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いつくしみの欠片

  • sick0826
  • 2022年8月16日
  • 読了時間: 36分

更新日:2022年10月5日





 普段通りのことを、普段通りの手順で行ったはずだった。

 裏で行われる競りに必要な商品を用意して、依頼主に引き渡す。その場で商品の状態を簡単に説明をしたのち、商品の質に応じた報酬が振り込まれたのを確認して立ち去る。とうぜん、真っ当な仕事ではないが、その分報酬は真っ当な仕事で得られるそれとは桁が違う。

 所謂闇オークションと呼ばれる競りに出される商品は様々だが、今回の商品は主に人間だった。性別は問わず、若ければ若いほど高値で売れるが、健康であれば年齢は関係ない。健康な内臓というのは高く売れるし、世の中には存外物好きが少なくない。男でも女でも、子供でも成人でも、生きている人間というのは高額で売れるものなのだ。或いは、生きていなくとも。

 ともかく、いつも通り依頼された商品をいつも通り入手し、いつも通り手配した。数点の商品を引き渡したのち、いつも通りその場で報酬が振り込まれるのを待っていたが、そこで足止めを食らった。

 なにか不手際があっただろうかと考えるが、別段イレギュラーは発生していない。この国は治安が良いと言われているが、それは他国と比較した場合のことであり、完全に安全な場所などどこにもない。そのおかげで、多少の危険を犯すだけで表のルートでは決して流通することのない商品を手配することができる。借金漬けになった者、そういった者から借金代わりに売られた者、帰る場所のない者、或いは、自ら帰る場所を捨てた少年少女。武装、というと大袈裟かも知れないが、身を守る術を持たずに足を踏み入れてはいけないと危険視される場所へ何も知らず足を踏み入れてしまう間抜けも、多くはないが皆無でもない。

 この国は確かに他国に比べれば治安は良いだろう。治安が良い場所は、という前提がつくだけで。

 今回手配した商品もそのような者達ばかりで、特に問題はなかったはずだ。手順もいつも通り。提示された期限内に提示された人数を用意し、引き渡し場所も引き渡し時間も、引き渡すまでの段取りもいつも通り行われた。

 だとするなら報酬を振り込む段階で、何かトラブルが発生したのかもしれない、と考えたが、その可能性も薄い。既に幾度か取引を行ったことがあり、金払いも悪くない。なにせあの『梵天』だ。日本最大といわれるほどの巨大な犯罪組織である。

 ―――或いは。

 と、俗的な下心が浮かんだのは、一旦帰らされるかもという予想に反し、別の部屋へと案内された時だった。

 もう幾度か取引を行っている。相手が相手ということもあり、質には注意しているし、絶えず依頼がくるということはそういった面も買われ、相手側からの信頼もある程度は得ているということだろう。

 もっと大きな仕事が回ってくるかもしれない。あわよくば、信頼できる人間として梵天の幹部の懐にでも入り込み、相応の地位に昇り詰めることもできるかも。

 まさか、と思いながらも膨れ上がれる淡い期待は、別の部屋へ案内するために前を歩いていた男が梵天の幹部だと名乗ったとき、一気に色濃いものへと変わった。

「さっきアンタと取引を行ってた担当者から連絡を貰ってな。いつも質の良い商品を卸してくれてるらしいな。おかげでうちも儲けさせてもらってる」

「そ、そりゃ、梵天相手に生半可な商品卸すわけにはいかないっすから」

 異国風の服を纏い、白く長い髪を揺らした男はわずかに振り返り、蛇を思わせる目を少しだけ細くして笑った。

「……だからまあ正直、失くすには惜しいんだが」

「え?」

 小さく呟かれた言葉を聞き取ることができず、反射的に聞き返す。だが、幹部らしいその男はそれ以上何も言わず、そうこうしている内に目的の部屋へと到着してしまった。

 わりあいに重厚な木製の扉を軽くノックしたあと、男はこちらを振り返り、蛇のような瞳を再度細くする。

「ここだ、入れ」

「あ、はい。し、失礼します」

 普段通りのことを、普段通りの手順で行ったはずだった。

 普段と違い、なぜこんな奥まった部屋に案内されたのか正直分からなかったが、笑っているようで笑っていない蛇のような瞳が逃走は不可能だと告げている。

 ごくり、と鳴った喉の音がやけに大きく聞こえ、それを誤魔化すようにドアノブを握り、扉を開けた。

「よく聞け。―――曰く、」

 背後で、先程の男が低い声で囁く。それはどこか笑みを含んでいるようで、背筋が凍るような心地だった。

「首領からのお言葉だ」

 冗談を口にするような声色で囁いた男の言葉を聞きながら、扉の先に広がっていた光景に目を瞠り、硬直する。

 部屋には木製の、繊細な造りをしたデスクと数人掛けのソファ。物らしい物はそれだけしかなかった。そして数人の男がいた。

 派手な髪の色をした男が数人。そのうちひとりは両の口端に特徴的な傷跡がある。黒髪の男もひとりいたが、此方から見て右の額から蟀谷にかけて大きな傷跡がある。

 そして、木製のデスクには小柄な男がひとり、座っている。綺麗に切りそろえられた白い髪から、渦巻くような淀んだ呂色の瞳がじっとこちらを見つめていた。

「なんでお前等がいんだよ」

「面白そうだから見にきた」

「兄貴が『面白そうだから見に行く』って言うからついてきた」

 ソファに腰かけて愉しげに笑っているのは兄弟だろうか。顔がよく似ている。背後でため息を吐いた男の言葉など意にも介さず、にやにやと笑ってこちらを見ているが、彼等の会話に意識を向けている余裕はなかった。

 正面のデスクに腰かけ、微動だにせずこちらを見ている小柄な男。それが誰であるかなんて、確認せずとも明らかだ。

 ほとんど表には出てこないが、梵天と取引がある者でなくとも、界隈で彼を知らぬ者などいないだろう。

 彼こそが日本最大と言われる犯罪組織『梵天』の首領、佐野万次郎だ。

 瞬きを忘れたかのようにじっとこちらを見つめる瞳は底を知らぬほど昏く、ただ視線を向けられているだけにもかかわらず勝手に体が震え、動悸と冷や汗が止まらない。梵天の首領である彼がどれだけ苛烈で冷酷な男であるかは知られている話だ。

 幹部であると名乗った男と対等に言葉を交わしていることや、それを見て呆れた表情や不機嫌そうな表情を浮かべているのを見るに、この部屋にいる人間は皆幹部クラスの連中なのだろう。

 梵天の幹部が揃っているだけに留まらず、首領まで。

 仕事の依頼、などという話ではないことは明らかだった。今まで取引を重ねてきた功績を評価する場でないこともまた。

 イレギュラーは発生していないはずだ。なぜ、どうして、こんなことに。

 震えや冷や汗、動悸が止まらず、混乱する頭でそんなことを思ったとき、ソファに座っていた年長らしい男が口端に笑みを浮かべたまま、愉しげな声を上げた。

「運が悪かったなあ」

 歌うように紡がれた言葉に反射的にそちらへ視線を向ける。ソファの脇には、案内人の男が立っている。

「商品はいつも通りどれも質の良いもので、取引にはなんの問題もなかった。10代の女がふたり、10代の男と20代の女がひとりずつ、20代の男がひとり。どれも健康状態の良い男女が計5名。こちらが依頼した期日内に、依頼通りの人数だ。引き渡し時にトラブルもなかった。報酬を釣りあげてくるようなナメた真似をしてきたわけでもねえし、サツに嗅ぎ付かれるような危険を犯したわけでもない。お前に落ち度はなかった」

「でも、残念なことに運もなかったんだよな」

 兄弟の弟らしい方が、やはり愉しげに笑う。取引に落ち度がなく、けれど運がなかった、とは一体どういう意味だ。

 状況が理解できずに後退る。いつの間にか閉め切られていた扉に虚しく背中がぶつかった。

「お前が商品として連れてきた奴等の中に、首領の所有物が混ざってたんだよ」

「は、? え? しょ、所有物……?」

「そう。普段滅多に外に出さねえで手元でだーいじに可愛がってんのに、珍しく外に出したと思ったら護衛とはぐれて迷子になっちまってさあ。半狂乱になって捜索してるときに、オークションの商品として入荷されたってわけ」

「まあ見つかって良かったけどな。見つからなかったらお前ボスに殺されてたかもしれねえもんなあ、鶴蝶」

「ガキじゃねえんだ、まさかはぐれると思わねえだろ」

「ベラベラベラベラ余計なこと喋ってんじゃねえよ! 特に蘭。テメェ、マイキーにナメた口聞いてんじゃねえ、殺すぞ」

「ボスにはなんも言ってねえじゃん。可哀想なソイツに説明してやってるだけ」

「つーかお前が兄貴殺すとかウケんだけど。勝てたことねえじゃん」

「勝負ついてねえってだけだろ。いつまでたっても兄貴にくっついてるコバンザメは黙ってろや」

「あ? コバンザメはお前だろ。いつまでマイキーの後ろにくっついてんだよ」 「上等じゃねえか、そのクラゲみてえな頭刈ってやっから表出ろコラ!」 「刈られんのは中身と同じでパッパラパーな色したテメェの頭だろ!」

 佐野の脇に立っていた男が盛大に舌を打つと同時に、ソファに座っていた兄弟の弟が立ち上がる。一気に騒々しく、剣呑な雰囲気になった室内は、けれど一瞬で静かになった。

「お前等うるせえよ」

 低い声はさして大きなものでもなかったのに、その一声で騒々しかった室内が水を打ったように静まり返る。佐野の脇に立っていた男や黒髪の男だけではなく、ソファに座っていた兄弟の表情もわずかに雰囲気が変わる。それだけ彼等にとっても佐野の存在感が大きいということだ。

「……今、蘭が説明した通りだ。お前に落ち度があったわけじゃねえが、お前が商品としてうちに持ち込んだやつの中に、首領のオン……、オトコ……? まあ、関係者が混ざってたってわけだ。そうなった以上、こっちとしても黙って帰すわけにはいかねえんだよ」

「そ、そんな! 知らなかったんすよ! 嘘じゃない! 梵天の、それも首領の関係者だって知ってたら手出すわけないじゃないですか!」

 現状で比較的話が通じそうな案内人の男に駆け寄り、縋りつく。数日前に拉致し、この日梵天に商品として納品した人間の中に、まさかその梵天の、しかも首領の関係者が混ざっているとは思わなかった。男たちの話を聞く限り、そして滅多に表に出てこない首領が自らこの場にいるのを見るに、その人物は佐野にとって余程重要な人物なのだろう。

 混乱する頭でこの日梵天に納品した商品を思い返してみる。派手な見た目をした生意気な女と、見た目は地味だが帰る場所などないと嘯いていた女。ギャンブルに溺れた親に生活費とギャンブル代の足しとして売られた未成年の男。ろくでもない男に騙され、借金代わりに差し出された女。恐らくホームレスの類なのだろう、荷物らしい荷物も持たず、夜の路地裏に膝を抱えて座り込んでいた冴えない男。

 どれも梵天の首領とかかわりがあるような人間には思えなかった。それなのに。

「本当なんです! 信じてください! さ、佐野さんと関わりがある人間がいるなんて知らなかったんですよお!」

 案内人の衣服から手を話し、デスクに座っている佐野の足に縋りつく。梵天の、それも首領の関係者である人間を拉致し、闇オークションの商品として扱っていたことが、佐野本人に知られてしまったのだ。たとえ意図的に行ったことではなかったとはいえ、どのような報復が待っているかなど、想像するまでもない。

 苛烈で冷酷。人伝に佐野の噂を聞くことはあったが、人とは思えないその所業が決して誇張されたものではないと本人を目の前にして痛いほどに理解した。温度の感じられない、底のない闇のような瞳。彼を一目見たその時から、殺される、というとてつもない恐怖が消えてなくならない。その恐怖は一瞬も、撓むことなく。

「汚え手でマイキーに触ってんじゃねえよ!」

「うぐ…っ」

 佐野の脇に立っていた男に蹴り飛ばされ、その弾みで佐野の足から手を離してしまう。蹴られた箇所が痛み、痛みによって碌に呼吸ができなかったが、それでもその場に悠長に寝転がっていられるはずもなく、床に額を擦り付けるように体勢を低くする。

「ゆ、許してください! 本当に知らなかった、知らなかったんです……ッ!」

「お前の言葉を信じてねえわけじゃねえよ。知ってたらうちに納品するなんて馬鹿な真似はしねえだろうしな」

「だが『知らなかった』が通じる世界じゃねえことくらい、お前も分かってるだろ」

 案内人の男と、兄弟の兄の声が続けざまに聞こえる。同時にかちかちとどこからか不快な音がすると思ったら、自分の歯牙が噛み合う音だった。

 懇願するような気持ちで顔を上げれば、こちらを見下ろす温度のない呂色の瞳と目が合う。こちらを見ているのに、どこを見ているのか分からない、まるで掴みどころのない眼差しだった。

「よく聞け。首領からのお言葉だ」

 先程、部屋を入る時に案内人が口にした言葉を同じ言葉を、佐野の脇に立った男が口にする。

 その低い声が呟く言葉を、絶望的な思いで聞いていた。






*****





 声の限り叫び、力の限り暴れていたからだろう。

 唐突に注射された、恐らく鎮静剤の類であろう薬が切れたときには、見知らぬ部屋に転がされていた。

 周囲に人の気配はなく、同じように監禁されていた者や見張りらしき者たちはどこに行ったのだろうと周囲を見渡すが、それで彼等の行方が分かるわけもない。打たれた薬は筋弛緩剤の類も含まれていたのか、体には未だ力が入らず、視界も思考も覚束ない。軽い眩暈や頭痛はあるが、だからと言って大人しく寝ている場合ではない。

 芋虫のように床の上を蠢きながらなんとか体勢を変え、四肢を拘束している手枷と足枷を外してみようと試みる。大声を出してやろうと思ったが、捕まった端から絶叫していたせいか、意識が明瞭になった時には口枷を嵌められており、声を出すことはかなわなかった。

「うー…っ! んんーッ!」

 試しに声を上げてはみたもののくぐもった音にしかならず、たとえ部屋の外を誰かが通ったとしても気付いてもらえる可能性は低い。

 逃げなきゃ、と思う気持ちと同様に込み上げるのは、どうしよう、という焦燥と、佐野の顔と、幼馴染であり、滅多にない外出の機会に花垣の護衛をしてくれていた鶴蝶の顔だ。

 花垣が鶴蝶とはぐれたのは、とうぜん、意図したことではなかった。久し振りの外出に浮かれて、あっちにふらふら、こっちにふらふらと歩き回っていたら、隣に立っていたはずの鶴蝶がいつの間にかいなくなっていた。

 どこ行ったんだカクちゃん、とその時は思ったが、恐らくどこかへ行ったのは自分の方だったのだろう。鶴蝶からしてみても、そして恐らく佐野からしてみても。

 携帯端末の類は普段から所持することを許されておらず、買い物なども欲しいものを佐野の部下や九井達に伝えれば手配してもらえるため、佐野といっしょに暮らし始めてからは財布も所持していない。はぐれた場所は都内であったが、帰るべき場所である佐野のいる場所からは距離がある場所だった。徒歩で帰れないわけではないが、時間がかかる。そのうえ、はぐれた時点で既に夜になっていて、どこかで一夜を明かすにしても携帯端末も所持金も持たない身では適当なホテルに泊まることもできない。

 仕方なしに、人通りの少ない場所で夜を明かそうと暗い路地裏に座り込んだ。そして気が付いたら見知らぬ場所に監禁されていた。

 路地裏で眠り込んでいたところを拉致されたのだと分かるまで時間はかからなかった。見張りらしき男たちの会話から、所謂闇オークションの商品として売られそうになっていると知り、逃げ出すために声の限りに叫び、力の限りに暴れた。

 そのたびに殴られたり、抑え込まれたりしたが、商品に傷が付くことを良しとしなかったのだろう。薬を打たれるようになった。

 薬が切れたら叫び、また薬で沈静化させられ、切れたら暴れる。それを数日繰り返した。

 そして今に至る、というわけだ。気が付いたら、いつもとは別の部屋に転がされていた。薬で意識がぼんやりしていたが、車に乗せられたことはなんとなく憶えている。

 既にオークションに出品されてしまったのだろうか。まさか、臓器や体の部位目的の者、もしくはどこぞの物好きで変態な金持ちに落札されてしまったのでは、と考えてゾッとする。

 しかし、それにしては扱いが雑だが。

 絶えず両手と両足を動かし、拘束を外そうと試みるが金属製の拘束が外れる気配はまったくない。ガチャガチャと虚しく響く音に虚無感を煽られ、拘束を外すのを諦めて項垂れるほかなかった。

 マイキー君、心配してるだろうな、と佐野の顔が脳裏を過ると同時にまた、鶴蝶の顔も脳裏を過り、泣きそうなる。

 どうしよう。カクちゃん、殺されちゃうかも。

 花垣に対してはいつも優しい幼馴染のことを思って、じわ、と涙が滲んだときだった。

 ものすごい音を立てて部屋の扉が開き、暗い室内に光が差し込む。

 突然の物音に大袈裟なほどに体が跳ね、慌ててそちらに視線を向ければ、逆光でハッキリとは見えなかったが誰かが立っているのが分かる。

 助けが来たのか。それとも、臓器目当てか、はたまた、変態ジジイか。

 不安や期待、その他様々な思考が一気に駆け巡る中、チィッ、と盛大に響く、聞き慣れた舌打ちが聞こえた。

「クソドブが!」

 不機嫌ここに極まれり、といった声色で吐き捨てられたと同時に、ものすごい勢いでなにかを投げつけられ、わりあいに鋭い痛みを伴って投げつけられた何かが頬にぶつかる。拘束された両手で頬を摩りながら床を見れば、恐らく拘束具を開錠するものだろう、小さな鍵が転がっていた。

「余計な手間増やしてんじゃねえよドブ! 死ね!」

 第一声を聞くまでもなく、舌打ちの時点で分かっていたが現れたのは三途だ。床に座り込む花垣の元まで足音を立ててやってきたかと思えば、腿を、多分、思いっきり蹴りつけられて、反射的に拘束された両腕で脛を殴りつけた。

「ン…ッ! んんっ、んーッ!」

「っ、てえな! ヘドロの分際で反撃してんじゃねえよ!」

 そのまま力任せに髪を掴まれるが、頭を大きく揺らして腹に頭突きする。そうやって三途と揉み合っていると、部屋の入口から九井の呆れたような声が聞こえた。

「そのへんにしとかねえと、お前等どっちもボスに殺されるぜ」

 息を吐きつつ部屋に入って来た九井は、花垣の手から鍵を抜き取り、拘束を外してくれた。

 ようやく自由になった四肢を動かし、楽に呼吸ができるようになった口で深くため息を吐く。状況や経緯はよく分からないが、三途と九井が此処にいるということは助かったのだろう。

 聞くに耐えない暴言を喚き散らし、最後に花垣の肩を殴りつけた三途はさっさと部屋を出て行ってしまった。

「何しに来たんだ……」

「ボスに言われて仕方なく、だろ。けど、あとで一応アイツにも礼言っとけよ。首領命令ってのもあるが、行方が分からなくなったお前を探してて、ここ数日あんまり寝てねえみてえだし」

「そうなんすね。……本当にすみません。俺、また迷惑かけちゃって」

「ああ、俺にはそういうの、いいから」

「ココ君……」

 口枷で切れた口端、拘束具の痕が残る手首、注射痕が目立つ首筋等。花垣の状態を確認して眉を寄せながらも、その声は普段と比べるといくらか柔らかだ。そんな九井の優しさに涙が滲みそうになったが、聞こえてきた言葉に滲みかけた涙は引っ込んでいった。

「ボス、相当キレてたからな。そういうのはボスに取っとけ」

「えっ」

「しかしすげえよな。感情が死んでるとしか思えねえボスをあそこまでキレさせるの、お前くらいだろ。ボスも人間だったんだって思い知らされるぜ」

「人間ですよ! つ、つうか、マイキー君……怒ってました……?」

 たしかに以前と比べると感情の起伏は感じられないが、それでもいっしょに暮らしている花垣からしてみれば充分に感情を感じられる。それはともかく、佐野は怒っているのだろうか。花垣にとっても不本意且つ不可抗力であるが、行方を眩ませた挙句、闇オークションに出品されそうになっていたのだ。心配をかけただろう。怒らせてしまっても仕方のないことだとは思うけれど。

 相変わらず花垣の状態を確認している九井に恐る恐る尋ねれば、九井は一瞬黙り込んだあと、かすかに口端を上げ、息を吐くように笑った。

「まあ、お前だけってわけじゃねえんだろうけど。それより花垣、お前、薬打たれてるな」

「あ、はい。鎮静剤の類だとは思うんすけど」

「気分は? どっか痛えとこあるか?」

「若干眩暈と吐き気と、あとちょっと頭痛するくらいっす。でもどれも大したものじゃないっすよ」

「そうか。状況が状況だから今すぐ家に帰して休ませてやりてえけど、その前にやってもらいたいことがあるんだ。いいか?」

「やってもらいたいこと? 俺にっすか? 俺は大丈夫っすけど……」

 部屋の入口まで向かい手招くように振り返る九井の後を追う。九井から頼まれごととは珍しい。時折佐野に関する頼み事はされるため、今回もそういったことだろうか。

 見上げた九井の横顔はどこかげんなりとしていて、疲労の色が見て取れた。

「この通路、右に曲がって突き当りの部屋にボスがいるから、止めてくれ」

「止める? 何をですか?」

「……鶴蝶、殺すのを」

 その言葉を聞くと同時に、九井に言われた部屋目指して駆け出した。背後から「薬抜けきってねえんだから、無茶はするなよ」と声が聞こえたが、気にしている場合ではない。

 未だ薬でふらつく足がつんのめって転びそうになる。壁に当たったりしてなんとか体勢を整えつつ部屋まで辿り着き、蹴破るようにして扉を開いた。

「マイキー君!」

 部屋に飛び込んだ瞬間視界に飛び込んできたのは、鶴蝶の額へ銃口を向けている佐野の姿だった。

 扉から転がり込むようにして佐野の元へ走り、凶行を止めようと体当たりする。花垣としては佐野の体にタックルをして鶴蝶から距離を取らせるつもりだったのだが、突進した体はびくともしない。相変わらず人間離れした体幹だ。

「カクちゃんは悪くねえ! 俺が悪いんだ、離れるなって言われてたのにふらふらしてる間に見失っちゃったんだから!」

「タケミチ……」

「連絡手段も金もなくて、一晩くらい野宿しても大丈夫だろうってそのへんで寝たんだけど、気が付いたら監禁されたんです! 監禁されてるってことはマイキー君が迎えに来てくれたのかなって思ったんすけど、なんか様子が変だってことに気が付いて、しかもオークションに出品されるって話を聞いちゃったんすよ! 最初は空耳かと思ったんすけどどうやら事実らしくって、なんとか逃げ出さなきゃって思って大声出したり暴れたりしたんですけど全然逃げ出せなくて! このまま臓器取られるか変態ジジイの玩具にされるんだと思って絶望したんですけど、なんかよく分かんねえけど気が付いたら三途君がいたんです! ね!? ほら! 俺は助かったし、カクちゃんはなんも悪くないんです! だから殺さないで! 俺が、俺が悪かったんです!」

「……よく分かってんじゃねえか」

 佐野を止めるために腕を回した体を、ぎゅう、と抱き締めながら鶴蝶の無罪を叫んでいたら、ふいに頭上から低い声がして顔を上げる。脇から「花垣おもしれー」という声が聞こえてきてはじめて、佐野と鶴蝶の他に灰谷兄弟と三途がいることに気が付いた。

 が、見下ろしてくる佐野の視線が他の者に意識を遣る余裕など与えてくれるはずもなく。

 鶴蝶の額から銃口を下ろした佐野は、静かに花垣を見下ろしている。その視線の圧は息が止まってしまうほどに重苦しく圧し掛かった。

「鶴蝶から離れるなって言ったよな」

「う」

「絶対離れねえって言うから外出してやったのに、はぐれた挙句拉致されるってナメてんのか。ガキでも守れるような言いつけも守れねえのかお前。死にてえの?」

「そんなこと言ったって、誘拐は不可抗力、」

「そうならねえように護衛つけたんだよ。言い訳してんじゃねえ、悪いのはお前なんだろうが」

「い、いややっぱり、俺も悪くない! はず!」

「あ?」

「よ、よく考えたらこのあたりでオークションが開催されるとして、取り仕切ってるのは梵天以外には考えられないっすよ! マイキー君だって、今回のオークションのこと知ってたんでしょう!?」

「だったらなんだよ。お前が鶴蝶とはぐれる理由には、」

「ほら、マイキー君たちが悪いことしてるからじゃん! だから俺がカクちゃんとはぐれて誘拐されたのも、元はといえば梵天のせい…!」

「言ってくれるねえ」

「ガキの言い訳じゃん」

「ちょっと黙っててくださいよ!」

 野次を飛ばしてくる灰谷兄弟たちに叫ぶも、彼等が花垣の言葉を聞き入れるはずもない。脇からは呪詛を呟く三途の低い声が響き、鶴蝶でさえ困ったような顔をしている。

 佐野の怒りを回避しようと言葉を紡いでいたはずなのに、なぜか佐野を怒らせるようなことを叫んでいる。それを理解していたが混乱が混乱を呼び、自分が何を言っているのかよく分からなかった。

「俺が誘拐されたのはこのへんの治安が悪いからであって、決して俺のせいじゃな、……ッ!」

 声の限り叫んだところでハッと我に返る。恐る恐る顔を上げれば、じっとこちらを見つめる佐野の瞳と目が合った。

「……そうだな」

「まっ、マイキーく、」

「たまには外に出してやってもいいと思ったが、そんな治安が悪い場所で外に出すわけにはいかねえよな」

 低い声で静かに言う佐野のその口から次に出てくる言葉など、想像に容易かった。

 だらだらと嫌な汗が伝っていく。聞きたくない。聞きたくないと思うが、佐野の口を封じるような真似が、花垣にできるわけもなく。 「……外出禁止だ」

 低い声が紡いだ予想通りの言葉に、絶望的な気分になった。

「うそ! うそうそ! ちょっとした冗談ですって! 梵天のせいなんて思ってないですよ、やだなあマイキー君ってば! 本気にしないでくださいよ!」

 佐野の肩を掴んで説得するが、その瞳に外出禁止を撤回する意思がないことは一目瞭然だ。

「うそだよね!? 出してくれるよね!? 今回も外出して良いって言ってくれたし! マイキー君は優しいからなあ!」

「…………………」

「ねえ、マイキー君! 良いよね!?」

「外出禁止だ」

「そ、そんな……」

 佐野の声は頑としたもので、花垣をからかっている様子はない。

 監禁に近い生活は窮屈で退屈だと思うこともあるけれど、佐野と共に生きていくことを決めてから逃げ出したいと思ったことなどない。佐野もそれは分かっていると思うけれど、様々な事情が重なって花垣が家の外に出ることを佐野は余り良しとしない。たまに外に出ることはあっても、それは佐野が同行することが絶対条件だ。けれど佐野は多忙で、その頻度は高くないし、たとえいっしょに外出できたとしても、やはり外をゆっくり歩く時間はない。立場的にも呑気に往来を闊歩するわけにはいかないだろう。ゆえに、しばらくの間、碌に外出させてもらえなかったけれど、最近少しずつ譲歩してくれるようになった。

 九井が『お前くらいだ』と言っていたが、佐野が他と比べて花垣に甘いと、花垣にだって自覚はある。確かに昔と比べると変わってしまったと思うこともあるけれど、根本的な部分は変わっていないと花垣は思う。

 昔から花垣に優しい人だった。いつも大事にしてくれて、大切だと思ってくれていた。

 今でもそれは変わらず、花垣の言い分を大抵は聞いてくれようとする。欲しいと伝えたものは用意してくれるし、早く帰ってきてほしいといえば可能な限り早めに帰宅する。いっしょにいたいといえばいっしょにいてくれるし、恋人としての欲求もすべてかなえてくれる。

 そんな生活の中で、佐野が許可した人間―――梵天内の、ごく僅かな人間だ―――以外と連絡を取ること、そして、自由に外出することだけは、どうしても許してもらえなかった。理由は様々あるだろうが、聞くまでもないことなので敢えて尋ねたことはない。

 それらを諦めるというよりは、佐野と共に生きてゆくことを選んだ。そうすることで佐野が安心して隣にいてくれるのならば、それで良いと思った。

 それで良いと思ったが、さすがに家にこもりきりな生活には段々と辟易してくる。たまにでいい。たまにでいいから外に出たい。

 はじめは頑として頷かなかった佐野も、それでも時間をかけて且つしつこく懐柔し、少しずつ譲歩してくれるようになったのだ。

 幹部の中でも花垣と仲が良く、腕の立つ鶴蝶を護衛につける、という条件をつけて佐野が外出を許可してくれたのは、数週間ほど前のことだ。鶴蝶も佐野同様に多忙だが、それでも佐野と比べると時間を作りやすい。

 絶対に鶴蝶から離れるな、と佐野と約束し、先日初めて鶴蝶と外出した。そしてその日に鶴蝶とはぐれ、迷子になった挙句拉致され、闇オークションに出品されかけたというわけだ。

 佐野の言葉にへなへなとその場に座り込めば、「お前が悪い」「諦めろ」とまた野次が飛んでくる。けれど今度は言い返す気にならず、呆然と床を眺めることしかできなかった。

「ま、花垣も運が悪かったな」

「たまにしか外出れねえのに、外に出たその日に誘拐されるって運悪すぎだろ」

「魚の餌にならなかっただけマシだろ。なってりゃ良かったのになあ」

「悪いタケミチ。俺がしっかり見てりゃこんなことにはなんなかったのに」

「……や、カクちゃんは…なんも悪くねえよ……」

「……元気出せ」

 花垣と視線を合わせるように座り込む鶴蝶に呆然と言葉を返せば、憐れむように肩を叩かれる。佐野と鶴蝶のことを花垣に任せ、自分はのんびりと通路を歩いてきたのか、「お、落ち着いたみてえだな」と部屋の入口から九井の声が聞こえた。

「で、この後どうすんだ?」

「……疲れた。今日はもう帰る」

「ああ、それがいいな。医者呼んどくわ」

「医者?」

 九井と佐野が交わす会話を聞きながら鶴蝶の手を借りて立ち上がる。佐野が帰るということはすなわち、花垣も帰宅するということだ。

「ソイツ、薬打たれたらしい。まあ鎮静剤の類だとは思うけどな。服に隠れて見えにくいけど注射痕も残ってる」

 そんな言葉が聞こえたかと思えばふいに強い力で腕を引かれた。首筋を指さす九井が見えたのも束の間、視界はすぐに佐野の顔でいっぱいになる。襟ぐりを掴んで注射痕を確認したらしい佐野は珍しく思いきり眉を寄せていて、不機嫌そうな舌打ちがすぐそこで聞こえた。

「ココ」

「症状は軽い眩暈に吐き気と頭痛。脱力感と倦怠感が残ってるみてえだけど、どれも大したことはなさそうだな。けど薬も抜けてねえし、本調子じゃないみたいだぜ。足元もふらついてる。そんな状態でボス目掛けて走ってくとこはさすがだけどな」

「……なんで黙ってた」

「え? いや、実際大したことないし、マイキー君止めなきゃって必死で」

 言い終わるより先に二度目の舌打ち。掴まれた腕をそのまま引かれ、無理矢理歩かされた。

「車回せ。鶴蝶、分かってんな」

「はい」

「次はねえぞ」

「だからカクちゃんはなんも悪くねえんだって!」

「うるせえ、黙ってろ」

 不機嫌そうな三途、頭を下げる鶴蝶、車を呼んでいるらしい九井とひらひらと手を振る灰谷兄弟に見送られ、部屋を後にする。灰谷兄弟や三途はともかく、鶴蝶や九井にはまだ言いたいことがあったのに、腕を掴む佐野の力はそれを許してはくれない。無言で先を歩く佐野の後に続いてエレベーターに乗り込むが、エレベーターの中でも佐野は無言のまま、ついでに腕も離してくれない。

 エレベーターから降り、エントランス前で待機していた車に乗り込んでからもそれは同様で、さすがに若干の居たたまれなさは拭えなかった。

 しばらくして到着した自宅マンションの地下駐車場で車を降り、腕を引かれるままエレベーターへと向かう。佐野は相変わらず無言のまま、前を歩いている。

「……ま、マイキー君」

「………………」

「ねえ、ちょっと待って。おれ、っわ!」

 前を歩く背中に声をかけた時、ふいに足から力が抜け、前へとつんのめる。元々体に力が入らないうえに、腕を引かれて歩いていたため、倒れてゆく体を咄嗟に支えることができない。

 けれど、すぐに伸びてきた腕が代わりに支えてくれた。

「す、すいません。足に力入んなくて……って、わ、ちょっ、マイキー君!」

 伸びてきた腕が体を支え、ぐい、とそのまま体を起こしてくれたのかと思ったが、直後慣れない浮遊感を感じる。その際、ぐら、と揺れた視界に咄嗟に佐野の肩にしがみついた。

 肩から手を離せば途端に不安定になり、慌てて元の体勢に戻る。足が地につかず、抱き上げられたのだとすぐに分かった。

「ま、マイキー君、おろしてください! 平気ですから!」

「うるせえ」

「で、でも見られたらハズいっすよ」

「専用エレベーターん中で誰に見られんだよ」

「それは……監視カメラとか……」

「大人しくしてろ」

 初めて出逢ったころから佐野も花垣も大して上背は変わらず、お互いの上背の差もほとんどない。再会した時は昔と比べて痩せていた佐野の体も、いっしょに暮らすようになってからはある程度戻ったが、それでも体重は花垣とそう変わらないはずだ。にもかかわらず、花垣を抱き上げる体は少しも揺らぐことはない。そのうえ、片腕で抱いている。昔から小柄な体格に見合わぬ腕力と握力の持ち主だった。

 空いた片手でエレベーターのパネルを操作している佐野の頭にそっと頬を寄せる。鼻に慣れたいいにおいがした。

「……重くないですか?」

「別に。慣れてる」

「慣れっ、……いや、まあ、そうですけど」

 こうやって抱き上げられることは稀ではないにしろそう頻繁でもないが、ベッドで佐野の上に乗り上げることは少なくない。全体重を佐野に預けることも珍しくないため、慣れていると言われれば、そうなのだろうけれど。

 一瞬脳裏を過った光景に一気に顔に熱が集中するが、そっと息を吐いて熱を払う。佐野とはもう幾度も体を重ねていて今更恥じることでもないが、所構わず発情するほど見境なくはないつもりだ。

「……怒ってますか?」

「逆に怒ってねえと思うか?」

「心配かけてすみません。どうにかして逃げ出そうとしたんすけど……薬打たれて、全然動けなくて」

「諦めて大人しくしてれば良かっただろ。そうすりゃ殴られることも、薬使われることもなかったはずだ」

 エレベーターが動き出し、先程とは違う浮遊感を感じる。高層マンションの最上階へと続く直通エレベーターの外はしばらく壁が続いていたが、間もなくガラス張りの壁の向こうに夜の街並みを遠く映した。

「今回は鎮静剤程度で済んだかも知れねえが、薬漬けにされて殺されててもおかしくねえ。灰谷たちは運が悪かったって言ってたが、運が良かっただけだ。お前の諦めの悪さは嫌ってほど理解してるが、お前が諦めずにいたところで世の中どうしようもねえこともあるんだって、いい加減学べよ」

 上昇してゆくエレベーターから、呼吸するように絶えず動く夜の街並みを見下ろす。耳元で響く低い声に歯牙を噛み、握っていた佐野の衣服をぎゅっと握り締めた。

「いつになったら賢く、」

「っだって……、逃げ出さねえとマイキー君のとこに帰れねえじゃん……ッ」

 ここ数年、喧嘩どころか運動すらまともにしていないから、体力は衰えていく一方だ。佐野や鶴蝶のように腕が立つわけでもない、或いはそのへんの一般人より弱いかもしれない自分が、屈強な体格をした男数人相手にかなうわけがないと頭では理解していた。けれど、理解するのと納得して諦めるのは訳が違う。結果的に今回は助かったけれど、あのまま大人しくしていたら、もう二度と佐野とは逢えない場所に連れて行かれてしまっていたかもしれない。

 だから、逃げなければと思った。殴られても、抑え込まれても、薬を打たれても、四肢を拘束されても。たとえ大怪我をしても、体が動かなくなっても、四肢がもげたとしても、佐野の元に帰らなければと。

 佐野と共に生きていくと決めた。もう彼を、決してひとりにはしないと。

「だから俺、っどうにかして逃げねえとって……」

 目の前の呂色の瞳、見慣れた佐野の顔が、水の底に沈んでしまったかのようにあやふやだ。感情が昂るとすぐに涙が溢れてくるのは昔からで、ぼろぼろと目元から落ちてゆく涙を止めることができない。

 九井の言葉を聞き、ふらつく足を叱咤しながら飛び込んだあの部屋で佐野を顔を見たとき、本当は、安堵の余りその場に頽れてしまいそうだった。

 どうしようもなくこわかった。自身の置かれた状況が、ではなく、佐野にもう二度と逢えなくなるかもしれないことが。

 薬が抜けておらず、思考と視界はわずかに朦朧としていてそこに立っていた佐野が本物かどうか分からなかった。だから、抱きついた体の温度に涙が出そうなほど安心した。低く響いた声も、鼻に慣れたにおいも、じっと見つめてくる眼差しも、なにもかもが花垣を安心させてくれるもので、彼がそこにいてようやく、帰って来れたのだと実感できた。

 佐野といっしょに生きていくと決めた時、花垣の帰る場所は佐野がいる場所になった。佐野と二度と逢えなくなれば、花垣は帰る場所を失う。そうなったら安心できる場所など、もうどこにもなくなってしまうだろう。

「……すぐ泣く。泣けば済むと思ってんだろお前」

「俺だって泣きたくて泣いてるわけじゃないすよ! 勝手に出てくるんだからしょうがないじゃないすか! それに泣いて済ませてくれたことないでしょマイキー君!」

 涙を腕で拭いながら、ずび、と鼻を鳴らして叫ぶ。我ながら枯れることなどないのではないかと思わずにはいられないほど、次から次に溢れてくる涙は止まることがない。

「武道」

「、」

 ふいに名前を呼ばれ、涙を拭う腕を退けられて、そのまま宥めるように触れるだけのキスをされた。

「お前が俺をひとりにしないって約束した時、俺もお前に約束しただろ。これからは死んでもずっといっしょだって」

「……、っ」

「お前を他の誰かにやったりしねえ。俺の知らないところで、見えねえところで殺させたりしない。……お前は、死んでいく俺の隣で死んでいくんだ」

「…うん」

「だから、お前が俺のところに帰れねえなんてことは絶対にない。俺がさせねえよ」

「…っ、うん」

 低く甘い声が紡ぐ言葉はどこか素っ気なく、物騒なものではあるが、それが佐野の本心であり、どれほど真摯なものであるか花垣は知っている。佐野は花垣に隠し事はしても嘘は吐かない。  約束したのだ。ふたりで生きていくと決めたあの日に、これからはずっといっしょだと。  その約束を揺るぎないものとしてくれている佐野の言葉が花垣を安心させてくれた。

 小さな頭をぎゅっと抱き締めれば、胸元で佐野が小さく息を吐いたのが分かった。

「……もう泣くな。そのうちマジで目溶けるぞお前」

「……溶けないよ」

 冗談なのか本気なのか、よく分からない声色と眼差しで言う佐野の言葉につい笑ってしまう。それと同時にエレベーターが止まり、ゆっくりと扉が開いた。

「……マイキー君」

「ん?」

「……心配かけて、本当にすみませんでした」

「誘拐されたのは百歩譲って不可抗力ってことにしてやるが、路上で寝んな。次同じことしたらマジで体に発信機埋め込むからな」

「えっ、嫌っすよそんなん。こわ」

「嫌なら路上で寝んな」

 連絡手段として携帯端末を使わせてくれ、とか、今回のように有事の際のために多少の現金を持たせてくれ、とか言いたいことはあったが、佐野の言うことは尤もであるため頷くほかない。さすがに、着の身着のままの状態で路上で野宿というのは危機感がなさすぎたと反省する。段ボールや新聞紙くらいは持っていた方が良いかもしれない。

 専用エレベーターから続くフロアは基本佐野と花垣しか使わないため、静かなものだ。佐野に抱えられたまま絨毯の敷かれた通路を進み、自宅の扉が開錠されるのを待つ。セキュリティは堅牢で、扉が開くまで数回の開錠が必要なため少々時間がかかる。越してきた時こそ面倒だと思ったが、もうすっかり慣れてしまった。

 花垣は外に出る機会も少ないため、余り開錠することもないが、今でもたまに帰宅時に用を足したくなったら危険だと思うことがある。

「後で医者がくるから、それまで寝てろ」

「、はい」

「頬もちょっと腫れてんな。こっちも切れてる」

 口端を撫でられ、同時にかすかな痛みを感じたが、あやすように撫でる指の動きが心地良く、すり、と乾いた手に頬を寄せた。

「注射痕と、他は」

「えっと……拘束の痕くらいっすかね。けど、体の傷はなんともないですよ。すぐ治りますから」

 ようやく床に降ろされ、けれど足元のふらつきは未だに残っていて、佐野の体に掴まる。腕を取り、袖をまくって拘束痕を確認した佐野はまたわずかに眉を寄せた。

「人のもんに傷付けやがって」

「……あの、俺を誘拐した人って」

「……………」

「……殺しちゃったんすか?」

 本当は佐野にそんなことしてほしくないし、させたくない。けれど梵天という組織は余りに巨大だ。そして、それを築き上げた佐野も、『梵天の首領』という立場が揺るぎないものになっていて、花垣の気持ちなどではどうにもできないことがあることを理解している。  佐野の采配を、花垣の説得でどうにかできることもある。けれど、そうでないこともある。花垣が死んでも、たとえ佐野が死んでも、覆らないことがあるのだ。

 佐野は花垣を大切にしてくれているから、ある程度のことは聞き入れてくれる。けれどだからこそ、佐野にとって花垣に関することは特に重要事項で、花垣が絡んだ際の佐野の采配に、口を挟む余地を与えらないことも間々あった。

 気になっていたことを恐る恐る尋ねてみれば、一瞬闇を孕んだ呂色の瞳からスッと温度が失われたのが分かる。けれどその直後、佐野は瞼を伏せ、小さく息を吐いた。

「殺してねえ。ある程度痛めつけて、組織自体にも制裁はくだしたが、ココも『使える奴等だから潰すのは惜しい』って言ってたしな」

「マイキー君……」

 予想に反して大事にはならずに済んだようで、ホッと息を吐くが、呂色の瞳が、ギロ、と睨むように花垣に向けられた。

「次は殺す。お前次第だからな」

「……あの、外出って……」

「禁止つったろ。何度も言わせんじゃねえ」

「き、期間は……」

「あ? んなのずっとに決まってんだろ。少なくとも半年は出さねえからな」

「半年!? 俺死んじゃうよ!」

「外に出しても死にかけてんじゃねえか。外で死ぬくらいなら家で死ね」

「そんなの飼い殺しといっしょじゃないですか!」

「そうだよ」

「そうだよ!?」

 耳元で大声を出したせいか頬を手のひらで押されて距離を取られる。そのままリビングへと歩いて行く佐野に引き摺られるようにして後を追った。

 リビングに足を踏み入れれば自動的に照明が灯る。リビングで一旦足を止めた佐野はそのまま踵を返した。

「どこ行くんすか? お風呂?」

「寝室。寝てろつったろ」

「いや、まだ話は終わってな、」

「終わっただろ」

「だってまだ外出、」

「終わったよな、武道」

「……ハイ」

 自分の意見を通す際に圧力を掛けてくるところは昔と変わらず、快活でなくなった分昔より圧が増した。無表情で詰め寄られ、視線を合わせることもできずに頷く。

 こわい。昔からこわい。

 しゅん、と項垂れたまま引き摺られるようにして寝室へ運ばれる。

 佐野と暮らしている部屋はふたりで暮らすには充分すぎるほどに広く、リビングやキッチンなどに扉や隔壁はない。けれどさすがに寝室には扉を設けており、室内を横切り、寝室の扉を開いた佐野にベッドに放るように寝かされた。

「水持って来てやるから、大人しく寝てろ」

「それくらいは自分で、」

「良いから寝てろ。医者も来たみてえだしな」

「ま、マイキー君」

 部屋を出て行こうとする佐野を呼び止める。ゆっくりと振り返った佐野に先程までの圧は感じず、いつものようにじっと見つめてくる呂色の瞳を見上げた。

「あの、水はいいんで、いっしょにいてもらえませんか? ココ君達が上がってくるまでで良いんで……」

 四六時中くっついていないと落ち着かないというほど色惚けしているつもりはないが、今はまだわずかな不安が残っていて、離れているのが心許ない。というより、心細い。

 若干の眩暈に吐き気、軽い頭痛。思考や視界は未だかすかに不安定だ。ここ数日気を張り詰めさせていたせいで余り寝ていないし、肉体的にも精神的にも疲労が激しい。横になればすぐに眠ってしまいそうだけれど、目が覚めても隣に佐野がいない悪夢を見そうで眠るのもまだ、すこしこわい。

 そう繊細な質ではないが、恐怖を知らないほど鈍感でもない。

 子供か、と一蹴されてしまうかも、とも思ったが、佐野がそうやって花垣の願いを蔑ろにすることなどないことも分かっていた。

「分かった」

 ベッドまで戻ってきた佐野が静かにベッドの縁に腰を下ろす。かすかに揺れたベッドの動きに逆らわず、そのまま佐野の肩に頭を乗せた。

 肌に慣れた温度。もうすっかり憶えてしまった佐野の、いいにおいがする。かすかな呼吸音。頬に触れる指通りの良い白い髪の感触。なめらかな頬に頬を寄せれば口の端が触れ合って、キスをしたのが佐野からだったのか、花垣からだったのかは分からなかった。

 ふう、と息を吐けば、そのまま泥濘に沈んでゆくかのように体から力が抜けてゆくのが分かる。ずぶずぶと埋もれ、溺れてゆくような途方もない安心感。それは、このまま目を閉じて眠ってしまえば、もう二度と目覚めることはないのではないかと思うほどで。

 佐野と寄り添っている時のこの安心感と、こんなにも満たされてゆく感覚はなんだ、と時折ぼんやりと考える。或いは元々ひとつだったのかもしれない、とそんな馬鹿げたことを思うこともある、だからこそ、いっしょにいるとこんなにも満たされるのだと。けれど当然、佐野と花垣がひとつであるはずはなくて。

「……寝そう」

「……俺も」

「医者来たからお前は起きてろ」

 すぐそこで低く、甘い声が静かに響く。その素っ気なさに口端を上げて笑った。

 花垣には失くしたものがある。

 もうずっと前、まだ子供だった頃。得たものがあって、代わりに失くしたものがあった。

 それは花垣にとってひどく大切なもので、だからずっと探し続けたのだけれど、どこにも見つからなかった。ある日、ふと思った。失くしてしまったんだと。もう、どこにもないのだと。

 子供だったあの頃に置いてきてしまったような、置いてけぼりにされたような、大切だったもの。自分の中からそれが失われたと気付いた時、どうしようもない喪失感に涙が出た。

 もうどこにもないのに、求めずにはいられないもの。失われたそれが戻ることはなく、満たされることのない虚無感を一生抱えて生きていかなければならないと思い知った頃、佐野と再会した。

 佐野の顔を一目見て分かった。もうどこにもないと思っていたもの、失くしてしまったと思っていた、花垣にとってひどく大切だったものを、佐野が持っていたのだと。

 花垣から欠けて、こぼれ落ちてしまったものを、佐野が持っている。あの頃からずっと、それは佐野の腕の中にある。

 だから佐野の腕の中にいるとこんなにも満たされる。もう二度と目を開けたくないと思えるほどの、安寧とともに。


 その安寧に身を浸すたびに思うのだ。

 願わくば佐野にとっても、自分の腕の中がそうであれば良いと。


 寝室は静かで、ふいに震えた佐野の携帯端末の振動音がやけに大きく響いた。恐らく九井が玄関前に到着したのだろう。しばらくして玄関を開錠する音が聞こえてくる。

「おい、ボス、花垣? お前等どこ、……って寝てんのか?」

「……起きてます」

 寝室の入口から九井の声が聞こえたかと思えば、佐野はゆっくりと立ち上がり、九井の脇を素通りして部屋を出てゆく。間々あって、リビングから医者と話をしている声がかすかに聞こえてきた。

「いつもああやって重なって寝てんのか? 猫かよ」

「いや、いつもってわけじゃないですけど、マイキー君の傍にいると気が抜けて眠くなっちゃうんですよね」

 ふあ、と欠伸を漏らせばまるで相槌を返すように苦笑される。

「ボスの隣にいて『気が抜ける』なんて言えんのもお前くらいだよ」

「俺にとってはもう、家族みたいなものなんで」

「いつ本当の家族になんの?」

「それはマイキー君にも聞いてもらわないと、俺だけじゃなんとも」

「相変わらず仲睦まじくて何よりだ。ほら、医者呼んでやったから診察してもらえ」

 他愛ない会話を交わしたのち、九井と入れ替わるようにして佐野と医者が入ってくる。

 診察を受けている間、九井と医者の後ろで佐野が緩やかに瞬きをしたのが見えた。

 眠そうだ。

 そう思った直後、彼のそのかすかな表情の変化に気が付くのは自分だけなのだろうと気が付く。

 理由はよく分からないけれど、それがなんだか少しだけおかしかった。













 
 
 

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