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それはあどけない愛のことば(+ドラみつ)





 吐き出した吐息が白く濁り、流れるようにして空気に溶けて消えてゆく。

 気温がぐんと下がり、冬らしい季節になってきた。この日はとくに冷え込み、昼頃から雪が降るかもしれないと予報が出ていた。

 赤みを帯び、かじかむ指先を擦り合わせ、はあ、と息を吹きかけながらわずかに首を竦めている龍宮寺の隣を歩く。

 さむ、と低い声が漏れ、ちらりと横目で龍宮寺を見上げれば鼻先がほんのりと赤くなっているのが分かった。

「三ツ谷、お前なんか欲しいもんあんの?」

「は? 欲しいもん?」

「もうすぐクリスマスだろ」

「ああ……俺の欲しいもんっつうかルナマナのプレゼントなににするかで頭いっぱいだよ」

 まだ幼い妹たちは毎年ケーキやプレゼントを楽しみにしている。クリスマスはケーキを食べたり、プレゼントをもらえる日じゃないんだぞ、と言って聞かせたところで詮無いことだろう。

「それは兄ちゃんが考えてやんねえとな」

「考えるけど……女の子って欲しがるもんが俺等と全然違うからさあ。毎年悩むんだよね」

「ガキっつっても女だしなあ……で?」

「ん?」

「兄ちゃんの欲しいもんは?」

 重ねて尋ねられ、欲しいもんねえ、と宙を見上げて考える。三ツ谷は買い物がわりあいに好きだし、物欲がないわけではないけれど、同い年の恋人にねだるものとして妥当なものがパッと浮かんでこない。

 贈り物は高級なものでなければいやだというタイプではないし、そもそもクリスマスだからプレゼントが欲しい、と思う質でも、年でもない。

 龍宮寺からもらえるものならなんでも嬉しいけれど、だからといって自分からリクエストするのは申し訳ない気もする。贈り物がどういったものなのかは分かっているけれど、自分で買うよ、という気持ちのほうが先に出てしまいそうだ。

 だから龍宮寺からの贈り物として欲しいものと言われてもパッと浮かばない。

 なにもいらない。ドラケンがいてくれればそれでいいけど、と無意識に浮かんだ考えが余りにもちょっと恥ずかしすぎて、じわ、と熱くなった頬を誤魔化すように咳をした。

「風邪か?」

「いや……今ちょっと思いつかないから考えとく。ドラケンは? なんか欲しいもんある?」

「物はいらねえから泊りこい。当日じゃなくていいから」

「……っ」

 寒かったはずなのにちょっと熱いな、と思っていた矢先、一気に体温が上がった。

 三ツ谷はふと過っただけでも恥ずかしくなった言葉を、臆面もなく口にする。顔を見ても照れている様子など微塵もない。反射的に見上げてしまった三ツ谷を見下ろし、「あんだよ」と怪訝そうな顔をしてみせるくらいだ。

 つきあいはじめてからわりあいに時間が経っていて、恋人としてやることはある程度やっている。

 頻繁にキスをしたり密着したり、セックスだって頻繁というわけではないが、稀でもない。

 ベッドの上で恥ずかしいことを言われても笑って聞き流せるくらいの耐性は、三ツ谷にもあると思うのだけれど。

 龍宮寺の三ツ谷に対する感情の明け透けさには、毎回硬直させられてしまう。なんでそんな恥ずかしいこと言えんの、とよく羞恥に悶えながら見当違いにも龍宮寺を詰ることがあるが、返ってくるのはいつも同じ答えだ。

 龍宮寺曰く「べつに恥ずかしくねえから」の一言に尽きるらしかった。

「無理そうならべつにいいぞ」

「……母ちゃんに早く帰れる日あるか聞いとく」

「ん」

 ず、と鼻を鳴らし、「にしてもさみいな」と言う龍宮寺の言葉に、むしろ熱い、と思いながら。

 べつに今更龍宮寺に見られて恥ずかしいことなんてなかったけれど、発熱したように赤らんでいるだろう顔を見られるのは恥ずかしい、というよりなんだか悔しくて、巻いていたマフラーに隠すように顔を埋めた。



 そんな会話を交わしながら歩いていると待ち合わせ場所に到着し、三ツ谷は手首に巻いた時計を、龍宮寺は携帯をひらいて時間を確認する。

 約束の時間まであと15分程ある。

 佐野は確実に15分過ぎてからやってくるだろうが、花垣は早めにくるかも、と三ツ谷が予想した通り、数分もしないうちに人混みの中を駆けてくる花垣の姿が見えた。

「すいません、遅くなっちゃいました」

「いや、まだ時間前だから大丈夫だぜ。はええじゃん、タケミっち」

「みんなを待たせたらいけないと思って、ちょっと早めに出てきたっす。……マイキー君は?」

「どーせ遅れるよ、アイツは」

「時間通りに来た試しがねえからな」

 きょろ、と周囲を見渡しながら、すこしだけ気まずそうに聞いてくる花垣の言葉に苦笑交じりの返事を返す。

 連れ立って遊ぶ約束をして待ち合わせをした際、佐野が時間通りに現れることは滅多になく、内輪間ではもうそれがとうぜんのことになっている。場合によっては、集合時間に自宅で寝ていることすらある。

 ゆえに約束の時間をすこし早めに伝えたり、余程大事な用事のときは龍宮寺が迎えに行くのが常だ。

「ま、ちょっと待ってりゃ来んだろ」

「そっすか」

「……タケミっち、マイキーとふたりで遊びに行ったりしねえの?」

「え?」

「いや、最近仲良いじゃん。遊びに行ったりしねえのかなって」

 龍宮寺と揃ってふたりを観察していることが佐野や花垣本人にバレてしまうわけにはいかない。ゆえに慎重に言葉を選びながら尋ねると、「たまに、ですけど」と。

「そんときどうだった? マイキー時間通り来たか?」

「いえ、マイキーくんちに迎えに行ってから出かけるのがほとんどなんで」

「なるほどな。それだとたしかに遅刻はしないわな」

 花垣は佐野に、待ちぼうけを食らわされたことがないらしい。

 時間通りに行くのではなく、迎えに来させるあたりが佐野らしいが。

「けどマイキー起こすの大変だろ。アイツ中々起きねえから」

「出かけるの大体昼からなんで、俺が迎えに行くときはいつも起きてますけど、……」

 軽く握った手を口元に当て、そのときのことを思い出しているのか、宙を見上げた花垣が言葉を止めたと思えば、ふいに、ふっ、とちいさく笑った。

「どした?」

「いや、前にドラケン君といっしょにマイキー君ちに行ったとき、はじめて寝起きのマイキー君見たんすけど……髪すごかったなって」

「ああ……」

 三ツ谷も目にしたことがある。髪が長いのにくわえ、元々柔らかい髪質のせいで跡がつきやすいらしく、寝起きは毎回すごいことになっている。

 そのときのことを思い出したのか、口元に手を当てたまま笑っている花垣の表情は面白がっているというよりはもっと柔らかく、楽しげなもので、三ツ谷は目を細める。

 花垣も佐野のことが、と気が付いたのは、ひと月ほど前のことだ。

 たった1時間程度の短いあいだ、ふたりきりで残してきた雑木林の中で、なにがあったのかは分からない。

 けれどなにかがあったことだけは分かる。

 それまで佐野の行動を、花垣は他意もなくただ受け入れているだけだと三ツ谷は思っていたけれど、実際はそうではなかった。

 泣き出しそうに、苦しそうにしながらも、なんとか言葉を紡ごうとしていた花垣の姿を思い出す。

 必死だったな、と後になって思った。

 なんとか佐野に言葉を告げようとしていた。けれど結局それはかなわず、落ち込むように肩を落として俯いていた。

 佐野も動揺しただろうけれど、三ツ谷も大いに驚いた。

 まさか花垣が佐野に対して、言葉に尽くせないほどの、けれど言わずにはいられないほどの想いをかかえていたなんて。

 あの姿を目の当たりにしてしまった以上、花垣の気持ちを疑う余地はない。

 佐野と花垣が同じ想いでいる、つまり両想いだと三ツ谷が気付いてから、ひと月経った。あれから佐野と花垣は連絡は取ったりしているようだけれど、集会以外で直接顔を合わせてはいないらしい。

 ここ最近大きな抗争もなかったし、花垣と佐野は通っている学校も違う。ゆえに家が近所というわけでもない。

 佐野はともかく、花垣はいくらか試験勉強などもしていたようだ。年の瀬が近いということもあって、中々顔を合わせる機会もなかったのだろう。

 この日、佐野と龍宮寺、三ツ谷と花垣の4人で出かけることになったのは、あれから佐野と花垣を顔を合わせていないらしいと龍宮寺から聞いたためだ。

 この日は予定が空いていたため龍宮寺を誘ったのだが、あいにく、佐野と先約が入っていたらしい。佐野と龍宮寺がふたりで出かけるのはさして珍しいことでもなく、先約があるなら、と諦めたのだけど、龍宮寺が三ツ谷もいっしょにと誘ってくれたのだ。

 どうやら買い物に行く予定だったらしく、三ツ谷がくわわったところで佐野は気にしないだろうから、とのことだった。

 付き合いは長く、三ツ谷は三ツ谷で佐野と交流もあり、ふたりで出かけたことがないわけではない。いっしょにいて気まずいと感じることもないし、お互いによく知った相手だから気楽だ。

 ゆえにじゃあ俺も、と誘いを受けることにしたわけだが、そのあと、佐野と花垣があれ以来、顔を合わせていないらしいという話を龍宮寺から聞いた。

 だったら折角だし、ということで花垣も誘ってみることにしたのだ。

 花垣はいつも三ツ谷の誘いを元気良く、笑顔で了承してくれるが先日のこともある。さすがに佐野と顔を合わせにくいのか、いささか躊躇った様子はあったが、最終的には今回の誘いも乗ってくれた。

 龍宮寺から佐野にも花垣が来ることを伝えたらしいが、とくに変わった素振りは見せなかったらしい。「タケミっち? べつにいいんじゃねえ」というのが佐野の反応だった。

「本人に言ったら怒られるかもですけど……マイキー君、いつも格好良いですけど、寝起きだけはちょっと子供っぽかったっていうか……あ、今のマイキー君には言わないでくださいね」

 慌てたように口留めする花垣に笑って頷いたとき、ふと、龍宮寺が片目を細めて花垣を見ていることに気付く。いや、花垣と言うよりはその背後を眺めていたようだ。

 その視線を辿ったとき、ああ、と嘆くような声が出た。

「言われなくても聞いてるけどな」

「っ!? ま、マイキー君……ッ?」

 ふいに花垣の背後から現れた佐野に花垣の肩が大袈裟なほど跳ねる。

油を差し忘れたロボットのように、ぎ、と音が立ちそうなぎこちなさで背後を振り返った花垣の顔を見て、佐野はにっこりと笑った。

「タケミっち、俺のこと子供っぽいって思ってたんだ?」

「ちっちが、ねお、寝起きの話っす……!」

「寝起きがなんだって?」

「こ、……子供っぽいなって……」

「……へえ」

 正直な性格が災いしたのか、咄嗟に誤魔化すことができなかったのだろう。へへ、と引きつった笑いを浮かべながら素直に吐露する花垣に佐野が詰め寄ってゆく。

 佐野に詰め寄られ、体を仰け反らせて蒼褪め、震えて、泣きそうな顔をしている花垣がさすがに可哀想で、佐野を引き留めるために肩に手を置いた。

「いつも格好良いって言ってたよ」

 花垣に詰め寄っているのは本気で怒っているわけではなく、怯える花垣で遊んでいるだけだろうし、機嫌を損ねているわけでもない。

 苦笑しつつフォローを入れてやれば、詰め寄るのをやめた佐野は、ふん、と鼻を鳴らした。

「許す」

 佐野は一言そう言って、仰け反った花垣の腕を取り、ぐい、と引っ張って元の体勢に戻す。

 そんな茶番に苦笑すれば、龍宮寺も花垣の隣でため息を吐いた。

「おはよタケミっち」

「お、おはようございます……」

「なんか久し振りだな、逢うの」

「そう、ですね……げ、元気ですか?」

「なにそれ。元気だよ」

 先程まで詰め寄られていたせいもあるのか、花垣はいくらかぎこちないが、さすがに佐野はいつも通りだ。

 先日見せた動揺は欠片もない。あれからひと月も経っているため、さすがに平静を取り戻したらしい。まあいつまでも動揺している佐野というのも想像できないが。

「マイキー来たし、とりあえず行くぞ」

 龍宮寺の言葉でとりあえずその場を移動することになった。

 最近では前を佐野と花垣が歩き、三ツ谷と龍宮寺からそれを後ろから観察する、というのが定番の位置になっている。

 花垣は相変わらずどこかぎこちなさそうだが、佐野にそれを指摘する素振りはない。指摘することもできないだろうな、とは思うが。

 平然を装っているが、佐野だって思うところがないわけではないだろう。あんなことがあって以降、はじめて顔を合わせるのだ。

 そこだけ屋外になっているショッピングモールの中庭を横切り、目当てのフロアへと向かう。

 中庭を吹き抜ける風は冷たく、思わず首を竦めれば、「さみ」とやはり隣からほんのちいさな声が聞こえてきたが風に遮られ、前のふたりには聞こえなかっただろう。

「やっぱ今日ちょっと寒いっすね」

「寒いなら着込んでこいよ」

 佐野の言う通り、花垣は薄手のジャケットを羽織っているだけだ。マフラーは巻いているけれど、気温に対して薄着と言わざるをえない。

「買い物って聞いてたから、厚着してくと逆に暑くなるかなと思って」

「いや外歩くんだから寒いだろ。なんか上に着るやつ買えば?」

「それも良いっすね。マイキー君はなに買うんすか?」

「なんか適当に。欲しいもんあったら買うけど、とくに決めてねえ」

 はじめはぎこちなかった花垣だが、佐野と話をしているうちに段々と落ち着いたのか、いつも通り、というわけではないが、今ではもう普通に話をしている。

 相変わらず仲が良いことに変わりはないらしく、お互いに友情ではないものをかかえているしろ、このへんの距離感は変わらないらしかった。

 佐野と花垣を追って歩きながらも、ホール状になっている中庭に面したウィンドウに並ぶ服へと視線を向ける。欲しいものがあるわけではないが気になって足を止めれば、「中見てくか?」と龍宮寺が聞いてくる。

 気になるのはウィンドウに並んでいる服だけで、中に入るほどではないが、或いは店内にも目ぼしい服があるかもしれない。

 ウィンドウの前で足を止めながら、うーん、と口元に手を当てて考える。そうなるとわりあい長い時間立ち止まってしまうことを知っている龍宮寺はため息こそついたものの文句は言わず、ただ黙って隣に立っていた。

 そうやって立ち止まった三ツ谷が動き出すのを待つあいだ、花垣も立ち止まり、三ツ谷を気にするでもなく佐野との会話を続けていた。

「マイキー君は寒くないんすか?」

「俺寒いのわりとへーきだから。バイク乗ってるともっとさみいし」

「バイク寒いっすよね。指千切れそうに、」

 いつものように佐野へと視線を向けながら話をしていたのだが、ふと、柔らかい色をした髪の合間に見える耳がほのかに赤らんでいることに気付き、目を細める。

 驚かしてしまわないよう、ゆっくりと手を伸ばし、佐野の髪の合間にそっと指を差し入れる。

「マイキー君、耳赤くなってますよ」

 冷たい指を押し当ててしまわないよう、爪先で柔らかな耳たぶを撫でれば、目の前の佐野の肩が、ひく、と揺れたのが分かった。

「あ、すいませ……」

 いつものように無意識に手を伸ばしてしまったけれど、さすがに嫌がられただろうかと咄嗟に指を引っ込める。

 佐野は花垣が傍に寄ることを嫌がらないし、いつもすこし触れる程度のことはゆるしてくれるため、調子に乗ってしまったかもしれない。

 スキンシップはわりあいに激しいほうだが、体の部位を触られるのはさすがに嫌だろう。

 あの大きな瞳に、嫌悪や不快感の類の色が浮かんでいたら、と思うと心臓のあたりが冷たくなる。

 けれどいつまでも黙り込んで俯いているのも不自然だろうと、そっと視線を上げれば、見慣れた黒目がちの瞳は嫌悪や不快感を滲ませることもなく、ただじっと花垣を見つめているだけだった。

「違うから」

「え?」

「ちょっとびっくりしただけ。触っていいよ」

 そう言って、佐野はいつものように笑う。

「俺タケミっちに触られんの、嫌じゃねえし。はい」

「…………………」

 触れたほうの耳を差し出すようにわずかに首を傾けられ、戸惑いながらもそっと手を伸ばして柔らかい耳に触れれば、佐野はくすぐったそうに首を竦めた。

「んな赤くなってんの?」

「ちょっとだけ……」

「タケミっちの耳もちょっと赤くなってるよ」

「っ、」

 ふいに、むに、とわりと容赦なく耳たぶを摘ままれ、その感触と指の冷たさに思わず上がりそうになる声を抑える。

 そのときの表情がおかしかったのか、佐野は楽しそうに笑った。

「タケミっち、ピアスとか開けねえの?」

「い、痛いのはあんまり……」

「俺が開けてやろっか。人のピアスとか開けたことねえけど」

「え、遠慮しておきます……マイキー君は開けないんですか?」

「んーあんま興味ねえ。俺はタケミっちと違って痛いのは我慢できるけど」

 揶揄するように笑う佐野の顔を見て、自然と頬が緩む。

 さっきは心臓が痛いほどに冷えたのに、今は呼吸が楽にできる。

 佐野の傍にいるといつもそうだ。緊張して体が強張る一方、どうしようもなく呼吸が楽で。

 いっしょにいると楽しくて、佐野が笑うと嬉しくなって、傍にいることが心地良い。

 優しいだけの人ではないと分かっていても、佐野の傍はいっそ脱力してしまうほど安心する。

 それは佐野の腕が立つからとか、守ってもらえるからとか、そんな理由ではまったくなくて。

「開けてても開けてなくても、マイキー君は格好良いですけど……きっと似合いますよ」

「ん?」

「ピアス」

「……じゃあ開けるときはタケミっちに開けてもらおっかな」

「いや、それはちょっと……開けられるより、開けるほうがこわいっす」

 真っ直ぐ刺せず、ホールがズレてしまったり、手が滑って佐野の顔に傷をつけてしまったりしたらと思うと血の気が引く。

 ふるふると首を左右に振れば、佐野は呆れたように息を吐き、「マジでビビりな、タケミっち」と悪態にもならない悪態を吐いた。

「ごめん、お待たせ」

 満足したのかこちらへ歩いてくる三ツ谷の声が聞こえ、また歩き出す。龍宮寺といっしょに店の中に入ったようだが、とくになにも買わずに出てきたらしい。

「買わなくて良かったのか?」

「ま他の見てからね」

 と、そんな会話を交わしているのが聞こえてきた。

 それからしばらくモール内を歩き回り、それぞれ見たいものを見て回る。

 三ツ谷がいちばんあちこち回っていたようだけれど、それにしては抱えている買い物袋はすくなく、曰く「見に来てるだけだから」ということだ。

 龍宮寺や佐野はアクセサリーや香水の類を見に行っていて、花垣は花垣で服を見たり、雑貨を見たり。

「ダセェ服は買うなよ。俺の前では着させねえからな」

 と佐野に釘を刺され、吟味に吟味を重ねた結果Tシャツを一枚買ったのだけれど、買い物袋を毟り取るように奪った佐野は花垣が選んだシャツを見て、「ダセェ服は買うなって言ったのに」となぜか落胆したような声を出した。

「俺の金でなに買おうと俺の勝手じゃないすか! それにダサくないすよ!」

「ダセェ」

「ダセェな」

「イケてはねえかな」

「ええ……」

 口を揃えて言われ、そんなに……?と思いながらTシャツを広げてみる。中々に格好良いデザインだと花垣は思うのだけれど。

 そんなこんなでそれぞれ買い物をしたあとはフードコートで昼食を取り、そのあとまたそれぞれ雑誌を見に本屋やCDショップに足を運ぶ。

 適当に合流して、見たいものを見て、行きたい場所に行く。花垣はなぜか買ったものをそれぞれに逐一チェックされ、最終的に「もう服は自分で買うな」と言われてしまった。

 じゃあ誰に買ってもらえというのだろうか。母親が選んだ服でも着ていろというのか。余りに酷すぎる。

 そう言い返したのだけれど誰も聞き入れてくれず、結局その日はそれ以上服を見るのはやめたのだった。



 広いショッピングモールを歩き回り、いささか疲れて建物の壁に寄りかかる。

 先程CDショップの前で偶然合流した佐野と休憩をしようということになり、佐野は飲み物を買いに行った。

「カフェモカで良かった? タケミっち甘いほうが好きだったよな」

「あ、はい。ありがとうございます」

 戻ってきた佐野にコーヒーのカップを手渡され、財布を取り出そうとするも「こんくらいいいよ」と断られてしまった。

 いささか申し訳なかったが、一応年上である佐野に無理矢理渡すわけにもいかない。というか多分、受け取ってくれないだろう。

 財布を仕舞ったあと、並んで壁に凭れかかり、眼前に広がる中庭の景色を見遣る。クリスマスが近いせいか、イルミネーションに彩られた中庭では日曜ということもあって、なにやらイベントが開催されているらしい。

 すこしはなれた場所だから特設会場から聞こえてくる音声はBGM程度でしかなく、耳に障るほどではない。

 空調管理された屋内を歩き回ったせいで、若干火照った頬に冷たい風が心地良い。空気は冷たいため、あたたかいカフェモカを口にすれば、ホッと体から力が抜けた。

「三ツ谷君って買い物早いんすね」

「はええけど、なげえから。三ツ谷の買い物」

「あちこち見て回ってたすもんね。ドラケン君も三ツ谷君といっしょすか?」

 尋ねれば、隣でカップに口をつけていた佐野はこくりと頷く。

「買い物にケンチン連れてくの好きなんだよ三ツ谷。着せ甲斐あるつって」

 たしかに上背もあるし、スタイルも良いから服の着せ甲斐もあるだろう。

「そういえばタケミっち、今日髪下ろしてんだね。出かけるときは大体上げてんのに」

「あ、はい、今日外ちょっと寒かったんで。上げてると尚更寒くなるじゃないすか」

「だらしねえな。ケンチンと三ツ谷を見習えよ」

「三ツ谷君も短いですけど、ドラケン君めっちゃ寒そうっすよね」

 責めるような言葉とは裏腹に、いつもように笑みを孕んだ声に笑って応える。本人たちはとくに寒そうにはしていなかったけれど、墨の入った蟀谷やすっきりとした首筋は見ている方が寒い。

 思いながら佐野へと視線を向ければ、淡い色をした柔らかい髪が冷たい風に煽られて、見慣れた横顔をすこしだけ隠していた。

「マイキー君は髪長くてあったかそうですよね」

「べつにそんな変わんねえと思うけど」

「髪切らないんですか?」

「……タケミっち、髪短いほうが好き?」

「え?」

「タケミっちが短いほうが好きって言うなら、切ってもいいよ」

 顔は前を向いたまま、佐野の低く甘い声がくすぐるように耳に響く。

 咄嗟に答えることができずその横顔を見つめるが、佐野が急かしてくることはなく、ただじっと中庭のほうを向いたまま、ゆっくりと瞬きをする。

 白い瞼が大きな瞳を隠し、そしてまた開かれるのが髪の合間から見える。

 綺麗な横顔だと思う。いつも凛と前を向いている。

 顔の作り自体は愛らしいと言っても過言ではなく、人のことを言えた義理ではないが、まだどこか幼さが残っていると思うけれど、その瞳はいつも強い意志を持っていて、揺らぐことがない。

 その目にはなにがうつっているのだろう。なにが見えているのだろう。

 すこしでも佐野と同じものを見てみたいと思ったのが、彼に恋をしたきっかけだったかもしれない。

 同じものを見てみたいと思うくらいで留めておければ良かった。

 いつしか、その目にうつりたいなんて、邪な感情が混ざるようになってしまった。

「……マイキー君はどんな髪型でも格好良いですよ」

 思ったことを素直に口にすれば、しばらくして、ふ、とその口元が撓んだのが分かる。

「……じゃこのままでいい」

「……はい」

 頷けば、かすかに笑ったあと、佐野はゆるやかに瞬く。かと思えば、ゆっくりと建物から体をはなし、体ごと花垣のほうを向いた。

「……あのさ、タケミっち」

「はい?」

「タケミっちに言いてえことあんだけど、聞いてくれる?」

「俺にですか? はい、もちろんです」

 ほとんど同じ目線の高さにある黒目がちな瞳にじっと見つめられ、こくりと頷く。佐野が話があるというのなら、聞かないという選択肢など花垣は端から持っていない。

 その瞳は真っ直ぐに花垣を見つめ、話とやらが真面目な内容であることが伝わってくる。

 けれど一瞬、ふいに白い瞼がわずかに伏せられ、大きな瞳を縁取る睫毛が震えるように揺れた。

「……マイキーく、」

「タケミっち」

「、はい」

 佐野の名前を呼ぶ直前、再度花垣を見上げた佐野の声に返事をした直後、じっと自分を見つめる瞳がほのかな熱を孕んでいることに気が付いた。

 刹那、どく、と心臓が大きく脈打つ。

 佐野は花垣を見て笑ってくれる。大きな瞳をゆるやかに歪ませて、きっと他の誰にも向けられない眼差しで、花垣を見てくれる。

 それに気が付いていたけれど、こんな眼差しを向けられるのははじめてで。

 その目を見つめているとなぜだかひと月前、彼に思いを告げようとしてかなわなかったことを思い出し、どうしようもない恥ずかしさが湧き上ってくる。どうして今、あのときのことを思い出すのか。

「……っ」

 心臓がどくどくと大きく鳴って、うるさいくらいだ。佐野に聞こえてしまう、と無意識に服の胸元を握りしめる。

 いつしか、その目にうつりたいと、そんなことを考えるようになっていた。

 今は花垣だけしか見ていないと分かる大きな瞳に見つめられることが、なぜだか無性に恥ずかしくて、けれど視線を逸らすことができず、じっとその瞳を見つめ返す。

 これ以上後退ることなどできないのに、無意識に後退った背中が壁にぶつかり、体重を預けるようにして建物の壁に凭れかかる。

「俺、タケミっちのこと、」

「っ」

 熱を孕む瞳でじっと見つめられ、低く甘い声で紡がれた言葉に、期待だったのか、それとも不安だったのか、もうよく分からない感情で、まさか、とそんなことを思ったとき。

 背後で、ぎ、となにかが軋むような音がした。

「えっ?」

「あ?」

 ぎぎぎぎ、と断続的に、けれど続けざまに音が響くと同時に、背中を預けていた壁が開くように傾き、同時に花垣の体も背後へと傾いでゆく。

「ちょっ、わ、まっマイキーく、」

「オイちょっ、タケミっち!」

 後ろに倒れてゆく体をなんとか支えようと踏ん張ったけれど、ほとんど全体重を預けていたせいか、背中から壁がはなれることはなく、倒れてしまう前になにか掴むものを、と手を伸ばし、咄嗟に佐野の腕を掴んでしまった。

 珍しく焦ったような佐野の声が聞こえたのと同時に、佐野を巻き込むような形で体が完全に倒れ込む。

 どうやら壁だと思って背中を預けていたのが、実は倉庫かなにかの扉だったらしく、おそらく完全に閉まりきっていなかったのだろう。花垣が体重をかけて凭れかかってしまったことによって開いてしまったようだ。

 しかも最悪なことに、扉が閉まると同時に施錠されてしまうタイプの扉だったらしく、どさ、と自分達が倒れ込んだあと、ギギィ、バタン、ガチャ、と扉が閉まり、施錠される音が続けざまに響いた。

「………………」

「………………」

「………嘘だろ」

「……こっちの台詞だけど」

 ほとんど佐野の腕にしがみつくような態勢で後ろ向きに倒れ込んだまま呆然と呟けば、すぐそこで低い声が響く。顔の横で、佐野が持っていたカップがころりと揺れた。

 状況が飲み込めず呆然としていたが、じわじわと現状を理解してゆく。そしてそれと同時に背中を嫌な汗が伝っていった。

 花垣の両手にはしっかりと佐野の腕が握られており、重なるように倒れ込んだ佐野は、それでも花垣を押し潰さないようにと片腕で自身の体を支えている。

 もし花垣が佐野の腕を掴まなければ、佐野が巻き込まれることはなかった。

 反射神経が抜群に良い彼のことだから、咄嗟に扉を支え、閉まらないようにと開けておいてくれたかもしれない。

 そうしたら花垣が倒れてしまったあとも閉じ込められることはなく、佐野を巻き込むこともなかったのに。

 花垣が腕を掴んでしまったばっかりに―――。

「っご、ごめんなさいマイキー君、俺咄嗟で……!」

 殺される、と思いながら即座に腕をはなし、その場で土下座するように頭を下げる。

 なにか大事なことを言おうとしていた佐野の話を遮った挙句、咄嗟に佐野の腕を掴み、巻き込まなくていいアクシデントに巻き込んでしまった。

 さすがに怒らせてしまっただろう。

 はああ、とすぐそこで深くため息を吐かれ、びくりと体が揺れる。まさか死に場所がショッピングモールの倉庫になるなんて、つい数分前まで想像もしていなかった。

 大体なんでちゃんと閉めてないんだよ!、とショッピングモールの係員に泣きながらクレームを入れたいくらいだ。

「ほんっとすいません! 殺されても文句言えませんもう煮るなり焼くなり、」

「いいよ」

「、えっ?」

 殺されてもいいから命だけは、と混乱を極めた頭で矛盾したことを思ったとき、予想とは違う言葉が返ってきた。

 横でどさりと座り込むような音がして、恐る恐る顔を上げれば、すぐそばに座り込む佐野の姿。

 いくらかに疲れたように息を吐き、髪を掻き上げているが、花垣を殴るために拳を振り上げたり、蹴り飛ばすために足を持ち上げたりする様子はない。

 胡坐を掻いた膝に頬杖をつき、「前もあったな、こんなこと」となぜだかすこしだけおかしそうに笑った。

「怪我は?」

「……し、してないっす」

「そ」

 ならいい、と言ったあと、花垣の背後のドアを見遣り、そちらを見ろとでも言うように顎を揺らす。

「タケミっち、叩いてみ」

「あっはい」

 助けを呼べと言っているのかと思い、戸惑いながらも言われた通り鉄製の扉を拳で叩く。

「すいませーん! 誰かいませんかー!」

 拳を打ち付ければ倉庫内に大きな音が響き、それと同じだけの声量で外に声をかけてみるが、しばらく待っても反応がない。

 振り返って佐野を見れば、佐野は両手で耳を塞いでおり、はなから反応がないことなど分かっていたかのように首を数回揺らして頷いた。

「中庭の端のほうだったし、周りに人もいなかったから、誰も気付かねえよ。なんかイベントやってたしな」

「た、たしかに……」

 助けがこないという状況に花垣は絶望しているというのに、佐野はちいさく息を吐くだけで取り乱す様子もない。こんな状況で取り乱す佐野というのも想像できないが。

「なんで誰もいないんだよお……」

「、」

 人のごった返すショッピングモールだというのに、こんなときに限って人気のない場所で閉じ込められてしまったという状況に、いっそ地面に突っ伏して泣きたい気分だ。

 はああ、とため息を吐きながら呟くように言えば、背後で低く甘い声がした。

「……誰もいないとこ選んだからだよ」

「え? なんでですか?」

 たしかに休憩場所は佐野が選んだ。飲み物を買いに行く前、ここで待ってて、と言われて、今し方閉じた扉の前で待っていたのだ。

 どうしてこんな端のほうに、と思わないでもなかったが、歩き回って疲れていたし、静かな場所でゆっくりしたかったからとくに気にも留めなかったのだけれど。

 言われてみれば、なぜテラスや中庭のベンチなどではなく、座れるものもない場所を、佐野は休憩場所に選んだのだろう。

「なんでって……」

 背後の佐野を振り返って尋ねれば、佐野は珍しくどこか困ったような顔をして首を摩りながら口をひらいた。

「……ふたりになりたかったから」

「ッ!」

 ため息交じりに言われた言葉に、一旦落ち着いていたはずの心臓が、ドッ、と音を立てて跳ねた。

 言われた言葉の意味が分からないほど馬鹿でも鈍感でもない。

 そういえばさっき、佐野はなにを言おうとしていたのだろう。

 話の途中で思わぬアクシデントに見舞われてしまったため、頭から飛んでしまっていたが、聞いてほしい話だと言っていた。

「まさかこんな状況になるとは思わなかったけどな」

「……ほんっとすいません」

 低い声で言われた言葉に頭を下げ、「そのことについては弁明のしようもなく……」と続ければ、息を吐くように笑われたのが分かった。

「いいって。タケミっちが間抜けだって知ってたし」

「……巻き込んじゃってほんとすいません」

「いいよ、巻き込まれても。いっしょにいれんならそれで」

「………………」

 甘く低い声に顔を上げれば、ゆるやかに歪む黒目がちな瞳と目が合う。ゆる、と歪んだ瞳はどこまでもやわく。

「……いっしょにいたらタケミっちのドジに巻き込まれるっつんなら、それに慣れてくしかねえだろ」

 ゆっくりと立ち上がった佐野はポケットから携帯を取り出し、扉の脇に立つ花垣の元まで歩いてくる。「ここは電波入るな」と先日遭難した、電波の入らない雑木林の崖下と比較するようなことを言った。

 告げられた言葉が体の奥底に沈んで滲むように、じわじわと全身に広がってゆく。

 なにか言葉を返そうと思うのだけれど、気持ちばかりが溢れて言葉が追い付かない。

 いつもそうだ。佐野に与えられたものを彼にも返そうと思うのに、いつも上手にできない。花垣を嬉しくさせる言葉をくれた彼を喜ばせる言葉を見つけられない。

 だから全身に広がる感情ばかりが大きくなってゆく。

 こんなに、胸が震えるくらい、愛しいと思うのに。

 どうやってそれを伝えたら良いのだろう。

「……っ」

「ケンチンたちに電話して、店の人呼んでもらお。そしたらすぐ、」

 花垣を見た後、扉の様子を確認するためか、上を見上げながら言葉を紡ぐ佐野に手を伸ばす。携帯電話を握っていた腕を掴み、軽く引けば、大きな瞳がこちらを向いた。

「どうしたタケミっ、」

 薄く、形良い口唇が花垣の名前を呼ぶより先に、首を傾けて口唇を押し当てる。

 頬に触れた睫毛が揺れて、かしゃん、と足元に携帯電話が落ちる音がした。

「……すき」

「……ッ」

 一度だけ押し当てた口唇をゆっくりとはなし、震える手で佐野の腕を掴んだまま。

 伏せていた視線をそっと佐野へと向ければ、ちいさく見開かれた大きな瞳と目が合った。かと思えば、黒目がちな瞳がわずかに歪み、そのまま扉に押し付けられる。

 すこしだけ傾いた首に合わせるようにして首を傾け、押し当てたられた口唇に応えた。

 「…っん、…、」

 押し当てられるように触れるだけ。お互いの口唇の感触を確かめるように、口唇の形を重ね合わせるようにして、何度も何度も夢中になってキスをする。

 互いのあいだに響くのはお互いの吐息と、口唇がはなれる際の、ちゅ、というちいさなリップ音だけ。

 口唇が完全にはなれる前にまた重ねて、はなれてはまた重ねる。その繰り返し。

「……、…すき」

 伝えなければならないことは、もっと他にあった。

 もうこれ以上好きになることなんてないと思うのに、それでも次々溢れてゆく想いは、もっと長くて難解でたくさんの語彙にあふれていて、もっと、もっと、相応しい言葉が他にあるはずなのに。

 好きだ。

 それ以外、他に言葉が出てこない。

 何度も重なるキスの合間に繰り返し囁く。好き、好きだと。もうどうしようもないんだと。

 好きで好きでたまらない。もうこれ以上育つことなんてないと思うのに、それでも彼の顔を見るたび、声を聞くたび、触れるたびに毎回毎回好きになる。

 静かな波の音がした。重ねられた手はあたたかくて、涙が出そうだった。そっと握り締めれば同じだけの力で握り返されて、甘く優しい声が、あったかいね、と呟いた。

 雨の降る教室で、学ランを肩にかける際、頬に触れた指の感触。首筋に顔を埋めると擽ったそうに笑って、ただ抱き締めてくれた。

 騒がしいグラウンドで、明るい広場で、夕暮れに染まる濃藍に満ちた部屋で、暗い雑木林で、冷たい風が吹く、ショッピングモールの中庭で、閉じ込められた倉庫の中で。

 甘く低い声が呼ぶのが自分の名前だけだといいのに。

 大きな瞳にうつるのが、あたたかい手が触れるのが。

 やわく歪む眼差しで見つめられるのが、自分だけならいいのにと。

 そんな欲張りなことを思ってしまうほど、好きで、欲しくて、もうどうしようもない。

 凛と前を向く横顔が好きだ。決して振り返ることのない背中を見上げるのが好きだ。

 わがままを言って、思い通りにならないと不機嫌になるところはすこし面倒だと思うけれど、言うことを聞いたあとに不機嫌だったことなんて忘れるくらい嬉しそうに笑う顔が好きだ。

 家族思いなところ、友達を大切にしているところ。

 強引なところも、横暴なところも、彼らしくてほんとうはそんなに嫌いじゃない。

 ひとりでなんでも背負い込む癖、誰にも相談しないところ、弱い部分を見せまいと感情を表に出さず隠してしまうところは正直好きじゃない。

 けれど、そんな彼が、どうしようもなく尊いものだとも思う。

 彼の傍で笑って、泣いて、怒って、喜んで。

 そうやって過ごしてきた時間は、自分にとって掛け替えのないもので、楽しいことも苦しいこともあったけれど、それでもこれからもずっといっしょにいたいと願う。

 好きだと思う気持ちに理由はないかもしれない。

 けれど彼に対する想いを挙げれば、あれもこれもととめどがない。


 たくさんあるんだ。伝えたいことが。

 ほんとうは、こんなたった二文字じゃ伝えきれないほど、君に伝えたいことがあるんだ。


 けれどどれも言葉にならない。言葉にすることができない。

 この想いを言葉で現わすことなど、きっと一生かなわない。

 たった二文字しか知らない。けれど自分が知るなかで、これがいちばん伝えたい言葉だから。

 だから、この想いを込めたたった二文字を、せめて。

「……すき…っ」

「………………」

「…ッ、……マイキー君、だいすき」

「……っ、たけみち」

 合わさった口唇から、名前を呼ぶ低く甘い声が漏れる。それを飲み込むようにまたキスをして、それしか知らないように好きだと口にするたび、飲み込まれるようにキスをされる。

 体を抱く佐野の首に手を回して、鼻先を合わせながら、飽くことなく何度もキスをする。

 頬に触れる手に頬を寄せ、潤びったように揺れる瞳を見つめて、もうおぼえてしまった佐野のにおいを感じながら。

「…………おれも」

「…っ」

 合わさった口唇から聞こえてきた甘く低く、優しい声が囁く言葉に、哀しくもないのに涙が止まらなかった。




 さほどはなれていないはずなのに、鉄製の扉越しであるためなのか、どこか遠くから聞こえてくるイベント会場の音声を聞きながらまろやかなにおいに顔を埋める。

 柔らかな髪が頬を撫で、あたたかい背中に腕を回せば、体を抱き締める腕の力がほんのすこしだけ強くなった。

「マイキー! タケミっち! いるか!」

 ふいに聞き慣れた声が聞こえてきて、返事をしたあと、そっと体をはなす。泣きやんでからしばらく経っているため、目元の赤みは引いただろう。

「いねえと思えば、お前等なにやってんだよ! ったく……今開けてもらうからちょっと待ってろ!」

 鉄製の扉の向こうでなにやら話をする声が聞こえて、扉からすこしはなれる。じゃらりと金属同士が触れ合う音がして、鍵穴に鍵を差し込まれたのが分かった。

「タケミっち」

 鍵が開けられる直前、名前を呼ばれ振り返れば、緩やかに歪む黒目がちな瞳と目が合う。

 佐野は一度だけゆっくりと瞬いたあと、わずかに首を傾げ、伺うように聞いてきた。

「俺とつきあってくれる?」

 直後、背後でガチャリと音がして、ゆっくりと扉がひらかれる。

 緩やかに歪む瞳に返す言葉なんてひとつしかない。

「……もちろんです」

 よろしくお願いします、と頷いて返せば、佐野が嬉しそうに笑う

 その顔に花垣も嬉しくなって同じように笑えば、ふいに、暗い倉庫に光が差した。

「よろしくって、なにが?」

「、………………」

 ひらいた扉から龍宮寺が現れたかと思えば、なんとも言えない顔をした三ツ谷に腕を引かれ、なぜか倉庫を出ていく。

 倉庫の中にイルミネーションの光が差し込み、佐野の大きな瞳がその光を跳ね、まるで水面のように優しく揺れていた。



***



 ぺらりと音を立ててめくられた雑誌のページを凝視するように見下ろし、腕を組んで、うーん、と唸るような声を上げる。

 隣からじっと注がれる視線がプレッシャーで、ちらちらとそちらを気にしながら、震える指先で雑誌を指させば、ものすごく嫌そうな顔をされたあと、匙を投げるように息を吐かれた。

「センスいいやつ選べつったじゃん」

「いやこれがいちばん格好良いじゃないですか!」

「マジで言ってんの?」

「マジですけど」

「死んでるどころか終わってんな。救いようねえわ」

「そ、そこまで言いますか……」

 花垣に服を選ばせるのに飽きたのか、適当に雑誌を閉じたあと、適当にそのへんに放る。テーブルの上に置いてあった紙袋から取り出したたい焼きを口に放り、もぐもぐと頬を動かしながら、ソファに座る花垣の膝の上に足を放った。

「足置きにしないでくださいよ」

「タケミっちが丁度いい位置にいるからじゃん。やならもっとこっちこい」

「………………」

 すこし気恥ずかしかったけれど、膝の上の足を丁寧に下ろしたあと、呼ばれるまま佐野の近くに寄る。

 花垣が大人しく従ったことに満足したのか瞳を細めたあと、座れ、と言うようにカーペットの敷かれた床を指さされた。

「素直じゃん」

 言われるまま、佐野と向き合うように床に座り込めば、甘く低い声がくすぐるように言ってそのまま抱き締められる。固く締まった腹の感触を服越しに感じながら目を閉じ、佐野の腰に手を回した。

「……マイキー君、いいにおいしますね」

「どんなにおい?」

「……マイキー君のにおい」

「分かんねえよ」

 おかしそうに笑う声に、「だって他になんて言っていいのか分かんないすもん」と笑いながら返す。

 佐野は香水のにおいだと言うけれど、それだけではないと思う。それに混じるまろやかで甘いにおいは、やっぱり佐野のにおいだった。

 髪を撫でる手や頬に触れる口唇の感触がくすぐったく、首を竦めて笑えば、そういえばさあ、と佐野が思い出したように声を上げた。

「聞いてよタケミっち」

「なんですか?」

「ケンチン、三ツ谷のこと好きなのかも」

「え?」

 突然の発言に思わず佐野を見上げれば、衝撃的な言葉を告げたわりに佐野も怪訝そうな顔を浮かべていて、両手で包んだ花垣の頬をゆるく揉んだ。

「どういうことですか?」

「ケンチンさあ、よく三ツ谷の話すんだよね」

「まあ……ふたりとも仲良いですし、話題が多いだけじゃないすか?」

「そうなんだけど、なんか三ツ谷の話するときだけ見たことねえ顔するっつうか」

「見たことないって……どんな?」

「んー……うまくは言えねえけど」

 頬を撫でるように揉みながら佐野は、うーん、と悩まし気な声を上げる。余り他人の色恋に興味はなさそうな佐野だけれど、やはり対象が龍宮寺と三ツ谷となると気になるのだろうか。

 花垣を見下ろして、どう思う?、と聞いてくる佐野に、花垣も想像してみるが、佐野すら見たことのない龍宮寺の顔など花垣には想像もできない。

 たしかに龍宮寺と三ツ谷は仲が良いようで、よくふたりでいるところを見かけるけれど。

「たしかに仲は良さそうですけど……それが恋愛かどうかは」

「俺もそう思うけどさあ」

「気になるんすか?」

「まあ三ツ谷とケンチンのことだからな」

「うーん……」

 龍宮寺のことをいちばん近くで見ている佐野だからこそ気になるのかもしれない。

 たしかに、龍宮寺と三ツ谷が、というのは意外といえば意外だが、普段から仲が良いからそうだと言われれば、納得もできないこともないが。

「ちょっと様子見てみたらどうすか?」

「んー……まべつにどっちでもいいっちゃどっちでもいいんだけど」

「なんすかそれ。マイキー君が気になるって言うんなら俺も一応気にして見てみるようにしますよ」

「タケミっちが?」

 佐野が気になるというのならその真相を探る協力をするのは吝かではない。が、佐野はその提案に訝しげな声を上げた。

「タケミっちに分かんの? 恋とか」

「わ、分かりますよ。俺だって恋のひとつやふたつ……」

「……ふたつ?」

 揶揄するように言ってくる佐野の言葉にムッとして言い返せば、両頬を揉んでいた手に顎を持ち上げられる。

 上から花垣をじっと見下ろして柔く歪む瞳は怒っているというより、確認するようなもので、「う」と短い声を上げる。

 どうせ嘘は吐けないし、現状吐く必要もない。佐野は真実を知っているのだから。

「……ひとつです」

 言えば、その答えに満足したらしい佐野は黒目がちな大きな瞳を緩やかに歪めて笑い、顎を持ち上げたまま口唇に口唇を押し当てられた。

「……俺も。お前だけだよ、たけみち」

 嬉しそうに笑う声がじわじわと鼓膜に染み入るようで、たまらず佐野の腰に腕を回して目を閉じる。


 ずっと誰にも言えなかった。佐野にだけは絶対に隠しておこうと思っていた。

 けれど彼のことを知るたび、彼に逢うたび、好きだと思う気持ちは膨れ上がる一方で。

 受け入れられることはないかもしれない、拒絶されるのがこわい。彼と構築してきた関係が壊れてしまうくらいならいっそ、永遠に口を閉ざそうと思っていた。

 それなのに膨れ上がる気持ちはもう自分ひとりではどうしようもできなくて、緩やかに歪む瞳に見つめられるたびに、溢れて零れ、もう佐野に見えてしまうんじゃないかと思うくらい。 

 けれど佐野は溢れて零れたそれを拾ってくれた。いつも花垣を大事にしてくれるように、いつも花垣に優しくしてくれるように。

 いつも花垣の名前を呼ぶ、甘く低い声で、俺も、と言って。

 これからも今までのように、彼の隣で泣いて笑って、怒って、喜んで。様々な感情をかかえてゆくことになるだろう。

 それは決して楽しいことだけじゃないかもしれない。苦しい想いをして、泣きたくなることがあって、眠れない夜を過ごす日々もあるかもしれない。

 或いは、彼が花垣の手をはなしてまうことだって。

 けれど、もしそんなときがきても、決して自分から手をはなそうとは思わない。

 手がはなれてしまったら、何度だって握りに行く。

 嫌がられても、振り払われても、何度だって。


 あの日、静かな海岸で、佐野が優しく手を握ってくれたみたいに。



 ぎゅっと体を抱きしめる腕はあたたかく、耳元で言葉を紡ぐ声は優しく、いいにおいがする。

 すり、と頬を寄せれば、ゆっくりと頭を撫でる感触がして、それに甘えるように佐野の膝に頭を乗せた。

「……タケミっち、犬みたいだけど猫みてえ」

 楽しそうに笑う声に嬉しくなって膝に頭を乗せたまま、花垣も笑う。

 人間なんですよ、と冗談混じりに答えれば、知ってる、と耳に慣れた優しい声が返ってきた。









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