今度、田舎の方に旅行でも行く?」

 ふたりで、と首を傾けて顔を覗き込んでくる九井の瞳が楽しそうに、嬉しそうに歪んでいるのが分かる。

 柔らかく歪む眼差しがまっすぐに自分を見るようになったのはいつからだったか。それに気が付いたのはいつだったか。

 ずっと好きだった。ずっと欲しかった。

 自分だけのものにしたいと思う独占欲には、けれどいつも罪悪感がともなって、口に出すことすらできなかった。

 もういいか、と口に出さず、返事が返ってくることもないと分かっていても、今でも何度も問いかける。

 もう、俺だけのものにしてもいいか、と一生消えることのないだろう罪悪感を背負いながら、ずっと。

「……本買っとく」

「本? なんの?」

「旅行雑誌」

 ふい、と吊り上がり気味の三白眼から視線を逸らし、腕を引いて歩き出しながら言えば、一拍置いたあと、はは、と背後で笑う声がした。

 腕に密着してくる体温があたたかく、すぐそこから注がれている視線を感じるけれど、不快だなどとは微塵も思わない。

 むしろその逆で。

 幼馴染で、ともに過ごした時間は長く、他人の感情の機微に敏い方ではないにもかかわらず彼の機嫌の良し悪しは声色、表情ひとつで判断できる。

 性格も性質も、ささいな癖すら知っていて、或いは家族よりも身近にいる存在なのに。

「……………」

 空いた片手が疼くように震えて、彼に気付かれないようにぎゅっと握り締める。

 昨日今日知った相手でも、出逢った仲でもない。彼のことはよく知っていて、彼に関する情報も、彼に対する感情も、目新しいものなどなにもないのに。

 声、表情、仕草、その眼差しのささいな変化でさえ、目交いにするたびに好きだと思う。

 毎回毎回、新しい気持ちが生まれるように。

 好きで好きでたまらない。どうしてこんなに愛おしいと思うのか。どうしてこんなにたまらない気持ちになるのか。

 哀しくもないのに、どうして涙が出そうなほど、感情を揺さぶられるのか。

「なあイヌピー、金は俺が出すからさ、部屋に露天風呂ついてるとこに泊まろうぜ」

「星見るのが目的じゃねえのかよ」

「それはそうだけど、折角行くならべつのことも楽しみてえじゃん」

 夜道の風に晒されていくらか酔いはさめたようだけれど、それでも普段と比較して呂律があやしい口調で歌うように言う九井の声は楽しそうだ。

 ちらりと横目で確認してみれば、かすかに笑っている顔も声同様楽しげで。

「……いいよ」

「うん?」

 きっと一生、自分だけのものになることはないのだと思う。

 奪うことができたのなら奪っていたかもしれないけれど、そうする前に彼の心を持っていた人はいなくなってしまった。

 だから彼の心が乾だけのものになることは一生ないだろう。

 けれど、彼が姉を忘れてしまうことを望むわけじゃない。

 忘れなくていい。たとえ彼のすべてが、乾だけのものにならなくても。

 ―――だけど。

「全部、ココの好きにしていい」

 だけど、残った心くらいは俺だけのものにしてもいいよな、と。

 応えは相変わらず、返ってはこないけれど。

 風に煽られて白い頬を掠める髪を指で避けてやる。関節で摩るように頬を撫でれば、吊り上がり気味の瞳がすこしだけ細められた。

「……前から思ってたけど、イヌピーって俺に甘くねえ?」

 不満気ではないけれど、どこか訝し気に尋ねてくる九井の言葉に笑う。

 甘えてくるような素振りを見せるわりに、甘やかされることに慣れていない彼らしい反応だ。

 もちろんその原因の一端は、乾にもおおいにあるのだけれど。

「昔は俺が散々甘やかされたからな」

「甘やかされたって……世話したおぼえならあるけど。イヌピー、マジで手がかかったから」

「親みたいなこと言うなよ」

「今でも手がかかるのは変わってねえんだよなあ」

「世話してくれなんて頼んでねえ」

「そういうとこ」

 イヌピーは昔からマジで手がかかるからさあ、とどこか得意げに同じことを繰り返す九井に、酔っ払いに言われたくねえ、と思いながら星の見えない夜道を歩く。

 掴んだ腕の温度はあたたかく、聞こえてくる甘く掠れた声は耳に心地良い。

 頬を撫でる風も気持ち良いものだけれど、かすかに鼻腔をくすぐる九井のにおいに混じる、アルコールのにおいが邪魔だ。帰ったらまずシャワーを浴びさせなければ。

 そんなことを考えていたせいで、一瞬九井の言葉を聞き逃し、乾のことなのか、それとも手のかかる乾の世話をすることなのかは分からなかったが、呂律の回らない声がふいに、好きだよ、と紡いだのが分かり、背後を振り返る。


 外灯だけが照らすほの暗い夜道で、黒い髪が風に揺れる。

 乾が振り返ったことに気が付き、柔らかく歪んだ至極の瞳が外灯の光を撥ねて煌き、まるでそこに星空を見たようだった。








Commentaires


bottom of page