きみの寝床で眠りたい
- sick0826
- 9月2日
- 読了時間: 9分
まるでなにか決まり事でもあるかのように、彼はいつも決まった場所に座っていた。
窓際の壁に背中を預け、胡坐をかいた状態でうつむくように下を向き、膝の上の雑誌を見下ろしている。淡い色をした柔らかな髪が音もなく落ち、視界に影を作ったのか、片手だけを動かして払うように退ける。まろやかな爪先がゆるやかに動くのをなんとはなしに眺めていたら、呂色の双眸は雑誌に向けられたままだというのに、「なに」と低く甘い声がくすぐるように囁いた。
「そんなに見られると穴開きそうなんだけど」
口元を撓ませ、笑いを孕んだ声を出す佐野の言葉に気付かれていたとは思わず慌てて視線を逸らした。
「見んなって言ってんじゃねえよ。なんで見てんのか聞いてんの」
雑誌から顔を上げ、黒目がちの瞳をゆるやかに細めて笑う佐野の質問は返答に窮するもので言葉に詰まる。えっと、と意味のない言葉をこぼし、視線を右へ、左へ。なんとなく眺めていただけで、なぜ、と聞かれても花垣も明確な答えを持ち合わせていない。強いて言うなら目を惹かれたからであるが、その理由はやはり花垣にも説明できるものではなかった。
すこしまえに空は夜に染まり、窓の外はすっかり暗くなってしまっている。時刻として19時を過ぎたばかりだが、この時期の日暮れは早い。昼過ぎに花垣の家を訪れた佐野はとくになにをするでもなく、部屋の定位置に座り込み、雑誌を読んで、時折、花垣と話をしたがった。
佐野は決して物静かな性格ではないのだけれど、こうやって花垣の家に訪れる際はいつも部屋の隅で静かに過ごしている。佐野が遊びにくることに関しては歓迎なのだが、彼がなにをしにきているのかは今一よく分からない。花垣の家にやってきているのだから自分と遊びにきているのだろうと思い、ゲームやパズルなどに誘ってみたこともあるのだけれど、佐野はいつも首を横に振るばかりだ。前述の通り、佐野の来訪を迷惑だと思ったことなど一度もないが、自宅にやってきた佐野を放置しておくわけにもいかず、花垣としては佐野が楽しめるようにもてなさなければと思うのだけれど、佐野はとくにもてなしを求めているわけでもなさそうだった。
あれやこれやと佐野の気が引けそうなものを準備してみたものの、佐野がそれらに興味を示すようなことはない。
タケミっち、そういうの好きなんだ。好きっていうか……マイキーくんといっしょに遊ぼうと思って用意したんです。いっしょにどうですか? ……タケミっちがそこまで言うなら付き合ってやってもいいけど。
交わされるのはいつもそんな会話ばかりだ。会話通り、花垣が誘うから付き合ってくれているだけで、佐野が自分から興味を示したことはない。一頻り遊び終われば、窓際に戻り、壁に背中を預けて座り込む。そして雑誌を読んだり、手持無沙汰で手癖のようにパズルをはじめる花垣を眺めていたり、時にはいっしょに映画を観る。
なにしにきたんですか、とハッキリ言葉にしてしまうと他意を孕んでしまいそうで、佐野に誤解を与えかねない。ゆえに遠まわしにそれらしい質問をしたことがあるのだけれど、雑誌を読んでいた佐野は視線を上げることなく、べつに、なにも、と短く答えるだけだった。
謎めいた佐野の来訪はさして珍しいことでもなく、頻度も高い。はじめのころは戸惑っていたけれど段々と慣れていき、最近では彼が花垣の自宅を訪れる理由など、余り気にしなくなった。
佐野が自室にいて、困ることがあるわけでもない。花垣は佐野のことを様々な意味で好んでいるから、彼が花垣の自室を居心地の良い場所だと思ってくれているなら嬉しくもあった。
佐野が訪れる時間は決まってはいないが、訪れた際は必ず夜更けまで滞在するか、そのまま寝てしまって泊まっていくこともすくなくない。遅くに帰宅する父親とは余り顔を合わせる機会がないからともかくとして、花垣の母親は素直で遠慮のない質である佐野のことをわりあいに気に入っていて、文句を言うどころか佐野が訪れれば嬉しそうにしている。花垣の呼び方を真似て「マイキー君、今日はご飯食べていくの?」と花垣に尋ねてくる声は、いつも心なし弾んでいる。この日も佐野は花垣の家で夕食をすませたのだが、キッチンに立つ母親の後ろ姿は普段よりいくらか楽しげなものだった。自身の息子とはタイプの異なる佐野を新鮮に感じているのかもしれない。確認したことなどないため、真相は知れないが。
自室の部屋の隅に座り込む佐野の姿にいつしか慣れてしまい、外に出れば話は別だが、家の中では以前ほど気を遣わなくなった。佐野もまるでそれを望んでいたみたいに、意識的に佐野に構うわけでもない花垣に文句を言うこともなかった。
「……普通だなと思って」
「ん?」
「マイキー君が俺の部屋にいるの、普通になったなって」
窓際の壁に背中を預け、雑誌を閉じた佐野は納得したように頷く。頻繁に花垣の家を訪れている自覚は彼にもあるのだろう。
「つまんなくないですか、俺んち」
「んなことないよ。つまんなかったらこねえだろ」
「そうですけど。けど、いつもそうやって雑誌読んだり、俺と話してるだけだと退屈しませんか? 俺はマイキー君と話すの楽しいですけど」
「俺も楽しいよ」
そうは言うが、花垣と話をしにきている、という風でもないのだ。言葉を交わす頻度は高いが、同じ部屋にいても別のことをしていて、そんなときは言葉を交わさないことも多い。お互い無言のまま、テレビやオーディオ機器から流れる音楽、ときにはそれすらなく、表の道を走り抜けてゆく車の音や遠くで響く電車の音、階下から聞こえてくる物音だけがかすかに響く。ひとりで過ごしているならまだしも、話し相手がすぐそこにいるのに、声をかけてくるでもない。
雑誌を読んでいなくても、花垣と話をしていなくても、窓際の壁に背中を預け、花垣を眺め、うとうととちいさな頭を揺らして寝る。口遊むようにぽつぽつと話をする花垣の言葉に相槌を返してくることもあれば、独り言のように話をする佐野の言葉に花垣が静かに耳を傾けていることもある。なにをするでもない。ただそこにいるように、佐野はいつも窓際に座り込んでいた。
壁に背中を預け、こちらへ視線を向ける佐野の瞳をじっと見つめ返す。印象的な呂色の瞳をわずかに歪めて笑っている佐野は、たしかに退屈しているようには見えない。わずかな眠気を感じているのか、その瞳が若干とろりとしているのが分かるけれど、暇を持て余しているそれとは異なるものだった。
「タケミっち、ちょっと髪伸びたね」
「そうなんすよね。切りに行こうと思ってるんですけど」
「俺が切ってやろっか」
「マイキー君、髪切ったりできるんですか?」
「できるよ。やったことねえけど」
「……遠慮しときます」
「かっこよくしてやんのに」
交わす言葉はいつもそんな、他愛のないことばかりだ。意味も内容もない、明日になったら忘れてしまうような会話ばかり。けれど数年後、ふとしたときに思い出すのは、こんな他愛もない会話なのかもしれないと思うと、理由は分からないがすこしだけ可笑しかった。
ふいに階下から母親に呼ばれ、風呂を促される。佐野が泊まるときはいつも佐野から入ってもらう。クローゼットから取り出した、もう常備してある佐野の着替えを手渡せば、佐野は勝手知ったるといった態で部屋を出て行った。
しばらくして、佐野と入れ違いで花垣も入浴をすませる。風呂を出るころには帰宅していた父親と挨拶ついでにすこし話をしてから部屋に戻る。
佐野が泊まってゆくため、布団を敷かなければならない。佐野が泊まってゆく際、どちらがベッドを使って、どちらが布団を使うのか決まっていない。一般的に言えば花垣の部屋なのだから花垣がベッドを使うのが普通なのかもしれないけれど、佐野は花垣のベッドで寝落ちてしまうことも多く、そうなったときは花垣が布団で寝る。眠ってしまった佐野を移動させるのは骨が折れるため、諦めて布団で寝てしまうほうが楽だった。佐野を相手に、その程度のことが不満ということもない。
部屋の扉を開ければ、ベッドの縁に腰かけてうとうととちいさな頭を揺らしている佐野の姿が目に入る。窓際の壁に背中を預け、うつむくように下を向いて雑誌を読んでいた顔は随分大人びて見えたのに、さほど変わらない角度にもかかわらず今度は随分幼く見える。その相違に無意識に口元が緩み、ふ、と声が漏れたところで自分が笑っていることに気が付いた。
「マイキー君。マイキー君、寝るならちゃんと布団入って寝てください。ベッド使っていいですから」
「…、ん……」
そっと腕に触れ、摩るように体を揺すれば、白い瞼が震えるように揺れ、眠気に撓むとろけるような呂色の瞳がうっすらとひらかれる。瞼がひらくのと同じ速度で花垣を見上げた佐野はゆっくりと瞬きをして、その一瞬、大きな瞳にいつもの凛とした光が宿ったけれど、次に瞬きをしたときはまたとろりとした眠気を滲ませていた。
「……タケミっち」
「はい」
「……、…………」
「マイキー君、寝ないで。寝るなら布団入ってください」
風呂から出たばかりで温もった花垣の体温が心地良いのか、寄りかかってくる佐野の体を受け止める。心地良さそうにうとうとと瞼を揺らしている佐野を引き剥がすのは忍びなく、自身の体ごと佐野をベッドへと促せば、いつもより間延びした声が再度花垣を呼んだ。
「……退屈とかねえよ」
「ん?」
「……タケミっちの家には、タケミっちがいるだろ」
花垣が着込んだスウェットに顔を埋めるようにして寄りかかっていたこともあり、寝言のように撓んだ言葉の最後のほうは、くぐもってハッキリとは聞こえなかった。けれど佐野がなんと言ったのかは理解できて、腕の中の佐野を見下ろす。
彼がなぜ、頻繁に花垣の自宅を訪れるのか、その理由は分からない。謎めいた佐野の来訪にいつしか慣れ、最近ではその理由ももう余り気にならなくなったのだけれど。
べつに、なにも。
いつだったか佐野が短く返した言葉が、佐野の本心なのだろうということはなんとなく分かっている。きっと彼にも明確な理由などないのだ。今口にしたように、花垣がいるから花垣のいる家へやってくる。ただそれだけで。
体に寄りかかったまま、すっかり眠ってしまいそうな佐野を見下ろす。淡い色をした柔らかな髪は、ふわふわと触り心地が良いのに指先で遊ばせればするりと指の合間を落ちてゆく。
「……俺もマイキー君といっしょだと、それだけで楽しいですよ」
腕の中のちいさな頭を抱き締めるように柔らかな髪をそっと撫でながら言えば、佐野が眠りに落ちる直前、息を吐くように笑ったのが分かった。
お題「きみの寝床で眠りたい」

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