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いずれ花開く種をまいて





 恋愛の主導権を握っているのは、普段の力関係も相俟ってどちらかといえば佐野のほうだが、キスを仕掛けるわりあいは五分五分、どちらも似たようなものだ。佐野は交際をはじめる前から、たとえ相手が花垣でなくとも親しい間柄であればスキンシップは厭わない質で、手を繋いだのはつきあう前だったし、はじめてキスをしたのもつきあうのとほぼ同時だった。はじめのころはただ口唇を合わせるだけでも異様に気恥ずかしく、いちいち恥ずかしがっていたのだけれど、回数を重ねればさすがに慣れてくる。重ねるだけだったキスもふたりきりになれば濃度が増すのは必然的なことで、深くなっていくキスにも次第に慣れてきた。

 佐野はいつもいいにおいがして、あたたかくて、触れる口唇は柔らかく、心地良い。甘い舌が水気をともなって舌先に絡んでくる感覚は恋人を相手にするには充分なほど誘惑を孕み、溢れる唾液や響く水音も相俟って、佐野とのキスは花垣をいつもうっとりと夢心地にさせた。

 両肩に手のひらを添えるように乗せれば腰を抱いていた手に体を引き寄せられ、すでに密着していた体の距離がさらに縮まる。鼻に慣れた佐野の甘いにおいをまたすこしだけ近く感じて、柔らかな髪に頬を寄せるようにキスをすれば、長い前髪を揺らして顔を上げた佐野はかすかに笑いながら首の角度を傾けた。

 キスをするとき、いちばんはじめに、ちいさくリップ音を響かせるのは自分たちの癖のようなもので、それでキスが終わることもあれば、深くなってゆくこともある。大体が後者だ。表面だけを軽く触れ合わせるようにキスをしたあと、今度は口唇の形を重ね合わせるように、すこしだけ深く、長く。擦れ合う鼻先や、長い睫毛が瞼を擽る感触。長い前髪が頬に触れる感触を楽しみながら、薄く口をひらけば、肉厚な舌が遠慮なく潜り込んでくる。

 生温かい舌先を舐め、そうやって応える舌を弄ぶように絡め取られる。肉厚な舌で口内を探られる感触は心地良く、首筋が強張るのと同時に体からわずかに力が抜ける。

 そうやってキスをしているあいだ、かすかに笑むように漏れる佐野の吐息のような低い声や夕暮れを彷彿とさせる甘いにおい、あたたかな手の温度、柔らかい髪の感触、うっすらとひらいた視界に映る柔く歪む呂色の瞳に浸りながら、花垣はいつも無意識に舌で探る感触があった。

 綺麗に並ぶ歯牙の一角、上の奥歯のすこし手前。ほんのすこしずつ温度を上げてゆく、柔らかく濡れた口内をまさぐる舌先にかすかに引っかかるような感触がある。他の歯に比べてすこしだけちいさくいびつで、なめらかな歯牙のなかでかすかではあるが唯一刻刻とした感触を感じるその場所を、舌先でゆるやかに撫でるように何度も舐める。

 佐野とキスをして、その口内に舌を差し入れた際に必ず舌先でその場所を愛でる行為はそれでも完全に無意識で、佐野に指摘されるまで花垣は自身のその行為を自覚すらしていなかった。

「……タケミっち、またやってる」

 ひと際奥に入り込んできた舌が花垣の口内をひと舐めしたあと抜けていき、どちらのものか分からない唾液でわずかに口唇を濡らした佐野が口端を舐めながら笑う。もうすっかり慣れてしまった、けれど幾度繰り返しても夢心地にさせるキスに夢中になっていたせいで、はじめは佐野の言葉がなんのことを指しているのか分からなかった。けれどすぐに理解し、口に手を当てる。

「すいません……つい、」

「べつに謝んなくていいけど。そんなに気持ち良い?」

「いや、その、気持ち良いっていうか……」

 腰に両腕をまわし、胸元に顔をうずめるように顎を添え、見上げてくる佐野の首に腕を回すようにして、長い前髪を無意識に指先で退ける。

 キスの最中、花垣には無意識にやってしまう癖のようなものがあって、それを時折こうやって佐野に指摘される。意識してやっていることではないのだけれど、舌先に憶えのある感触が触れるとついそこを弄ってしまうのだ。綺麗に並んだ歯牙のなかで、わずかにへこみ、刻刻とした感触を感じるそれが、ほとんど永久歯に生え変わった佐野の、唯一残っている乳歯の感触だということを、はじめて佐野に指摘されたときに知った。

 その単語が佐野の口から紡がれたことがなんだか随分かわいらしく、にゅうし、と繰り返した花垣の言葉に、佐野は軽く頷いたあと、口端に指を引っかけるようにして口をひらいた。

「俺まだ乳歯残ってんだよね」

 あ、とかすかな声を上げながらひらかれた口の中を躊躇ないながらも覗き込む。どれだけ佐野の無防備な姿を眼前に晒されたとしても、彼を傷つけるつもりなど毛頭ないが、警戒を微塵も感じさせない佐野を前にすると逆にこちらが怯んでしまう。東京最大の暴走族の総長である彼にこんなことをさせているなんて、他の隊員に知られたら制裁をくだされてしまうんじゃないかという妄想が体を竦ませるのかもしれない。たとえ自分がそんな佐野に悪意を抱き、襲いかかったとしても、即座に抑え込まれてしまうだろうけれど。

「……右の奥んとこですか?」

「そう、それ。いっつもそこ触るよね、舌で」

 言われて初めて自身の癖を知った。不快により指摘してくるのかと思ったが、佐野にそんな様子はなく、単に思ったことを口に出しただけらしい。自分でも気付いていなかったことを指摘されたことによる気恥ずかしさもあったため、そのときは気を付けようと思ったのだけれど、いざキスをするときになると忘れて同じことを繰り返してしまう。佐野の舌に舌の表面を舐められながら、舌先でわずかに感じる感触を弄るのが、やけに気持ち良いのだ。

 綺麗に並ぶ生え揃った永久歯のなかに残された乳歯のそのあどけなさに、佐野の隙を見つけたような気がして嬉しくなるのもあるが、単純に感触が良い。さりさりと舌の先端を柔らかく刺激する。肉厚で柔らかく、ぬめりをともなった舌と同時に味わうのが好きだった。

「なんか、癖になるんすよね」

「ふうん。タケミっち、乳歯残ってねえの?」

「はい。俺もう全部生え変わったんで」

「タケミっちのくせに生意気」

「そんなこと言われても……俺等の年だと、残ってるほうが珍しくないですか? 大体14歳くらいで全部永久歯に生え変わるって聞いたことありますよ。まあマイキー君の年齢で1本くらい残ってても、変なことじゃないと思いますけど」

 既に話題に飽きているのか、胸元に頬を当て欠伸をしている佐野を見下ろす。まるで膝の上で遠慮なく微睡む猫のようだ。

「眠いんですか?」

「……まだやることあるから寝ねえし」

 服の裾から入り込み、背骨をなぞるようにゆっくりと上半身の中央あたりまで上がってくる指と手の感触に、伸びをするように背を反らす。同時に首筋に走るぞくりとした感触に浅く息を吐き、反射的に胸元の佐野を見下ろせば、先程まで微睡んでいたはずの呂色の瞳がわずかな熱を孕んで笑っている。

 やること、と等閑な口振りが佐野らしかった。

「、……」

 鼻先を擦り合わせるように重なってくる口唇に薄く口をひらき、潜り込んでくる舌に応える。服の裾から入り込んでくる手のひらが体を撫でる感触に、鼻にかかった甘い吐息を抑えることができない。ぬろ、と口内で動く舌をくわえながら、舌先でまた無意識に心地良い感触をまさぐったが、次第に意識は肌を這う手のほうに奪われてゆき、その場に組み敷かれるころにはもう舌先の感触を愉しむ余裕はなくなっていた。



 その日もいつものように佐野の部屋を訪う約束をしていて、約束通りやってきた佐野の部屋で他愛ない会話を交わしていた。

 すこし前に交際をはじめたころからふたりで逢う頻度は上がり、それにともない佐野の部屋を訪れる回数も増えた。佐野が花垣の家に遊びにくることもあるのだけれど、やはり年頃で、恋人という関係も相俟って、階下に親の気配を感じる花垣の家より、庭とはいえ母屋から自立している佐野の部屋のほうが過ごしやすいということもあり、佐野の部屋で逢うことのほうが断然多い。

 花垣がいまだ慣れないという理由で、セックスはそう頻繁ではないとはいえ、そばにいれば触れたくなるのは必然的なものだ。

 佐野の腕に引き寄せられ、かかえられ、密着してキスをする。その最中、親に踏み込まれでもしたら目も当てられない。

 花垣の母親は、息子である花垣や花垣の友人たちとは少々毛色の違う佐野を珍しがり、構いたがる節があり、佐野が遊びにくると用もないのに2階の花垣の自室へ顔を覗かせることが間々あるのだ。佐野との関係において、ある程度腹は括っているとはいえ、親に濡れ場に踏み込まれるという経験は極力避けたい。ゆえに佐野と逢うのは佐野の部屋がほとんだった。

 佐野と花垣の性格や性質は決して似ているとは言えないのだけれど、だからこそなのか恋人になる以前より相性は良く、恋人となった今でも交際はおおむね順調だと言える。些細な言い合いがないとはいわないが喧嘩はさほど多くないし、仲も良いほうだと思う。恋人同士だ。雰囲気やムードなどを敢えて拵えずとも、ふたりきりでそばにいれば相手に触れたくなるのは自然なことだ。冗談混じりに体を抱き寄せる腕に笑い声を上げて、戯れのようにキスをする。流れでそのまま体を重ねることもあれば、ただくっついているだけのこともある。

 雑誌を読みつつ、話をしていた佐野が動いたのを視界の端にとらえて間もなく、ふと顔を上げればすぐそばに佐野がいて、いつものように腹に腕を回され、抱き寄せられた。

「急にくっつかれるとびっくりするじゃないすか」

「笑ってんじゃん」

「だってくすぐったいんですもん」

 長い髪の毛先や柔らかい口唇が首の付け根のあたりを撫で、その感触に首を竦める。淡い色をした髪やなめらかな肌からいいにおいがする。ほのかに漂う香水の人工的な香りのなかに感じる、鼻に慣れた佐野のにおいだ。佐野が纏っている香水の香りも佐野に似合っていて好きだけれど、それ以上に佐野自身のにおいが好きだ。いいにおいがする、といつも無意識に口にしてしまうことを言いながらすんと鼻を鳴らせば、マジで犬みてえ、と耳元で低く笑う声がした。

「世話とか面倒だけど、タケミっちが犬になったら飼ってやってもいいよ」

「いや、動物の世話面倒がんないでくださいよ」

「鳴いてみて」

「話聞いてます?」

「いいから鳴けって」

「……ワン」

 首に腕をまわすようにして顔を近づけて笑っている佐野の言葉に押され一声鳴けば、目の前の顔が吹きだすようにほころんだ。

「……かわいいやつ」

「ひでえ。俺ペット扱いすか?」

 なにがそんなに可笑しいのか知れないが、首に腕を回したまま俯き、声を震わせながらくつくつと肩を揺らして笑う佐野に不満を訴えるため眉を寄せるが、佐野はそのあともしばらくひとりで笑い続けていた。

 一頻り笑ったあと、ようやく落ち着いたのか俯いていた視線が花垣を見遣る。美しい呂色の瞳が、まるでなにか、どうしようもなく大切なものを見つめるように優しく歪んでいて、その柔らかさに不満をかかえていたことを忘れてしまうほど絆されてしまう。ポーズだけでもとむっとした顔をして見せるが、それが佐野に通用したことなど一度もなく、まるで手遊びでもするように頬を摘ままれるだけだった。

「俺、お前となら一生遊んでられるかも」

「……俺『と』じゃなくて、俺『で』でしょう」

「なんだよタケミっち、犬扱いされて拗ねてんの? だってタケミっちマジで犬っぽいんだもん。拗ねんなって、な?」

 機嫌を取るようなことを言いながらも、その声には相も変わらず楽しげな笑いが滲んでいる。鼻先で鼻先を撫でられ、目の前でゆるやかに瞬く瞳を縁取る睫毛が瞼に触れる。そっとくすぐるようなその感触に反射的に目を閉じれば、口唇に柔らかな感触が一瞬触れ、ちゅ、とちいさなリップ音がかすかに響いた。

 ゆっくりと目を開ければ、花垣を見遣る瞳と視線が合う。その瞳がゆるやかに歪むのを見るといつもたまらない気持ちになる。

 密着してくる体に腕をまわし、再度目を閉じる。口唇に触れる柔らかな感触を味わいながら、口を薄くひらき、差し込まれた舌をやわく食んだ。

「あ、ちょっと待てタケミっち。ストップ」

「、え?」

 ふいに舌が抜けていったかと思えば、手のひらで軽く口元を抑えられ、顔を押し返される。突然だったためなぜキスを中断されたのか分からず、わずかに体をはなした佐野を見れば佐野は口を結び、自身の口元にも手のひらを当てた。

「どうしたんすか? 口内炎でもできたんですか?」

 腕っぷしは弱いが、花垣も喧嘩をすることはすくなくない。殴られた弾みで口端や口唇が傷付いてしまうこともあり、その状態でキスをする際、ちいさいが鋭い痛みが走り、体が硬直してしまうことも間々ある。それにより、キスを中断した経験もあった。だが相手は佐野だ。乱闘の最中、拳を食らう頻度は低く、見た目にも口元に傷があるようには見えない。それならば口内炎でもでき、舌が触れると痛むのだろうか、と思い尋ねてみるが、佐野は首を振ってそれを否定した。

「しばらくべろちゅーできねえ。つうかしねえ」

「マイキー君がそう言うなら無理にとは……けど、なんか理由があるんすか?」

「抜けそうなんだよね、乳歯」

「へ?」

「ぐらぐらしてんの、今。べろちゅーするとき、タケミっち絶対そこいじるじゃん。さすがに抜けかけの歯抉られっと痛えから」

 だから抜けるまでべろちゅーしねえ、と自身の舌先で乳歯に触れて揺れ具合を確認しているのか、佐野は口を閉じて頬を揺らしている。幼い子供のようなその姿をどこか呆然と見ながら、佐野が痛みを訴えるなんて珍しいなとそんな場違いなことが思考の隅に浮かんだ。

「多分もうすぐ抜けると思うから、それまでべろちゅー我慢して」

「それはいいんですけど……乳歯、抜けちゃうんすね」

「……なにその残念そうな顔。タケミっち、マジで俺の乳歯好きだよね」

「いや、好きとかじゃ……嫌いとかでもないっすけど」

 あの佐野に乳歯が残っているなんて、すこしかわいいなと思っていたから、などと口に出すわけにはいかず口ごもる。

 乳歯は虫歯になりやすいと聞く。その歯が抜けて、永久歯が生え揃うのなら喜ばしいことではあるが、舌先に感じる独特の感触とその愛らしさを思うと若干の惜しさは否めない。佐野の残った乳歯の位置はわりあいに奥まった場所に生えているから目立ちはしないが、薄く形良い口唇に指を当て、皮膚の上から歯列をなぞるようにして口端、頬の手前あたりまで乳歯の位置を探るように指を動かす。場所のあたりを付けて柔らかな皮膚をそっと押してみれば、たしかにかたい歯牙が揺れる感触がした。

「丈夫な歯が生えてくるといいですね」

「言ってることとやってること違くねえ? むずむずするから押さえんのやめろ」

 皮膚越しに感じる歯牙から指をはなし、ちいさな顎の輪郭を撫でて頬へと手を這わせる。両手で頬を挟み、性質とは裏腹に人形のような顔を見下ろせば、作り物めいた大きな瞳がゆっくりと瞬いた。

 室内の明かりを撥ねる黒い瞳が瞬きをするたび、まるでちいさな光が明滅するようだと思う。覗き込んだ瞳には、同様にじっとその瞳を見下ろす自分の顔が映り込んでいた。

「なに」

「マイキー君、目おっきいですよね」

「タケミっちのほうがでかいと思うけど」

 共通点はある。けれど造りはまったく違う、童顔の気がある顔。自分の顔とはまったく異なるものだからだろうか。彼に惹かれた理由はその容姿ではなかったけれど、彼の容貌にどうしようもなく目が惹かれるのも事実だ。口をひらかず黙り込んでいるとき、静かに前を見据えているとき、わずかに瞼を伏せているとき。まるで描かれた絵画のように均整の取れた顔は、けれど表情豊かで、その顔が様々な表情を浮かべるたびにまるで作り物が息を吹き返したようだと思う。そしてそれは自惚れではなく、自分の腕の中ではより顕著だ。眼差しひとつですら、雄弁に彼の感情を訴えてくる。

 人体のパーツをコレクションするなどといった猟奇的な嗜好はないが、もし彼の体の一部を自分の手元に置いておけるとしたら、花垣は間違いなくその眼球を選ぶだろう。彼の感情を如実にうつし、明滅するような光を宿す美しい呂色の瞳。

 きっと、一生愛でていられると思った。

「……タケミっちがどうしてもって言うんだったら、ちょっとだけならいいよ」

 なにが、と聞き返す前に、いつの間にか至近距離まで顔を近づけていた顔がさらに距離を縮めてくる。それと同時に口唇に柔らかな感触が触れて、わずかにはなれた口唇から、ちゅ、とかすかなリップ音が漏れた。

 柔らかな口唇と、咄嗟に伏せた瞼をくすぐる睫毛の感触。鼻に慣れたにおいの心地良さにうっすらと目をひらき、たったそれだけの感覚に与えられる恍惚にうっとりと目を細める。

 ……どうしても。

 口唇を触れ合わせたまま、声に出さずに囁けば佐野がかすかに笑ったのが分かった。

「…、ん……」

 何度か触れ合うだけのキスをしたあと、口唇で口唇を食まれ、応えるように口を薄くひらく。上口唇をちらりと掠める舌は蛇のそれを思わせ、反射的に顎が揺れた。生温かく肉厚な感触は明らかな意思を持っていて、口唇や舌を舐めながら巧みに花垣を煽ってくる。たまらずその口唇に吸い付けば、ちゅう、と音が漏れて、わずかな羞恥とどうしようもない高揚を感じた。

 差し込まれる舌先を舌先で舐めたあと、くわえ込むようにすこしだけ大きく口をひらく。食事という行為を、生まれてから数え切れないほど繰り返しているというのに、その舌をくわえ込むたび、今までに味わったことのない食感だと思うのはなぜだろう。口の中いっぱいに入り込んでくるのに歯を立てるのを憚られるためなのか、それとも意思を持って動き回るせいなのか。

 歯列や粘膜を優しく撫でるように舐められて、背筋がぞくぞくと戦慄く。唾液が溢れ、注がれ、ぬるぬるとぬめりをともなっていただけの感覚が、次第にふんだんに水気を含む濡れた感触に変わってゆく。同時にお互いの口内に響く音も、ただ触れ合う音というより粘着を帯びた水分を掻き混ぜているような音に変わっていった。

「んぅ……ふ、ぁ…」

 佐野の首に両腕をまわし、ちいさな頭を腕の中にかかえながら、口内を好き勝手動く舌に夢中になって舌を絡める。一度中断されてしまったが、先程までその気になりかけていた体が熱をぶり返すのに時間はかからなかった。

 舌を嬲り合うこの行為を最早キスと呼んで良いものか分からず、佐野の舌先から落ちてくる唾液を舌を伸ばして受け止める。舌を舐められ、粘膜をくすぐられ、差し出される舌を舐めて、注がれる唾液を飲み下す。だらしない顔を彼の眼前に晒し、ゆるりとひらかれた呂色の瞳に見られていると分かっていても、唾液を飲み下すたびに下肢に熱が蟠っていくようでやめることができない。薄い皮に覆われただけの口唇、かたい歯牙、熱をもつ粘膜、濡れた舌。混じり合った唾液が通り過ぎてゆく喉奥すらぞくぞくとした感覚を生み、無意識に腰を揺らして身悶える。

 佐野とキスをするようになるまで、口の中が性感帯になるなどということが実際に起こりうるなんて知らなかった。

「…っぁ、いき、く…ぁ、んン……」

 腰を抱く佐野の指のうちの何本かがボトムのウエストから入り込み、かすかに皮膚を撫でる感触すら如実に感じ取ってしまう。もう片手は既に服の中に入り込み、舌の動きと合わせるようにねっとりと背中を撫で上げる。花垣の手とさほど大きさの変わらない、けれど花垣の手よりずっとかたい手はいつもすこしだけ乾いているけれど、汗の滲み始めた背中に触れているからなのか、それともその手のひら自体が汗ばんでいるからなのかは分からないが、じとりと心地良い湿り気を帯びていた。

 背中を撫でる手のひらが上に上がってくるにつれ、着込んだシャツの裾が捲り上げられ、肌が空気に晒されているのが分かる。胸元あたりまで捲り上げられた際、蟠った衣服の裾が胸を掠め、かすかなその感触に体がびくりと震えた。

「…ぅ、ア…っ」

 行為の最中、散々弄られ、嬲られたそこは、男であるにもかかわらず些細な刺激ですら感じるようになってしまい、衣服が擦れただけでも甘い快感を生んで思わず声を上げる。普段はそんなことはなく、日常生活に支障が出るようなことはない。衣服が擦れる程度のことはもちろん、なにかが触れたとしても、逐一びくつくこともない。けれど佐野が関与するとなると話はべつだ。今みたいに衣服が擦れるだけで感じてしまうし、たとえ直接触れられずとも、ただ見られているだけでも触れられることを期待して、ふくりと膨れて芯を持つ。

 今だってまだ触れられてもいないのに、衣服を捲り上げられる前から既にかたく突起し、佐野の手に触れられることを待ちわびていた。

 背中を撫でていた手が前に回され、腰を抱いていた手も胸へと上がってくる。捲り上げられた衣服の裾から入り込むかたい手のひらに直に胸を撫でられて、あ、と咄嗟に声が出たが、肉厚な舌に絡めとられ、封じられてしまった。

「んぅ、ぅ、ぁ……っ」

 すり、と胸をさするように撫でる手が時折乳首を掠めていって、そのたびにぢくぢくした甘い痺れが全身に走り、下肢に熱が収束してゆく。かたい手のひらがただ撫でていくだけでも気持ち良く、その快感に甘えるように佐野の頭を抱き寄せ、濃厚なキスを続ける。お互いの口はどちらのものか分からない唾液でもうぐっしょりと濡れてしまっているけれど、それを拭う余裕など、すくなくとも花垣にはない。口内に注がれる唾液がもうどうしようもなく甘く、注がれれば注がれるだけ飲み下す。

 そうやって佐野の手に体を撫でられ、キスに夢中になっていたから、彼の口内をまさぐる舌が揺れる乳歯をいつものようにいじっていることに気が付かなかった。

「……っ、ん……」

 一瞬、佐野の喉奥で声が漏れたことが分かる。ほのかに甘さを帯びた吐息のような声が耳に心地良く、濡れたキスに一層溺れてしまう。ぢゅ、と音を立てて唾液を啜りながら、舌先に触れる感触を無意識に弄ぶ。

 いつものように舌に引っかかるさりさりとした感触もさることながら、舌の動き似合わせて軋むように揺れる感触が心地良い。

「…、タケミっち」

「…んん、……」

 名前を呼ぶためなのかわずかにはなれた口唇を追って、また口内に舌を差し入れる。舌先が真っ先に触れたのはやはり心地良いあの感触で、それを見つけたことに満足して思う存分かたい歯牙を舐めまわした。

「っ、だからいてえって」

 ふいに佐野が声を上げたかと思えば、首根っこを掴んで思いきり引き剥がされる。なにが起こったのか分からず、口元を濡らしたままきょとんと瞬けば、眉間に皺を寄せた佐野の瞳と目が合った。

 珍しく眉を寄せて花垣を見遣る佐野の表情を見て、また無意識に佐野の乳歯をいじってしまっていたことに気が付く。咄嗟に謝れば佐野は眉を寄せたまま、「やっぱ禁止」と幼い子供のような声で言った。

「抜けるまでべろちゅーしねえ。いてえからぐりぐりすんなつったのに」

「ほ、ほんとにすみません。つい無意識にやっちゃって」

「無意識なの分かってるからべつにいいけど、もう抜けるまでべろちゅー禁止」

「はい……」

 無意識とはいえ、佐野が嫌がることをしてしまったのだから、当然といえる結果だろう。キス自体は乳歯が抜けるまで我慢すれば良いことなのでさほど哀しくはないが、あの感触を味わうことはもう二度とないのだと思うと、やはり名残惜しさは否めなかった。

 ちらりと佐野へと視線を向ければ、歯の揺れ具合を確認するように口元に手を当てている。そういえば、最近たまに見かけた光景だ。やはりすこし前から抜ける気配はあったのだろう。

 佐野を怒らせてしまったかもしれず、今日はここまでだろう、と彼の体から退こうとしたとき、腰に回された腕につかまった。

「どこ行くんだよ」

「え? いや、今日はもう終わりかなって……」

「べろちゅーしねえって言っただけじゃん。ヤらねえとは言ってねえ」

「けど、してたらキスしたくなっちゃうんで……」

「んじゃ後ろ向け。後ろからだったらキスしなくて済むだろ」

「っな、マイキー君、ヤれればそれでいいんですか? そんなん嫌っすよ、体目当てみたいじゃないすか!」

「は? つうかお前こそキスできなきゃヤんねえってなんだよ。俺の歯目当てか」

「そんなもの目当てにしないっすよ! もういいです、今日はもう終わり!」

「終わりじゃねえよ、ヤるつってんだろ」

「ヤんねえって!」

「ヤんの!」

 腰を抱く腕から逃れようと試みるも、腕の力は強く、ギリギリと腰をきつく締め付けてくる。強引なことはあるが、佐野に無理矢理組み敷かれたことはなく、佐野自身、普段から性欲を持て余しているほど性欲が強いわけでもない。ゆえに佐野が花垣を引き留めるのはどうしてもセックスがしたいからではなく、花垣が反抗したことが気に食わないからだろう。佐野はどうすれば花垣が陥落するか熟知していて、それが力尽くでないことも理解している。彼がもし本気で続きをしたいと思っているなら、こんな力業には出ないだろう。

「俺の体目当てだったとかあんまりっす!」

「体目当てにできるほど大したことねえだろお前!」

「た、大したことねえ!? 人の体好き勝手しといてそんな風に思ってたんすか!?」

「べつに良くねえとは言ってねえ!」

「マイキー君がそんな男だったなんてガッカリっすよ!」

「はあ? 勝手にガッカリしてんじゃねえ!」

「いいから今日はもうヤんねえって!」

「うるせえ、ヤんの!」

 佐野の膝の上から床に倒れ込み、体をギリギリと締め付ける腕から逃れるため床についた腕に力を込めて同じように床に倒れ込んだ佐野の腕から這い出ようとするが、力の差は歴然で体は前に進むどころかすこしも動かない。腹にまわった腕に手をかけ、外そうと試みるも結果は同じだ。

「力で俺に勝てるわけねえだろ!」

「はなしてください!」

「いいから大人しくしてろ!」

「こんなん強姦といっしょっすよ!」

「どうせ気持ち良くなんだろが!」

「さ、さいてい!」

 腰に回った腕に体を抱え上げられそうになり、それを防ぐために床に敷かれたラグに掴めば、置かれていたソファがずれ、がたがたと音を立てる。ラグの上に置いていた空になったカップも倒れ、ころりと所在なさげに床に転がった。



 佐野の乳歯が抜けたのは、そんな喧嘩どころか軽い諍いともいえない戯れが発生した数日後のことだった。その乳歯が抜け落ちる瞬間には立ち会えなかったが、おそらく抜けた直後に「抜けた」と一言だけのメールが写真付きで送られてきた。抜けた歯だけを見せられるとさすがに些かグロテスクだなと思いつつ、「お祝いしないとですね」と冗談めかして返信したが、それに返事は返ってこなかった。

「お祝いってはじめて歯が抜けたときにするんじゃねえの?」

 それからさらに数日後。いつものように訪れていた佐野の部屋で言われた言葉に首を傾げる。言われてみればそうだったような気もする。はじめて歯が抜けたのはもうずっと前のことで、祝ってもらったかどうか、余りよく憶えていない。

 花垣が訪れてからすぐに庭に出た佐野は、手の中に握っていたティッシュを広げる。乳歯、とはじめに言われていたからそれに包まれていたのが佐野の抜けた乳歯であることは分かっていた。

「俺にくれるんすか?」

「いやなんでだよ。つうか人の歯もらっても嬉しかねえだろ」

「けど子供の歯とか取ってる人いますよね。乳歯ケースとかあるらしいし」

「……欲しいの? 俺の歯」

「いや……まあ、くれるって言うんならもらいますけど」

「やらん」

 短く言って、佐野は庭を歩いていく。午前のまだいくらか清々しさを残した空気が漂う広い庭を、穏やかな陽射しが照らしていた。

「前にじいちゃんと真一郎が、乳歯が抜けたときはこうやるんだって教えてくれたんだよね」

 そう言って佐野は持っていた乳歯を家の床下へと放り投げる。佐野の手からはなれたちいさな骨の欠片のような白い歯はやがて床下の影に飲み込まれ見えなくなってしまった。

「下の歯が抜けたら屋根の上に、上の歯が抜けたときは床下に投げるんだって。次に生えてくる歯を、ちゃんとその方向に導いてくれるようにって願いを込めるんだってさ」

「昔からあるおまじないみたいなもんすよね」

「昔、下の歯が抜けたときに真一郎といっしょに屋根に投げたんだ。そん時おまじないなんか信じてんのかよって思ったんだけど、真一郎は願うことが大事なんだって言ってた。こういうのってひとりではやらねえじゃん、乳歯が抜けんのって大体子供のころだし」

「そっすね。俺も父親と屋根に投げたことあります」

「うん。だからさ、自分の健やかな成長を願ってくれる人がいるんだって、そう思えるだけでいいんだって」

 そう言って、そのときのことを思い出しているのか、屋根の上を見上げるように佐野は顔を上げる。その横顔はすこし寂しそうだったけれど、呂色の瞳は柔らかく歪んでいた。

 彼が、数年前に亡くなってしまった兄のことをどれだけ大事に思っているかは知っていて、その横顔にかける言葉を見つけられない。ゆえに黙って見つめていたら、ふいに佐野がこちらを向いた。

「タケミっち、願ってくれる? ……真一郎みたいにさ」

 優しく笑う顔はそれでもやはり寂しさは拭えず、それゆえどこか大人びて見える。けれど同時に幼い子供のようにも見えて、哀しくはないのになぜだかすこしだけ泣きたくなった。

「……もちろんです」

 笑って頷けば、佐野も嬉しそうに笑う。その顔にもう寂しさは感じられず、先程佐野が乳歯を投げた床下を二人並んで見下ろす。

 床下の影に飲まれてもう見えなくなってしまったけれど、いずれ生えてくる永久歯が丈夫な歯であるように。延いては、彼が健やかであるように。

 そんな願いを込めて、目を閉じ、ついでにそっと手を合わせれば、「縁起でもねえからそれはやめろ」と軽く頭を叩かれた。









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