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信仰満ちる眦(+ドラみつ)





 寝返りを打ったのは意識的なものではなく、うとうとしだした意識で、そろそろ帰る支度をしなければと無意識にベッドから出ようとしたためだった。

 けれど背中を向けられたことが気に入らなかったのか、背後から伸びてきた腕にとらえられ、そのままぐいと胸元に引き寄せられる。

 体を引き寄せる腕の感触に夢と現を彷徨っていた意識がハッと覚醒する。

 あぶない、と何度か瞬きを繰り返す。うっかり寝てしまうところだった。

「まだ帰んなよ」

 耳元でいつものように低く、いつもより甘く掠れた声が囁く。その低音がいまだ行為後の余韻が残る体をぞわりと震えさせ、そのわずかな脱力感と耳にかかる吐息のくすぐったさに身じろぎする。

 短い髪の感触を楽しむように頬ずりされ、行動は幼い子供のようだなと思った。

「俺もまだいっしょにいたいけど、そろそろ帰んねえと」

 腹に回る手を宥めるようにぽんぽんと軽く叩いてやれば、体を抱く腕の力がすこしだけ強くなったものの背後で深くため息が吐かれたのち、腕もはなれていった。

「泊まってけよ、って言いてえとこだけどな」

「はは、無理。アイツ等だけにはできねえし」

「つれねえなあ」

「泊まりたくねえわけじゃねえから。拗ねんなって」

 隣で起き上がる龍宮寺の肩に軽く口唇を押し当ててからベッドから抜け出し、床に散らばる服を拾って着込んでゆく。制服のシャツを着込み、ボタンを留めながら、壁にかかった姿見で自身の体を確認する。

 際どいところに残っている痕に眉を顰めつつも文句を言う気にはならなくて、黙ってボタンを留めた。

「なあ三ツ谷、今度の日曜どっか行こうぜ」

「日曜? いいけど、あ、だめだわ。日曜予定ある」

「あ? 予定?」

 ベルトの金具を留めながら、背後の声がすこしだけ低くなったことに苦笑する。龍宮寺の、いつも三ツ谷にだけは他よりすこし感情を露わにするところは、わりと気に入っているところだ。

「運動会あるんだよ」

「ルナマナのか?」

「いや、地区の運動会」

 三ツ谷が暮らしている地区では毎年秋に運動会が行われる。参加者は各家庭から募っていて、三ツ谷は毎年なんだかんだ逃げていたのだけれど、なんと今年、三ツ谷が家族と暮らしているアパートの大家が役員になったらしく、参加を募りに直接家に乗り込んできた。

「うち父親いねえし、母親も仕事じゃん? ルナマナだけ出すわけにもいかねえし、俺が参加しなきゃいけなくなったんだよね」

 人数合わせではあるのだけれど、同年代の参加者がすくないため、いくつかの競技には半ば強制的に参加しなければいけないらしかった。

「マジで面倒だから無視してえけど、ルナマナが世話になったりするからさあ。まあいわゆる近所付き合いってやつ?」

 体を動かすことは嫌いではないけれど、それが地区の運動会ともなると話はべつだ。さすがに億劫だと思わずにはいられず、深い息を吐いてベッドに座り込めば、ふうん、と背後から低い返事が返ってきた。

「だから日曜は空いてねえわ」

「それって同年代のやつだったら、お前の代わりに競技に参加できんだよな」

「まあ……数合わせの参加だからね」

「じゃあ俺も行ってやるよ」

「、は?」

「その代わりお前弁当作れ」

「それはべつにいいけど……えっ、ドラケン来んの?」

 予想外の提案に背後を振り返れば、髪を結んでいた龍宮寺の頭が上下に揺れる。

「地区の運動会とか参加したことねえし」

 地区の運動会どころか、運動会すらまともに参加したことがないのでは、という疑問は口に出さずにおいた。

「お前が走るときは応援してやっから」

「いらねえ……」

「卵焼き入れてこいよ」

「……ドラケンって家庭的な料理好きだよね」

 揶揄するように笑ったあと、おかずのリクエストをしてくる龍宮寺に笑いつつ、側頭部から首筋を撫でる手のひらに首をすくめる。

「じゃあいっしょに行くか」

 首筋から頬に上がってきた手のひらに頬を寄せながら言えば、切れ長の瞳がすこしだけ細くなった。



 運動会当日の日曜日。

 すこし早めに起き出して作った弁当を持って家を出る。運動会の開始時刻は午前10時で、龍宮寺とは現地集合の約束をしている。

 家を出たのは9時をすこし回ったころで、携帯電話で時間を確認しつつちょっと早かったかな、などと考えていた丁度そのとき、龍宮寺から電話がかかってきた。

「もしもし、ドラケン?」

「あっ、三ツ谷か?」

 電話越しに聞こえてきた龍宮寺の声は、若干だけれど焦っているような困惑しているようなもので、一瞬、もしかして今日の約束がダメになったのかも、とそんな考えが頭を過る。

 けれど次いで聞こえてきたのは、まったく異なる内容だった。

「マイキーもいっしょに行くつってきかねんだけどよお」

 直後、あっ、オイコラマイキー今三ツ谷に電話してんだろ、という龍宮寺の声と、ケンチン遅いから先行くぞ、という佐野の声が電話越しに聞こえてきた。

「今日珍しく朝電話かかってきたと思ったら遊び行くとか言い出して、用があるつってんのにじゃあ俺も行くって俺んちまできやがって。おいマイキー、待てって! 場所分かんねえだろお前!」

 電話の向こうでなにやら言い合っている龍宮寺と佐野に苦笑する。

「わりい三ツ谷、つーわけでマイキーも連れてくわ」

「うん、いいよ。弁当多めに作ったし」

「卵焼き入れた?」

「入れたって。あ、なあドラケン。マイキーいるんならさ……」

「……ああ、タケミっちな」

 一瞬、龍宮寺が声を潜めたのは、うっかり佐野に聞かれてしまわぬためだろう。

 相変わらず佐野の花垣に対する感情の正体は不明なままで、それを見極めるために三ツ谷と龍宮寺が奮闘する日々はつづいている。

 通う中学はべつで、親しいとはいえ、頻繁に連れ立って出かける仲というわけでもない。顔を合わせるのは精々集会のときくらい、それと、たまに複数人で出かけるときくらいだ。

 ふたりきりで出かけたという話は今のところ、佐野からも花垣からも聞いたことがない。

 佐野が花垣に対して疑惑の対応を見せるのは、決してふたりきりのときだけではないが、ふたりきりのときはより顕著なものである。

 佐野に対して疑惑を抱いているのは現状、龍宮寺と三ツ谷だけで、他の連中がいっしょにいるときより、佐野と花垣をふたりきりにする機会や、それを観察する隙も作りやすい。

 ゆえに佐野の本心を知るためにも、機会があるのなら極力佐野と花垣を同じ場所に呼んで、その様子を伺っておきたかった。

「俺、タケミっちに連絡してみるよ」

「分かった。マイキーには黙っとくわ。タケミっちがいるって知ったときの反応も見てえし」

 佐野と花垣の件については龍宮寺が一等気を揉んでいるためか、いつもすぐに三ツ谷の意図を察してくれる。話が早くて助かる。

 そのあとすぐに電話を切り、花垣に連絡を入れる。

 電話口で明るく元気な声を出した花垣は丁度暇を持て余していたらしく、「俺も行っていいんすか? すぐ支度して向かいますね!」と快活な返事をしてくれた。

 たしかに花垣はいいやつだ。ちょっと変わったところはあるけれど、それを差し引いても、三ツ谷にとっても大切な友人だと言える。

 いつも一生懸命で、まっすぐで、すこし涙もろいところはあるけれど、健気でひたむきで。

 佐野が可愛がりたくなる気持ちも分かる。

 問題なのは、佐野のそれが恋愛感情を含んだものなのかどうかだ。今日こそなにか決定的な瞬間を確認することができるだろうか。

 運動会の結果より、佐野と花垣の方が余程気になるところだ。

 とりあえず、花垣が来ることを龍宮寺にはメールで伝え、運動会の会場へ向かうことにした。



 いちばんに会場に辿り着いたのは、当然ではあるが近所に住んでいる三ツ谷だった。

 しばらく会場の小学校正門前で待っていると、「三ツ谷君!」と聞き慣れた元気な声が聞こえ、手を上げて応える。

 駆け足でやってきた花垣は頭を下げて挨拶したあと、龍宮寺たちの姿を探すように周囲を見渡した。

「ドラケン君たちはまだ来てないんすか?」

「もう来ると思うけど……あ、来た来た」

 間もなく、佐野を連れた龍宮寺が歩いてくるのが見え、手を上げて場所を知らせる。龍宮寺は上背が高いため、人が多い場所でも見つけやすくて良い。

 龍宮寺と目を合わせたあと、ちらりと佐野を見遣れば、来たがっていたわりにさほど興味はなさそうな顔で会場へ視線を向けており、のち、三ツ谷と花垣、というより主に花垣へと視線を遣って、黒目がちな瞳をゆっくりと瞬かせた。

「なんでタケミっちがいんの?」

「え? 三ツ谷君に呼ばれたからっすけど……き、来ちゃまずかったですかね?」

 横目で佐野の様子を伺っている龍宮寺同様、三ツ谷も敢えて花垣の言葉には反応せず佐野の出方を待つ。

 とくべつ喜んでいる風には見えないが、それはいつものことだ。

「ううん、いるって知らなかったから聞いただけ。おはよタケミっち」

「あ、おはようございます」

「今日、三ツ谷が運動会出るって、タケミっち知ってた?」

「いえ、俺もさっき三ツ谷君に聞きました。マイキー君とドラケン君も来るからって誘ってもらったんすよ」

「ふうん……タケミっち足遅そうだよね。鈍くせえし」

「マイキー君は足速いですよね」

「まあね」

 佐野と花垣はいつも通り、何事もないように他愛ない会話をしている。

 何事もないように他愛ない会話をしているが、だからといって油断できないことは経験上理解している。

 いつも通りじゃん、とくに気になるようなことは言ってないじゃん、やっぱり勘違いなのでは?、とそんなことを思った直後、度肝を抜かれるような光景を、今まで何度目にしたことか。

 見たくもないし、見てはいけないような気もするが、佐野の本心を見極めるために見ていなければならない。

 龍宮寺と視線を合わせ、頷き合ってから、話をしている佐野と花垣といっしょに会場に入る。

 整備されたグラウンドの周囲には簡易の放送席なども設営されており、人もそこそこ集まっている。前以て聞いていたのだが、各競技には賞品も用意されているらしく、賞品目当ての参加者もいるようだった。

「賞品ってなにがあんだ?」

「いいのだと家電とかあるみてえ。あとは文房具とかお菓子程度じゃねえ?」

「ケンチン、かき氷の屋台出てるって」

「あ? 食いてえの?」

「あとでな。とりあえず場所取り行くぞ」

 ふらふらと好き勝手歩き出しそうな佐野の腕を掴み、入口でもらったプログラムを龍宮寺と覗き込みつつ腰を据えられる場所を探す。

 4人揃って座れそうな場所をなんとか確保し、かかえていた弁当を下ろした。

「さっきから気になってたんですけど、これなんですか?」

「ああ、弁当。残ったらドラケンに持って帰らせようと思って多めに作ってきて良かったわ」

「良くねえ……俺の取り分減っちまったじゃねえか」

「また作ってやるから文句言うなって。昼になったらみんなで食おうぜ」

 座り込みつつプログラムを確認する。元々三ツ谷が参加しなければならない競技は複数ある。

 三ツ谷のように地区の住人しか参加できないというわけではなく、龍宮寺のように代理で参加することも可能だし、その場でエントリーして参加できる競技もあるようだ。

「ドラケン、どれ出る? 面倒くさそうなの俺行くよ」

「大体どれも走れば良いんだろ。どれでもいいよ」

 龍宮寺とプログロムの両端を握って参加する競技を決める。

「タケミっち、かき氷買い行こ」

「かき氷食べるにはちょっと涼しくないすか?」

「俺冬でもアイス食べられるタイプだから」

 立ち上がり、花垣を連れてかき氷を買いに行く佐野の背中を見上げる。ついて行こうかとも思ったが、さいわい、かき氷の屋台は現在地から近く、ふたりが行って戻ってくるまで、道を外れさえしなければ目視することができる。

 龍宮寺も同じように考えているらしく、三ツ谷を見て無言で頷くだけで、二人の後を追おうとはしなかった。

「三ツ谷君とドラケン君は何味にしますか?」

「俺、もうすぐ競技始まるからいらねえ」

「夏でもねえのにかき氷食いたがるのなんてマイキーくらいだろ」

「他にも客いるし」

「俺等のことは気にしないで行ってきな」

 足を止める花垣を笑って送り出せば、花垣は「じゃあ、いってきます」とちいさく頭を下げ、既に歩き出した佐野の後を追って駆けて行った。

 いつも通り何事か会話をしつつ、ふたりはまっすぐかき氷の屋台へと歩いていく。

 時折顔を見合わせて、笑って。

 傍から見れば仲の良い友人同士にしか見えないけれど。

「タケミっちもタケミっちでマイキーのこと慕ってんの分かるから、マイキーも尚更かわいんだろうけどなあ」

「けどマイキーにとっては自分を慕ってくる奴なんて、タケミっちの他にもいるだろ」

「タケミっちみたいなタイプはいなかったじゃん? マイキーにとってはさ、それが恋愛としての好きかどうかはともかく、やっぱタケミっちは特別なんだと思うんだよね。ドラケンもそうなんじゃねえの?」

「まあ……変な奴だからな、タケミっち」

「だから相手がタケミっちだってのは、俺はそんなに意外でもないんだよね」

 それぞれのかき氷を受け取って、自分の分を口に含んだあと、相手のかき氷にストローを刺して味見している佐野と花垣は楽しそうだ。仲が良いと思う。佐野と付き合いの長い自分たちから見ても。

「……意外なのはさ」

「……マイキーだよな」

 付き合いが長いからこそ、まさかあの佐野が、という気持ちをどうしても拭い去ることができないのだ。

 あの佐野が、まさか恋をして、しかもまさかその相手が花垣で。

 見たこともないような笑顔を浮かべ、信じられないほど優しく扱うことがある。

 それは三ツ谷や龍宮寺にとっては衝撃的な光景で、衝撃的な出来事なのだ。

 たしかに普段はのんびりしていて穏やかだと言えなくもないが、性質や気性は荒く、付き合いの長い三ツ谷でさえ、恐ろしいと感じる瞬間が間々ある。

 性的関心はあっても愛や恋などに興味はなく、そんなものより喧嘩に明け暮れる日々を送っている佐野が、まさか。

 ―――まさか。

 と、どうしてもそんな風に思ってしまい、その真相を探らずにはいられない。

「意外と色んな味がありましたよ」

 かき氷片手に戻ってきた佐野と花垣は再度座り込み、しゃくしゃくと音を立ててかき氷を食べている。かと思えばふいに佐野が「飽きた」と声を上げ、「タケミっちあげる」と言って持っていたかき氷を花垣に押し付けた。

 とんでもないといえばとんでもないが、まあこれもいつもの光景だ。

「ふたつも食べられないっすよ。自分の分は自分でどうにかしてください」

「あ? なにタケミっち、俺のかき氷が食べらんないの?」

「やめろマイキー。ったく、寄越せ俺が食うから」

 そう言って佐野の手から奪い取ったかき氷を食べ始めた龍宮寺に三ツ谷は息を吐く。

 手がかかるだのなんだの文句ばかり言うくせに、佐野をそういう風にした一端は間違いなく龍宮寺にもあると知らしめる一幕だった。

「ケンチンうまい? 俺のかき氷」

「うるせえ」

「ドラケン君食べるの早いっすね。頭痛くなんないすか?」

「んなやわじゃねえし」

 と言った直後顔を歪め、蟀谷を押さえた龍宮寺が硬直する。

 こういうとこ、意外と子供っぽいんだよな、と思いながら眺めていると、ふいに花垣が持っていたかき氷のカップを龍宮寺の額にそっと押し当てた。

「冷たいもの食べて頭が痛くなったときは、おでこ冷やすといいらしいっすよ」

 そう言って龍宮寺の額にカップを押し当てたまま、花垣は様子を伺うように龍宮寺の顔を覗き込む。

 蟀谷に手を当てていた龍宮寺はゆっくりと息を吐き、「たしかにちょっと楽んなったかも」と花垣を見て笑った。

「へえ、タケミっちよく知ってんな」

「こないだテレビでやってたんですよ。役に立って良かったっす」

 頭痛が落ち着いたらしい龍宮寺の額からゆっくりとカップをはなす花垣の言葉に頷きつつ、何気なく顔を上げる。

 とくになんの他意もなく視線を龍宮寺の斜め後ろに向けたとき、そこに座っていた佐野を視界に入れてしまった。

「……、マイキー……」

「なに、三ツ谷」

「いや……なんでもねえけど」

 龍宮寺なのか、花垣なのか。それともそのどちらともなのか。

 佐野はただじっとふたりを見つめている。

 その眼差しは決して冷たいものではなく、怒っているようには感じられない。無表情というわけでもなくいつもの佐野の表情なのだけれど、ただ、視線が微動だにしないことがこわい。

「なんだよマイキー」

「なにが?」

 視線を佐野へと向け、首を傾げる龍宮寺に佐野も同じように首を傾げる。

 佐野が花垣を、と勘繰っているから、その視線ひとつにも意味があるように感じてしまうのだろうか。

 佐野と龍宮寺の間に険悪な空気が漂うことはないが佐野の様子がいくらか違っていることに龍宮寺も気が付いたのだろう。ちらりと三ツ谷へ視線を向ける。

 佐野はそんな龍宮寺を気にすることなく、そのまま花垣へと視線を向けた。

「タケミっちさあ」

「はい?」

「俺が頭がいてえつったら、今ケンチンにやったことしてくれた?」

 じっと花垣を見つめて尋ねる佐野の真意が今一よく分からない。

 これは所謂嫉妬というやつなのだろうか。それとも単なる疑問なのか。はたまた別のなにかなのか。

「おでこ冷やすやつですか?」

「うん」

 佐野の真意が分からない以上、なんと答えるのが正解なのか三ツ谷には分からない。いやここは間違いなく肯定するのが正解ではあるが、果たして佐野が求めているものはそれで正解なのだろうか。

 花垣が解答を誤った場合、佐野の機嫌が一気に急降下する恐れがある。

 揉め事には慣れているが、機嫌が最悪の佐野を抑えるのは骨が折れる作業だ。できることなら回避したい。

 ゆえに、若干ハラハラしながら花垣の解答を待っていると、花垣は一度カップを見下ろしたあと、佐野を見遣って頷いた。

「はい。かき氷溶けちゃったら屋台の氷に手突っ込んででもマイキー君のおでこ冷やしますよ」

 任せてください、と花垣はどこか得意げな顔で笑う。

「……それってタケミっちの手で冷やしてくれるってこと?」

「キンッキンに冷やしてくるんで! マイキー君の頭は俺が守ります!」

 そう言って笑っている花垣から、そっと視線を佐野へと向ける

 じっと花垣を見つめていた佐野は、睫毛を震わせるように一度だけ瞬きをして、ついで、息を吐くように笑った。

「そんなに冷やしたらタケミっち手痛くなるじゃん」

「大丈夫っすよ。俺、手頑丈なんで」

「手頑丈ってなに」

 は、と声を上げて笑う佐野を見て、花垣も嬉しそうに笑う。

 そんな光景を見ながら、すごい、と場違いにも感心してしまう。

 これは間違いなくど真ん中で正解だったんじゃないだろうか。

 佐野がなにを求めていたかは分からない。けれど間違いなく今花垣は、佐野が求めていた以上のものを佐野の前に差し出しただろう。

 扱いが難しいあの佐野の機嫌を微塵も損ねることなく、そのうえ難無くこの場を切り抜けられるなんて。

「指凍傷んなったら、最悪切り落とすしかなくなるよ」

「それはちょっと……ダッシュでおでこ冷やさないと。マイキー君も走ってくださいね」

「俺頭いてえのに走らされんの?」

「だって俺マイキー君抱えられないっすもん」

「貧弱だもんなタケミっち」

 そんな会話を交わしている花垣と佐野の後ろで龍宮寺の傍に寄る。三ツ谷を見つめ返す龍宮寺の瞳を見て、考えていることは同じだろうな、と思った。

「すげえなタケミっち」

「ドラケンもそう思う?」

「マイキーさっきちょっと変だったけど、もう今全然じゃん」

「さっきのあれって焼きもちかな」

「どうだろうな。アイツ変なとこで機嫌悪くなっからなあ」

 つい先程感じた不穏さはもうどこにもなく、笑いながら話をしている佐野と花垣の後ろでそんな話をしていると競技が始まるアナウンスが会場に響き渡った。

 三ツ谷が参加する競技の集合がかかっているようだ。

「俺ちょっと行ってくるわ」

「おー、頑張れ」

「頑張ってください三ツ谷君」

「抜かされんなよ三ツ谷」

 立ち上がり、龍宮寺たちの言葉を聞きながら集合場所へと向かう。去り際、龍宮寺にふたりから目をはなさないようアイコンタクトを送ることは忘れなかった。



 午前中は龍宮寺と交代で競技に出場し、いくつか賞品のお菓子や文房具も入手した。賞品は妹たちに渡すつもりだ。

 佐野は面倒くさいから絶対に嫌だ、と言って競技に出場することはなく、花垣は代わりに走ることを申し出ようとしたものの、足が遅いからという理由で辞退していた。

 重労働というわけでもない。元々三ツ谷ひとりで参加する予定だったのだ。龍宮寺が代わって出てくれるだけありがたい。

 午前の競技を恙なく終えたあとは、4人で三ツ谷が持参した弁当を広げる。

 全員食べ盛りだが、皆大食漢というわけでもない。量が足りるか心配だったが、多めに作ってきたおかげもあって、なんとか4人分不足なく行き渡った。

「おいマイキー寝んな」

 昼食を終えたあと、数分もせずにうとうとと舟を漕ぎ始め、広げたシートに横たわった佐野の頭を龍宮寺が軽く叩く。寝るな、と言ったところで寝てしまうことは分かり切っているだろうに。

「マジでコイツなにしにきたんだよ」

 すよすよと健やかな寝息を立て始めた佐野に花垣といっしょに苦笑しつつ、広げた弁当箱を片付ける。龍宮寺好みの味に作った卵焼きは随分気に入ってもらえたようで、「毎日作って持ってこい」と冗談なのか本気なのか、そんな無茶なことを言われた。

「午後の競技はなにがあるんですか?」

「午後はわりと徒競走とかリレー多めかな」

 花垣とプログラムを眺めつつ午後の競技を確認していると、ふいに隣に座っていた花垣があっと声を上げた。

「どした?」

「あ、いや……この競技の賞品」

「お菓子詰め合わせ?」

 花垣が指した箇所には賞品一覧が掲載されている。どうやらお菓子の詰め合わせらしいが、恐らく商店街のスーパーや薬局で売れ残ったお菓子を詰めているのだろう。載っているお菓子はマイナーなものばかりで、花垣が指したものも余り馴染みのないスナック菓子の詰め合わせだった。

「この味、期間限定で出たやつで俺めっちゃ好きなんですよね」

「へえ、タケミっちこういうお菓子好きなんだ」

「ちょっと癖があって好き嫌い別れるとは思いますけど。結構色んな店行って探したんですけど、どこに行っても置いてなくて……この賞品って、一等じゃなきゃ貰えないんですよね?」

「だな。賞品狙う? 昼休憩終わってすぐの競技だからエントリーするなら早めに行かねえとだぞ」

「俺マジで足遅いんすけど、一等とれますかね」

 余程そのスナック菓子が好きらしく、鈍足でありながらも花垣は本気でエントリーを考えているようだ。顎に手を当て、うーん、と悩まし気な声を上げている。

「マイキーに頼めば?」

 ふとそう提案したのは、ほんの思い付き、ただの冗談だった。

 佐野はたしかに足が速いけれど、こういった催しに参加するのをひどく嫌がる。理由は前述の通り、面倒くさい、の一言に尽きる。

 たったそれだけの理由で、とも思うが、彼にとっては面倒かそうでないかは重要な理由になるだろう。

 提案したものの、佐野は絶対に走らないだろうと思った。

 或いは佐野が花垣のことを好きだったと前提して、花垣が泣いて頼み込めば参加することもあるかもしれないが。やはりその可能性も極端に低いだろう。

 大体佐野がグラウンドを走っている姿など想像もできない。喧嘩に関すること以外ではスイッチを切っているようなもので、今も後ろですよすよと寝息を立てながら寝入っているのがその証拠だ。

「マイキー、タケミっちが賞品のお菓子欲しいんだって」

 冗談めかして、龍宮寺のカーディガンをブランケット代わりに寝ている佐野の体をぽんと手のひらで叩く。

 かすかなその感覚でうっすらと覚醒したのか、うと、と黒目がちの瞳が瞬いた。

「いやでも、それでマイキー君に走ってもらうの申し訳ないんで」

「いいよ」

「え?」

 三ツ谷の予想を裏切ってふいに返ってきた、存外ハッキリとした声に花垣と揃って声を上げる。

 カーディガンを手渡されている龍宮寺もいくらか驚いているようで、立ち上がった佐野を見上げていた。

「エントリーしてくる」

「えっ、ちょ、マイキー君」

 戸惑っている花垣の声を聞きながら、伸びをしつつ大会本部のテントのほうへと歩いていく佐野の後ろ姿を呆然と見送る。

 佐野は一体どこへ向かったのだろう。まさか本気で競技に参加するため、エントリーへと向かったのか。

 反射的に龍宮寺を見遣れば、龍宮寺も信じられないような顔をして佐野の歩いていった方向、そして三ツ谷を見ていた。

「冗談だよな? アイツ小学んときから運動会で走ったりしたことねえはずだけど」

「体育の授業も滅多に出ねえって言ってなかった?」

「ああ、ほぼ寝てる」

 呆然と顔を見合わせている三ツ谷と龍宮寺を横目に「マイキー君が走ってるとこ見るのって喧嘩以外では初めてかも」と花垣は呑気なことを言っている。

 花垣は花垣だからそんな呑気なことを言っていられるのだ、と場違いに花垣を詰るようなことを思う。たかがグラウンドを走るだけのことだと思っているのかもしれないけれど、付き合いが長く、佐野のことをよく知っている龍宮寺や三ツ谷からしてみれば、それは天変地異の前触れかもしれないと思わずにはいられないほど、ありえないことだった。

 抗争やちょっとした揉め事などで、ごった返した不良たちの合間を駆け抜ける佐野の姿はさして珍しいものではない。

 気紛れに体育の授業に参加することはあるだろう。勝負事を好む質だから、競争だと言われればグラウンドを駆けることもあるかもしれない。

 けれど現状、そのどれにも当てはまらない。

 もし本気で佐野が競技に参加し、走る気でいるのだとして、その理由は喧嘩でも気紛れでも競争でもない。

 花垣のためだ。

 そんなまさか、あのマイキーが、と彼が歩いて行った方向を呆然と眺める。

 人に頼まれて、誰かのために、面倒くさいから絶対に嫌だと言っていたことに対して、いとも容易く腰を上げるなんて。

「面倒くさいからやっぱりやめた」とか「飽きた」と言って、佐野はすぐに戻ってくるだろうと思っていた。それか、エントリーはしても直前になって「やっぱケンチン行ってきて」とか、そんな風に言うだろうと。

 けれどそんな三ツ谷の予想はまたも裏切られ、大会本部でエントリーを終えた佐野は三ツ谷たちの元へ戻ってくることはなく、そのままグラウンドへ出て行った。

 間もなく休憩時間が終わるため、そのまま待機することになったのだろう。

「俺もっとよく見える場所で応援してきます」

 そう言って立ち上がった花垣を追いかけ、三ツ谷と龍宮寺もグラウンドがよく見える場所まで移動する。グラウンドの端っこで他の参加者たちに混じり、退屈そうに欠伸をしている佐野の姿を見ても、まだ信じられない気持ちだった。

 やがて昼休憩が終わり、競技が再開される。

 いよいよ佐野と他の参加者たちがスタートラインに立って尚、彼が本気で走ることなどないと思っていた。

 けれど、スタートを告げるピストルの音が鳴り響き、佐野が走っている、と感じたのはたった一瞬だった。

 スタートの合図が鳴り響いた直後に走り出したかと思えば、瞬く間に自分たちの前を駆け抜けて行き、気が付けば2位の参加者を大分引き離してゴールしていた。

 まさしく風のような速さだった。履いていたのはサンダルなのに。

「はっや」

「……早過ぎじゃねえ?」

「マイキー本気だったな……」

 ゴールテープを切った後もさして息を乱す様子もなく、いつもようにゆったりとした歩調で歩き、賞品を受け取った佐野はこちらへ戻ってくる。

 いまだにいくらか信じられない気持ちで迎えれば、佐野は花垣を見てにっこりと笑った。

「ただいま、タケミっち」

「おかえりなさいマイキー君! めっちゃ速かったですね!」

「格好良かった?」

「すげえ格好良かったっす!」

「そ」

 手放しで賞賛する花垣の言葉に満足したのか、佐野は目を細めて笑う。たしかに三ツ谷から見ても、格好良かったと思う。

「めっちゃ速いじゃんマイキー」

「まあね。あんくらい余裕だよ」

 汗もかいていなければ、息も乱れていないところを見ると、その言葉は嘘ではないのだろう。

 口端を上げて笑った佐野はちょっとそのへんを散歩でもしてきたかのような仕草で、かかえていた賞品を花垣へと差し出した。

「はいタケミっち。獲ってきたよ」

「え、いや、これはさすがに受け取れませんよ」

「なんで?」

 押し付けるようにして手渡されたお菓子の詰め合わせを、けれど花垣は受け取らず、両手を胸元のあたりで上げている。

「だってこれは、マイキー君が一等獲ってもらったもので、」

「タケミっちのだよ」

 遠慮がちに笑う花垣を見て、黒目がちな瞳がゆるりと歪んだ。

「、………………」

 何度か見たことのある眼差しだ。佐野は時折、花垣を見てこんな目をする。

 三ツ谷は幾度か目交いにしたことがあるが、それは決して自分たちに向けられることはなく、ああやっぱり、と思う。

 ―――この顔は花垣だけに向けられるものなのだ。

「タケミっちのために獲ってきたんだから、タケミっちのだよ。お前のためじゃなきゃ走らなかった」

 ほら、と再度差し出された賞品と佐野の言葉に、花垣は躊躇うような瞬きを一度だけ。

 けれど次の瞬間には嬉しそうに笑って、渡された賞品を受け取った。

「ありがとうございますマイキー君」

「受け取ってくれる?」

「はい!」

 心底から嬉しそうに笑う花垣を見て、佐野も満足そうだ。

 良い光景だなあと思わないでもない。心温まる光景だと。

「つうかなにこれ。タケミっちこんな変なの食うの?」

「そう思うでしょ? でも食べてみたら意外とイケるんですよ」

「味のセンスもねえんだな」

「美味しいんですって。つうか味のセンスもってどういうことすか?」

「服のセンス死んでんじゃん。全体的にセンスやべーよタケミっち」

「そ、そんなにですか……?」

「うん、わりと」

 笑いながら交わしている内容も仲が良くて微笑ましいなと、思わないこともない。

 けれど三ツ谷と龍宮寺は、そんなことよりもなによりも、気になることがあるわけで。

「なあ三ツ谷、今、マイキー……」

「……タケミっちのためじゃなきゃ走らなかったっつったな」

 やはり気紛れなどではなかった。佐野は間違いなく花垣のために走ったのだ。

 花垣が欲しがった、マイナーなお菓子詰め合わせを、花垣に渡すためだけに。

 果たしてただの友達のためにそこまでするだろうか。

 一般的に言えば決してありえないことではないだろう。

 だが佐野を基準とするとほとんどありえないことだと言って良い。運動会という場で走ったことも、それが誰かのためだったということも。

 花垣を見る佐野の瞳を目交いにするたび、三ツ谷は確信めいたものを感じずにはいられない。

 友情なのかも知れない。下心など佐野にはないのかもしれない。特別だと思う気持ちが溢れているから、それを見誤ってしまっているだけなのかもしれない。

 何度そう思っても、花垣を見る佐野の瞳を見て、ああやっぱり、と思うのだ。

 くすぐるような、あやすような目。

 三ツ谷も佐野と同じ男だ。もし自分があんな目で誰かを見るとしたら、相手はたったひとりしかいない。

「………………」

「三ツ谷?」

 隣から低い声がして、ゆっくりと龍宮寺を見上げる。切れ長の瞳が三ツ谷を見下ろし、緩やかに瞬く。

 ドラケン、と龍宮寺を呼ぶ声がすこしだけ掠れた。

「ん?」

「……落ち着いて聞いてくれ」

「どした?」

 龍宮寺が硬直したり、卒倒したりしてしまわないよう、慎重に言葉を紡ぐ。

 すこしはなれたところで、佐野と花垣が楽しそうに話をしているのが見える。

 内緒の話をするようにふたりとも顔を見合わせて笑っているのが印象的だった。

「……やっぱりマイキー、タケミっちのこと好きだと思う。もう間違いないよ」

「…それ、は」

「マイキー分かってる」

 ある程度予想はしていたのだろうけれど、やはりいくらか戸惑っている龍宮寺の腕を引いて、耳元に口を寄せる。

 この距離で聞こえることはないと分かっているけれど、万が一にも佐野に聞かれることを避けたかった。

 声を潜めて言えば、龍宮寺は怪訝そうな視線を向けてくる。なにを、と声に出さずその口が動いたのが分かって、ちらりと視線を佐野と花垣へと向けた。

「……タケミっちのこと好きだって、自覚してるよ」

 目の前の切れ長の瞳が大きく見開かれて、三ツ谷も深く息を吐く。

 顔を上げれば、賞品の袋を開けて中身を取り出している佐野と、袋の中を覗き込んでいる花垣がなにやら言葉を交わしているのが分かる。

 小分けにされた袋を開け、中のスナック菓子を摘まんだ佐野が怪訝そうな顔をしたあと、花垣の口へ突っ込むのが見えて、何を言っているのかまでは分からなかったけれど、楽しそうに笑った佐野が「タケミっち」とその名を呼んでいることだけは理解できた。









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