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宇宙の底で目をとじて(+ドラみつ)

  • sick0826
  • 9月2日
  • 読了時間: 40分




 ヘッドホンから流れる曲が途切れるたび、居間から妹たちの声が聞こえてくる。時刻は22時を少し過ぎたころで、そろそろ妹たちを寝かしつけてやらなければと思うが、すこし前に帰宅したばかりの母親に話したいこともあるのだろう。幼いながらに母親の多忙さを理解している妹たちは三ツ谷の前でこそ堪えているが、まだまだ母親に甘えたい年頃である。男の三ツ谷ではやはり分かってやれないこともあるだろうから、多少の夜更かしくらいは大目に見てやることにした。

 おかあさん、と母親を呼ぶ妹たちの、三ツ谷を呼ぶときとはわずかに違う声色が聞こえ、ついで、メロウなサウンドが流れ、掠れた男性ボーカルの声が聴覚を覆ってゆく。部屋の空気を入れ替えるためにすこしだけ開けた窓から冷えた、けれど春を匂わせる心地良い風が吹き込む。かすかな風に銀色の前髪を揺らした三ツ谷は、握ったシャープペンシルを器用に回転させながら、課題のノートと向き合っていた。

 行儀は悪いが夕飯を食べながら、妹たちを風呂に入れているあいだ、そして帰宅した母親が妹たちの相手をしてくれているあいだ、と合間合間に熟していたため、課題はほとんど埋まりかけている。答えが合っているかどうかはべつとして、これなら明日の提出期限に間に合わせることができるだろう。

 中学卒業も間近に迫っていて、今更成績を気にしても仕方がないが、だからといって放置するわけにもいかない。

 この春、三ツ谷は中学を卒業して、被服科のある高校に進学することが決まっている。

 不良と呼ばれる連中の中では比較的真面目に学校に通っていた方だと思う。入学したばかりのころは先輩連中に呼び出され、暴れまわることも多かったけれど、喧嘩を売ってくる相手を片っ端から伸してやっていたら呼び出される回数も減っていき、東京卍會二番隊隊長という肩書が知れ渡ってからは校内で絡んでくる連中もいなくなった。

 そんな具合で、中学二年に進級したあたりから、校内で暴力事件等を起こしたこともない。

 抗争等の関係で授業をサボタージュすることはあったものの、それでもやはり他の不良連中に比べれば少ない方だったし、他は真面目に授業を受け、部活動にも勤しんでいる。面倒くさいから、という決して大人にとって素直でも従順でもない理由ではあったが、むやみやたらに教師に反抗的でもなかったため、教師陣から標的にされることもない。要注意人物くらいの扱いは受けているだろうが。

 銀髪にピアスという容貌に難癖をつけてくる教師がいないわけでもなかったが、容貌のわりに生活態度は悪くないと他教師が口添えてくれたこともあるらしく、ここ一年は教師とも揉めたことはなかった。

 ゆえに自分でも意外だったのだけれど内申は思ったほど悪いものではなく、高校進学にさして障りはなかったのだ。進路相談の際、特に問題ないんじゃないかな、と担任教師に言われたときは自分でも驚いた。ちょっと厳しいかな、くらいは言われるだろうと覚悟していたのだけど。

 その後に待ち受けていた受験も、決して余裕ではなかったけれど、なんとか無事に終え、先日合格の知らせを受けた。

 学校に登校するのは一週間後に控えた卒業式までで、その後は高校の入学式まで春休みだ。今熟している課題もおそらく中学最後の課題となるだろう。課題は課題だ。いくら中学最後とはいえ、感慨などないが。

 ヘッドホンから流れてくる曲がサビの部分に入り、曲に合わせて緩やかに頭を振っていると、ノートの脇に置いていた携帯電話がふいに震えた。確認してみれば龍宮寺からのメールだ。

 『外出れるか?』と短くそれだけ表示されているメール画面を目交いにしたあと、反射的に窓を覗けばアパートの外に立っている龍宮寺の姿が見えた。

「母ちゃん、俺ちょっと出てくる」

 妹たちの寝かしつけを母親に任せ、上着を羽織って外に出る。龍宮寺から連絡がくることも、家を訪ねてくることもそう珍しいことではないが、こんな時間に訪れるのは稀だ。今までほとんどなかった。

 なにか余程重要な用件があるのだろうかと慌てて龍宮寺の元に駆けるが、「よ」と手を上げた龍宮寺の声も表情も、予想に反して随分穏やかなものだった。

「悪いな、こんな時間に」

「それはいいけど……どうしたんだよ、なんかあったのか?」

 伸びてきた手が、急いで着込んだため肩からずり落ちたジャケットを直してくれる。その際頬をするりと撫でた手の甲の感触は慣れたものだ。

 慣れた温度に頬ずりしそうな心地良さを感じるが今はそんなことをしている場合ではない。

「いや、なんもねえけど」

「なんもねえの? けど、こんな時間に来んの珍しいじゃん」

 刹那、龍宮寺の目元が罰が悪そうに揺れた気がしたけれど、気のせいだったのかそれはすぐに消えた。

「本当はなんかあったんじゃねえの? 話聞くぜ?」

「本当になんもねえよ。近く通ったから顔見てこうと思っただけだ。ただ、」

「ただ?」

 やはり何かあったのではないか、と食い気味に聞き返せば、その様が可笑しかったのか小さく苦笑された。のち、どこか言いにくそうに「あー……」と頬を掻く。

「星、やっぱ見えねえなって……」

「星?」

「近くでわりと見えるって場所教えてもらって、ひとりで行ってきたんだけど、やっぱ思ったよりは見えなくてよ……したらなんか、お前の顔見たくなって」

「……そう、なんだ?」

 なぜそこで三ツ谷の顔が見たくなったのかは今一よく分からないが、龍宮寺もハッキリと説明はできないようで、珍しく困ったような顔をしている。

「だから本当、なんもねえんだけど」

「そっか、ならいいけど。なんかあったのかと思って焦った」

「悪い。なあ、ちょっと歩かねえか?」

「いいよ。出てくるって言ってきたし」

 アパートの目の前だ。まだ起きていた妹たちが様子を見に、覗きに来ないとも限らない。

 街頭や住宅から漏れ出る灯りに照らされた夜道は決して暗くはないが、街中ほど明るくもない。遠くを走り抜ける自動車や電車の音は聞こえるが、静かなものだ。時折、仕事帰りらしいスーツ姿の中年や私服姿の若者とすれ違う。

 ゆっくりと隣を歩く龍宮寺を見上げれば、わずかに顎を上げ、空を見上げている。

「ドラケン、星見たかったの?」

「べつに見たかったわけじゃねえけど……」

「けど見に行ったんだろ?」

「あー……つうか、冬の方がよく見えるっつうし、本当によく見えるんならお前といっしょに行こうと思って」

 行ったんだけど思ったより見えなかった、とどこか子供みたいに言う龍宮寺をぽかんと見上げる。その口振りは照れた風ではなく、期待外れだったことに悄然としているようなものだ。

 その横顔に、連れてってくれるつもりだったんだ、等と言って茶化す気にはなれず、かといって返す言葉を即座に見つけることもできず、前を向いて無意味に瞬きを繰り返す。すこしビックリした。まさか龍宮寺がそんなことを考えていたなんて思ってもいなかったから。

「……残念だったな」

「ま仕方ねえけどよ。このへんじゃ、ちょっと高いとこ上っても満天の星空ってわけにはいかねえだろうし」

「そうだな」

「卒業前にふたりでどっか出かけんのもいいと思ったんだけどな」

「………………」

 進学先は別だが、龍宮寺と佐野も春から高校に入学することが決まっている。ふたりは同じ工業高校を受験したが、龍宮寺はギリギリまで進学と就職、どちらにするか悩んでいた。龍宮寺は趣味にするほどバイクが好きで、バイク屋を経営するという夢があり、一刻も早く夢をかなえるため、進学よりも就職を考えていたらしい。けれど思うところがあったのか、はたまた佐野が高校進学を決めたからなのか、詳しい理由は知れないが、進学する道を選んだ。工業高校ならバイク屋を営むうえで必要な技術も学ぶことができると踏んでのことだろう。

「卒業したら終わりってわけでもねえんだし、春休みになってからでもいいじゃん。星じゃなくても……昼間でもいいしさ」

「まあ、そうだけど。夜にふたりで出かけたこと、あんまりねえだろ。集会の後にちょっと話したり、飯食いに行ったりはするけど。だからたまにはって思ってんだよ」

「そっか。……もう入学式の準備済んだ?」

「ある程度はな。つっても特に準備することねえだろ。制服とか教材くらいじゃねえ?」

「ドラケン達、ブレザーだったよな。あんま想像つかねえけど、なんでも似合うからなドラケン」

「入学したら見せてやるよ。お前んとこ私服だったっけ」

「うん。私服は私服で面倒だけど」

 龍宮寺は上背もあるし、肉体のバランスも良いから学ランだろうとブレザーだろうと服に着られるということはなく着こなすだろう。学ランやカーディガンを来ている姿を見慣れているため、ブレザー姿というのは余り上手く想像できないが、たとえ目交いにしても違和感など感じさせないのだろうことは想像に容易かった。

「制服とかはどうでもいいけど、電車通学しなきゃなんねえのがダリィわ」

「バイク禁止なんだっけ?」

「ああ。高校じゃさすがに万年遅刻ってわけにはいかねえから、ただでさえマイキー起こすの大変だってのに」

「はは。ドラケンとマイキーが電車乗ってるとこ、想像できねえわ」

 想像できないことがたくさんあるな、とふと思った。見慣れない制服姿。ふたり並んで電車での登校。佐野の奔放さも、龍宮寺の佐野限定で世話焼きなところも、高校に入学したからといってなにも変わらないだろうけれど、中学と違い、高校に入れば制限されることも多くなってくるだろう。新しい出会いもあって、或いは、三ツ谷の知らない友人も増えてゆくかもしれない。

 中学も別だったし、高校進学を期にはなればなれになってしまう、という感覚はない。学生であることに変わりはないから、生活リズムが異なるということもないだろう。

 それでもやはりお互いに新しい環境へと身を置くことになるのはたしかで、それに伴い、今まで以上に相手の知らない時間というのも増えてゆく。

 龍宮寺が進学を決めた時、三ツ谷はとくに嬉しくも悲しくもなかった。龍宮寺が自身で進路を決めたことは喜ばしいことだとは思うが、彼が自分で決めたことならそれが進学でも就職でもどちらでも良かった。

 けれど彼が進学すると決めたと聞いた時、漠然と、知らない彼が増えてゆくんだと思った。今まで通り、佐野の隣にいて、自分の隣にもいるということが変わるわけではないと分かっていても、きっと三ツ谷には知ることがかなわない彼の時間が増えてゆくんだろうと。

 三ツ谷とて進学するのだから、同じ立場だと分かっているのに、なにも変わらないんだと自身に言い聞かせても、それを実感した時、わずかに、けれどたしかに湧き上ってくる寂しさにも似た気持ちがあって、それがまるで子供みたいで辟易する。

 女々しい、と吐いて捨てたいが、そうしたところできっとなくなることはないということもまた、分かり切っていた。

「……どこに行ったら見えんのかな」

「ん?」

「星。もっと暗いとこ行けば見れんのかな。……俺も、ドラケンと見に行きたかったな」

 卒業前でも後でも、見上げる星空はなにも変わらないだろうと思う。季節ごとに見える星座は変わっても、ふたりで見上げた星空に変わりはないだろうと。

 けれど、今はふたりで見に行くことができても、数ヶ月後には変わってしまっているんじゃないだろうか。今見に行かなければ、もう、次はないとも限らない。

 環境が変わってゆく。つきあう人間が変わって、お互いに知らない時間が増えてゆく。

 時が止まることなんてない。変わらずにいられる人間などいない。変わらないことなんて、なにもない。

 龍宮寺を疑っているとか、信用していないとか、そういう話ではなく、人は誰しも変わらずにはいられない生き物なのだ。

 大人になってゆく過程で、この先、三ツ谷も龍宮寺も、望もうが望まざるがどこかしら変わってゆくだろう。たとえなにかが変わっても、彼と並んで歩くこの関係性が変わらずにいればいいと願うけれど、その願いが独りよがりなものになってしまうことだけがこわかった。

「あのさドラケン」

「なんだよ」

「今こんなこと言ったってしょうがねえって分かってるけど……他に好きなやつできたら、ちゃんと言えよ」

「……は?」

「これから新しい出会いとかあるだろうしさ。高校入って好きなやつとかできたら、隠さず言えよ。お前は浮気とかしねえだろうけど、黙ってられんのも逆にしんどいしさ」

 湿っぽくならないように口元に笑みを浮かべる。卒業を控えているからと、感傷的になっているわけではないのだ。もし万が一、龍宮寺が三ツ谷以外の誰かを本気に好きになったとしても、しばらくは三ツ谷といっしょにいようとしてくれるだろう。龍宮寺は優しいから、三ツ谷を傷付けると分かれば胸を痛め、心苦しさを感じるはずだ。三ツ谷は龍宮寺が好きだけれど、だからこそそんな思いはさせたくない。

 龍宮寺が幸せならそれでいいと、笑って手をはなせる。多分、恐らく、今ならまだ。

 傷付いて、立ち直れないかもしれない。恋なんかもう二度としないと思ったとしても、今ならまだ、友達としてこれからも隣で笑っていられる。

 それもまた、余り想像のできないことだけれどそうあってくれと、願うほかない。

「……だからもし、他に好きなやつが、」

「俺は許さねえからな」

 ふいに不機嫌そうな低い声が聞こえ、反射的に顔を上げれば、声同様不機嫌そうな顔をした龍宮寺と目が合う。三ツ谷を見下ろす時はいつも穏やかに優しく揺れている黒橡の瞳も、やはり不機嫌そうに歪んでいて、自分の発言がそうさせているのだと視線を伏せた。

「他に好きなやつができたなんて許さねえ。力尽くでも渡さねえから」

「力尽くって……ドラケンはそんなことしねえだろ」

「いざとなったら分かんねえだろ。つうかなんなんだよお前、俺はお前に『聞き分けの良い兄ちゃん』なんか求めてねえつってんだろ」

「べつに、聞き分けいいってわけじゃねえよ。ありえねえ話じゃねえだろ。この先もし、」

「もしじゃねえよ。たとえ話だとしても、力尽くでも渡さねえって……なんでお前はそう言ってくんねえの?」

「……、……だって」

 隣にいたいという願いが独りよがりになるのがこわい。三ツ谷が笑っていても龍宮寺が笑っていないのなら、隣にいる意味なんて、きっとない。

 別れたいと思うわけじゃない。これからだって、ずっと変わらず傍にいたい。けれど、変わらないものなんてなにもないから。

 その時はちゃんと、龍宮寺の手をはなしてやらなければ、と。

「俺だって変わんなきゃいいと思ってるよ。このままずっとお前といっしょにいられたらって。けど分かんねえじゃん。環境が変わって、今までとは付き合う奴等も変わっていって……俺が、お前と逢って変わったみてえに、お前と逢ってお前を好きになったみてえに、新しく逢ったやつを好きにならねえとは限らねえだろ」

「………………」

「俺だって誰にも渡したくねえけど、それでお前が俺の隣で笑ってくれねえんなら、いっしょにいる意味なんかねえ。だから……だからそん時はって、思っただけで……」

「……お前は普段女々しいこととか情けねえこととか言わねえし、そういうとこが強くてかっけえけど、それとはこれとはまた別だろ」

「……なんの話だよ」

「不安なら不安だって言えよ。そういうの、口に出して言わねえと分かんねえから」

「……べつに、そういうんじゃ」

 違う、そういう話じゃないんだ、と言いたいけれど、それ以上言葉が出てこない。

 龍宮寺の前で、弱音を吐くような真似はしたくない。龍宮寺にはとくに、情けないと、女々しいやつだと思われたくない。それは恋人という以前に、彼に憧れと同様の感情を抱いているからで。

 彼の前では誰よりも格好つけていたいのに、どうしていつもうまくいかない。どうしていつも、子供みたいなことばかり。

「……想像できねえことばっかなんだ。べつにお前のことは全部知りたいってわけじゃねえけど、知らねえことが増えてくばっかで……新しいことって慣れてくのが必要だろ? そうやって新しいことに慣れてくうちにさ、忘れたりはしねえんだろうけど、いつか」

 急に言葉が出なくなって、いつか、と同じことを繰り返す。言葉を絞り出すことを拒むように喉が狭まって息苦しい。

 早く言葉を紡がなければと思うのに、口から出るのは同じ言葉ばかりで、それでも、龍宮寺がその先を急かしてくることはなかった。

「……いつか、埋もれちまうのかもって」

「………………」

「……俺のこと」

 ようやく絞り出した言葉が龍宮寺の肩に吸い込まれてくぐもる。震えた声に、情けねえ、と思いながら龍宮寺の肩に額を押し付ければ、抱き締める腕の力が強くなった。

「埋もれるわけねえだろ、ばか。なんでそういうの、ちゃんと言わねえんだよ」

「……馬鹿馬鹿しいって俺だって分かってんだよ。言ったってしょうがねえだろ」

「けどそう思ってんだろ。お前にひとりでそんなこと考えさせんのがいちばんきついって言ってんだろが。ちゃんと言え」

 きつく抱き締めてくる龍宮寺の肩越しに等間隔に電気の灯るファミリーマンションの外廊下と暗い夜道、電柱に取り付けられた街頭、星の見えない黒にも紺にも染まり切れない空が見えた。

 この場所は明るすぎて、星も碌に見えない。けれど龍宮寺と見上げる夜空はいつも、月だけが瞬く空で。

 いつかまたふたりで夜空を見上げた時に、この瞬間を思い出すだろうか。

 あの時はガキみてえに泣いたっけ、と恥ずかしさに悶えながらも、隣にいる彼と、同じように笑いながら。

「変わってくもんもあるんだろうけど、なんも変わんねえよ。あの頃から、なんも変わってねえだろ、俺達」

 体をはなし、大きな手のひらで濡れた頬と目元をぐいと拭うように撫でられる。ぞんざいな手つきは、それでも優しくて、目元にたまった涙が落ちていった。

「……俺、ドラケンのこと好きになったよ。……友達じゃ、なくなっちゃったじゃん」

「友達だろ。友達で、仲間で、恋人になったってだけだ。変わってねえよ」

「……っ」

「そんな不安なら、交換日記でもするか?」

「ぁ?」

「逢えねえ時でもなにがあったか分かんだろ」

 優しく頬を撫でながらいつものように穏やかに歪む瞳を見つめ、言われた言葉にきょとんと瞬く。遅れて脳に届いた『交換日記』という言葉に思わず笑みが漏れた。

「それはちょっと」

「ルナマナにかわいいの選んでもらえよ」

「俺等がファンシーなノート交換してんの、やばすぎだろ」

「いいじゃん、お前絵もうめえし」

「しかもイラスト付きかよ。絵日記じゃん」

 想像するとおかしくて続け様に笑えば、見下ろしてくる瞳も細くなり、おかしそうに笑う。

 その瞳が自分を見下ろす時、どれだけ柔く歪んでいるかもう充分過ぎるほど知っていて。

「……不安なら、不安だって言っていい。そん度に大丈夫だって言ってやるよ。呆れも、困りもしねえから」

「……うん」

「埋もれる暇ねえくらい、逢えばいいだろ」

「……っ、うん」

 後頭部にまわった手のひらに引き寄せられ、再度肩口に額を当てる。子供みたいな我儘も、情けない弱音も、いつだってすべてここに吸い込まれている気がする。

 女々しい、情けない、ガキみてえだと思うたび、龍宮寺は優しく抱きしめて宥めてくれて、ちゃんと口に出せたことを褒めてくれるみたいに、頭を撫でてくれる。

 甘やかし過ぎなんだよな、と思う。けれどそれに救われているのも事実で。

 きっと他にはないだろうと思う。きっと此処だけだと。

 安心して、気が緩んで、子供みたいに泣ける場所など、きっと、この腕の中だけなのだと。

「それでも不安だってんなら交換日記だな」

「それは……やだよ」

「あ?」

「絶対どっちかですぐ止まるって。ドラケンだってそんな筆マメじゃねえじゃん」

「それは、続ける努力をだな」

「いいよ。……逢った時に聞かせてよ。電話でもいいからさ。そっちの方がいい」

「……分かった」

 広い背中に手を回し、一度だけ抱き締めてから体をはなす。どちらともなく暗い夜道を歩き出し、星の見えない空を見上げた。

「マイキーと一緒だから、マイキーの話ばっかになりそうだけど」

「アイツ以上にインパクトある奴も話題もねえからな」

「ドラケンの場合は半分愚痴だけどな」

「また三年間アイツの世話しなきゃなんねえかと思うとウンザリするぜ」

 傍から見ると自ら買って世話を焼いているようにしか見えないが、そういうことにしておこう。

 吹き抜ける風は未だに冷たかったが、やはり春の気配を孕んでいて、かすかに花のにおいがした。






「プラネタリウム、行きませんか?」

 花垣がそう言うと同時に、花垣の正面に座った佐野がクリームソーダに刺さったストローを吸う、ジュゴッ、という音が響いた。

 卓上に置かれた2枚のチケットは都内にあるプラネタリウムのもので、暗い夜空に浮かぶ満天の星々の写真がプリントされている。

 つい先日龍宮寺と星について話をしたばかりで、星空の写真につい目を惹かれた。

「プラネタリウム?」

 聞き返せば花垣は頬張ったパンケーキで頬をまるくしながらこくりと頷く。

 つい先日、三ツ谷達は卒業式を迎えた。学校の後輩達からも花束や手紙を受け取ったが、花垣や柴といった東京卍會の後輩達も花を用意してくれていて、特に柴に関しては学校で世話をしたことなんでまるでないのにわんわん泣かれて宥めるのに苦労した。

 それが数日前のことで、既に春休みとなったこの日、いつものように佐野と龍宮寺、そしてこのメンバーで集まる時は最近レギュラーと化した花垣とでファミリーレストランで飯を食っていた。

 花垣に話を聞けば、三ツ谷達が卒業した記念に、みんなでどこかへ遊びに行きたいと思っていたらしい。旅行等も考えたらしいが、さすがに小遣いにも限りがあり、それならせめて近場で、と考えていた時に、父親からプラネタリウムのチケットを貰ったとのことだった。卒業記念でなくとも、いつも遊んでいるのに、と思わないでもないが、それを口に出すのは無粋だろう。自分達のことを考えて提案してくれた可愛い後輩の配慮だ。

「ペアチケット2枚貰ったんで、良かったらみんなで行きませんか?」

 パンケーキを飲み込んだ花垣に言われ、花垣以外の3人で顔を見合わせる。もちろん嫌というわけではないが、この面子でプラネタリウム。ムーディな音楽に星空の映像、ゆったりとしたソファ席で身を寄せ合いながら、満天の星空を眺める。

 ……マイキーとふたりで行けば?

 と、いう言葉をグッと飲み込んだ。

 花垣からの誘いは、決して嫌というわけではないのだ。自分達とどこか遊びに行きたいと考えて、折角だからと普段行かない場所を提案してくれたのだろう。

「タケミっちが行きたいんなら俺はいいよ。プラネタリウムとか行ったことねえし。寝るかもしれねえけど」

 やはりというべきかなんというべきか、最初に頷いたのは佐野だった。その顔はプラネタリウムという場所に特に興味がある風でもなく、単に花垣の提案だから乗ったまでだろう。佐野が頷いたのを見て、龍宮寺も頷く。三ツ谷も当然、異論はなかった。

「チケット4人分あるんで、もちろん、俺じゃなくて別の人を誘ってみんなで行ってもらっても」

「は? 言い出したのお前だろ。タケミっちが行かねえなら行かねえ」

「誰誘ってもヤロー4人で行くことには変わりねえしな」

「たしかに。タケミっちも一緒に行こうぜ。俺等の卒業祝ってくれんだろ?」

 遠慮がちな花垣へ言えば、それぞれの言葉を受けて「はいっ」と嬉しそうに笑う。

「プラネタリウムってなにすんの? 星見るだけ? 俺、星とかよく分かんねえんだけど」

「解説あるんで分からなくても大丈夫だと思いますよ。俺も調べてみたんですけど、ライブみたいなのもやってるみたいで、わりと面白そうだったっす」

「ライブ?」

「はい。色んな曲流して、聴きながら映像見たりするらしいっす」

「へえ、そういうのやってんだ」

 花垣に教えてもらい調べてみると、わりあいに好んで聴いているアーティストの楽曲等も使用されているらしい。単に座って星を眺めるだけというわけでもなさそうで、存外楽しめそうだった。

 時間帯と場所を確認してみると、今から向かっても充分間に合いそうだ。

「どうする? 予定特に決めてなかったし、これから行く?」

「そうだな。タケミっちが折角チケットくれたんだし、今から行くか」

 正面に座った龍宮寺と携帯を突き合わせ、時間やアクセス経路を確認し合う。ある程度の情報を頭に叩き込んだところで隣に視線を向ければ、花垣の前に置かれたパンケーキに添えられた果実の果肉を、佐野が浚ってゆくところだった。

「ちょーだい」

「言う前に持って行かないでくださいよ。べつにいいですけど」

「俺のクリームソーダ、分けてやってもいいよ」

「もう空っぽじゃないすか……」

「あ、そうだタケミっち、これやる」

 そう言ってポケットからなにかを取り出した佐野が花垣の前になにかを置いたのが分かる。かつ、とちいさな音が響いたが、佐野の手が邪魔して、それがなんなのか分からなかった。

「なんすかこれ? ボタン?」

 佐野に渡されたものを拾い上げた花垣の指先に摘ままれた金属製のボタンと、花垣の言葉に思わず目を剥いた。

「そ。学ランの」

「えっ、マイキー君の学ランのボタンすか!? 貰っていいんすか!?」

「いいよ。学ランごとやっても良かったけど、タケミっちもあと一年しか着ねえしな」

「いや、さすがにマイキー君の学ランは恐れ多いっすよ! ボタンで充分っす!」

 ありがたそうにボタンを掲げている花垣を凝視するように見遣る。花垣は分かっているのだろうか。恐らくそれが、第二ボタンであるということを。

 嬉しそうにボタンを見下ろす花垣を見つめる佐野の眼差しを見るに、間違いなく第二ボタンだろう。佐野がそんなロマンティックなことをするなんて、というかそもそも、第二ボタンという概念を知っていたことに驚く。

「いちばん大切なやつにやるんだって」

「、……これもしかして」

「だからお前にやる」

「……ありがとうございます、大事にしますね」

「失くすなよ」

「失くしませんよ。マイキー君から貰ったもの、失くすわけないじゃないすか。全部、俺の宝物なんで」

 ボタンをぎゅっと握り締めて嬉しそうに笑う花垣と、そんな花垣を頬杖をついて眺めながら笑っている佐野と。

 相変わらず、仲睦まじい光景だ。

 額に入れて飾るだとか、紐を通して首から下げるだとか、花垣の案を逐一却下している佐野を横目に、ちらりと龍宮寺を見遣る。彼も当然、今の光景を目撃していただろう。視線を下に向け、携帯の画面を眺めている振りをしているが。

 笑い合っている佐野と花垣に、余所でやれ、と思う気持ちがないわけではないが、ふたりのあいだやその遣り取りにやはり色っぽさなどは感じられず、第二ボタンの下りも、佐野の発言には引っかかるところはあったものの、それを除けば単なる先輩後輩、総長と隊員の会話のようにしか感じられない。親しげだなと思うが、元より距離感が異常だったふたりであるため、おそらく恋人になったのであろう今と、それ以前のふたりにこれといった変化は見られず、本当につきあっているのか、という疑いが頭をもたげることもしばしば。

 もう最近ではふたりきりで逢っているということも珍しくなくなったから、おそらくつきあっているのは間違いないだろうが。

 三ツ谷の推測が正しければ、ふたりがつきあい始めて、間もなく三ヶ月を迎えようとしている。手を繋いでいるところは見たことがあるが、それ以上の進展はあったのだろうか。佐野は花垣が初恋で、花垣以前に誰かと交際をしたことがないため、手が早いという印象はないが、決して奥手というわけでもないだろう。友人だったころから距離が近く、密着しているところを見たこともあるため、或いはキスくらいはしているかもしれないが、それ以上はどうだろう。

 ―――というか、佐野は知っているのだろうか。

 ふいに沸いた疑問に、はた、と顔を上げる。年のはなれた兄がいる佐野は、兄のお下がりで学ぶ機会もあったようで性的知識はわりあいに豊富だが、彼の兄が同性愛者だったという話は聞いたことがない。どちらかと言えば、女性を好む質だったらしい。

そんな兄が佐野に残した書籍の中に、男同士の性行為を手解きする指南書が紛れていたとは、到底考えにくい。

 佐野は知っているのだろうか。所謂、男同士のセックスというものを。

「なあドラケン」

 楽しそうに笑い合いながら話をしている佐野と花垣に気付かれぬよう、身を乗り出して龍宮寺に耳打ちする。

「マイキーってヤり方知ってんのかな?」

「なんの? ……いや、さすがにまだ早くねえ?」

 一瞬不思議そうな顔をしたが、相変わらず察しが良くて助かる。

「でももうすぐ三ヶ月じゃん? 知らなかったとしたら、結構悲惨なことになるんじゃね?」

 主に花垣が。

 今でこそもう大分慣れて、体を重ねる時にさほど苦労することはないが、三ツ谷と龍宮寺もはじめのころは手間と時間がかかった。規格外とまではいかないが、龍宮寺のサイズはその体格に見合ったもので、ただでさえ女性のように濡れるわけでもないそこがすんなりと受け入れるはずもなく、お互い息も絶え絶えな状態だった。体を重ねたいという欲求はある。けれど特に三ツ谷の体はすんなりと挿入までこぎつけない。

 はじめのころは痛みもあったし、肉体的負担もあった。三ツ谷達の場合、三ツ谷も努力したが、それ以上に龍宮寺の努力が大きいだろう。三ツ谷以上の我慢を強いられたはずだが、文句ひとつ言わず、三ツ谷の体が慣れるまで辛抱強く待ってくれた。

 同じことを佐野ができるのだろうか。いや、できなければならないわけだが。

 そうでなければ、花垣が無理を強いられる羽目になる。個人差はあるだろうが、同じ男の体だ。三ツ谷と花垣の負担に、そう大きい差があるとは思えない。

 或いは佐野が手順を知らず、勢いに任せて押し倒し、そのまま流れで体を重ねようものなら、凄惨な状況に陥るのは間違いない。最悪、花垣が死んでしまうかもしれない。

 そう思うとさすがに楽観視はできなかった。

「たしかにマイキーのことだから勢い余ってヤッちまってもおかしくねえからな」

「タケミっちに酷いことしねえとは思うけどさ……けどああいう時って理性働かねえことあるし。それでマイキーがヤり方知ってんなら何とかなるかもだけど、知らなかったらタケミっちやばくね?」

「つかタケミっちがそっちって、なんで分かんだよ」

「……マイキーがそっち?」

「……ねえな」

「だろ?」

 図らずも想像してしまったのだろう。顔を顰め、水を弾く犬のように、ふるる、と首を横に振った龍宮寺に頷く。

「まあ見た感じ、まだそこまではいってなさそうだけど」

 言いながら、途切れることなく会話を交わしている佐野と花垣へと視線を向ける。

「マイキー君って何座ですか?」

「知らん」

「知らんことあります?」

「星座とか気にしたことねーもん」

「じゃあ俺調べますね。誕生日8月でしたよね」

「うん、20日」

「ええと、あ、獅子座っすね。かっけー……マイキー君は星座までかっこいいんすね」

「タケミっちは?」

「俺蟹座っす。マイキー君マイキー君」

「なんだよ」

「結構相性いいらしいっすよ、獅子座と蟹座」

「相性ってお前……世の中にどんだけ獅子座と蟹座いると思ってんの」

「そうっすけど……『ふたりがいるとその場の雰囲気がすごく盛り上がり、いっしょにいる時間はとってもハッピー!』って書いてあります」

 花垣の言葉に佐野が声を上げ、可笑しそうに笑う。

「『ふたりでよく話し合えば、お互いの気持ちを理解でき、どのように支えれば良いのか考えることができるでしょう』らしいっす。話し合いましょう」

「なにをだよ。タケミっち、占いとか信じてんの?」

「信じてるわけじゃねえっすけど、良いこと書いてあったら嬉しくないすか?」

「そういうもん? よく分かんねえけど。良いこと書いてあった?」

「はい。俺とマイキー君、相性良いって書いてあったんで良いことっすね」

「そ。良かったね」

 なんの話をしているんだ、星座とか相性とか。女子か、と正面から低く呟く声が聞こえてきてその意見に同意するように息を吐く。

 いつものように戯れのような会話を繰り返しているだけで、やはりそこに色気だのなんだのは感じられない。やはりまだふたりには早い話題だったか。心配しすぎだったかもしれない、と思うが話題が話題だけに、過ぎるということもないだろう。あのふたりがこれからも恋人という関係性を続けていくのなら、いずれ確実に通る道なのだ。

 三ツ谷にとっても花垣は良き友人、良き後輩だ。失いたくはない。

「とは言っても、マイキーに『知ってる?』って聞くわけにもいかねえしなあ」

「あからさますぎるしな」

「まあしばらくは様子見かな」

「オイ、またこの流れかよ」

「しょうがねえじゃん。ドラケンだって放っとけねえだろ。タケミっちやばいことになるかもしれねえんだぞ」

「まそうだけどよ……」

 佐野と花垣は花垣の携帯をふたりで眺めるようにして顔を近付け、楽しそうに笑っている。そっとしておこうと思っても、ふたりの関係性を知ってしまった以上、放置しておくわけにもいかず、結局またふたりの様子を伺うことになるのかと、深く息を吐いた。





 プラネタリウムが入っているビルのエレベータに乗り込み、目的のフロアまで向かう。エレベータの扉がひらいた先にはフロアタイルが敷かれた通路が続いており、その先に受付が見えた。

 春休みだがさほど客は多くなく、プラネタリウムの入っているフロアは静かなものだった。銀髪がひとり、金髪が3人、しかもそのうちひとりは辮髪でタトゥーまで入っている。街中を歩いている時でさえ人目を惹くことがあるのだ。プラネタリウムでも当然人目を惹いたが、ギョッとした表情を向けられるのは一瞬で、皆素知らぬ顔をして視線を逸らす。受付に座っていたスタッフはさすがに顔色ひとつ変えず、花垣が差し出したチケットを受け取った。

「すいません、パンフレットってありますか?」

「はい、そちらに」

 示されたブックラックからパンフレットを抜き取り、施設概要や開催されているイベント等を確認する。花垣が言っていたライブの他にもいくつかの上映作品があるようだった。

「わりと色々あるんだな」

「そうみたいっすね」

「意外と人少ねえな」

「夜の方が人気みたいっすよ。ここは普通のシートみたいっすけど、プラネタリウムによってはカップルシートあったり、お酒飲めたりするとこもあるみたいですし」

「やっぱヤロー4人で来るところじゃなくね?」

「学生の課外授業でも利用したりするらしいんで、べつにカップルじゃなくても大丈夫じゃないすか?」

「不良4人で来るところでもねえな」

「それはたしかに。あの、無理しなくても良いんすよ。俺が持ってきたけど、ドラケン君達が楽しめるかどうかは別だし……貰いもんのチケットですし」

「たまにはいいんじゃね。折角来たんだから遊んでこうぜ」

 遠慮するでもなく言ってくる花垣の頭を龍宮寺がわしわしと撫でている。佐野はと言えば通路の脇に設えられたベンチに座り、興味なさげにパンフレットを眺めていた。

 訪れたプラネタリウムは映画館などと同じで、上映作品によってチケットを入手するシステムになっていて、花垣が持ってきたチケットは、好きな作品を選べるタイプのものだった。4人全員で同じ映像を見ることになるのだとばかり思っていたが、上映作品を確認して見れば思いのほか種類がある。それに加え、ペアチケットだったこともあり、龍宮寺と三ツ谷、佐野と花垣で別の作品を観ることになった。三ツ谷達は先に花垣が言っていた複数のアーティストが宇宙をテーマに手がけた曲と共に星の成り立ち等を巡る映像で、佐野と花垣は星にまつわる物語にしたようだ。

上映ホールは一箇所しかないため、時間により入れ替わりとなる。

「俺達終わるまで、どっかで暇潰ししてて良いですよ。下のフロアにカフェとか色々あるみたいですし」

「そうだな。ま適当に時間潰しとわ。マイキー寝るなよ」

「もう寝そう」

 ふあ、と欠伸を漏らしながらホールへと歩いてゆく佐野の背中を、花垣が苦笑しつつ追いかけてゆく。デートには最適だと思うが、その相手が佐野となるとそうでもないようだ。

「寝ていい?」

「ダメとは言いませんけど……」

「暗くなって、隣にタケミっちいたら、あったかくて寝そう」

「映画館でも寝ちゃうタイプっすか?」

「ものによる。静かなのは寝る」

「あー……じゃあ寝ちゃうかもっすね」

「楽しくねえわけじゃねえから」

「ん?」

「やじゃねえよ、プラネタリウム。普段来ねえし、星とか分かんねえけど。タケミっちといると楽しいから」

「……はい」

 ホールへ入っていく最中、耳打ちするような近さで顔を寄せ合い、かすかに笑い合っているふたりがなにを話しているかまでは聞こえなかったが、その横顔には若干微睡に撓んでいるものの佐野も存外楽しそうだ。

 ふたりが完全に見えなくなってから龍宮寺の元へ向かう。ビルのフロア案内を確認していた龍宮寺は、下行くか、と言ってエレベータを呼んでいる。カフェのほかに書店やCDショップ、アパレルショップ等も入っているようで、時間を潰すにはうってつけだ。

「ドラケン、買い物付き合ってよ」

「……お前の買い物に付き合うのはいいけど、お前俺に着せてえだけだろ」

「いいじゃん。それがストレス発散なんだって。あとでコーヒー奢るからさ」

「まお前がいいならいいけどよ」

 間もなくやってきたエレベータに乗り込み、小さく息を吐く龍宮寺ににっこり笑い、アパレルショップのテナントが入っているフロアのボタンを押す。プラネタリウムも思ったより楽しめそうだが、図らずも龍宮寺の着せ替えができることになり、暇潰しの時間も充分楽しめそうだ。静かに閉まってゆく扉の向こうでホールの扉が閉まり、かすかに開演を知らせる音が聞こえてきた。

 その後龍宮寺を連れ回し、着せ替えを楽しんでから時間を見てプラネタリウムへと戻れば、丁度花垣達が観ている作品の上映が終わるころだった。

 観客はやはりさほど多くはなく、ちらほらとホールから出てくる人の合間に佐野と花垣の姿が見える。意外にも佐野は起きていて、何かを耳打ちするように花垣の耳に口元を寄せている。……相変わらず、距離が近い。

「ちょっ、とマイキー君……っ擽ったいですよ」

 首を竦めるようにして歩いてくる花垣に、佐野はまた耳打ちするように顔を近づける。花垣の言葉になにやら返しているようだが、それは花垣の耳元で囁かれていて、三ツ谷達には聞こえない。

「もうやめ、こしょばいから! マイキー君ってば、ちょ、っと」

 小さな子供が戯れ合い、笑い声を上げながら転がるように、佐野の体を押し返しては擽ったそうに首を竦め、時折、はは、と声を漏らして笑う。

「耳元で喋んないでくださいって……っ擽ったくてぞわぞわするから! もうやめてってば」

「仲良いなお前等」

「楽しそうじゃん、何やってんだよ」

「あ、三ツ谷君、ドラケン君。マイキー君が」

「タケミっちがあんなこと言うからじゃん」

「だって本当に声良かっ、やめ、もうマイキー君、耳元で喋んないでって」

 周囲に響くほど大きなものではないが、楽しそうにけらけらと笑っている佐野と花垣を一旦引き剥がす。随分楽しそうで、放っておくと延々と遊んでいそうだ。

「俺等が観たの絵本みてえな映像だったんすけど、朗読してる人の声がすげえ低くて格好良かったんすよ。それ言ったらマイキー君が」

「なんだよタケミっち、俺の声嫌?」

「嫌とかじゃないすけど……だから耳元で喋んのやめてくださいって! 擽ったいんすよ!」

「俺だって低い声出そうと思えば出せるし」

「いつもの声も充分格好良いですから。もー、むずむずする」

 そういって手のひらでごしごしと耳を擦っている花垣の耳元に、隙あらば近付こうとする佐野を龍宮寺が抑え込む。まるっきり子供だ。十代の男がふたりでやっていることを考えれば、子供、の一言で済ませられることではない。ふたりの関係性を考えれば人目も憚らずイチャついているようにも見えるが、佐野と花垣の性格や普段の遣り取りを考えると、ふたりにイチャついているという自覚はないだろう。

「ドラケン君達、なにして時間潰してたんすか?」

「買い物。つうかドラケンに色々着せてた。色々店あったし、タケミっち達も下で時間潰しとけば?」

「そっすね。けどちょっと疲れたんで休憩したいっす」

「あっち椅子あったから座ってろよ。飲み物買ってきてやるから」

「あ、俺も行きます。じゃあ、三ツ谷君達も楽しんできてくださいね」

 映像を観ただけで疲れるはずもなく、花垣が佐野に疲れさせられたのだということは一目瞭然だ。連れ立って飲み物を買いに行くふたりの背中を苦笑しつつ見送り、龍宮寺と一緒にホールへと向かう。

「マジで仲良いなアイツ等」

「ガキかってな」

「楽しそうだからいいんじゃね」

 呆れたように息を吐いている龍宮寺の腕を叩きつつ席に座れば、間もなく周囲が暗くなってゆく。一曲目のアーティストを確認してくる龍宮寺の声が耳元で聞こえ、たしかにこれは擽ったいなと先程花垣がしていたように首を竦めた。



 三ツ谷達が上映ホールを出るころには既に日暮れを迎えていたためか、フロアの照明がいくらか絞られ夜仕様になっていた。花垣が言っていた通り、昼と夜ではいささか客層が異なるのか、灯りは柔らかだが仄かな薄暗さを伴うフロアはそれなりの雰囲気が漂っている。客も少しだけ増え、カップルが多くなってきたような。

 佐野と花垣は自分達のように下のフロアで時間を潰しているのだろうか、と周囲を見渡した時、フロアの隅の布張りのベンチに並んで座っているふたりを見つけた。柔らかな灯りに照らされた、けれど仄かな暗さの中で、身を寄せ合うようにして座り、顔を見合わせて笑っている。

 それは少し前に見た、子供の戯れのような笑顔でなく。

 人もさほど多くなく、そもそも騒がしい場所ではないから、少し近付けばかすかな話し声が聞こえてくる。

「マイキー君のブレザー、見るの楽しみっす」

「似合わねえってケンチンに言われた」

「きっと見慣れないからっすよ。……マイキー君」

「ん?」

「高校行っても、その……俺と遊んでくれますか?」

「は? 当たり前じゃん。今までとそんな変わんねえって。なんだよタケミっち、俺が卒業して寂しいの?」

「……ちょっとだけ。同じ学校行ってたわけじゃないのに、変ですよね」

 困ったように笑う花垣を、佐野はただじっと見つめている。三ツ谷も佐野達と同様に卒業したが、その寂しさはなんとなく分かる。それは龍宮寺に吐露した不安と同じようなものだ。

 なにも変わらないと分かっていても、新しい環境を迎える相手がどこか遠くへ行ってしまうような気がするのだ。

 いつもと変わらず穏やかな、けれどどこか困ったような花垣の顔を見て、体を預けていた壁から離れる。傍らにいた龍宮寺の腕を引いて、その場をはなれるよう促した。

 これから花垣が佐野に話すだろう内容を、三ツ谷だったら人に聞かれたくない。

 龍宮寺も異論はないようで、しばらくふたりからはなれた場所に座っていることにした。

 花垣が座っていた位置から、そうやってはなれていく三ツ谷達は見えなかったけれど、先程と比べていくらか人が増えたような気がするフロアを眺める。腕を組んで仲睦まじく笑い合うカップルや、顔を寄せ合って笑っている男女の姿が見える。そろ、と隣へ視線を遣れば、じっとこちらを見つめてくる佐野の瞳と目が合った。

「……これからもいっしょにいてくれますか?」

「………………」

 そんなことを言おうとしたわけではなかったのに、口から自然に出た言葉がほろりと零れるように落ちてゆき、落ちて行った言葉を追うように視線を俯かせる。

 佐野が高校に進学すると聞いた時は驚いたけれど、彼の進路が決まっていることを喜ばしく思った。合格した時も自分のことのように嬉しくて、そこに哀しいとか、寂しいとか、そんな気持ちはなかったはずなのに。

 卒業式を迎えた佐野達に松野達と花を渡しに行ったあの日、もう、自分達と同じ中学生ではないんだとふいに強く実感し、それと同時にどこか遠く感じた。

 今までだって同じ中学に通っていたわけではない。東京卍會の集会は今まで通り毎週あって、毎週そこで顔を合わせる。休みの日にはこうやっていっしょに出掛けることも少なくないから、彼と逢う時間が減るわけでもないのに。

 佐野はなにも変わらないと言ってくれるけれど、新しい環境を迎える彼に置いて行かれるような感覚も、わずかにある。新しい環境、新しい出会い。新しい出会いがあったからといって、佐野が不貞を働くとは思っていないけれど。

 視線を上げて佐野を見遣れば、大きな呂色の瞳が目に入る。柔らかなピンクが滲む金色の髪が、すぐそこでさら、とかすかに揺れた。

 凛として揺れる人形のような美しい呂色の瞳。白い肌。通った鼻梁、薄く形良い口唇。まろやかなカーブを描く輪郭に縁取られた小さな顔。

 佐野は通っていた中学でも東京卍會の総長として知られ、生徒のみならず教師にまで恐れられていたらしい。いつだったかに聞いた話では、女子生徒にも恐がられるばかりで、校内では余り人気はないんだとか。

 けれど特徴的な瞳がひどく優しく歪む瞬間を花垣はもう、何度も見てきた。幼子をあやすように名前を呼ぶ低く甘い声を。大切なものに触れるように緩やかに頬を撫でる手のひらの温かさを。

 佐野がどれだけ魅力的で、どれだけ優しい人間か花垣は知っている。

 はじめは恐くて、彼のことを知っていくうちに憧れるようになって、友人として親しくなった。同性だということもあって、はじめから恋愛対象として見ていたわけじゃない。

 けれど、好きにならずにはいられなかった。見つめられるたび、名前を呼ばれるたび、優しくされるたびに体が震えるようで。

 これから新しい出会いを迎える彼が、花垣以外の誰かに好意を向けるようになるかも、ということを懸念しているわけではない。佐野の誠実さを、花垣は知っている。

 佐野の不貞を疑っているわけではないのだけれど、花垣には佐野に惹かれる者の気持ちがよく分かる。総長としてでもなく、『マイキー』と呼ばれる存在としてでもなく、佐野という男に惹かれる人間の気持ちが誰よりもよく理解できるから。

 そうやっていつか、佐野の魅力に気が付いた誰かが、佐野の隣に立っているんじゃないかと。誰にも渡したくないのにと。

 そんなことを考えてしまいそうになって、それが漠然とした不安に変わってゆくのだ。

「……放課後に待ち合わせしたり、休みの日に遊びに行ったり、してくれますか?」

「当たり前じゃん」

「話したいことがあったらメールしたり、声聞きたくなったら電話したりしていいですか?」

「いいよ」

「……逢いたくなったら、」

「逢いに行く。寂しいなんて言わせねえから安心しろって。なんも変わんねえよ、俺にはお前だけ。な」

 まるで幼い子供をあやすように言う声に、もう何度絆されたか分からない。脱力してしまうほど安心する、優しい声。

「学校終わったらメールして、夜電話して、たまに放課後逢って、休みの日はふたりで遊び行こ」

 柔らかに歪む呂色の瞳が、まっすぐに見つめてくる。この瞳がこんな風に優しく歪むのは自分を見ている時だけだと知っている。

 疑ったりしてない。ただすこし遠くに行ってしまうような気がして不安になっただけ。

 けれどそんなかすかな不安すら払拭するように、頬に触れる指の感触は優しくて、あたたかくて。

 隣にいてほしい。自分の隣で、いつものように、今までみたいに、優しく笑っていてほしい。

 そんな些細な願いすら、きっと真摯にかなえてくれようとするから。

「今までみてえにさ、……傍にいてよ、タケミっち」

「……っ、はい」

 綺麗に切り揃えられた爪先が、擽るように髪の毛先を撫でる。その温度に擦り寄るようにこくりと頷けば、美しい呂色の瞳が嬉しそうに笑ってくれた。





 プラネタリウムを出るころにはすっかり日が暮れていて、バイクを停めている駐車場までのんびり歩く。夕飯になにか食べて行くかと、龍宮寺とそんな話をしながら前を歩くふたりを眺めれば彼等もまた肩を寄せて何事か話し合いながら歩いている。

 佐野を見て、楽しそうに笑っている花垣の横顔に先程までの憂いはなく、花垣が抱えていたそれが晴れたのだということが分かる。

 佐野と花垣の問題は、佐野と花垣が解決してゆくことだ。たとえ佐野の気持ちや花垣の不安を三ツ谷が理解してやれたとしても、それをお互いが理解できないのなら意味のないことだ。三ツ谷や龍宮寺が口を出すことではないと分かっているから、三ツ谷も、そして龍宮寺も彼等にはなにも言わない。

 佐野と花垣だけでなく、三ツ谷や龍宮寺にだって、これからもいっしょにいたいと願うなら、目の前に立ち塞がる問題がなくなることなんてないだろう。ひとつ問題を解決しても、きっと次の問題が出てくる。佐野と花垣は恋人という関係がはじまったばかりだから尚のこと。

 けれどふたりの問題はふたりで解決してゆくしかないのだ。そこに第三者が立ち入る余地などない。ふたりでその問題を解決できないのならば、きっとその関係はそこで終わりを迎えるだろう。そこに歯痒さやもどかしさを感じても、三ツ谷達第三者にできることなどなにもないのだ。

 ただ見守るだけ。たとえそれで佐野と花垣が別れを選んだとしても、三ツ谷達にはなにも言えない。それは佐野と花垣が決めたことなのだから。

「プラネタリウムでは星たくさん見ましたけど、やっぱ都内だと中々星見えないですよね」

「まあこのへんじゃ無理じゃね? けど俺、よく見える場所知ってるよ」

「そうなんすか? 都内?」

「うん。前に真一郎に教えてもらった。女口説く時に連れてくんだって。毎回振られて帰ってくるけど」

「そ、そうなんすか……」

「連れてってやろうか。ちょっと遠いけど」

「いいんすか?」

「いいよ。もうちょっとあったかくなったら、いっしょ行こ」

「はい!」

 顔を見合わせて笑っているふたりを見て、自然と笑みが漏れる。

 ふたりのことはふたりだけの問題だ。三ツ谷達が口を出すことではない。

 けれど佐野も花垣も三ツ谷にとっては大切な友人で、やはりふたりの関係が途切れることなく続いていけばいいと思うのだ。寄り添うように肩を寄せて、他愛ない話を繰り返し、内緒の話でもするように顔を見合わせて嬉しそうに楽しそうに笑っていられればいいと。

「高校入ったらバイトして金貯めて、旅行でも行くか」

「旅行?」

「星、見に行こうぜ」

「……そうだな」

 前を向いて歩く龍宮寺の言葉に笑って頷く。春の匂いが混じる風が通り抜けてゆくのを感じながら、星の見えない夜空を見上げる。

 プラネタリウムで星の成り立ちを巡る映像を見た。

 宇宙の片隅で星は生まれる。生まれれば当然、朽ちてゆくこともある。

 見上げた空に星は見えないけれど、たとえ見えたとしても、その星空が永遠に変わらずに在るわけじゃない。或いは今この瞬間にも、朽ちて光を失い、夜空から欠けてしまった星があるのかもしれない。

 永遠に変わらないものなんて、なにもないけれど。

 星の光が地球に届くまで、気が遠くなるほどの時間がかかるらしい。この時に見えている星の輝きは、自分達が生まれるより前に輝いていた星の瞬きなのかもしれない。

 今星が爆ぜたとして、それが自分達が見上げる夜空から欠けてしまうのは何百、何千年もあとなのだとしたら、自分達が見上げているあいだだけは変わらぬ星空がそこにはあるかもしれなくて。


 そうだとしたなら、それを或いは、永遠と呼べるのかもしれなかった。

 
 
 

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