難しいことはなにもしなくていい、と走行する車の中で言われた。
淡々と話を進めるあいだ、こちらへちらりとも視線をくれず、手元の端末の画面を見下ろしながら、真っ白な長い髪を揺らす男は自分が属する組織の幹部のひとりだ。
腹が減ったといえば食事を用意しろ。欲しいものがあると言われたら、それがなにであれ手配しろ。話相手になれと言われたら、適当に相手をしてやれ。なに、さほど手がかかる相手じゃない。自分のことはある程度自分でやるだろうしな。大したわがままも言わないだろう。だが、外出はさせるな。周囲を散策するくらいならいい。お前以外に護衛や監視はつけている。気分転換にちょっと歩くくらいなら、自由にさせてやっていい。
余程重要なことなのだろう。淡々と話していた男は語気を強くし、まるで脅すように唸る声を出した。
「向こうから言い出すことはないとは思うがな。それでも万が一にでも街におりたいと言い出したら部屋から出さず、すぐに連絡しろ。難しいことはなにもしなくていい。だが、敷地から一歩でも外に出したら殺す」
分かったな、と念を押されるように言われ、余りの迫力に喉を鳴らして頷くほかなかった。
手渡された新幹線のチケットは東京駅発、軽井沢行きのものだ。駅に迎えがくる。やはり一瞥もくれぬまま、その男は短く言った。
いち構成員である自分が、幹部である九井の指示に逆らえるはずもなく、詳しい事情も知らされぬまま東京駅から新幹線に乗った。
呼び出され、車に乗れと言われたときは、自分がなにか失態を犯し、制裁をくだされるのだと思った。心当たりはなかったが、状況的にそれぐらいしか思い当たることもない。或いは、上の尻拭いをさせるため、自分に白羽の矢がたったのかもしれない。部下に失敗をなすりつけ、尻拭いをさせるのはこの世界ではさほど珍しいことでもない。それも覚悟して足を踏み入れた世界だ。梵天は日本最大といわれるほど巨大な犯罪組織だ。平和に穏やかに暮らせるなどと端から思っていない。
嵌められた、という腹立たしさはとうぜんあったが、矛先は間抜けな己に対してがほとんどだった。
開けられた車の扉から見えたのは白く長い髪に異国めいた服装、そして頭部に刻まれた梵天の刺青。一瞬だけこちらを向いた瞳は蛇を思わせるもので、遠目だったが見たことのある顔だ。
梵天は首領を筆頭に、主に6人の幹部でまとめられている。そのとき車に乗っていたのは、その幹部のうちのひとりだった。九井一という名のその幹部は、余り表舞台に出てくることはなく、裏でなにかしら暗躍はしているのだろうけれど、末端構成員である自分が詳しい内情を知る由などない。
幹部が直々に制裁をくだしにくるとは、上は余程のことをやらかしたのか、と死をも覚悟して乗り込んだ車の中で、しかし、九井から告げられたのは「しばらくのあいだ、お前に任せたい仕事がある」という、台詞だけ聞けばサラリーマンが上司から告げられるような台詞だった。
期間はおよそ三ヶ月、場所は長野県軽井沢。仕事の内容はとある人物の世話をすること。監視や護衛はべつにつけている。お前の仕事は言葉通り世話係だ。難しいことはなにもしなくていい。だが、ソイツを敷地から一歩でも外に出したら殺す。分かってると思うが、お前に拒否権はない。場所も知られたしな。仕事を受けるか、死ぬかのどちらかだ。仕事を受けるなら東京駅から軽井沢へ向かえ。チケットは用意してある。必要なものがあれば言え。後から手配してやる。軽井沢の冬は冷えるからな。ボーナスってことでコートくらいは俺のポケットマネーで買ってやるよ。
一瞥すらくれることなく、九井は淡々と言って新幹線のチケットを渡してきた。彼の言う通り、幹部相手に拒否権などなかった。どうして自分がその仕事を任させることになったのか、その人物とは一体誰なのか。なぜわざわざ軽井沢なのか。聞きたいこと山ほどあったが、九井に詮索を許す気配はなく、詳しい事情は知れぬまま東京駅で車から下ろされ、訳も分からないままとりあえず軽井沢行きの新幹線に乗った。
東京駅から軽井沢までは、新幹線で一時間とすこし。悠長に考え事に耽るには短い時間だ。降り立った駅は12月のあたまということもあり、九井が言った通り、随分冷えた。安物のスーツに薄手のコートという格好では暖を取ることなどできず、腕を摩ってなんとか寒さを凌いでいると、間もなく迎えがやってきた。
目的の場所はいわゆる旧軽井沢と呼ばれるエリアからわずかに北上した場所に位置するらしく、駅からさほどはなれてはいないが、そもそも自然が多い土地である。駅からしばらく走ると周囲はあっという間に木々に覆われた。まだわずかに紅葉の名残を見せてはいたものの、もうほとんどの葉が落ちきり、空に伸びる枝が寒々と見える。しかし、車はそこから年中緑深い山の中へと入って行き、静かな車内にわずかに影が差した。
「端末を」
「え、」
「仕事が終わるまで外部との連絡は絶つよう、九井さんから言われています。こちらで端末を手配しているので、用があるときはそちらを使用するようにとのことです。九井さんにのみ繋がるようになっています」
運転席からそう言われ、仕事用とプライベート用の携帯端末を奪われ、代わりに九井にしか繋がらないらしい端末を手渡された。
「……詳しいことはなにも聞いていないんだが」
「知る必要はないと、九井さんが判断されたからでしょう」
「こんな場所まで送り込まれて、三ヶ月も仕事をするんだ。事情はともかく、もうすこし詳しい内容を知りたい。食事や寝床はどうすればいい」
「それは後程説明します。着きました。降りてください」
言われて、周囲の景色が一変していることに気が付いた。先程まで山の中を走っていた車が、今は開けた場所に停まっている。周囲が深い緑に囲まれていることは変わらないが、景色よりも目を引いたのが目の前に聳え立つように建てられた古い洋館だった。建築様式はアメリカのスティックスタイルだが、扉やサイディングはまた別の国のデザインを模している。趣向を凝らした窓枠のデザインが印象的だ。おそらくアカマツを使用して建てられている。
古いが歴史を感じさせ、それゆえに今もなお洗練された雰囲気が漂うその洋館は、一軒家というには余りに広い。建物の周囲には、おそらく護衛のものなのだろう、ふたりの人間が立っているが、洋館の広さに比べ、たったふたりだけか、という印象のほうが強く、物々しさは感じなかった。
「とある人物の世話係を、と言われてきたんだが」
「はい。そう聞いています」
「複数人とは聞いてない」
「おひとりですよ」
「ひとり? たったひとりをこんな広い家に住まわせてるって?」
「住んでいるというよりは滞在されていると言ったほうが正しいですね。三ヶ月間という期間がある時点で予想はつくでしょうが。それ以上の詮索を、九井さんは良しとしないでしょう。聞かれても答えられません」
「……あんた、九井さんの部下なのか?」
「今回のあなたの仕事に、なにか関係が?」
横目でこちらを見遣った運転手は、それ以上なにも言わず洋館の入口へと歩いてゆく。呆然と立ち尽くしているわけにもいかず、運転手の後を追った。
玄関の扉を開ければまず目の前に二階へと続く階段があり、それに目を奪われる。踊り場にはバルコニーへと続く扉があり、そこから折り返し、さらに階段をのぼった先に二階が続いているらしい。板張りの床は古いがよく磨かれており、室内灯の灯りを反射している。
玄関から廊下が左右に伸びており、右側にロビーやリビング、あと恐らくダイニングやキッチンがあることが間取り的になんとなく察することができる。左手側は、構造としては右手側と同じようだが、扉がいくつか並んでいることから私室、もしくは客室の類なのだろう。
玄関に入り、廊下を右に進んでゆく運転手の後を追っていくと、広いロビーに通された。天井からは繊細な造りのシャンデリアが下げられている。暗い色をした木製の重い扉。重厚な色をしたテーブル、値の張りそうなソファが並んでおり、アイボリーのカーテンの向こうに、外で見た趣向を凝らした窓枠が見える。そのさらに向こうに深い緑が広がっていた。
「これから三ヶ月、ここで過ごしてもらいます。あなたの仕事は、ここに滞在されている方の身の回りの世話をすること。といっても、相手は一般人ですが」
「一般人? 堅気ってことか?」
「まあ、そうですね」
思わぬ言葉につい聞き返してしまう。梵天の幹部自ら足を運ぶほどだ。梵天にとって余程重要な人物だろうと踏んでいたのだが、関係者かどうかはともかく一般人だとは思っていなかった。
しかし、詮索はやめておいたほうが良いだろう。九井もそれを許しはしないだろうし、先程運転手にも似たようなことを言われた。
「二階の部屋の壁を抜いて客室にしていて、そちらに滞在されています。一階にも客室があるので、あなたはそちらを使用してください。トイレや浴室も部屋についています。なにか必要なものがあれば九井さんに連絡を」
「寝床は分かったが、飯は?」
「7時、12時、18時に、こちらで用意します。食材の類も用意できますので、料理をしたい場合は言ってください。料理をしたい、と言われたら」
おそらく、世話をすることになる人物が、だろう。
「好きにさせてください。退屈しているだろうから、要望は極力叶えてやれとのことです」
「……分かった」
「ほかになにか質問は?」
「付き人の経験がないから、よく分からねえんだが……世話係って結局なにをするんだ? 飯もそっちで用意するんだろう? 身の回りの世話が必要ということは、相手は子供か、老人か?」
「いえ、成人男性ですよ」
「成人男性? 男?」
「はい。女性だとは一言も言っていませんが」
「そうだけど……だったら尚更、身の回りの世話なんて必要ねえだろ」
そういえば九井も自分のことは自分でやるだろうと言っていた。事情は分からないが護衛や監視、世話係までつくのだ。十代ほどの幼い子供か、身の回りの世話が必要な老人か。或いは、九井かもしくは他の幹部の愛人かなにかだと思っていたのだが。
もちろん愛人が男であるという可能性はあるが、予想としては女だと思っていた。しかしその予想はすべて外れているらしい。
「では九井さんにそう告げて、東京へ戻られますか? その時点で、梵天にあなたの居場所はないと思いますが」
「……帰るなんて言ってねえ」
「そうですか。ではここでしばらくお待ちください。呼んできますので」
そう言って、運転手の男はロビーを出て行った。
運転手が、世話をすることになる相手を連れて戻ってくるまでやることもなく、窓際に寄って緑深い風景を眺める。詮索は許されないのだろうが、何故こんなことにと思わずにはいられない。
護衛や監視、世話係までつくうえに、九井が直々に仕事を持ってくるほどの相手。梵天の幹部やそれに準ずる者なのかと予想したが、どうやら一般人であるらしい。愛人関係かとも思ったが成人男性らしく、手助けなく生活を送ることが困難なのかとも思ったが、九井も運転手もそれらしいことはなにも言ってなかった。
大体何故そんな役目に自分が選ばれたのか。考えても分からないことばかりで、窓枠に手を置き、無意識に息を吐けば、背後で扉がひらき、運転手が戻ってきたことが分かった。
「花垣さん、彼が」
そう言った運転手の背後から出てきたのは、想像していたどんな姿とも一致しない青年だった。
黒く柔らかそうな、おそらくとくにセットなどをしているわけでもないのだろう無造作な髪、健康的だが白い肌。黒みがかって透ける紺碧の大きな瞳に、いくらか戸惑ったように結ばれた口唇。真っ直ぐにこちらを見据える眼差しは精悍なものであるものの童顔の気があり、成人男性にしては幼い顔つきをしている。中肉中背で上背はさほど高くなく、体格も決して良いとは言えない。
良く言って平凡な、悪く言えば、どこか冴えない印象を与えるその男性は、「どうも」と控えめに頭を下げた。
「花垣です」
「どうも。これから、身の回りのお世話をさせてもらいます」
自己紹介をして、頭を下げる。
こちらを見遣る花垣の視線は自分のことを探っているというより、戸惑っているのだろう。梵天の幹部に匿われているわりに他人に世話をされるということに対して懐疑的らしい。
人を見た目で判断すると痛い目に遭う。自分よりも小柄で、表面上は柔和な相手が、じつは凶悪で苛烈な獣のように獰猛な本性を隠し持っているなど、珍しいことじゃない。
暴力や犯罪とは無縁そうな、ただの冴えない男に見える目の前の人物だって、その実日本最大の犯罪組織である梵天と繋がりがあるのだ。しかも幹部に匿われるほどだから、自分が想像するよりその繋がりはずっと深いものなのかもしれない。
武器や薬物の売人のようには見えないが、たとえそうだったとして九井ほどの男が匿う理由にはならないだろう。考えられるのは友人、家族、それか恋人か。九井のセクシャリティなど知る由もないが、そういった相手という可能性も捨てきれない。九井の人間性を深く知るわけでもないから、好みのタイプなども分からないが、印象としては男にしろ女にしろ、もうちょっと小奇麗なタイプを好む質かと思っていたが。花垣が九井の恋人だと仮定した場合の話だが、すくなくとも花垣のような男を好むとは意外だった。
あちこちが跳ねる黒い髪は伸ばしっぱなしというわけではなく、手入れはしているようだから不潔な印象は受けないが、野暮ったさは否めない。だらしないというわけでもないが身なりにとくべつ気を遣っているようには思えないし、男慣れしているようにも見えない。ゆえに九井のような男に上手に媚びを売れるようにも思えないが。逆にそういうところが良いのだろうか。或いは体の具合が余程良いのか、というのはさすがに下世話が過ぎるか。
「世話係とかそういうの、必要ないって言ったんですけど」
「そういうわけにもいきませんから」
「俺、生活能力皆無だと思われてるんですかね」
「さあ、私に聞かれても」
「ですよね……」
「とにかく、これから彼があなたの身の回りの世話をすることになりましたので。なにかあったら遠慮なく彼に言ってください」
「分かりました」
「それでは、私はこれで」
運転手は花垣と軽い会話を交わしたあと、部屋を出て行ってしまった。どうやら花垣は運転手とある程度の面識はあるらしい。一体いつからこの洋館に滞在しているのか。それとも元々顔見知りなのだろうか。
運転手に言われたように、自分の仕事には関係ないことだが気が付けば気になるというのは、人間の性だろう。
運転手が去ってしまい、広く静かなロビーに花垣とふたり残される。気まずさはとうぜんあった。はじめて逢ったばかりの相手だ。そのうえ、立場上扱いには細心の注意を払わなくてはならない。花垣の扱いひとつで、命の危機に陥る可能性だってあるのだから。
「あの、俺も詳しいことは聞かされてないんですけど、ココ君、」
言葉を切り、花垣は咳ばらいをする。
「九井さんから世話をしてくれる人が来ることは聞いてます。自分のことくらいは自分でできると言ったんですけど、そういうわけにもいかないらしくて」
梵天と繋がりがあるとはいえ、危機感や緊張感は一般人のそれだ。単に梵天と繋がりがあるわけではない。九井の関係者、しかもどんな関係であれ、九井がわざわざ時間を作り、自ら人員を手配するとなるとやはり九井にとって余程重要な人物ということになる。末端構成員の関係者とはわけが違う。敵対組織から狙われる可能性は、それだけでぐんと高くなるだろう。
護衛がつくのはともかく、世話係まで手配されたことに戸惑っているのかもしれないが、それは花垣を不自由させないためであり、それこそが彼が九井にとって蔑ろにできない相手だということを証明していた。
「できるだけ面倒はかけないようにします。これから、よろしくお願いします」
「自分も仕事ですから、遠慮せずなんでも言ってください。九井さんにもそう言われてますし」
「分かりました。俺、基本的には二階の部屋にいるように言われてるんで、なにかあったら声かけます」
「はい。あの、自分、そのあいだどうしたら良いですか? 飯は決まった時間に用意されるって聞いたんですけど、掃除とかしたほうが良いんですかね?」
「掃除は定期的に決まった人が来るみたいですよ。広い家なんで。そうですね……俺としては今のところとくに用事もないんで、休憩しててもらっていいですけど」
「休憩ですか? いやしかし、なにかやることあるのなら、仕事をしたいんですが」
「仕事って言われても……こ、困りましたね……」
「花垣さん、付き人が付くのははじめてですか?」
「一応、前任者はいましたけど、余り話したことなくて……頼まなくても着替えや入浴まで手伝ってくれようとする人だったから俺からなにかをお願いしたことってほとんどないんですよね」
「そうですか」
「まあ、普通の一般人なんで」
普通の一般人は梵天と関わりなど持たないだろう。九井と関係を持ったのは最近のことなのだろうか。なぜ九井は、他人に世話をされることに不慣れな花垣の世話係として、他人の世話をすることに不慣れな自分を選んだのだろう。九井の周囲にはもっと相応しい人員などいくらでもいただろうに。
「時間があるなら、仕事について確認したいことがあるんすけど、いいですか?」
「あ、はい。俺で分かることならなんでも聞いてください」
ソファに移動して仕事上確認したいことをいくつか確認してゆく。
「飯や家の掃除にはついては今確認させてもらいましたが、ほかに、これだけはやってもらいたいということはありますか?」
「やってもらいたいことですか? そうですね……俺、あまりやることなくて、恥ずかしい話なんですけど寝てることが多いんです。だけど、寝過ぎると生活のリズムが狂って体調崩しがちなんで、気が付いたときで構わないので寝過ぎないように起こしてもらえるとありがたいんですけど」
「分かりました」
「なんか、怠惰ですいません」
「いえ、気にしないでください。先程話に出ましたけど着替えや風呂なんかはどうですか? 必要なら手伝いますけど」
「いや、そういうのは自分でできるんで。前任者の人にも着替えとかは断ってました」
「そうですか。じゃあ逆に、これだけはやってほしくないことありますか? やってはいけないことというか」
「やってほしくないこと……」
「……敷地の外に出すなと言われてますけど」
花垣自身に告げて良いものなのか分からず、様子を伺いながら慎重に聞いてみる。しかし花垣はその言葉を聞いても驚いた様子も、動揺した素振りも見せず、「あ、はい。そうですね」とまるで天気の話でもしているかのように軽く頷いた。
「外に出るのは良いって言われてますけど、敷地からはなれたり、街に下りるのはだめだって言われてます。まあそれは俺も分かってるんで、無理に出て行ったりはしないから大丈夫っすよ。もし俺が逃げようとしても、そのときはそのときで監視の人が対応すると思いますし」
淡々と話す花垣にいささか呆気に取られた。世話係には戸惑うわりに、監視については慣れているらしい。逃げ出そうとしたことがあるのか、それとも九井が日常的に監視をつけているのか。ともかく、九井と関係を持ったのは最近のことではないようだった。
なにが普通の一般人だ。監視やそれが日常になるような生活。それは軟禁ともいえるこの状況が、彼にとってはさして非日常的なことではないと示している。
匿われていると認識していたが、囲われているといったほうが正しいのかもしれない。どういった関係性なのかは分からなかったが、恋人といった線が濃厚そうだ。しかも九井は彼に随分執心しているらしい。
ますます気が抜けないな、と身の振り方ひとつで自分の今後が決まってしまうことをいささか憂鬱に思いながらなんとか表面には出さず、話をつづけた。
「他にはありませんか? 部屋には入ってほしくないとか」
「とくにないですね。大体部屋で映画を観てるか、本を読んでるか、寝てるかだと思いますし……そうだ、ひとつだけ」
「なんですか」
「たまに、夜に電話をすることがあって、俺としては声をかけてもらっていいんですけど、そうすると、ちょっと、その、向こうの機嫌が悪くなるんで……お互いのために、声をかけずにいてもらったほうがいいかなって。もちろん、急ぎの用事があるときなんかは、全然構わないんですけど」
恋人なら恋人だとさきに言っておいてほしかった。花垣の言葉を聞いて息を吐く。花垣に言われなければうっかり声をかけてしまい、九井の機嫌を損ねて要らぬ被害を受けるところだった。立場上伏せておかなければならないことは分かるが、世話係を任せるのならそれくらいの情報はほしい。花垣が九井の恋人だと知っているのといないのでは、対応の仕方も変わってくる。
「緊急の用件以外では声をかけないようにします」
「すいません」
「気を付けなければならないのはそれくらいですか?」
「そうですね。あとは、俺としては本当にもう好きにしてもらっていいんですけど……仕事だとそうもいかないっすよね」
「まあ、そうですね。けどまあ、必要ないのに無理に世話させろとは言わないんで、なにか用があったら言ってください。俺も聞きに行きますし」
「分かりました」
「じゃあ、改めてよろしくお願いします」
「あ、はい、こちらこそ」
聞きたいことはある程度聞けた。あとは仕事をこなしながら確認してゆくしかないだろう。
話が落ち着いたところでどちらともなく立ち上がる。すいません、慣れてなくて、となぜか頭を下げながらこちらを気にしつつ部屋へ戻ってゆこうとする花垣を呼び止めた。
「これから部屋に戻るんですよね。なにか飲み物でも持っていきましょうか。珈琲くらいなら煎れられますけど」
「じゃあ、お願いしていいですか?」
まだどこか躊躇いがちに頷く花垣を部屋へ戻し、キッチンへ移動して珈琲を煎れる。
分からないことや考えなければいけないことはあるが、詮索が過ぎると九井の耳に入ってしまうかもしれない。そうなると自分の立場が危うくなることは火を見るより明らかだ。現状はとにかく九井の指示に従うしかなかった。
珈琲を煎れるためにキッチンを漁るまでもなく、豆や道具はすぐに見つかった。使用された形跡もあることから、前任者、もしくは花垣自身が珈琲を煎れていたのだろうということが伺えた。
洋館に出入りできる場所は基本的に玄関だけだが、洋館の裏手側に回るとキッチンへと繋がる勝手口がある。玄関以外では、その勝手口が唯一外へ繋がる扉だ。自分や花垣が外に出る際、勝手口を使用することは一切ないが、食事の受け渡しはキッチンの勝手口で行われるため、洋館に出入りできる場所ということもあってか、護衛のものが常にひとり立っている。
食事を受け取る際やどうしようもなく暇を持て余したときにすこしだけ話をしたことはあり、いくつか分かったこともあった。
花垣は自分より数日前にこの屋敷へやってきたようだが、以前は都内ではなく、別の場所で同じような状況にあったらしい。つまり、場所は違えど軟禁状態であったことには違いない。都内からはなれた場所での軟禁は今からおよそ三ヶ月ほど前からはじまったとのことだった。場所を変えた理由は、以前の世話係が失態を犯してしまった結果のことだったらしいが、その失態がどんな内容であるのかは護衛も知らないようだった。花垣の居場所を九井と敵対する相手に漏らしてしまい、花垣を危険に晒したのか、それとも世話係自身が花垣を手にかけようとしたのか。いずれにせよ、その後、前任の世話係の行方は杳として知れないという。
彼等もやはり九井から詮索しないよう釘を刺されているのか、花垣の素性や九井との関係性など、詳しいことを知る者はおらず、彼等が花垣の護衛をするようになってから彼に逢いに来たものは九井を含め、誰もいないということを知った。
彼の世話係をするようになって半月ほどが経過したが、そのあいだもとうぜん、花垣を訪ねてきた者などいない。
以前はどうだったか知らないが、敷地の外に出ることを禁じられ、娯楽の類も碌にない場所で、逢いに来るものもいない。そんな状況だというのに、花垣はそれに対して鬱憤をためているようにも見えず、いつも部屋で大人しくしている。気分転換に外の空気を吸うため、庭へ出ることはあったが、敷地から外に出たいと言ったこともなければ、人知れず脱出を試みた形跡もない。窓際の椅子に腰かけて本を読んでいるか、部屋のソファで自身の膝やクッションをかかえ、映画を観ているか。あとは花垣自身がそう言っていたように、ソファやベッドで静かに寝ている。時折暇を持て余し、階下に降りてきて自分達と話をすることもあったが、世話係である自分以外とは必要以上に言葉を交わさないよう言われているらしく、出入口や洋館周辺を見回っている護衛と話をしている姿はほとんど見たことがない。花垣がそんな生活を送っているため、世話係である自分の仕事もそう多忙ではなく、暇を持て余すことのほうが多い。そうなると必然的に花垣と言葉を交わす機会は増えていき、今ではすっかり花垣や彼の世話にも慣れてきた。
花垣は第一印象からほとんど変わらず、良くも悪くも、普通の青年だった。おそらく九井の恋人なのだろうけれど、だからといって暴力的な思考を持っているわけでもなく、犯罪を犯したゆえに軟禁されているとも考えにくい。人は見かけによらないが、半月ともに過ごしても、その印象は変わらない。九井が仕事と言っていた以上、或いは九井との関係とはべつに、梵天自体と繋がりがあるのかもしれないが、犯罪組織に関わりがあるようには到底思えないのだ。
花垣はよく笑い、よく泣く。年齢のわりに純粋な質で、調子に乗りやすい性格だったが嫌味なところはなく、明るく、親切な男だ。人気のない山の中の広すぎる洋館にひとり軟禁されているにもかかわらず鬱屈したような様子もなく、朗らかに、穏やかに過ごしている。余程辛抱強い性格なのかとも思ったが、それを本人に伝えたところ「良くも悪くも順応性が高いだけですよ」と、花垣は笑顔を見せ、その笑顔に悲壮感を滲ませることはなかった。
煎れたての珈琲にたっぷりとミルクと砂糖を入れたものをトレイに乗せ、絨毯が敷かれた階段を上がってゆく。
花垣は二階の半分ほどの広さを占める部屋を使用している。トイレや浴室、テーブルにソファ、クローゼットとはべつに置かれた洋服箪笥、大型のテレビにプレーヤーの類、大きな本棚、そして到底一人用とは思えないえ巨大なベッドが置かれているため、実際の広さほどの空間はないとはいえ、ひとりで過ごすには広すぎる部屋だ。
ノックをし、返事を待って扉を開ければ、窓際の椅子に座っていた花垣は読んでいた本を閉じ、テーブルの上に置く。ぐっと伸びをする小柄な体が纏う服を窓から差し込む鈍い光が透かし、うっすらと体のラインを露わにする。彼の元々の体格など知る由もないが、ろくに運動もできない生活が続いているためか、その体は決して屈強なものではない。わずかに仰け反る背中がゆるやかなカーブを描き、痩せた猫を思わせた。
「また本を読んでたんですか?」
「他にすることなくて……なにか面白い話ありますか?」
「花垣さんといっしょで、ずっとこの洋館にいるんですよ。新しい話題なんて仕入れられませんよ」
「まあ、そうっすよね。でも話相手になってくれるだけで、俺としては助かってます。前の人は、余り話をしてくれない人だったから」
前任者のことだろう。なにがあったのか聞いて良いものかどうか判断できず、返す言葉に詰まる。聞いてしまうと詮索することになるだろうか。
「……どうして、前の人は辞めてしまったんですか?」
「俺も詳しくは知らないんです。べつの仕事を任せることになったって聞いてます。それが本当かどうかは、俺には分からないんですけど」
珈琲のカップに口をつけ、わずかに脱力したように肩を揺らす。窓辺に座っていたことにより冷えてしまった体に、あたたかいカフェオレの温度が心地良いのだろう。ゆっくりとカップを口をはなした花垣は、カフェオレの表面になにかを見るようにカップを見下ろし、口端を上げて息を吐くように笑った。
「必要以上のことは教えてくれないんです。知らなくていいことだからって……そういうの、ちょっともどかしいんですけどね」
その笑顔はかすかな寂しさを讃えていて、結局返す言葉は見つからなかった。
九井と花垣がどのような関係性を構築しているかは分からず、たとえ恋人だったとしてもふたりが並んでいる姿を目交いにしたことがあるわけでもない。花垣が九井にどのように扱われているかは分からないが、花垣が九井に囲われているという状況に甘んじているのはたしかだ。けれど花垣自身がそれについて、そして九井について深く言及したことはこの半月、一度もない。九井の権力を笠に着て傍若無人に振る舞うことも、おそらく執着にも近いほどの愛を注がれていることを自ら匂わせるようなことも、その愛に縋っている風でもない。
街に出ればどこででも見かけるような、普通の青年、普通の男なのだ。映画などを観ながらよく泣いているが、そこに女々しさを感じるわけでもない。
ゆえに囲われているという状況にあっても、男の矜持はあるのだろう。だからこそ、一般人の彼に話せないこともあると分かっていても、なにも話してもらえないことに一抹の寂しさや歯痒さがあるのかもしれなかった。
半月のあいだに数度、夜更けに花垣の部屋から話し声が聞こえてくることがあった。花垣は夕飯を済ませると自室にこもり、寝るまで本を読んでいるか、映画を観ているか。そのどちらかだ。
冬の夜は冷える。ゆえに、あたたかい飲み物でもと思い、部屋に足を運ぶと扉越しにかすかに声が聞こえてくるのだ。花垣も初日に言っていた。時折、夜に電話をすることがある。そのときに声をかけるな、と。
扉の前で耳を欹てて会話を聞いているわけじゃない。けれど物音などまるでない静かで広い洋館の中。そのかすかな話し声さえ聞こえてしまうのだった。
最近ますます寒くなってきて、俺、軽井沢ってはじめてでこんなに雪が降るなんて思ってませんでした。そっちはどうですか。……そうですか。風邪ひかないようにしてくださいね。ご飯ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。そんなこと言ったって、俺だって好きでこんなところにいるわけじゃないですから。……俺、いつまでここにいればいいんですか。ちがいます、そんなことが言いたいわけじゃなくて。これは俺のわがままじゃないでしょう。そうやって俺の話はなにも聞いてくれない。どうしてですか、俺はただ。
「……そばにいたいだけなのに」
電話が終わったあと、ひとり呟いているのを聞いた。どのような会話を交わしているかまでは分からないが、時折、夜に交わされる電話の終わりはいつもそんな感じだった。そのときの声からも花垣がもどかしさを感じているのが伺い知れる。
危険から遠ざけるためここに花垣をとどめておきたい気持ちとそれをもどかしく思う花垣の気持ちと。ある程度は許容できてもお互いに譲れぬ部分があり、電話をするたびに衝突してしまうのだろう。どちらの気持ちも理解できる。花垣が儘ならない想いを抱いているのは電話口での口調からも明らかで、それでも普段はそんな素振りは感じさせず、穏やかに笑っている姿は健気だとさえ思える。
花垣の部屋から声が聞こえてくる夜はいつも扉を叩くことはせず、そのままキッチンへと折り返す。カップのなかのカフェオレが冷めきってしまったころ、花垣はかならず階下に降りてきた。
黒みがかって透ける紺碧の瞳の表面にうっすらと水の膜の痕を残して、「なにかあたたかい飲み物がほしいんですけど」といつもよりすこしだけ悄然とした声で言うのだ。きっとはじめて自分と彼が出逢ってから、いやおそらくその前からずっと胸に秘めているだろう感情を表面に出すのはそのときだけ。密やかな夜に電話越しに声を聞いて儘ならない想いをぶつけて、儘ならないことに落ち込んで静かなキッチンに降りてくるときだけ。
幼子が親しい友達と喧嘩をしてしまったときのように、ダイニングの端の席にしょんぼりと座り込む姿は実際の年齢よりずっと幼く見えて、彼がどれだけ心許ない想いをしているのか、そのときだけははっきりと見て取れた。
そんな花垣にかけてやれる言葉も、してやれることもない。ただ世話係だ。その関係を逸脱するつもりもない。
ゆえにそんなときはせめて、すこしでも彼を和ませてやれるよう、彼の望み通りあたためなおしたカフェオレを用意してやるのだった。
分かってるんです。俺を心配してるんだってことは。
羽織ったニット編みのブランケットを引きずるようにして庭に出た花垣は、今やほぼ白一色に染まった景色を眺めながら、まっさらな雪原に丁寧に足跡を残してゆくように、ぽつりぽつりと呟いた。
空気さえ凍り付きそうなほどの冷気のなか、普段は部屋にこもって寒い寒いと震えているのに、その横顔は寒さなどすこしも感じさせないもので、呼吸ができていることをたしかめるようにゆっくりと白い息を吐く。
梵天の抗争が激化して、俺が都内にいるのが心配だって言うんです。だからすこしのあいだ、東京をはなれていろって。心配しすぎだとは思うんですけど、それで安心するならいいかなと思って。
クリスマスも年明けもこの洋館で、変わらず花垣とふたりで過ごした。さすがに食事のメニューはいささか豪勢なもので、ケーキやおせちなどが用意されていたが、変わったことといえばそれくらいだ。相変わらずこの洋館に訪れる者はいない。とうぜん、九井もやってこなかったが、花垣はいつも通り、なにごともないように静かに過ごしている。
九井が、成人男性の花垣には誰もが不要だと思うだろう世話係を用意した理由を、このころになると痛いほどに理解するようになっていた。ひとりで過ごすには、この洋館は静かすぎるのだ。花垣は自分の前で、置かれた境遇に対して文句ひとつ言わなかったが、それでも、静かな夜をひとりきりで過ごすにはあまりに寂しい場所だった。
2月の末、間もなく冬は終わろうとしているが、山奥に位置するこの洋館に春が訪れるのはまだすこし先のことになるだろう。
三ヶ月という期間を提示されてはいるものの明確な日にちを指定されたわけではなく、九井にも何度か確認したのだが分かり次第また連絡するの一点張りで、ハッキリとした解答は得られなかった。
いつ終わるのか分からないこの生活が、けれど間もなく終わりを迎えるのだろうということはなんとなく予想がついていた。根拠はないが冬が終われば東京に戻ることになると、漠然とした予感があった。ゆえにすこしだけ気が緩んでしまったのかもしれない。どうしてこんな場所にいるのかと尋ねた言葉に、庭に出ていた花垣はぽつりぽつりと言葉を返した。
「……出ていきたいとは思わないんですか?」
それは彼をこの洋館から、九井の監視下から解き放ってやりたいというような気持ちからではなく、ただ純粋な疑問だった。護衛の数もさほど多くはない。幼い子供ならまだしも成人男性だ。柵に囲まれているわけでもない洋館の敷地から一歩外に出るくらい、さほどむずかしいことではない。たった一日外に遊びに行ったとしても、なにも変わりはしないと思った。
けれど花垣は脱出を試みるどころか、敷地から外に出ようともせず、また、出たいと口にすることもない。自らが置かれた現状にもどかしさや歯痒さを感じているのはたしかなのに、すぐそこにある自由に手を伸ばそうとしない。逃げ出そうとしない。はじめて彼に逢った日、彼は『二階の部屋にいるように言われている』と言っていた。その言葉をずっと守っている。
「……昔から、ちょっと寂しがり屋なとこがあるんですよ」
ゆっくりと言葉を紡ぐ花垣は、今にも雪が降り始めそうな暗く、鈍い色をした重い空を見上げるように首の角度を変える。その横顔はまるで祈りを捧げているようで。
「知ってたのに、ひとりにしちゃったことがあるんです。……すごく後悔しました。きっと傍にいてほしいって思ってたときに、俺は傍にいてあげられなかった」
とうとう落ちてきた雪が音もなく花垣の頬に触れ、体温で溶かされた結晶が雫となって頬を伝い落ちてゆく。ゆらゆらと舞い散るの雪の中で、それでも彼は目を閉じることもなくじっと空を見上げていた。
「だから今度は、それがどんな形でも傍にいようって思ったんです」
まさか、こんなところに連れてこられるとは思わなかったですけど、と空を見上げたまま、かすかに笑う横顔を見ながら、だからこんな場所で、ひとり待っているのか、と思った。
窓際の椅子に座って本を読む最中、ふと窓の外を眺める。緑深い景色しかうつらないことに落胆した素振りも見せず。或いは外に出て、まっしろに染まる景色を背景に静かに佇んでいる。
その姿が、誰かを待っているのは明白で。
「寂しくないですか?」
「……ひとりには慣れないって言ってるんですけどね。まあでも忙しいんだろうし、仕方ないですよ」
普段九井とどのような遣り取りをしているか知るすべなどないが、電話ではわりあいに歯向かうような言葉を口にしていたわりに聞き分けの良い子供のようなことを言う。子供ではないから質が悪いのだと花垣自身も感じているだろう。花垣がほんとうに子供だったのなら、九井の都合など考えず、言いたいことも素直に口にできただろう。子供ではないのに、子供みたいな想いばかりが膨れ上がる。その苦しさは誰にだっておぼえのあるものだ。大人になるということはなにかを捨てるということと同義なのだから。
「外は冷えます。雪が本降りになる前に中に戻りましょう」
灰と白に染まる景色を眺めている花垣に声をかければ、霞のような息を吐いたあと、頭を揺らして頷く。振り返った花垣はいつものように穏やかな眼差しでただ静かに笑っていて、言葉で吐露した執着や寂しさをすこしも感じさせなかった。
冷気で空気が白く霞んで見えるほど、その日は体の芯から冷える日だった。
朝から降り続く雪は日が暮れてもやむことはなく、窓から見える白い景色をさらに白く上塗りしてゆく。暗い闇のなか、館に灯る光を反射してちらちらと瞬く雪は、まるで星のようで、この広く静かな洋館だけが宇宙に放り出されてしまったような錯覚に陥った。
さむい、と言いながらもいつものように窓際の椅子に座って本を読んでは外を眺める花垣にブランケットを羽織らせ、あたたかい飲み物を運ぶ。相変わらずほとんどふたりきりの洋館に人が訪れることはなく、温めた部屋で取り留めのない話をして過ごした。
日中から薄暗かったが、日暮れまではあっという間で、洋館のあちこちに影が落ちると室温が一気に下がったような気がした。実際、日が暮れて気温が下がったのだろう。花垣はさらに寒がって、さすがに窓辺には座っていられないようだった。
花垣の体をあたためるために、彼が好むあたたかいカフェオレを作りながら、夕飯もなにかあたたかいものを作ったほうがいいかもしれないと定期的に運び込まれる食材を確認する。朝食と昼食は用意されたものをふたりで食べたが、デリバリーで暖を取るには無理がある。とはいえ、料理のレパートリーはそう多くない。戸棚や冷蔵庫を確認しながら、作れそうな料理を考えていると、ふいにロビーの扉がひらいた。
この洋館に人が訪れることはほとんどない。訪れたとしても精々、食事が運ばれてくるくらいだ。ロビーから現れたこともあり、花垣が降りてきたのかと思い、ひらいていた戸棚の扉から顔を覗かせ、そちらを確認する。そろそろ食事の時間だから大体このくらいの時間には降りてくるのだ。カフェラテは出来上がっているから、食事を作るあいだ、それを飲ませておくつもりだった。
キッチンからダイニングと、その向こうのロビーを見渡すことができ、花垣が現れるのを待ったのだけれど、視界に移ったのはもう見慣れてしまった癖のある柔らかい黒髪とはまったく異なるものだ。宙をなめらかに撫でるように揺れる白く長い髪。その合間からちらりとこちらを見遣る、蛇を思わせる至極の瞳。
花垣とうまくやってるみてえだな、ご苦労さん、と三ヶ月の月日を感じさせない抑揚のない、落ち着いた低い声がわずかな感慨すら感じさせずに呟いた。
「今日はえらく冷えるな。こんなに降るとは想定外だ。おかげで、ここまでくるのも苦労したぜ」
花垣の世話係としてこの洋館にやってきて、はじめての来訪者は九井であることは予測できた。花垣をこの場所で囲っているのも、自分をこの場所へ送り込んだのも九井だ。彼が自らの足でこの場所を訪うのはいささか意外だったが、花垣を迎えにきたというのなら納得がいく。
「俺にも煎れてくれよ」
「え、」
「珈琲」
「あ、はい」
ダイニングのテーブルにつくでもなく、雪に塗れたコートを脱いで、やはりこちらを一瞥もせずに言ってくる九井に慌てて頷く。花垣を迎えに来たのなら一刻も早く花垣のところへ向かってやればいいのに、と思いながらも幹部相手に出すぎた言葉だということくらいは重々承知しており、口を噤む。
ロビーに敷かれた毛の長い絨毯を踏むような音がかすかに聞こえ、九井が移動したのかと思い、豆を挽きながらちらりとそちらへ視線を遣って目を剥いた。
ダイニングに立っている九井の白い髪と同様に染められた、けれど対照的なほど派手な色をした長い髪。周囲を確認するようにぐるりとあたりを見回し、キッチンで呆然としている自分を視界の端に止め、あからさまに顔を顰めるその口の両脇に、特徴的な傷がある。梵天の構成員である自分がその姿と名を知らないはずもない。
三途春千夜。実質組織のナンバー2である彼もまた、間近で見るのははじめてだった。
自分を見てなにか言いたげに口をひらくが、言葉を発する前になにかに気が付いたように振り返り、廊下のほうへと歩いて行く。豆を挽く手を止め、その姿を呆然と見送った。
九井がこの洋館を、延いては花垣のもとを訪れるのはまだ分かる。花垣を囲っているのが誰なのか、花垣や九井の口からハッキリときいたことはなかったけれど、状況を察するに十中八九、九井なのだろうと思っていた。
花垣の世話をするように言ってきた張本人だ。九井の話をするとき、花垣は時折昔を懐かしむような顔をするから、花垣が以前言っていた傍に居てあげられなかった相手というのは九井のことなのだろうと。
ゆえに九井がこの洋館を訪れるのは理解できるのだけれど、どうして三途まで。直接逢ったこともないのだ。話をしたことなどあるはずもないが、自分も梵天の構成員で、彼がどういった立ち位置であるかくらいは理解している。
6人の幹部の中でも三途はとくにトップである首領の信奉者だ。彼の隣に立つその姿を、遠目から観たことがあった。
再度三途が戻ってきたかと思えば、その背後から現れたおぼえのある姿に息を飲む。綺麗に切り揃えられた白い髪を揺らし、静かに振り返る九井も、慌てて頭を下げる自分も、目の前の三途すら見えていないかのように、なにもない場所へ視線を向けている呂色の双眸。凍えるような外気に晒されたためなのか、肌も雪のように白く、それゆえ、光を撥ねて濡れたように揺れる黒い瞳が印象的だった。
佐野万次郎。自分や花垣とさほど年齢が変わらない、二十代という若さで梵天という日本最大の犯罪組織の首領の座についている。誰かから継いだわけでもない、彼自身が梵天という巨大な組織を築いた。
そんな彼がなぜ、こんな場所に。
頭を下げ、絨毯の敷かれた床を見下ろしながら、三ヶ月前と同様の、けれど比べ物にならない緊張感を感じながら唾を飲み込み、喉を鳴らすことでなんとか耐える。
「ボス、コートを」
「ああ」
声と気配で、佐野の背後に回った三途が佐野のコートを脱がしているのは分かるが、突然の出来事に状況を把握しきれずにいた。
今までほとんど来訪者などなかったこの洋館に、幹部である九井と三途、そして首領である佐野まで訪れるなんて想像すらできなかったことだ。
「誰だコイツ」
低い声が静かに響き、それが自分が属している組織のトップの声であるとそのとき初めて知った。
「花垣がこっちにいるあいだの世話係だよ。素性は調べてある。なまじアイツを知ってる奴より全然知らねえ奴のほうが危険もすくねえだろ。実際うまくやってたみたいだしな」
そのときふいに、階段を降りてくる足音が聞こえた。それが誰の足音かなど、確認せずとも明らかだ。
九井や三途、佐野が訪れていることに気が付いていないのだろう。自分の名前を呼びながらロビーへと向かってくる花垣の声がした。
「今日は寒いから、夕飯はあったかいシチューでも、」
再度ロビーの扉が開く音がして、場違いに明るい声が響いたかと思えば、最後まで言い終わる前に途切れる。九井たちの視線がそちらへ向いたのが分かり、自分も花垣へと視線を向ける。
扉を開けたままの状態で硬直したように固まっているのは、思いもよらない来訪者に彼も驚いているからだろう。
花垣は誰かがやってくるのをずっと待っていた。自分は花垣が待っているのは九井なのだろうとずっと思っていた。
だから九井が迎えにくれば、まずなにより先に九井を見つけ、彼の名を呼んで、まっすぐに九井のもとへ駆けてゆくのだと思っていたのだけれど、穏やかで優しい声が真っ先に呼んだのは予想していた名ではなかった。
「……マイキー君」
静かなロビーにぽつんと落ちるように呟いた花垣の声が誰を呼んだのか、一瞬分からなかった。顔を上げて確認すれば、まっすぐにその人物を見ているのが分かる。それは九井でも、三途でもなく。
信じられないように目を見開き、ぱちぱちと数度瞬いたあと、羽織ったブランケットが肩から落ちるのも構わず、花垣はまっすぐに佐野のもとへ向かっていった。
「元気そうだな。半年ぶりか?」
「……っ」
「なんだよその顔。怒ってんのか? 半年も手放してやったんだ、そのあいだ俺の顔見ずにすんで気が楽、」
「本気で言ってるんですか、そんなこと」
ほとんど同じ高さにある佐野の顔をまるで睨めつけるように見つめ、唸るように言い返す声は普段のそれとはまったく異なるもので心臓のあたりがひやりとする。梵天の首領である佐野が、どれだけ冷酷で苛烈な人物であるかは知っている。そんな佐野の言葉を遮り、剰え反抗的な意思が如実に滲む声で言い返す。
佐野の機嫌を損ねかねない行為だ。現に、そんな花垣の態度に三途は不快そうに顔を歪め、舌を打って、花垣に詰め寄ろうとしている。
けれどそんな三途を制したのは他でもない佐野だった。
「俺をこんなところに閉じ込めて、危険から遠ざけて、監視までつけて……自分は気が向いたときに適当に連絡入れりゃいいんすもんね。気が楽だったのはそっちじゃないんすか?」
「オイ花垣、テメェ誰に向かって、」
「三途。やめろ」
「……アンタから連絡がくるまで、アンタがどうしてるか誰も教えてくれない。知らなくていいことだからって……そんなわけないだろ、アンタのことなのに!」
俯くようにして怒鳴る花垣の声は怒りというより嘆きのようなものだ。肩がかすかに震えているのが分かり、俯いた頬から数滴雫が落ちていった。
「俺がどんな気持ちでいたと思ってるんですか? 無事かどうかも分からない。マイキー君になにかあっても、こんな場所じゃすぐに駆けつけることもできない。俺はなにも知らないまま、こんな場所にひとりで……っ」
「……タケミチ」
「……俺怒ってるんですよ。さすがに今回のは許せねえ。俺の話も、俺の気持ちも全部無視して、勝手なことばっかり。……そのうえ半年も放置して」
「……連絡は入れてただろ」
「連絡入れればいいってもんじゃないでしょう」
予想だにしなかった人物たちの来訪に硬直していた思考が徐々に動き出す。花垣が佐野に詰め寄っている理由は九井に関することだと思ったのだが、それが思い違いだということに気が付いた。
花垣の眼差しも、それを受ける佐野の表情も、三途や九井の態度もそれを現わしている。
両人のことを詳しく知らないとはいえ、花垣と九井が恋仲であると思い込んでいたなんてとんだ節穴だと自身の見る目のなさに途方に暮れるほかない。佐野に詰め寄る花垣を眺める九井の瞳に、それらしい気配は欠片もなかった。
雪を窓に叩き付ける風の音だけが響く静かなロビーに、花垣の声が響く。
「……謝って」
「ッテメェ、ドブ!」
「謝ってください。じゃなきゃぜってえ許さねえから」
梵天の首領相手に啖呵を切るなどどの口が普通の一般人だなどとのたまっていたのだろう。堅気などとは嘘でもいえない自分たちでさえ、考えただけで足が竦んでしまうというのに。
三途はあからさまに顔を顰め、今にも花垣に掴みかかりかねない勢いだが、佐野が制している手前、それを無視するわけにもいかないのか、怒鳴るだけに留まっている。九井はダイニングに佇んだまま傍観に徹しているだけだ。
佐野を睨みつける花垣の迫力は三途の足元にも及ばないものだが、佐野はそれを無視するでも、一蹴するでもなく、じっと花垣を見つめている。かと思えばふいに視線を逸らし、ちいさく息を吐いた。
「……悪かった」
静かな部屋に響いた静かな声が紡いだ言葉は信じられないものだった。日本最大の犯罪組織である梵天の首領である佐野が、あくまでも一般人であるらしい花垣に詰め寄られただけで、素直に謝罪するなんて。
「……そばにいてえって言っただけなのに、わがまま言うなって言った」
「今回のはお前のわがままじゃねえ、俺のわがままだ」
「俺がどれだけ心配したか分かってるんですか?」
「分かってる。お前の気持ち無視して一方的に遠ざけた挙句、半年も放っといて悪かったよ」
「……本当に反省してますか?」
「ああ。だから機嫌直せ」
「………………」
反論することなく素直に頷く佐野に花垣の勢いが削れてゆくのが分かる。佐野を睨みつけていた視線が俯き、脱力するように肩が落ちてゆく。宥めるように低く響いた声が花垣の怒りにとどめを刺したようだった。
「……タケミチ」
白い手が花垣の肩に触れ、緩やかに撫でる。俯いたまま、花垣が一歩足を踏み出したところで、ダイニングにいたはずの九井の体に視界を塞がれた。
「行くぞ」
「え、」
「三途」
九井の体越しに盛大な舌打ちが聞こえたかと思えば、三途がロビーを出て行ったのが分かる。九井に引きずり出されるようにしてロビーを出る直前、佐野の肩に顔を寄せるようにして頭を乗せている花垣の姿が視界の端にうつった。
明かりが灯る廊下はそれでも薄暗く、客室のほうへと歩いて行く三途の後ろ姿が見える。適当な部屋に入って行った三途は荒々しい音を立てて扉を閉じた。
「俺等も今日は一階の客室に泊まって行く。天候次第だが、東京に戻るのは明日だな。ボスに殺されたくねえなら今夜は二階には行くなよ」
「俺、花垣さんはてっきり、九井さんの……」
「は? 俺のなに、……んなわけねえだろ、どんな勘違いしてんだよ」
言わんとしていることをすぐに察したのか、一瞬怪訝そうだった顔がなんとも言い難い表情に変わる。状況的に仕方ねえか、説明もしてなかったしな。呟いて、長く白い髪をかき混ぜるようにして掻き上げた。
「俺のじゃねえ、ボスのだよ。俺が動いてたのはボスから指示があったからだ。抗争が起こってるってだけで、こんな山奥に軟禁なんてお前からしてみりゃ大袈裟だと思うかもしれねえけど」
ロビーの様子を伺いながら腕を組み、壁に背中を預けた九井はゆっくりと話し出した。
「お前、うちのボスが女に靡かねえって話くらいは知ってるだろ」
「まあ……」
「特別気に入ってる女がいるわけでも、友達といえるほど、誰かに心をひらくわけでもねえ。都内に高齢の祖父がいるだけで、他に家族らしい家族もいない。だから女も、友人も家族も、交渉材料になりゃしねえ。そんなボスがたったひとりだけ、執着してる相手がいる」
「……それが花垣さんですか?」
九井は肯定も否定もせず、雪が吹き付ける窓へ視線を向けたまま。強風に煽られ、窓枠がちいさく音を立てた。
「ボスを潰そうとしてる奴等にとっちゃ、花垣の存在はこれでもねえくらいの交渉材料になんだろ。たとえ実害がなかったとしてもな。にもかかわらず、花垣は昔から弱いくせに無茶ばっかりする奴で、頑固で、こうと決めたら聞き分けもねえときたもんだ」
「花垣さんがですか? そんな風には見えませんでしたけど……」
明るく朗らかで、いつも穏やかに笑っていた。九井が言っているように、無茶をするような人物には見えなかったが。
「ボスのためとはいえ、うちに単身で乗り込んできたり、ボスに喧嘩売ったりするような奴だぞ」
まさか、と耳を疑う。梵天に乗り込んでくるどころか、佐野本人に、しかもひとりで喧嘩を売るなんて。けれど先程目交いにした光景が、九井の言葉が真実であることを裏付ける。人は見かけによらないということを重々承知していたつもりでも、突き付けられる真実は衝撃的なものだった。
「花垣は他人のために、なんだってやる奴だ。たとえ自分の身を危険に晒すことになってもな。ただでさえ自分が危険な立場にいるってのに、なにしでかすか分かんねえ。……ボスや俺等の言うこと聞いて大人しくしてる奴だったら、監視つける程度で自由にさせてやっても良かったんだろうけどな」
穏やかな花垣しか知らない自分には想像すらできないが、花垣に苦労させられることがあったのか、わずかに目を細めた九井は、けれどすこしだけ可笑しそうに口端を歪めていた。
「……もう囲っとくしかねえだろ、そんな奴。囲っとけば守ってやれるって思ってんだよ。花垣はそれが気に入らねえみたいで、よくああやって喧嘩してるけどな」
「首領と喧嘩って……よく生きてられますね」
「さっきも言ったけどクソほど弱えからな、花垣」
花垣の腕っぷしを思い出したのか、九井はついに笑い声を上げた。口元に手を当て、可笑しそうに笑っているその姿には花垣を貶すような様子はなく、まるで幼子の喧嘩でも眺めている風だ。そんな九井の姿を実際に目にするまで想像すらできなかったが、可笑しそうに笑ったまま、笑いの滲む声を出す。
ボスと殴り合いにでもなったら死にかねねえってボスも分かってんだろ。さすがに花垣には手出さねえみてえだぜ。まあそうじゃなくても付き合いも長いし、ボスのこといちばん理解してるのも花垣だしな。
「その証拠に、ボスにあんなことが言えて、あんなこと言わせられるのは花垣くらいだ。……ボスがどれだけアイツに入れ込んでるか分かるだろ」
「……花垣さんがそういう人だってことは、なんとなく分かる気がします」
「……そうか。ま、三ヶ月もいっしょにいればな。お前に任せて間違いなかったみてえだな」
「評価されるのは嬉しいですが、それが世話係としての評価だと思うと複雑な気持ちですね」
「俺等にとっちゃ、重要な役割だぜ。花垣の気持ちひとつでボスの機嫌も左右されんだからな」
それまでのどこか穏やかな口調から一変、九井は脅すような声で低く言った。
「もう分かったと思うが、お前も花垣の扱いには充分注意しろ。アイツを危険に晒すような真似すりゃ、ボスの逆鱗に触れるからな」
「……前任者は、それで?」
「……前の奴はえらく花垣を気に入っててな。花垣の情報を敵対する組織に売ろうとした挙句、そうすることで花垣をボスから引き離して自分のものにしようと目論んでたらしい。結局、情報売る前にボスに勘づかれて世話係をクビにされた」
「消されたんですか?」
「いや、まだ生きてるらしいぜ。毎日『もう殺してくれ』って懇願しながらな」
「……………」
予想以上の状況に、返す言葉はなく黙り込むしかなかった。
壁からゆっくり背中をはなした九井の白い手が肩に触れる。お前もそうなりたくなきゃ、馬鹿なことは考えるなよ。それじゃ、俺ももう寝る。昨夜から寝てねえんだわ。三途が暴れても起こすんじゃねえぞ。あとさっきも言ったけど今夜は二階には上がるなよ。
白く長い髪で顔の半分を隠しながら、欠伸の音だけを響かせて暗い廊下を歩いてゆく。九井が立ち去ったあと、どうして良いものか分からずしばらくその場に佇んだままでいたが、ロビーからは物音ひとつ聞こえてこない。花垣のことは気になったが、ロビーの扉をひらく勇気はなく、しばらくしてから部屋に戻る。自室として使用している客室へと戻って間もなく、扉の向こうで二階へと上がってゆく二人分の足音がかすかに響いた。
窓から見える雪景色は朝の陽射しを撥ね、眩暈がするほど煌き、微睡の残る眼球の奥が鈍く痛む。身支度を整え、部屋を出れば、不機嫌そうに部屋から出てきた九井と出くわした。着替えは済ませ、身支度は整えているものの、寝不足気味なのか顔色は余り良くない。
眠れなかったんですか。いつものことだ、眠りが浅いほうでな。昨夜は風が強かっただろ。睡眠薬ありますけど。効かねえからいらねえ、眠れやしねえのに思考だけが鈍くなりやがる。難儀ですね。可哀想だと思うならホットミルクでも作ってくれ。分かりました。本気にすんな、冗談だよ。珈琲でいい。昨夜飲みそびれたしな。
キッチンへ向かって歩いているとゆっくりと階段を降りてくる足音が聞こえ、廊下を歩く自分たちの後ろから花垣が現れた。
「おはようございます」
「おはようございます、花垣さん」
「早いな、昼頃まで起きてこれねえと思ってたけど。昨夜は半年分、ボスに甘やかしてもらったんじゃねえの?」
「やめてくださいよ……ココ君だって聞きたくないでしょ」
「ま、聞きたくはねえな」
ダイニングで話をしている2人を後目にキッチンへと向かい、3人分の珈琲を煎れ、花垣のカフェラテを作る。早朝、キッチンの窓から見える景色を眺めながら珈琲を煎れる時間をわりあいに気に入っていたけれど、おそらくこの時間も今日で最後になるのだろう。
「マイキー君、もうすこし寝かせてあげたいんですけど」
「いいんじゃね。三途もまだ起きてこねえし。ここにいるあいだくらいは俺もゆっくりしてえわ。東京戻ったら寝る暇もねえだろうしな」
「そうですね。ていうか、マイキー君のことちゃんと寝かせてくれってお願いしたじゃないですか。隈もできてたし、顔色最悪だったんですけど」
「お前がいねえと寝ねえし、飯食えって言っても食わねえんだよ。つうかボスもガキじゃねえんだから、ぶっ倒れる前にテメェでなんとかするするだろ」
「倒れないから寝ないし食べないんですよ、あの人」
「『あの人』な……最近マジで嫁染みてきたな、花垣」
九井としばらく言い合った花垣は珈琲とカフェオレを携えて部屋へ戻って行った。
つい先ほどまで姦しかったのに、花垣がロビーを出て行った途端静かになる。朝陽の差し込むダイニングに九井が新聞を広げる音だけが響いていた。
「九井さん、朝食は」
「俺、朝は食わねえ主義。三途も低血圧でいらねえと思うから、お前もゆっくりしてろ」
「……首領に朝食を用意しておいたほうがいいんでしょうか」
「昼まで降りてこねえんじゃねえ? 最近寝てなかったし、久々だったから昨夜は遅くまで盛り上がっただろうしな」
「………………」
下衆な、と思わないでもないが、九井はなんでもない顔をして珈琲を飲んでいる。
……花垣さん、元気そうでしたけど。打たれ強いやつだからな。それ、理由になってますか。耐久力が高いんだろ、体力はからきしだけどな。いや、アイツの場合、高いのは回復力か。とにかく、朝飯は花垣かボスに言われたときに用意すればいい。
自分の分だけ朝食の支度をして、ダイニングで食す。向かいに九井が座っているとはいえ、この洋館に来てからひとりで食事を摂るのははじめてだった。
やはりこの日は東京に戻る予定らしく、荷物をまとめておけと言われた。そう言われても荷物らしい荷物などとくにない。衣服くらいだ。その衣服もこの洋館に来たときに用意されたものを着ていたから、自前のものといったら着て来たスーツくらいだった。
安っぽいスーツに腕を通し、荷物らしい荷物もなくダイニングに戻る。本を読んでいる九井を話し相手にするわけにもいかずひとり暇を持て余していると、再度花垣がダイニングへとやってくる。運ばれたカップはどちらも空になっていた。
「……首領、起きたんですか?」
「まだ眠そうにしてましたけど。呼んできましょうか?」
「いや、用があるわけではないので。……驚きました」
「ん?」
「花垣さんが首領と、そういう関係だったなんて。てっきり、九井さんに囲われているんだと思ってました」
「……それ、マイキー君の前で言っちゃダメですよ。多分、めちゃくちゃ機嫌悪くなるんで」
「……首領のことそう呼ぶ人、はじめて見ましたよ」
「、マイキー君?」
「はい」
「そっか……まあ名前で呼ぶこともありますけど、やっぱりマイキー君はマイキー君なんで」
「良いよな、お前は。機嫌悪くなるくらいですむんだから。他の奴なら殺されてるよ」
「なんも良くないですよ。機嫌取るの誰だと思ってるんですか」
表情や声色から察するに、彼等が日常的に交わしている会話なのだろう。
「お前も慣れろよ。これからもなんかあったら、お前が花垣の世話することになるんだからな」
「世話係なんて必要ないですって。けど今回は助かりました。ひとりだと退屈すぎて死んでたかも」
「まあこんな山奥じゃ、やることもないですしね。……花垣さんのお世話をさせて頂けて光栄でした」
花垣に向かって頭を下げれば驚いたように目を見開いたあと、胸元に両手を掲げる。やめてくださいよ、俺の怠惰な生活に付き合わせちゃうことになって悪いなって思ってるんですから、と言って朗らかに笑う花垣の声や表情はいつものように穏やかだった。
昼がすこし過ぎたころ、身支度を整えた三途と佐野がロビーへと降りてきた。自分達に比べて花垣は私物も多かったようだけれど、いずれにせよすべて佐野が手配したものには変わりなく、佐野の指示で荷物は後程東京の住まいに戻し、今回は花垣だけを連れ帰るようだった。
「三ヶ月、ほんとにありがとうございました」
佐野に促され、停車した車に乗り込む直前、こちらを向いた花垣が深く頭を下げる。ふわふわと揺れる黒く柔らかな髪は初日よりすこし伸びている。
三ヶ月、ともに暮らした相手だ。思うことがないと言ったら嘘になるが、引き留めるいわれはない。
「またなにかあったときは、よろしくお願いします。まあ、そんなことがないように祈りますけど」
花垣からも佐野からも見えやしないだろうに、咎めるように背後の車に乗り込んだ佐野へとちらと視線を向ける花垣に苦笑する。はじめから佐野と花垣が並んでいるのを目交いにしていたら、九井かも、などという見当違いな考えは浮かびもしなかっただろう。
「ヘドロ! ボスを待たせてんじゃねえよ!」
「挨拶くらいさせてくださいよ」
「うるせえ! 挨拶よりボスを優先しろ!」
「分かってますって。じゃあ、俺はこれで」
「はい。お元気で」
軽く握手をして横目で車のほうへ視線を向ければ、後部座席に座った佐野がこちらを見ていて、はじめて視線が合った。なんの感情も感じない渦巻くような呂色の瞳。じっとこちらを見つめる瞳に頭蓋の中まで見透かされているようで、首の付け根が虫が這ったように疼き、肺が圧迫され、血液が冷えてゆくような感覚に陥る。蛇に睨まれた蛙というのはこういう気分なのかもしれないと思いながら喉を鳴らしたとき、冷たい呂色にわずかに温度が滲んだ。
「眠いなら車の中で寝てていいですよ。着いたら起こすんで」
車へと振り返り、乗り込む前に車外から佐野の様子を伺う花垣の言葉に佐野は緩やかに瞬く。それがどのような返事を示していたのか自分にはまるで分からなかったが、花垣には伝わっていたようで、まだ隈消えてないんで俺としては寝れるときに寝てほしいんですけど、とため息交じりに呟き、花垣はそのまま佐野の隣に乗り込んだ。
車のドアが閉ざされ、陰るガラス越しに花垣が佐野の顔を覗き込んでいるのがうっすらと見える。花垣の手が佐野の目元にかすかに触れ、大きな呂色の瞳がわずかに細められる。その笑顔はかすかなものだったが、佐野が笑っているところを見るのなんてはじめてで、その隣では花垣が子供のようなあどけない笑みを浮かべている。その横顔に昨日まで浮かんでいた寂しさはなりを潜めたようだった。
車が走り出し、三ヶ月過ごした洋館の敷地を出てゆく。去り際、ガラス越しに手を振った花垣に頭を下げて見送れば、三ヶ月という月日の名残を感じさせる暇もなく、佐野と花垣を乗せた車はあっという間に見えなくなってしまった。
九井に呼ばれ、自らも帰りの車に乗り込む。運転席に座っている見覚えのある運転手はやはり九井の部下であったらしく、九井となにやら話をしている。その話し声は決してちいさくはないが、どちらも落ち着いた声で耳に障ることはなく、座り心地の良いシートに体を預けながらふたりの声を聞くでもなく耳を傾ける。
窓の外を見遣れば昨夜の雪のせいで景色は白一色に染まっており、深緑の風景を思い出すために目を閉じる。
まなうらにいちばんに浮かんだのは三ヶ月、毎日のように見ていた穏やかなものではなく、佐野の隣で子供のように笑う花垣の姿だった。
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