いくらか日が陰ってきたせいで、すこしだけ気温が下がった気がする、麗らかな秋の午後。
脇を走り抜ける子供たちや腕を組んで歩くカップル、友人同士で楽しげに話をしているすこし年上らしい少女たちや大声で笑い声を上げている大学生らしき集団。泣き出した赤ん坊をあやしている家族連れの姿もある。
そんな賑やかな広場で、楽しげな周囲の様子とは裏腹に、花垣は泣きたい気持ちでいやいやと首を左右に振った。
「ま、マイキー君! マジで無理ですから!」
「いーからいーから」
「ほっ本当に無理なんですって! 俺、マジでこわいのだめなんで!」
「分かった分かった」
「なっ泣きますよ!?」
「どんな脅しだよ」
ふふっ、と肩を揺らして吹き出すように笑った佐野は、けれど手首を掴む手の力を緩めることはなく、全力で抵抗しているにも拘わらず、花垣を引きずる足が止まることもない。
佐野とふたりで出かけた先、たまたま通りかかった広場で、10月という季節に合わせてイベントが開催されていた。
広場の広いスペースに設置された黒いテントの外観には、顔のパーツが繰りぬかれたカボチャや蜘蛛の巣、魔女などが若干おどろおどろしく描かれており、テント入口脇の看板には血が滴る文字で『ホラーハウス』と書かれていた。
花垣がいちばん苦手とする類のものだ。絶対に入りたくないし、近寄りたくもない。
そんなことを思いながら見て見ぬ振りをして通り過ぎようと思ったのだけれど、足を一歩踏み出したとき、隣に立っていた佐野にがっしりと手首を掴まれた。
まさか、と嫌な予感がし、恐る恐る佐野のほうを向けば、佐野はにっこりと笑い、「行こ」と今にも声を上げて笑い出しそうな、心底から楽しげな声でそう言ったのだった。
「無理です! ほんと無理ですから!」
「んなショボいお化け屋敷、こええわけねえだろ」
「俺はこわいんですって! マジで無理なんで! マイキー君ひとりで行ってきてくださいよ!」
「俺ひとりで入ってなにが楽しいんだよ。タケミっち連れてくから楽しいんじゃん」
「い、いやだ!」
「俺が守ってやるって」
「じゃ、じゃあはなしてくださいよ! 守ってください今ここで!」
「うるせえな行くぞ」
「やだあ!」
渾身の力で抵抗しているのに、ずりずりと進んでゆく体はまったく止まる気配すらなく、花垣も人のことは言えないが、小柄の部類に入るだろう佐野のどこにこんな力があるのだろうと思わずにはいられない。
脅すような声はけれど始終笑いが滲んでおり、ホラーハウスの外でさえこうなのだ。中に入ってしまえばなにをされるか分かったものではない。
ゆえになにがなんでもホラーハウスにはいるのは回避したいのに、手首を掴む手ははなれていかない。おそらくはなれたとしても締め上げられて、もしくは担がれて連れて行かれるだろう。
「ふたり」
「二名入りまーす!」
「いやだあ!」
受付の女性や入口周辺にいた人達にくすくすと笑われているのが分かったが、気にしている場合ではない。助けを求めるように広場に向かって手を伸ばすが、その手を取って助けてくれるものなどいるはずもなく、また、いたとしても佐野から花垣を奪って連れ出せるものなどいるはずもなく、花垣の叫び声と伸ばされた手は虚しくテントの中に消えてゆくのだった。
迷路のように入り組んだ通路が組まれているテントのなかは薄暗く、BGMらしいBGMはないものの、どこか不安を煽る音が静かに響いている。
外から見るよりもわりあいに広いらしい。その全貌を把握する余裕なんて、花垣にはなかったけれど。
暗がりに座り込み、ぎゅう、と両手で抱き締めた腕が絶えず震えていて、すぐそこから、く、と笑いを噛み殺すような声が断続的に聞こえてくることから佐野が笑っているのが分かる。
「タケミっち……ターケミっち」
「うう…ーっ……」
笑いを堪え切れないらしい佐野が、はは、と心底から楽しそうに笑っている声が聞こえるが、今はそれを批難する気にもなれない。
花垣と同じように膝を折って座り込み、下を向きながら笑っているらしいことが声や空気から伝わってきた。
「なあ、進めねえから。立って」
「無理…っ」
直後、あは、という笑い声と、無理か、と笑いをふんだんに滲ませた声が返ってく
る。人がこわがっているのを見て、ずっと笑っていられるなんて人としてどうなんだ、と思うが今更佐野にそんなことを言ったところで詮無いことである。
「しょうがねえなあタケミっちは。ほら、立て」
一頻り笑ったあと、いまだ笑いを滲ませた声で言われたかと思えば、直後、ものすごい勢いで、ぐい、と抱き締めた腕を持ち上げられる。両腕で抱き締めていたため、必然的に花垣も立ち上がることになり、周囲の景色が視界に入らないよう、咄嗟に佐野の肩に顔を埋めた。
「こわいこわいこわい!」
「っいやだから…っ、なにがそんなにこええんだよ。まだなんもねえじゃん…、っふふ」
ぎゅうう、と佐野の腕を握りしめる両手に力を込め、地団駄を踏みたい気持ちで叫べば、その様がまた佐野を楽しませたのか、しがみついた体が揺れ、甘く低い声が震え出す。
なにがそんなに面白いんだ。こっちはこんなに恐ろしい思いをしているというのに。
「ほら、行くぞ。立ち止まっててもこわいまんまだろ」
「やだやだやだ! 行かねえって無理! こわいから無理!」
「なんもこわくねえって」
「脅かさないでくださいよ! 絶対脅かさないでくださいよ!」
「分かった分かった」
佐野がそう言った直後、脇の壁が勢いよくひらき、ゾンビの腕のようなものが飛び出してくる。
「ギャーッ!」
「うるっせマジ。つか邪魔」
心臓が口から飛び出そうなほど驚いた花垣とは裏腹に、佐野は目の前に飛び出てきた腕に驚くでもなく軽く振り払うように腕を叩き落す。
存外に強い力だったらしく、いてえ、と壁の中からちいさな声が聞こえた気がしたが、今はそんなものに構っている余裕などない。
「ほらやっぱり! やっぱり無理ですって! 出ましょうマイキー君! すぐ出ましょう! ね!?」
「分かった。じゃ出口向かうか」
「ちがうちがうちがうちがう、そっちじゃないそっちじゃねえって!」
「こっちだって」
「ちがうちがう!」
「だって出口ってかいてあるもん」
「出口はこっちだけどそうじゃなくて!」
本気でしがみついているというのに佐野は足を止めるどころか、わずかに痛がる様子すらなく、すこしずつ通路を進んでゆこうとする。すこしずつ進んでいるのだって、花垣にしがみつかれているからではなく、花垣の反応を楽しんでいるからであるということは明白だ。鬼、悪魔、と罵りたいのは山々だが、現状、縋るものも佐野しかないわけで。
佐野の腕に両腕でしがみつき、引きずられながら通路を進むが、ちょっと進むたびに脅かされ、びくつき、驚き、叫び、心臓が爆発してしまいそうだ。
そんな花垣とは裏腹に、佐野は鼻で笑えば反応があるほうで、脅かし要素に対してはほとんど無反応なまま、ただ花垣の反応にずっと愉しげに笑い声を上げていた。
数分間そんな状態がつづき、驚き疲れてしまったと思うのにささいな物音にすらびくついてしまう。しかもまだ通路は続いている。
出口に近付くにつれ、脅かし要素もレベルが上がっていく。花垣の心臓はもうこれ以上恐怖に耐えられそうにないというのに。
「もう無理……!」
ぎゅう、と佐野の腕にしがみつき、肩に顔を埋めれば、ふいに佐野の足が止まった。
「マイキー君助けて……!」
言えば、しがみ付いていた体が揺れ、ふふ、と耳元で吹きだすような声がする。
もうそれを批難する気にもなれず、「うう」と呻き声を漏らせば、背中にゆっくりと腕が回されたのが分かる。密着していたあたたかい体がさらに密着したかと思えば、一瞬、耳に柔らかい感触がかすかに触れたあと、肌を吐息がくすぐり、耳元に口を寄せられているのだということが分かった。
「タケミっち、もう無理?」
耳元で甘く低い声がほんのちいさな声で囁き、それにこくんと頷く。
「そんなこええの?」
続けて聞いてくる声にも同じように頷く。
「もうこれ以上進めねえ?」
また頷く。
耳元で響く声は低く、いつもより甘さを帯びているような気がして、強張っていた体からすこしだけ力が抜ける。
さっきから耳に何度も柔らかい感触が触れて、佐野の声がちいさく囁くたびに、かすかなリップ音のような音が鼓膜に響く。
くすぐったい、と思うけれど、それを指摘したらその感触がはなれていってしまいそうで、それがなぜだか惜しく、黙っていた。
「……じゃあ俺が出口まで抱っこしてってやろっか」
「……だっこ?」
「うん」
「……マイキー君に?」
「うん」
いやそれはさすがに恥ずかしいんじゃないか、と聞こえてきた言葉にはたと我に返る。
決して嫌というわけではないけれど、ちいさな子供でもあるまいし、上背もさして変わらない佐野にかかえて運んでもらうのはさすがに恥ずかしいし情けない。怪我をしているわけでもないのに。
佐野の言葉にしがみついていた腕の力のゆっくりと抜き、埋めていた肩から顔を上げる。
すぐ目の前に佐野の顔があり、その距離にすこしだけ恥ずかしくなってわずかに顔を上げる。その際、すり、と鼻先が触れ合い、一瞬息を飲んだ。
「いや?」
「いや、じゃない、ですけど……」
「……タケミっち」
嫌ではない。嫌ではないけれど。
答えられずにいると至近距離で名前を呼ばれ、目の前の大きな瞳がわずかに伏せられる。花垣の腕の中の腕と、背中を撫でていた腕がはなれ、かと思えば肩をゆるやかに掴まれる。
宥めるように両肩に添えられた手のあたたかさにホッと体の力を抜いた瞬間、勢いよく肩を掴まれ、ぐりん、と体の向きを180度回転させられた。
「ばあ!」
背後で楽しげに揺れた佐野の声が聞こえたのと同時に、目の前に血まみれの女性の顔が現れる。
ついさっきまで佐野の顔があった場所に不気味に歪む顔が現れ、一瞬なにが起こったのか分からなかった。
「ッギャー!」
次の瞬間、余りにもおぞましい光景を脳が理解し、それと同時に叫び声を上げる。
考えるより先に体が動き、肩に置かれた佐野の手を振り払って出口へと向かって駆け出した。
余りの恐怖に溢れてくる涙をそのままに、出口へ向かって一心不乱に足を動かす。
「マイキー君のばかあ! ひとでなし!」
明るい陽射しが差し込む出口が見えたと同時に声の限り叫ぶがそれが届いたのかどうかは分からず。
ただ背後では、あーっはっはっはっはっ、と悪魔が如き笑い声が響き渡っていた。
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