じわじわと鳴き続ける蝉の声が、じりじりと肌を差す陽射しの温度を上げてゆくようだった。
僅かな涼を求めて木陰へ潜り込んだが肌を焼く気温が変わるわけもなく、どこまでいっても纏わりつく夏の熱に辟易して吐き出したため息すら温度を持っているようでうんざりする。
暗い木陰でも暑さは少しも紛れない。にもかかわらず嫌な寒気を感じるような気がして眉を寄せる。
木陰の外では夏の陽射しが燦々と降り注ぎ、眩しいくらいに風景が煌いている。反面、陽射しに目を焼かれたせいか、陰の中はほの暗い。
嫌な寒気と一瞬の暗闇に得体のしれない不安を感じて隣を見れば、その視線に気が付いたのか、見慣れた呂色の瞳もこちらを向いた。
木陰にいたからだろうか、いつものように花垣を見て柔く笑った佐野の顔が、やけに青白く見えた。
まろやかな頬を伝い、小さな顎から汗が雫となって落ちていく。
やけにゆっくりと落ちていく汗を眺めながら、マイキー君も汗をかくんだな、と、そんな当たり前のことを思った。
蝉が鳴いている。
それ以外の音が聞こえない。 蝉の鳴き声だけが響いている。じわじわと、世界を浸食してゆくように。
佐野の口が動いて何かを言っているのが分かるのに、蝉の声が邪魔をして、佐野の声が聞こえない。
暑い。暗い。うるさい。
木陰の中から見る夏の景色がどこか遠く、まるで別の世界へ来てしまったような気がしていた。
黒みがかって透ける紺碧色の大きな瞳は、瞬きをするたびに、ぱち、と音がするようだった。顔の輪郭自体がまろやかなせいもあるだろうが、その瞳の大きさが彼の顔を幼く見せているのだろう。
幼いころに手に入れたきらきらとした硝子玉を彷彿とさせるその瞳をなんとはなしに眺めていたら、ふいに硝子玉が柔く崩れる。心底から嬉しそうに、楽しそうに笑うその瞳には佐野が映っていて、それが三ツ谷を、なぜだか嬉しくさせた。
「泊まりってこと?」
「はい。マジですげえ田舎なんで遊ぶとことかないんすけどどうですか?」
「俺とケンチンはともかく、三ツ谷はどうなの?」
「俺も大丈夫だよ」
妹達は8月の頭から下旬まで、遠方の親戚の家に泊まりがけで遊びに行く予定になっている。年の近い従姉妹達がいるため、今から楽しみにしているようだ。
花垣達に説明すれば、提案者である花垣の表情が目に見えてパッと明るくなった。分かりやすくて可愛いヤツである。
「けど俺達が行っても良いのか? 大勢で押しかけるのさすがに迷惑じゃねえ?」
「大丈夫っすよ。友達二、三人連れて行くかもって言ってありますし。前はタクヤやアッくん達ともいっしょに行ったことあるんで」
夏休み。毎年、8月に2週間ほど、花垣が母方の実家に帰省していると知ったのは、6月の終わりにみんなで夏休みの予定を立てている時だった。
この春から高校に進学して初めての夏休み。それぞれの進路を進み出してから、顔を合わせる機会は減ってしまうかもしれないと思っていたが存外にそんなこともなく、恋人である龍宮寺とはもちろん、佐野や花垣とも頻繁に顔を合わせている。
龍宮寺と比較すると、佐野や花垣と会う機会はいくらか少なくなったものの、彼等の交際は相も変わらず順調なようで、ふたりいっしょに逢う時は以前と変わらず仲睦まじい姿を目にする。
龍宮寺から聞いた話によると、放課後、佐野が花垣を迎えに行ったり、ふたりで待ち合わせをして出掛けたりすることもあるようで、そんな話を聞くたびに、あのマイキーがねえ、と同年の男友達に対してまるで親のような気持ちになった。
三ツ谷と龍宮寺は元々友人の延長線のようなところもあって、些細な喧嘩はあるものの、交際はおおむね順調であると言える。龍宮寺は高校に進学してから佐野の兄の店でアルバイトをはじめ、三ツ谷は三ツ谷で空いた時間に時折アルバイトをして、あとは学校の課題に追われているため、お互い暇というわけではないけれど、それでも時間を作っては食事に行ったり、遊びに行ったりしている。
東京卍會の他のメンバーと顔を合わせる機会も少なくなかったが、佐野と龍宮寺は特に仲が良く、龍宮寺が佐野の兄の店でバイトをしていることもあって、今でも毎日のように顔を合わせているらしい。佐野と花垣もまた親しく、龍宮寺は三ツ谷と親しくしているため、必然的に四人で集まる機会が増えていった。
たまたま4人で食事をしている時に、夏休みの話題が出たのだ。流れでどこかへ遊びに行こうという話になったのだが、花垣が言いにくそうに声を上げた。
「俺、8月になったら2週間くらいばあちゃんちに帰省することになってて、あんまり遊べないかもなんすけど」
中学生である花垣は7月末から8月まで一ヶ月以上夏休みがある。花垣は友人が多いため、佐野や三ツ谷達との予定ばかりというわけにもいかないだろう。高校に進学するつもりでいるらしく、普段はどうなのか分からないが、課題をこなす時間も必要だ。家族との予定だってあるだろう。
それならそれで仕方がない、と三ツ谷は納得できたが、佐野はそうでもなかったらしい。元々傍若無人な性格で、自分の思い通りにならないと駄々を捏ねたりするなど、わがままなところがある男だ。しかも相手は交際相手でもある花垣である。
どうやら佐野もその時まで花垣の帰省を知らなかったらしく、それまで花垣の隣で満足そうにチョコレートパフェを食べていた佐野の顔は、みるみるうちに不機嫌なものになっていった。
「は? 聞いてねえんだけど」
「す、すみません。夏休みの話が出たら言おうと思ってたんですけど。毎年のことなんですよ」
「じゃあ夏休み遊べねえってこと? 別にいいじゃん帰省なんか。今年は行かねえって言えよ」
「今年は父親が仕事で帰省できないから、母親も残ることになったんすよ。だからせめて俺だけでもって、ばあちゃん楽しみにしてて……」
「俺達と遊ぶより、ばあちゃんに逢う方が大事ってわけ?」
「そういうわけじゃないっすけど」
「やめろよマイキー。タケミっち、困ってんだろ」
「まあ、比べられるもんじゃないしね」
諫められるくらいで収まる男ではないが、相手が花垣だからなのかそれ以上詰め寄ることはしなかった。けれど、それで完全に臍を曲げてしまった。
「あっそ。じゃあもういい」
低い声で吐き捨てたのち聞こえよがしに舌を打った佐野は、あからさまに花垣から顔を背ける。
ガキか、と思わないでもない。花垣のことを大事にしているようで、彼に対してだけは譲歩を憶えたと思っていたが、花垣が特別なだけで、佐野は元々こういう男だ。或いは、怒って花垣の気を引こうとしているのなら、ただの子供だ。
花垣はさぞ困っているだろうと思ったのだけれど、予想に反して笑っていた。
「マイキー君もいっしょに行きませんか?」
「は?」
「すげえ田舎なんすけど、その分家がめっちゃ広くて離れとかあるんすよ。友達といっしょに離れに泊まってもいいって言ってくれてるんで、いっしょに行きませんか?」
不機嫌な表情から一変、佐野はぽかんとした顔で花垣を振り返る。
そんな光景を眺めながら、堂々と旅行の誘いか、とその大胆さに度肝を抜かれ、口に含んでいたアイスコーヒーを思わずごくりと音を立てて飲み込んだ。
佐野と花垣が並んでいるところを見ると、今でもふたりの動向を目で追ってしまうけれど、極力気にしないように努めている。ふたりだって、覗き見されているようで嫌だろう。
ゆえに、佐野と花垣が恋人としてどこまで進展しているのか詳しくは分からない。だが、キスくらいはしていたとしても、まだ健全な関係だと思っていたのに。
もしかしたら、それは思い違いなのかもしれない。
花垣の母方の実家というだから、花垣に下心はないのかもしれない。けれど、『離れの部屋』となるとどうなんだろう。
母屋から離れた部屋。夜。ふたりきり。並べられた布団。
佐野も花垣も健全な男子である。恋人とそんな状況下で、溢れ出る欲求を抑えることができるのだろうか。いや、できないだろう。三ツ谷には無理だ。
そんなストレートな誘い方、余りにも明け透けすぎるのではないか。
佐野も珍しくぽかんとしている。大胆過ぎだろタケミっち、場所考えろ、などと思っていると硝子玉のような瞳がこちらを向いた。
「どうっすか?」
「あ、え?」
「遊ぶとこあんまりないんすけど、みんなでいっしょに行けたら楽しいだろうなって思ったんすけど」
へへ、と照れくさそうに笑って首を掻く。
「お、俺達も? マイキーだけじゃなくて?」
思わず思ったことを脳を通さず口に出してしまい、隣で話を聞いていた龍宮寺に肘で小突かれた。三ツ谷が何を考えているのか、龍宮寺には手に取るように分かるのだろう。
「はい。ばあちゃんも賑やかだと喜ぶんで」
にこ、と擬音がつくような完璧な笑顔を向けられ、目を細める。
―――眩しい。
どうやら不健全なのは三ツ谷の思考だけだったようで、あどけない笑顔に不純な動機は微塵も感じられなかった。
「……泊まりってこと?」
先程まで不機嫌そうに花垣から顔を背けていた佐野は、もう花垣の方を見ている。花垣から誘われ、いっしょに遊べないわけではないと分かって、機嫌は直ったようだった。
そういった経緯があって、8月に2週間ほど、花垣の祖母の家に4人で遊びに行くことになった。佐野はもちろん、龍宮寺や三ツ谷にも異論はなかった。
聞いたところによると花垣の祖母の家は随分遠方にあるようで、東京から新幹線と電車を乗り継ぎ4時間弱ほどかかるらしい。花垣曰く、田舎で遊ぶ場所はほとんどないが、代わりに海が近いらしく海水浴が楽しめるらしい。規模はさほど大きくないが、時期的に夏祭りや花火大会なども開催されるようで、退屈はしなさそうだ。
佐野や龍宮寺とは付き合いも長いが、家庭の事情も相俟って、泊りがけで遊びに行くなんて初めてのことだ。子供みたいだと思ったけれど、それでも楽しみで、前日は少しだけ夜更かしした。
当日、荷物を詰めた旅行バッグを提げ、新宿駅で待ち合わせて新幹線に乗った。目的の駅まで随分かかるため、時間を持て余してしまうかもしれないと思ったが、遠出の旅行は初めてだ。新鮮さも相俟って、隣の席の龍宮寺と話をしていたらあっという間だった。
「着いたあ」
電車からホームに降り立った花垣がぐっと伸びをする。四人の中では花垣が最も慣れた旅路だろうが、それでも少し疲れてしまったようだ。龍宮寺はいつも通り、佐野はいくらか眠そうだ。座っている時間が長かったせいだろう。大人しく座っていることを好まない質である。
「やっぱ結構かかったな」
「そうだな。でも俺旅行とか初めてだし、ドラケンと話してたらあんまり時間感じなかったよ」
「………………」
「……無言で撫でるのやめろって」
佐野や花垣もいるのに、と思いながら龍宮寺の手を払い落とすが、佐野や花垣はふたりで楽しそうに話をしていて、こっちを見てもいない。相変わらず顔を見合わせるようにして、楽しそうに話をしていた。
「マイキー君、大丈夫っすか? 疲れてません?」
「疲れてはねえけど座ってるだけだったから眠かった」
「途中大分寝てましたもんね。俺も結構寝ちゃいましたけど」
「ケンチン達いて良かったね。俺達だけじゃ寝過ごしてたかも」
ホームから駅舎に向かい、改札で駅員に切符を渡す。自動改札はなく、改札に駅員が立っているタイプの駅は初めてだ。駅もこじんまりとしたもので、改札を出た先に待合室があり、その先はもう外だった。
それぞれ荷物を抱えて一旦待合室へと向かう。駅には花垣の親戚が迎えに来てくれるとのことだったが、それらしき人物は見当たらない。
駅に到着する時間は伝えてあると聞いていたが。
「俺達が着くのに合わせて、迎えに来るって言ってたんすけどね」
「電話してみたら?」
「そっすね。……あれ、ここ電波ねえな」
取り出した携帯電話を軽く振った花垣は、画面を見ながら駅の出口へと向かって行く。
「外だと電波ありそうなんで、俺ちょっと外で電話してきます」
駅を出ていく花垣を見送って待合室の椅子に腰を下ろす。窓から携帯電話を耳と肩で挟むようにして、木陰へと入っていく花垣の姿が見えた。
改札から通り抜けになっている駅舎は出入口に扉などなく、喧しく鳴く蝉の声や夏の熱気が入り込んでくる。影になっているため日向ほど暑くはないが、それでも湿気を帯びた不快な熱気からは逃れられない。じっと座り込んでいるだけでも頬を汗が伝っていった。
時刻は昼過ぎ。朝の10時頃に東京を立ったため、空はまだ明るく、夏の太陽に照らされる外がやけに眩しく見える。だからだろうか、駅舎の中はやけに薄暗く感じられた。
「タケミっち、電話繋がってないっぽくね?」
龍宮寺の言葉に花垣へと視線を向ければ、俯くようにして携帯電話の画面を見下ろしている。再度耳に当て、しばらくしてからまた画面を見下ろす。親戚と連絡が取れないのだろうか。
様子を見に行こうと思ったが、その時携帯電話を耳に当てた花垣がパッと顔を上げ、安心したように息を吐いて、口を動かしているのが見えた。どうやら無事連絡はついたようだ。
「こっから車で30分くらいだって言ってたよな」
「東京からバイクでどれくらいかかっかな」
「バイクだと相当時間かかんじゃねえ? 一泊くらいはするかもよ」
「バイクで旅行っていうのも、っておい、マイキー。どこ行くんだよ」
会話に参加せず窓の外を眺めていた佐野がふいに立ち上がり、さっさと駅の出口まで歩いて行ってしまう。荷物は待合室の椅子に置きっぱなしだ。駅を出た佐野は電話をしているはずの花垣の方へ向かっていた。
「なんだアイツ」
「……電話繋がったと思ったけど、連絡つかなかったのかな」
「あ?」
「ほら」
木陰で電話をしていたはずの花垣は、何故だかまた携帯電話の画面を見下ろしている。距離があるうえに陰に入っているため、ハッキリとは見えないが、かすかに眉を寄せ、なんとも言えない表情を浮かべているように見える。
けれど次の瞬間にはパッと顔を上げ、笑顔を浮かべた。佐野が向かってくることに気が付いたのだろう。そのまま木陰に入って行った佐野と、何やら話をしていた。
「意外だけど、一時も離れてたくないタイプなのかな」
「なにが?」
「マイキー。視界に入れておきたいタイプ?」
「……なんの話だよ」
「だって、ちょっと離れたくらいで追いかけていくなんて、」
怪訝そうな顔をしている龍宮寺の横顔を見上げ、冗談交じりでそんなことを言ったときだった。
三ツ谷の言葉を遮るように聞き慣れた、けれど余り聞き慣れない、わずかに張り詰めた佐野の声が聞こえてきた。
「おい、タケミっち」
それは決して大きな声ではなかったけれど、外から聞こえてきた声に反射的に顔を上げれば、木陰の淵に折り重なるようにして立っている佐野と花垣の姿が見える。花垣は倒れ込むような姿勢で佐野の腕の中で項垂れていた。
すぐに椅子から立ち上がり、駅の外へ出る。佐野に支えられた花垣は意識はあるようで、佐野の体に掴まって顔を上げた。
「タケミっち、どうした?」
「大丈夫か? 具合悪くなっちまった?」
木陰にいるせいか、佐野の肩越しにこちらを見た花垣はひどく顔色が悪いように見える。けれど、申し訳なさそうに笑う顔はいつも通りで、特に具合が悪そうには見えなかった。
「すみません。立ち眩みかな、ちょっと眩暈がして……手貸してくれてありがとうございます、マイキー君」
「いいけど。具合悪いんならちゃんと言えよ」
「はい。もう平気ですから」
「暑いからな。長い時間電車に乗ってて、疲れたんじゃねえ? 座って休んどけよ」
「すみません……」
「タケミっちは弱っちいんだから無理すんな。ほら、行くぞ」
佐野に手を引かれ、駅舎へと戻っていく花垣の後を追って、三ツ谷達も待合室へと戻る。いくらか顔色は悪いように見えたが、佐野の後ろをついて歩く足取りはしっかりしている。肝を冷やしたが、大したことはなさそうでホッとした。
「タケミっち、ほら。水」
待合室の隅に設置されている自動販売機で購入したミネラルウォーターを手渡す。顔色も戻ったようだ。ぺこ、と頭を下げて水を受け取った花垣は、キャップをひねり、喉を鳴らして水を飲んだ。
「親戚、連絡ついたのか?」
「はい。携帯が繋がんなくて、家の電話にかけてみたんすよ。そしたらまだ家にいたみたいで」
花垣が握り締めるミネラルウォーターのペットボトルの表面が、温度差で結露している。スニーカーを履いた花垣の足元に、ぽた、と雫が落ちて、待合室の床に染みを作った。
日中で電気が灯されていないせいか、駅舎の中は薄暗く、床に落ちた雫が黒く滲んでいるように見える。花垣達が話しているのを聞きながらなにげなく視線を向けた改札の中には、先程まで駅員が立っていたはずなのに、奥に引っ込んでしまったのか誰もいなかった。
「……けど、なんか」
「どした?」
「いや……すげえ、うるさかったっていうか」
「うるさかった? 家の電話なんだろ。誰か来てたとかじゃねえの?」
「そういうんじゃなくて、ノイズみたいな」
「ノイズ?」
「なんかすげえザーザー言ってたんすよ。たまに音が飛ぶっつうか、プツプツって音も聞こえてて。電波悪いんかなって思ったんすけど、親戚の声はハッキリ聞こえたんすよね」
花垣は、駅舎の中は電波が悪いからと、外に電話をしに行った。田舎だから余り電波が飛んでいないのだろうかと思って自身の携帯電話を開いてみる。けれどアンテナはすべて立っていて、電波が良好であることを示していた。
花垣の話を聞いているからだろうか。先程まで煩いほどに聞こえていた蝉の声が聞こえないことに気が付く。気が付けば、また蝉の声が聞こえてくる。
じわじわと、周囲の熱気と混ざり合ってゆくように。
「『今行くよ』って」
ぽた、と花垣の指先から雫が落ちてゆく。
待合室は汗が滲むほどに暑いというのに床の染みは未だ乾かず、滴ったばかりの雫と溶け合い、じわじわと黒く広がってゆくのが見えた。
それから間もなくして、駅の駐車場に一台の車が入り込んできた。車から降りてきたのは、三ツ谷の母親と同じくらいの年齢の女性だ。慌てた様子で待合室へとやってきて、花垣を見つけたあと、顔の前で両手を合わせ、迎えが遅れたことを詫びた。どうやら花垣の親戚らしい。関係性を聞いたところ、叔母なのだとか。
駅へと続く道の途中で工事をしていたらしく、大きく迂回する羽目になり迎えが遅れてしまったとのことだった。
龍宮寺達と用意したつけとどけと挨拶を済ませ、車に向かいながら首を傾げる。
辻褄の合わなさが少しだけ気味悪かった。
「おばちゃん、さっきまで家にいたんじゃねえの?」
「いつ?」
「20分くらい前だったと思うけど」
「その時はもう向かってたわよ。何度か武道に電話したんだけど、繋がらなくて焦っちゃったじゃない。電源入れときなさいよ、電池切れちゃったの?」
「あー、電波悪かったからかも。電話出たのおばちゃんだと思ってたけど、おじちゃんだったんかな」
「あら、もう帰ってきたのかしら。今日は遅くなるって言ってたのに」
自動車のトランクに荷物を入れていると、そんな会話が聞こえてきた。どうやら、先程花垣が電話をした相手は、叔母ではなく、叔父だったようだ。
花垣の叔母が運転席に乗り込み、促されるままに車に乗り込む。
花垣が助手席に乗るのが普通だが、四人の中でひと際体の大きい龍宮寺が助手席に座り、三ツ谷と佐野、花垣は後部座席だ。先に三ツ谷が乗り込む。次いで乗り込んでこようとする花垣を、佐野が引き留めた。
「……タケミっち。ここどうした?」
「え? いっ、!」
言うと同時に佐野の指がそっと触れた瞬間、花垣は引きつった声を上げる。耳の付け根のあたり。花垣が肩に挟んで携帯電話を当てていた部分だ。
「ってえ……日焼けかなあ」
佐野の指が触れた部分を恐る恐る触っている花垣を、佐野は黙って見つめている。花垣の手ですぐに隠れてしまったけれど、その直前、一瞬だけ三ツ谷にも見えた。
わずかに赤くなったそこは、日焼けというより軽い火傷のようになっていた。
「まあ、冷やせばすぐ治りますよ」
「……弱っちいけど回復力だけは異常だもんな、タケミっち」
「体は丈夫なほうっすから!」
「そうだね」
快活に笑う花垣に、佐野は息を吐くように笑う。
全員乗り込んだのを確認したあと、車は駅の駐車場を出て、花垣の祖母の家に向かって走り出した。車窓から見える景色に高い建物はまったくなく、代わりに見慣れぬ風景と青い空と白く大きな入道雲が見える。車道の脇を、自転車に乗った小学生が通り過ぎてゆく。
走り続ける車内で、佐野と花垣は頭を寄せ合うようにしてまた眠ってしまったらしい。隣からは健やかな寝息が、前の座席からは「タトゥーすごいわね。不良なの?」「まあ、そっすね」「あらそう」という気の抜ける会話が聞こえてくる。
その会話に混じって、かすかな音量で流れるラジオの音がする。
それは時折波音のようなノイズが混じり、プツ、プツ、と不快な音を滲ませていた。
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