背後から圧し掛かってくる重みを全身で受け止めながら、握った菜箸で鍋の中の野菜を転がす。
窓の外からは表の通路を駆け抜ける子供たちの声が聞こえてくるが耳に障るほどのものではなく、窓から差し込む柔らかな陽射しも相俟って麗らかな昼下がりといった感じだ。
妹たちは朝から揃って友達の家に出掛けており、夕方まで帰ってこない。
休みの日に龍宮寺が三ツ谷の家に遊びにくることは、そう頻繁ではないにしろさして珍しいことでもなく、この日も妹たちと入れ替わるようにして朝から龍宮寺が遊びに来ていた。
ふたりきりという状況だが、セックスをするのは龍宮寺の部屋で、と決めていて、キスしたり密着することはあっても、そういう雰囲気になることはなく、雑誌を読む龍宮寺と話をしながら部活の課題をこなしていたのだが、13時をすこし過ぎたころ、龍宮寺が空腹を訴えたので昼食を作ることにした。
なんか煮物が良い、とリクエストがあったので手早く作れる肉じゃがにしたのだけれど、待ちきれないのか、先程から背中に覆いかぶさってくる。
火を使っているけれど、あとは煮えるまで放置しておいて大丈夫だし、妹たちもいない。嫌というわけでもないので文句は言わず、そのままにしておいた。
「まだ?」
「もうちょっと」
のす、と肩に顎を乗せられ、耳元で響く低い声に笑いながら頬に頬を寄せる。
「味噌汁いる? 今朝の残りだけど」
「いる」
「分かった。食器とか出すからちょっと退いてくれる?」
「俺が出すからお前は鍋見てろ」
「じゃあ箸も出しといて」
背中からはなれた龍宮寺は、もう何度も三ツ谷の家で食事をしているため、食器の場所も覚えているのだろう。勝手知ったる、というていで食器棚から食器を取り出す。
コンロ脇に置かれた皿に鍋の中の肉じゃがをうつし、味噌汁の鍋を火にかける。味噌汁をあたためているあいだに茶碗に白米を盛り、居間のテーブルに運んでもらった。
料理をすべて運び終え、向かい合わせに座って手を合わせる。
龍宮寺は大食漢というわけではないけれど、食事量は体格に見合ったものだ。米も多めに出したけれど、あっという間に平らげてしまい、見ていて気持ちが良かった。
「三ツ谷の飯マジうめえ」
「そう言ってもらえるように作ってますから。コーヒーでいい? お茶?」
「コーヒーでいい」
居間で満足そうにしている龍宮寺に台所から尋ね、返ってきた言葉に頷いてお湯を沸かす。そのまま台所でお湯が沸くのを待っていたら、食器を片すために龍宮寺も台所へとやってきた。
「そのままにしてていいよ。後で片すから」
「いい。俺がやる」
「そう? じゃ頼むわ」
コンロの前に立つ三ツ谷の隣に立ち、シンクに浸した食器を洗い始めた龍宮寺を眺める。
龍宮寺は気が利くタイプだと思う。気が利くというか、マメというか律儀というか。
三ツ谷に料理のリクエストをしてくるのはしょっちゅうで、よく彼に言われて色々なものを作るけれど、買い物に行けば荷物は持ってくれるし、準備も後片付けもしてくれる。
食費に関しては「ついでだからいいよ」と断っているのだけれど、それも律儀に置いていく。
料理は好きだし、得意だと言っても過言ではない。龍宮寺はいつも美味いと言って食べてくれるから、龍宮寺のために料理をするのは苦にならない。
だからべつにいいのに、と思うのだけれど、そうやって三ツ谷にばかり負担をかけることを良しとしないのだろう。龍宮寺らしいといえば龍宮寺らしい。
「ドラケンのそういうとこ、俺すげえ好きだよ」
「あ? そういうとこってどういうとこだよ。皿洗ってるとこ?」
「まあ、それも好きだけど」
皿を洗いながら首を傾げる龍宮寺の肩に額を押し付けて笑う。
そうこうしているうちにお湯が沸き、二人分のコーヒーを入れて居間に戻った。
「ルナマナ何時頃帰ってくんの?」
「最近暗くなるのはええから、17時には帰ってこいって言ってる」
「じゃあそんくらいに帰るか」
「今日母ちゃん早く帰ってくるって言ってたから、俺もいっしょにドラケンとこ行こっかな。いい?」
「おー、来い来い」
のんびりとした昼下がり、ふたりだけの部屋でのんびりと過ごしながらそんな会話をしていると、ふいに三ツ谷の携帯電話が着信を知らせた。
脇に置いていた携帯を手に取り、相手を確認してみれば、電話をかけてきたのが佐野だということが分かる。
佐野から三ツ谷に直接電話がかかってくるのは、わりあいに珍しいことだ。いつも龍宮寺伝手がほとんどなのに。
「珍し、マイキーだ」
「あ? マイキー?」
「うん。もしもし」
龍宮寺と顔を見合わせてから電話に出れば、「あ、三ツ谷?」と電話越しに聞き慣れた声が聞こえてきた。
「なあ、風邪ひいたときってなに食えばいい?」
「風邪? なにマイキー、風邪ひいたの?」
そのわりに、声は元気そうだが。
突然言われた言葉に、質問に答える前に耳に届いた言葉を繰り返し、逆を質問を返してしまう。
出逢ってこの方、佐野が風邪をひいたなんて聞いたことがない。健康状態は良好で、元々体も丈夫な方だ。
マイキーが風邪?、と隣で三ツ谷以上に深刻そうな声を出す龍宮寺に苦笑する。龍宮寺は佐野のことになるとすぐに顔色を変える。
「いや、俺じゃなくてタケミっちが」
「……タケミっち?」
ふいに出てきた名前に思わず真顔で聞き返してしまった。
花垣の名前が出ることに関してはさほど気にすることでもないが、それが佐野の口から紡がれたとなるとまた話は別なのだ。
「タケミっち? おい三ツ谷、どういうことだよ」
「ちょっと待って、今話聞いてるから」
「三ツ谷、誰と喋ってんの?」
「ああ、今ドラケンといっしょにいて……それよりタケミっちが風邪ってどういうこと?」
身を乗り出してくる龍宮寺を抑えつつ佐野に話を聞いてみる。
佐野の話によれば、この日、佐野と花垣は連れ立って出かける予定を立てていたそうだ。
けれどすこし前に花垣から佐野に、風邪をひいてしまったため出かけられなくなった、と電話が入ったらしい。
「だから見舞い行ってやろうと思ってさあ」
「……優しいじゃん」
短い説明を聞いて、言いたいことは色々あった。
また二人で出かける予定を立てていたのか、とか、わざわざ家まで見舞いに行くのか、とか。
けれど、それを口にするのはグッと堪え、なんとか無難な言葉を返すた。
佐野が花垣に好意を抱いているのはもう明白だ。疑う余地はないと三ツ谷は思う。
すこし前まではその真意を確かめるために佐野と花垣の様子を見ていなければいけないと思ったけれど、佐野の本心が三ツ谷の中ではほぼ明らかになった以上、余り首を突っ込むのも無粋だとも思う。佐野や花垣からそのことについて相談されたというのならまだしも、自分たちの行動が佐野の想いを邪魔してしまう可能性だってある。
ゆえにすこし放っておいて、展開を見守ったほうが良いかもとは思うのだけれど。
「だって、タケミっちんとこ、今日親いねえって言うんだもん」
「………………」
旅行行ってんだって、と続けて電話越しに聞こえてきた言葉に、三ツ谷はいっそ頭を抱えたくなった。というか、その場で頭をかかえた。
親がいない? 旅行?
じゃあ花垣は今家にひとりでいて、そんな花垣の元に佐野は向かうつもりでいるのか。
それはいいのか?
いや、なにがだめなのかと聞かれたら、とくべつだめなことなどないかもしれないが。
家族のいない家、花垣の部屋にふたりきり。
ふたりで出かけたりしているから、ふたりきりになるのはべつに問題でもなんでもないかもしれないが、しかし、それとこれとは状況が違うのではないか。
額に手を当て、頭をかかえながら、手を伸ばし、龍宮寺の腕を掴む。
佐野が花垣のことを好きなのかもしれない、と気を揉んでいた龍宮寺はずっと、こんな気分だったのかもしれない。
「マイキー、ちょっと待ってて」
「早くな」
電話口を手で押さえ、龍宮寺にことの事情を手短に説明する。龍宮寺は眉を寄せて話を聞いていたけれど、最終的に三ツ谷と同じように額に手を当て、頭を抱えてしまった。
「どう思う? 行かせてもいいもんかなこれ」
「……正直、今までこんなことなかったから、俺にも分かんねえ」
龍宮寺の言う「こんなこと」というのは、佐野が誰かを好きになったということだろう。だから佐野がその相手に対し、どんな状況で、どう出るのか、龍宮寺にも想像がつかないのだ。
これが喧嘩などであったら、答えも簡単に分かるのに。
「……俺等も行くか?」
「まあ、それが無難かもね。なにかあってからじゃ遅いし」
最終的に行きつく答えは結局、それしかないわけで。
「マイキー、俺達も行くよ」
「は? 三ツ谷たちもくんの?」
「うん。風邪なら栄養あるもん食わせてやったほうがいいしさ。マイキー、料理できねえだろ?」
「まあ、そうだけど。今から来れんの?」
「すぐ行くよ」
「分かった」
花垣の家になにもなかったときのために、諸々買って行ってやった方がいいだろうということになり、花垣の家の近くの商店街で待ち合わせをすることにして電話を切った。
三ツ谷たちも合流するという言葉に、佐野は別段不満そうではなかったけれど、タケミっち一応病人なんだから騒ぐなよ、と釘を刺される。佐野はそういった常識だけは持ち合わせていたりするのだ。
「心配しすぎかなあ」
「いやでも、マジなんかあってからじゃ遅えしな」
出かける支度をしながら龍宮寺とともに、うーん、と声を上げる。
佐野は花垣を大事にしているようだから、風邪をひいている花垣相手に無体を強いるような真似はしないとは思うけれど。
風邪をひいているということは発熱している可能性だってある。
佐野を慕っている花垣は、弱った状態でも佐野が訪れれば喜んで迎えるだろう。
発熱によりいくらか頬を上気させ、水分の滲んだ目で、体調が悪いため、その笑顔はいつもより弱々しいものかもしれない。
まだ幼さの残る高く甘い、風邪によりいくらか掠れた声で、マイキー君、と佐野を呼ぶ。
もし佐野が三ツ谷たちの思い込みなどではなくほんとうに花垣を好きだったとしたら、そんな花垣を前にして冷静でいられるだろうか。
「……マイキーだって男だしなあ」
「やめろよ、こういう状況で聞きたくねえ……」
想像してしまったのか、龍宮寺はまた頭をかかえてしまう。
大袈裟な、とすこし前まで思っていたけれど、たしかにこれは憂慮すべきことなのかもしれない。
佐野の恋は応援してやりたいけれど、それはそれでやはり様子を伺っておく必要があるのかもしれなかった。
ふたりで頭をかかえつつも三ツ谷の家を出て、佐野との待ち合わせ場所へと向かう。
商店街の入口に立っていた佐野は珍しく携帯電話を弄っていて、画面をじっと見つめながらわずかに眉を寄せていた。
マイキー、と声をかけても携帯を見つめたまま、反応がない。
「お待たせ。どしたの、なんかあった?」
「……タケミっちからメール返ってこなくなった」
「寝たんじゃね?」
「タケミっち咳出るとか言ってた? 喉痛いとか」
「咳はあんまりらしいけど、喉いてえつってた。あと熱あるって」
「じゃあ解熱剤とか買って行ったほうがいいかもね。腹になんか入れたほうがいいけど、喉痛いなら喉越しいいやつのがいいかな」
「とりあえず必要そうなもん買ってってやろうぜ。オラ、行くぞマイキー。返事こねえなら携帯見てても仕方ねえだろ」
龍宮寺に促され、携帯を閉じた佐野を連れてとりあえず薬局へと入る。
おそらく体温計は家にあるだろうけれど、風邪薬や熱を吸収するシートの類があるかは不明だ。咳は余り出ないらしいが、念のため、マスクも買って行ってやったほうがいいだろうか。
妹たちが風邪をひいたときに揃えるものを思い出しながら、薬局の狭い通路を進んでゆく。
「なあ三ツ谷、風邪薬ってどれ買えばいいの? 粉のやつ? シロップ?」
風邪薬が置かれているコーナーで足を止め、佐野の声を聞きながら症状と薬の効用を照らし合わせつつ薬を選ぶ。
「んー、まあ症状にもよると思うけど……効き目が早いのは粘膜吸収って言うよね」
「ねんまく?」
「ああ、座、」
隣で首を傾げる佐野に顔を上げ、口をひらいたところで我に返った。
「……タケミっちの年なら、錠剤でいいんじゃね?」
喉の痛み、発熱に対する効用がある風邪薬の箱を手に取り、にっこりと笑って佐野に手渡せば、佐野は曖昧に頷いて龍宮寺が抱えるカゴに風邪薬を放り込んだあと、じゃあ次はデコに貼るやつ、と言って通路を先に進んで行った。
「……三ツ谷」
「っぶねえ……余計なこと言うとこだった」
己の迂闊さに慄きながら、うっかり口を滑らせてしまわなかったことに心底から安堵する。
座薬なんて買って行こうものなら、一体どんな状況になるか分かったものじゃない。
分かったものじゃないが、おそらく現状以上に気を揉む状況になるだろうことは間違いないだろう。
龍宮寺も三ツ谷がなにを言おうとしていたのか察したらしく、なんとも言えない視線を向けてくる。
「お前変なとこで迂闊だよな」
「ごめん……今のは俺が悪かった」
そんな言葉を交わしていたら一旦通路から姿を消した佐野がひょっこりと顔を出し、「ふたりともなにやってんの? 早く」と急かされ、連れ立って佐野のあとを追った。
そのあと薬局でシート、マスクも一応購入し、スーパーに移動して果物やゼリーなどの喉越しの良い食料、清涼飲料水なども買い込む。
ある程度必要なものを揃え、花垣の家へ向かえば、やはり花垣は寝入ってしまっているのかインターフォンに反応こそなかったものの、先に佐野とのメールの遣り取りで佐野が訪れることが分かっていたのか、玄関の鍵は開けてあった。
「タケミっち、来たよ」
「勝手に上がるぞ。三ツ谷、鍵閉めとけよ」
「うん、荷物どうする?」
「とりあえずタケミっちの様子見に行ってからにしようぜ。オイ、マイキー、ひとりで先行くな」
玄関で龍宮寺と話をしているあいだに、脱ぎ捨てるようにしてサンダルを脱いだ佐野はひとりで先に2階へと上がって行ってしまう。
かかえた荷物はそのまま、三ツ谷たちも靴を脱ぎ、花垣の部屋へと向かった。
「タケミっち?」
花垣の私室の扉を開け、佐野が中に声をかけるもやはり返事は返ってこない。佐野の肩越しに部屋の中を覗けば、ベッドの布団が山を作っていて、時折、けほ、という音とともにかすかに揺れた。
揃ってベッドの近くまで寄り、様子を伺えば、花垣は顔を真っ赤にして、寝苦しそうに寝入っている。寝息はひゅーひゅーと息苦しそうで、合間にこほ、とちいさな咳を漏らす。
わりあいに熱が高そうだ。この状態だと起き上がっても動く気にはなれないだろうから、なにも食べておらず、薬も飲んでいない可能性が高い。
汗の滲む額にはシートも、濡れたタオルなども乗っておらず、今日はずっとベッドの上で過ごしていたのだろう。
くったりと顔の横に置かれた手のひらから、ひらかれたままの携帯電話が零れ落ちている。佐野が言っていた言葉から察するに、佐野とメールをしながら眠ってしまったらしかった。
「汗すごいな。着替えさせたほうがいいかも。退いてマイキー、一回起こすから。ドラケン、飲み物取って」
枕元に立って、花垣を見下ろしている佐野を一旦下がらせ、龍宮寺に必要なものを袋から出しておくよう言って、枕元に寄り、手の甲を花垣の額に当てる。
正確な体温は分からないが、やはり熱が高そうだ。
「タケミっち。タケミっち起きろ」
「…ぅ……ん、…三ツ谷君……?」
布団の中に手を入れ、ゆっくり花垣の肩を揺する。寝間着代わりにしているらしいTシャツも汗でしっとりと濡れており、随分長い間発熱で苦しい思いをしていたのだろうと予想でき、すこし痛ましかった。
「なんで、三ツ谷君が……?」
「見舞い来た。しんどいだろうけど一回起きろ。汗掻いてるから着替えて、腹になんか入れて薬飲め」
「けど、今親いないからなんもなくて……薬も切れちゃってるみたいで……」
「色々買ってきたから。起きられるか?」
「はい……すいません……」
体を起こすのも辛そうだったため、手を貸して起こしてやる。けほ、と時折漏れる咳は軽いもので、佐野が言っていた通り、咳はさほどでもなさそうだ。
三ツ谷の手を借りてゆっくりと体を起こした花垣は龍宮寺を見て「ドラケン君も来てくれたんすね」とすこしだけ申し訳なさそうな顔をし、ついで佐野を見上げ、嬉しそうな、けれど泣きそうな顔をした。
「マイキー君……ごめんなさい。今日、約束してたのに」
「……いいよ。タケミっち、へーき?」
「ちょっと熱が高いみたいで……寝てれば治ると思うんすけど」
「なんで風邪なんかひいてんだよ」
「昨夜、風呂入ろうと思ったら間違えて水ためてたみたいで、水風呂に飛び込んじゃいまして……」
ため息が漏れたのはほとんど三人同時だった。
「馬鹿じゃん」
「ギャグかよ」
「ただでさえ季節の変わり目は風邪ひきやすいんだから気を付けろよ」
「すいません……」
力なく笑う花垣の言葉に脱力しつつ、龍宮寺から受け取った清涼飲料水を花垣に渡す。
体を支えるのを佐野と交代し、三ツ谷は花垣を着替えさせるために立ち上がった。
「着替えどこに仕舞ってる?」
「あ、自分で」
「いいからお前は座ってろ」
ふらふらの状態で立ち上がろうとするのを佐野に制され、花垣はまたベッドに座り込む。佐野がわずかに眉を寄せていることに気が付いたのか、「すいません」と消え入りそうな声が聞こえた。
「そっちのクローゼットん中にあるんで、適当に……」
言われた通り、クローゼットの中にあった部屋着にしているらしい服の中から長袖のTシャツとスウェットを取り出す。下着も変えさせてやったほうがいいだろうけれど、今は動くも辛いだろうし、とりあえず服だけを取ってクローゼットを閉じた。
「タケミっち、風呂どこ?」
「風呂ですか? 階段下りて左に行ったとこで……行けば分かると思います」
「ちょっとタオル取ってくる。汗拭かねえとだし」
「待て三ツ谷」
そう言って龍宮寺に服を手渡し、部屋を出て行こうとしたところを、龍宮寺に腕を掴まれて止められた。
花垣は思ったより辛そうだ。早く着替えさせ、寝かせてやりたい一心で、龍宮寺の目を見るまで大事なことを忘れていた。
三ツ谷が部屋を出ていけば、花垣の着替えの手伝いをするのは、この状況だと必然的に佐野になるわけで。
「俺が行く」
じっと三ツ谷を見下ろす龍宮寺の言わんとしていることに気が付いて、ハッとする
慌てて佐野と花垣へと視線を遣れば、花垣と目線を合わせるようにベッド縁に座り込んだ佐野が花垣に飲み物を飲ませていた。
「声ちょっと掠れてんね。喋ってへーき?」
「咳はあんまり出ないんすけどね。大声出さなきゃ、喋るくらいは大丈夫っすよ」
「顔も真っ赤じゃんタケミっち。薬買ってきてやったよ、喉と熱に効くやつ。あと食べるもんも」
「なにからなにまで、ほんとうすいません……」
「いっこ貸しな」
「マイキー君にはいっぱい借りがありますね」
喉を痛めているせいだろうか、いつもよりもちいさな声で言葉を交わしているふたりはやはり仲が良さそうで、花垣は辛そうにしながらも嬉しそうに笑っているし、佐野も穏やかな顔で笑っている。
仲良く話をしているだけなら放っておいても問題ないと思うけれど、これからこの穏やかな光景に一石を投じなければならないのだ。
「……俺ひとりには荷が重いよ」
「だからって俺が残っててもしょうがねえだろうが」
「……じゃあ、待ってるからダッシュで取ってきて」
「……分かった」
佐野と花垣に気付かれないよう、こそこそと会話を交わし、急いで龍宮寺を風呂場へと送り出す。
龍宮寺が戻ってくるの待つあいだ、不自然にならないように買い物袋の中をあさったりしていると、龍宮寺は予想を上回る速度ですぐに戻ってきた。相変わらず頼りになる。
手渡されたタオルを受け取り、意味はないが無言で頷き合ったあと、花垣のもとへ向かう。
「マイキー、タケミっち着替えさせたいからちょっと退いて。汗も拭いてやんなきゃだから」
佐野の肩を軽く叩けば、思いのほかすんなりと佐野は引き下がる。俺がやる、とか言い出さなくて良かった、と思いつつ、先程佐野が腰かけていた場所に腰を下ろした。
「着替えられそうか?」
「はい」
自力で腕を持ち上げるのすら辛そうにしながらも、花垣は服を脱いでゆく。Tシャツを脱いだところで一応手に持っていたタオルを渡してやったけれど、汗を拭くには時間がかかりそうだ。
自力で拭うのはやっぱり無理か、とタオルを貰い、首や脇、胸元など体の汗は三ツ谷が拭いてやった。
「下も脱げ。着替えここに、」
そう言って脇に置いた着替えを取ろうと体の向きを変えたとき、分かってはいたことだけれど佐野の体が視界に入る。
見たくはない。見たくはなかったのだけれど、怖いもの見たさみたいなものだろうか。
視線を恐る恐る上へとずらし、佐野の表情を伺った。
が、予想に反して、佐野はこちらを向いておらず、首の角度を傾けて窓の外を眺めていた。
「……おお」
おや、と思った直後、ほんのわずか、ほんとうに分かるか分からないか程度、三ツ谷が佐野の気持ちを確信していなければ見過ごしてしまっていたかもしれないけれど、その頬がほんとうにすこしだけ赤くなっているような気がして、思わず声を上げてしまう。
窓から差し込む光の加減だったかもしれないし、下から見上げる角度的にそう見えただけかもしれない。
けれど、その瞼が震えるようにかすかに揺れたのが分かって、これは、と思わずにいられなかった。
花垣の着替えを目前にして。
照れているのか、まさか。
だとするなら、今まで見たこともない佐野の姿にどこか感慨深ささえおぼえ、やっぱりマイキー、タケミっちのこと、と思いながらそっと龍宮寺へ視線を向ければ、おそらく龍宮寺は佐野の動向を初めから眺めていたのだろう。どこか愕然とした顔で佐野を見つめている。
なにがあったのか、あとでまた話を聞こう、と思いつつ花垣をそのままにしておくわけにもいかず、体の向きを戻し、着替えを再開させた。
着替えをさせたあと、ベッドに横たえさせ、布団をかぶせてやる。
汗も拭ってやったおかげか、先程と比べるといくらか寝心地も改善されたようだった。
「熱いつから上がり始めた?」
「昨日の夜です。なんかぞくぞくするなと思ってたんすけど、それからすげえ寒くなって……早めに寝たんすけど、今度はめっちゃ熱くて夜中に目さめたんす。そっからずっと苦しくて」
「やっぱ完全に風邪だな。病院連れてってやりてえけど、こんな状態じゃ病院行くのもきついだろうし、もう薬飲んで大人しく寝とくしかねえな」
「すいません……薬も買ってきてもらったんで、あとは自分でなんとか」
「ばか、熱下がるまでいるよ」
花垣の言葉を遮って、声を上げたのは佐野だった。
状況が状況だけに今はその発言の真意を勘繰ることなく、三ツ谷も頷く。
「俺も今日遅くまでいられるし、遠慮しなくていいよ」
「んなふらふらの状態で、足滑らせてまた水かぶられでもしたらたまんねえしな」
喉を痛めているせいで声は掠れ、時折こほこほと咳をし、息苦しそうな気息を繰り返す。赤く火照る頬にはまた汗が滲み出し、すこし起き上がるだけでも辛そうだ。
佐野でなくても、そんな状態の花垣をひとり放って帰るわけにもいかず、龍宮寺といっしょに頷けば、ベッドに横たわった花垣は弱々しく、けれど嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます……」
「んなことくらいで泣くな」
「タケミっち、マジですぐ泣くな」
「泣き虫だからな、タケミっちは」
ぐず、と聞こえたのが風邪による鼻づまりのせいなんかではないことは明白で、その素直さに思わず笑みが漏れる。
佐野が可愛がりたくなる気持ちも分かるのだ。三ツ谷だって、年下で、素直で、元気で、健気な花垣をかわいい奴だと思う。
それはとうぜん、後輩や年下の同性に対するものであって、恋などといった感情ではないけれど。
「とにかく薬も飲まなきゃだし、なんか腹に入れねえとな。タケミっち、食欲あるか?」
「それがあんまり……」
「そっか……けど空きっ腹に薬飲むの、あんま良くねえしなあ。林檎擦ったのとか、ゼリーとかは? 桃缶とか」
「あ、それくらいなら」
「じゃあちょっと台所借りるな。ドラケン、手伝って」
「あ? ああ」
「マイキー、熱計らせて、デコに貼るやつ貼ってやって」
「分かった」
シートやマスク、薬だけをテーブルに出し、残った荷物をかかえ、花垣の私室を出る。念のため、しばらく部屋の外でふたりの様子を伺ってみたが、
「寝てなくて大丈夫?」
「さっきちょっと寝たんで今は大丈夫っす」
「つうかそんなにしんどいんだったら、最初から呼べばいいだろ」
「だって、さすがに申し訳ないですよ。約束も破っちゃったし、そのうえしんどいから見舞いにきて、なんて……」
「意味分かんねえし」
「……けど、来てくれて嬉しかったっす」
「ありがたく思えよ」
「いっこ貸しですか?」
「そーだよ」
「返しきれるかなあ」
と、相変わらず、笑いながらそんな会話を交わしているのがかすかに聞こえてくるだけだ。
三ツ谷は妹たちの世話で慣れているから、たしかに龍宮寺や佐野より素早く的確に対応ができるため、花垣のもとへやってきたことが無駄だとは思わないが、佐野に関しては心配しすぎだったかなあ、と思わないでもない。
たとえ佐野だけで向かわせてもいても、自分達が心配するようなことはなかったのかもしれない。
「そういえば、さっきタケミっちに着替えさせてたとき、すごい顔でマイキー見てたけどなんかあったの?」
「あ? いや……」
いっしょに階段を下りながら、先程気になったことを龍宮寺に尋ねてみる。
龍宮寺は眉を寄せ、うーん、と悩まし気な声を上げて、言いにくそうに口を動かした。
「アイツ最初は普通にタケミっちのこと見てたんだけど、服脱いだ途端下向いたかと思ったら急に外見始めてさ。そっから全然動かねえの」
「ああ……」
「マイキー、タケミっちのこと、そういう目で見てんのかな」
「いや、そりゃそうでしょ」
龍宮寺の思いもよらぬ発言に、三ツ谷は思わず眉を寄せる。
たしかに意外といえば意外かもしれないが、佐野とて自分たちと同じ男である。好きな子ができたのなら、その手の欲を抱くことなどさもあらんことだ。
龍宮寺が佐野を特別視しているのは知っている。龍宮寺だけではない。佐野は自分たちにとってある種特別な存在だ。
だから龍宮寺が、佐野とそういった話題を結びつけにくいというのも、分からないでもないが。
「マイキーだって普通の男なんだから、性欲くらいあるだろうし」
「……性欲ねえ」
「まあ想像しにくいってのは分かんないでもねえけど。特にドラケンはいちばん近くにいるしさ」
「タケミっちのことが好きってのは、まあ納得もできたけどよ……」
「けど、マイキーがタケミっちに欲情すんのは理解できないって? 自分は人のこと散々好きなようにしといてよく言うよ」
「それとこれは違えだろ」
「いっしょだろ、好きなんだから」
言えば階段の途中で龍宮寺は立ち止まり、じっと三ツ谷を見下ろしてくる。
「なに?」
「……たしかに」
そう言って、ゆっくりと視線を落としてゆく。首から胸元、腹、腰、そしてその下へと。
「……どこ見てんだよ」
「いや、まあたしかに好きならヤりたくなるわなと思って」
「……ヤるとかヤらないとかそういう話じゃねえから」
「性欲って、そういうことだろ?」
「まあそうだけど……つうかその目やめろ。人んちだぞ」
ゆるりと瞬くように動く視線に体のラインをなぞられるようで、一瞬喉の奥で息が詰まる。じり、と首筋に走った感覚に、龍宮寺の重みや体温、低い声に慣れされた体は熱を持ちそうになり、反射的に視線を逸らす。
花垣の家だというのに視線ひとつだけでも容赦がなくて油断ならない。あっちもこっちも気を抜くことができず忙しいことこのうえなかった。
「ヤりたくなった?」
「ばか」
く、と喉の奥で笑いを噛み殺して聞いてくる龍宮寺の腕を軽く殴りつけ、先に階段を下りる。
佐野から電話がこなければこの日は龍宮寺の部屋に行く予定で、ただでさえ体がその気になっていたから、その熱をぶり返させるようなことは、すくなくとも今はやめてほしい。
予定が変わったからといってなかったことにできるほど、心も体もまだ大人にはなりきれないのだ。
後ろで可笑しそうに笑っている龍宮寺を睨めつけつつ、キッチンの扉を開け、抱えていた荷物をテーブルの上に置く。
余所の家で、慣れているというわけでもないから手探り状態で擦りおろした林檎を用意し、器に移す。
人の家の冷蔵庫を開けるのはいささか気が引けるが、状況が状況のため、大目に見てもらおう。
冷やしておいたほうが良いものは冷蔵庫に入れ、そうでないものはそのままテーブルに置いておく。花垣が欲しがったら、また後で取りに来れば良いだろう。
「スプーンどこだ」
「そっちの引き出しじゃない?」
「いやこっち皿だわ」
「じゃあこっち?」
ふたりでなんとかスプーンを探し出し、テーブルの上にあったトレイを借りて、林檎とスプーンを乗せる。食べられそうならと、一応白桃のゼリーも乗せておいた。
「食ってくれればいいけど。薬飲まねえと熱も下がんねえからな」
「結構熱高そうだったな」
「うん。マイキーが熱計ってくれてると思うけど」
連れ立って階段を上がり、花垣の部屋へと向かう。トレイをかかえていたため、龍宮寺に扉を開けてもらい、三ツ谷が先に部屋に入った。
「タケミ、っ!?」
けれど一歩足を踏み出した直後、視界に飛び込んできた光景に体が硬直してしまい、背後の龍宮寺が背中にぶつかる。
「いて。なんだよ三ツ谷、どうし、」
そしてその直後、背中に触れる龍宮寺の体もビシ、と音を立てるように硬直したのが分かった。
ひらいた扉の先、熱を計るためか、それともシートを貼るためなのか、花垣が体を起こしているのが分かる。けれど花垣の顔は見えず、見えるの佐野の後頭部だけだ。
ベッドの縁に腰を下ろした佐野に手を掴まれた花垣は、そのまま佐野に引き寄せられたかのように、若干体を傾がせて佐野と顔を合わせている。
「ッキ、」
その光景は、どう見てもキスをしているようにか見えず、思わず見たままの光景を口にしようとすれば、後ろから伸びてきた大きな手のひらに口を塞がれた。
なにをやっているんだ、と冷静に考えることはできず、キスしてる、とやはり見たままの光景を反復することしかできない。
衝撃の余り、かかえていたトレイを落としそうになったが、それだけはなんとか死守した。
先程花垣の裸体を目の当たりにして我慢できなくなってしまったのだろうか。
本能を剥き出しにしている佐野を目にする機会はすくなくない。彼の理性が鋼でできているわけではないと、重々承知していたけれど。
けれど相手は病人だ。随分辛そうにしていたのは佐野も見ていただろうに、そんな相手にいきなりキスをするなんて。いくら佐野相手でも花垣もショックを受けるんじゃ、とかそんなことを思いながら、声をかけることもできず愕然としていると、ふいに佐野と花垣を顔をはなした。
「やっぱちょっと熱高いね」
「そっすか?」
「うん、すげー熱い。熱計れた?」
「えっと、あ、今……あー……」
「うわ、39度近いじゃん。脳みそ無事?」
「思ったより高、あ、三ツ谷君、ドラケン君」
ごそごそと衣服の中を探った花垣が脇に挟んでいただろう体温計を取り出し、ふたりで覗き込む。眉を寄せる佐野に困ったように笑った花垣は顔を上げ、掠れた声で三ツ谷と龍宮寺を呼んだ。
「な、なにしてんだ」
「え? 熱計ってたんすけど」
「タケミっち、めっちゃデコあちいの。俺のデコ溶けるかと思った」
「デコ……?」
「うん。ほら、タケミっちじっとしてろ。貼ってやっから」
「はい」
そう言って佐野は俯き、手元のシートを剥いだあと、花垣の前髪を避けて額に貼り付ける。
ひんやりとした感触が気持ち良かったのか、花垣はひくりと肩を揺らしたあと、うっとりと目を細め、ほう、とちいさく息を吐いた。
「熱計ってただけ……?」
「三ツ谷が計っとけって言ったんじゃん。シートも貼ってやったよ」
言った。たしかに言ったけれど。
それが、あんな衝撃的な光景を見ることになろうとは思ってもいなかった。
どうやらキスをしていたわけではなく、額同士をくっつけて体温の高さを確認していただけのようだけれど、それにしたって心臓に悪い光景だった。
誤解だったと分かった今でも、ドッドッドッ、となぜか早鐘を打っている心臓が落ち着くことはなく、若干胸が痛い。
トレイを片手でかかえ、空いた手でぎゅっと心臓のあたりを握り締め、その直後、ハッとして背後を振り返った。
三ツ谷にとっても度肝を抜かれるほど衝撃的な光景だったのだ。背後から伸ばされ三ツ谷の口を塞いだのは間違いなく龍宮寺の手だが、それ以降動きがない。
気絶してしまったかも、と思い、龍宮寺を見上げれば、微動だにしなかったしなかった龍宮寺の口元がかすかに動き、「ねつ……」とうわ言のように呟いたのが分かった。
分かる、分かるぞドラケン、と思いながら、龍宮寺が気絶していなかったことにホッとする。
けれどさすがに可哀想で、腹から腕を回すようにして背中を叩いてやれば、硬直していた体もすこしずつほぐれていった。
「なにやってんのお前等」
……こっちの台詞だ。
と、口に出かかった言葉を寸でのところで抑え込み、笑顔で誤魔化して部屋の中に入る。
というか、なんだ、額をくっつけて熱を計っていただけか、と思ったけれど、幼子相手ならともかく、十代の男がふたり、額をくっつけて熱を計るのもどうなんだ。
佐野は花垣が好きなんだとしても、それにしたって。
されるがまま受け入れる花垣も花垣だ。
どんな距離感だよ、紛らわしい、と思いつつもテーブルにトレイを乗せ、花垣の傍に寄る。
相変わらず苦しそうな息を吐いて、汗を滲ませている。シートを貼ったことですこしは楽になったようだけれど、ひゅーひゅーと喉を掠めて吐き出される気息は辛そうなものだ。
「林檎擦ってきたけど食えるか?」
「はい…」
「ちょっとずつでもいいから、食えそうなら全部食って。熱高いし、薬飲まねえと」
顔に滲む汗を拭ってやりながら言えば、こくん、と平生より緩慢な動きで頷く。
ベッドの上で体を起こしている花垣の体を支え、寒そうな肩に適当なものをかけてやる。トレイを膝の上に乗せて、林檎の乗った器を手渡してやれば、林檎をすくったスプーンをゆっくりと口へ運んだ花垣は同じ速度で嚥下する。
喉を鳴らして飲み込む様は辛そうだったけれど、同時に冷たいリンゴが喉を通り過ぎてゆく感覚が心地良かったのか、ホッとしたような浅い息を吐いた。
「美味いです」
「食えそう?」
「はい。ありがとうございます三ツ谷君」
苦しそうに熱い息を吐き出しながら笑って見せる花垣に頷き、傍にいては食べにくいだろうからとベッドからはなれる。
龍宮寺も佐野もそれぞれの場所に座り込み、花垣の様子を見ていたり、本棚から取り出した漫画を読んだり。
そのあと、時間をかけて林檎をすべて食べきった花垣に薬を飲ませてやれば、間もなく、花垣は眠ってしまった。
「これですこしは熱が下がればいいけどな」
「食うもん食わせて薬も飲ませたし、あとは様子見るしかねえな」
「どうする、マイキー。タケミっち寝ちゃったけど、帰る?」
「熱下がるまでいるって言ったからいる」
「そっか」
窓際に背中を預けて座り込み、ひらいた雑誌を見下ろしながら時折花垣へと視線を遣る佐野を気にしながら、三ツ谷も適当な場所に腰を下ろす。
かすかに聞こえてくる寝息は、三ツ谷たちがこの部屋に訪れたときよりはいくらか安定したものの、寝苦しそうなのはいまだに変わっていない。
それから幾度かタイミングを見て着替えをさせたり、水分補給をさせたりするために花垣を起こす。声をかけてやればうっすらと目を覚ますが、着替えたり、水分補給を終えてしまえばすぐにまた寝てしまう。
発熱により体力を消耗しているのだろう。余り起こしてやるのも可哀想で、必要以上に声をかけることはせず、寝かせておいた。
静かな部屋には時折、表の道を走ってゆく車の音が響くだけだ。
花垣を起こしてしまわぬように、自然と皆口を閉ざし、雑誌や漫画を読んだり、携帯を弄ったり。
窓から差し込む夕暮れの気配を孕む陽射しは心地良く、隣に座り込んだ龍宮寺がいつしか眠り込んでしまい、その体に凭れかかるようにして雑誌を読んでいた三ツ谷も、気が付けば寝入ってしまっていた。
ふっと意識が覚醒し、うっすらと目をひらいたとき、日暮れを迎えていた空が紫の滲む、濃い紺色に変わっていることに気が付いた。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなったけれど、そういえば花垣の家にやってきていたことを思い出す。
隣に座り込んでいる龍宮寺はまだ眠っているのが分かり、体を動かさずに何度か瞬きだけを繰り返す。
見慣れない部屋は濃い藍色に染まってしまったようで、人影や、辛うじて相手の顔が分かる程度だ。
夕暮れに呑まれてしまったような部屋はひどく静かで、どこか遠くで電車が走り抜けてゆく音が聞こえる。
そんな静かな部屋の中に、今にも消えてしまいそうなほどかすかな話し声が滲んでいることに気が付いた。
「熱、ちょっと下がったな」
「大分楽になりましたよ」
静かな部屋の中では視線の動きさえ音を立ててしまいそうで、声がするほうへゆっくりと視線を向ければ、花垣の顔を覗き込むようにしてベッドの脇に腰を下ろしている佐野と、佐野の方へ顔を向けている花垣の姿が見える。
薄闇の中でハッキリとは見えなかったけれど、額を合わせるほど近くに顔を寄せたふたりが笑っているのが分かった。
「そんなに近付くと風邪うつっちゃいますよ」
「は? そんくらいで風邪とかひくわけないじゃん」
「……マスクして」
「やだ。邪魔くせえし」
布団の中からゆっくりと手を出した花垣が佐野の前髪に触れ、長い髪を耳にかけてやっているのが分かる。
それにくすぐったそうに笑う佐野は、花垣を目交いにしたときに時折浮かべる、あの眼差しを浮かべているのだろう。
笑みを孕んだふたりの声にうとうとと瞼を揺らす。空気を揺らすだけのちいさな声はふたりのあいだだけで響いているようで。まるで内緒話でもしているみたいだと思う。
その密やかさが、どこか甘く。
「……ごめんなさいマイキー君」
「ん?」
「今日、行けなくなっちゃって……折角約束してたのに」
すり、と額を合わせるようにして目を閉じた花垣に、佐野が息を吐くように笑う。
「いいよ」
「またいっこ貸しですね」
ひそひそと囁く小雨のような声が、濃藍に染まる部屋に滲んでは消えてゆく。けれどその音はどちらもひどく優しいもので。
「……んなの返さなくていいから、はやく風邪治せ」
「…………………」
「タケミっちの風邪が治ったら、ふたりでまた遊びに行こ」
「……はい」
夕暮れに染まる部屋の中で佐野の手と花垣の手が重なっているのが見えた。それはお互いに握り締めるというほど明確なものではなく、ただそっと添えられているようなものだったけれど。
額が触れ合うほどの近さで、お互いにしか聞こえないようなかすかな声で囁き合う佐野と花垣が纏う空気は、昼間に見たキスと見紛えた光景よりも余程濃密なように感じたけれど、あのときのように衝撃的な印象は受けず、それを疑問に思うこともなかった。
再度降りてきた瞼に逆らうことなく目を閉じながら。
衝撃的な印象を受けないのは、三ツ谷から見ても、それが自然だと思うからだ。
触れ合うほどの近さで寄り添って、笑って。
これからふたりの関係がどう進展してゆくのか分からない。
佐野の恋が報われるのかどうか。
花垣が、佐野をどう思っているのかも。
けれど現状、こうやってふたりが寄り添って笑っている光景が、三ツ谷にとっても、そしてふたりにとっても自然なものだから。
だから驚きや困惑など、感じることがないのだろう。
そう思いながら傍らのあたたかな温度に凭れかかるようにして、眠りの底へと落ちてゆく。
心地良い温度とふたりの笑みを孕んだ声、暮れなずんでゆく空気を感じて、それに身をゆだねながら。
次に目がさめたとき、花垣の熱が下がっていて、佐野が笑っていればいいと思った。
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