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底なしの雨の国





 ざあざあとやむことなく降り続く雨の音だけが響いている。

 時間帯的にはまだ昼間で電気を落としているのにくわえ、空は厚く重い雨雲に覆われ陽射しが差し込まないため、家の中が薄暗い。

 キッチンの蛇口から滴った水滴がちいさく音を立てて落ちた。

「マイキー君、服ここに置いときますね」

「タケミっちの服、俺着れる?」

 シャワーの音が聞こえる浴室へ擦りガラス越しに声をかければ、反響する声が返ってくる。

 その声にすらいちいち動揺してしまって、「た、多分」と返す声がどもってしまった。

「サイズそんなに変わんないと思いますし、俺にもちょっと大きめのやつなんで」

「そ。分かった、置いといて」

「はい」

 どうしても浴室を意識してしまって、極力擦りガラスへ視線を向けないよう注意しながら、脇のラックへ着替えを置いた。

 雨が降り始めたのは、一時間ほど前のことだった。

 偶然家の近くで佐野と逢っていて、他愛ない話をしながらふと空を見上げたとき、嫌な色をした雲が徐々にこちらへ流れてきていることに気が付いた。

 出かける予定があったわけではなく、たまたま近くにきたという佐野に呼び出され、話をしていただけだったから、天気は気にしておらず、天気予報の類も確認していなかったのだけれど、或いは雨が降るのかもしれない。

 花垣の家はその場から近かったため、雨に降られてもさほど問題はないが、佐野の家まではわりあいに距離がある。

 ゆえに雨が降る前に解散したほうがいいかも、とそんな話をしている最中、ぽつ、と鼻先に冷たい雫が触れた。

 それを機に音を立てて降り始めた雨は小雨とは言えず、雨足は強くなる一方だ。

 そのうち数メートル先の景色さえ霞ませてしまうほどの勢いになるのは想像に容易く、そんな道を、慣れているとはいえバイクで帰るのはさすがに危ない。事故をしてしまったらと思うと、佐野をそのまま帰すわけにもいかなかった。

 佐野は平気だと言ったけれど、近いからと言って家に呼び、自宅に避難してきたのだけれど、そのときにはもうどしゃ降りで、佐野も花垣も頭からずぶ濡れの状態だった。

 花垣は自宅で着替えもあるため、体が冷えてしまう心配はさほどなかったのだけれど、佐野はそうもいかない。彼が風邪をひくところなど想像もできないが、どれだけ強靭な体を持っていたとしても、佐野も人間だ。絶対にありえないとは言い切れないだろう。

 総長に風邪をひかせてしまったとなると、佐野は文句を言わなかったとしても、誰になにを言われるか分からない。

 タイミングが良いのか悪いのか両親は留守にしていて、遠慮をする必要はないからとシャワーを浴びてもらうために、浴室へ案内した。

 先に入れと言われたけれど、そのあいだ濡れた服を着たままの佐野を放置しておくわけにもいかず、なんとか押し切って先に入らせた。

 佐野がシャワーを浴びているあいだ、濡れたふたりぶんの服を洗濯機に突っ込み、乾燥まで済ませるようにセットしてスイッチを入れる。それからキッチンに移動して、あたたかい飲み物を入れた。

 ふたりぶんの飲み物を自室に運び、佐野がシャワーを終えるのを待っていると、しばらくしてから階段を上がってくる足音が響く。

 ふたりしかいない家の中に響くその音がやけに大きく聞こえ、それと同時に緊張感が増して、こく、と無意識に喉が鳴った。

「シャワー借りた」

「あったまりました?」

「うん、ありがとな。タケミっちも浴びてくれば?」

「あ、いや、俺はもう着替えましたし、髪も大分乾いたんで。それより、あったかいの用意しときましたよ。マイキー君、コーヒーで良かったですよね?」

 タオルで濡れた髪を拭いながら部屋へやってきた佐野に笑いかければ、長い髪とタオルの合間から覗いた呂色の瞳がちらりとこちらを見る。掠るように花垣を見たその瞳に、勝手に反応しそうになる体をなんとか抑え込んだ。

 佐野は花垣の部屋を、もう何度か訪ったことがある。勝手知ったるという風に部屋を横切り、彼がこの部屋にやってきたときの定位置である窓際に腰を下ろす。

 ラグが敷いてある場所に座ればいいのに、といつも言うのだけれど、そこがお気に入りらしく、いつも気怠そうに壁に背中を預けて座っていた。

 この日は濡れた髪を拭っていたため、しばらく前屈みになっていたが、あらかた拭き終わったのかいつものように背中を預け、今は片手に持ったタオルで髪をかき混ぜるようにして拭いている。

 いつもは上げている前髪はシャワーを浴びた後ということもあって下ろされていて、長い前髪がどこか人形めいた顔を隠している。

 さらりと揺れる髪の合間から覗く呂色の瞳はやはり掠るように花垣に向けられ、そのたびに体がぎしぎしと音を立てて軋むようだった。

「いいよ」

「、え?」

「コーヒーで」

 揺れる髪とその合間から覗く瞳に気を取られていたら、ふいに短く告げられ、曖昧に頷く。

 ざあざあと降り続く雨音がやけに大きく響き、すぐそこで大きな音が鳴っているような感覚に陥る。雨が降っているせいか空気が湿気ているのか、やけに重いような気がする。

 纏わりつくような空気に耐え切れず、はあ、と息を吐いて、空気を振り払うように佐野から視線を逸らした。

「いつも上げてるから、そうしてるとなんか新鮮ですね」

「ああ、髪? 風呂上りはこんなもんじゃね? タケミっちは……その髪型もよく見るからべつに新鮮味はねえな」

「休みの日は大体こんな感じですしね」

「伸ばさねえの?」

「似合いますかね?」

「……あんま似合わねえかも」

 想像したのか、ふ、と口元を撓ませて笑う佐野の言葉に花垣も口端を上げて笑う。多分うまく笑えてはいなかっただろうけれど。

 家の中にふたりしかいないため、会話が途切れるととうぜん部屋には沈黙が落ちる。それでもどしゃ降りの雨の音が響いているため、静かというわけでもない。

 すこし日が陰ってきたのか、部屋の中がわずかに暗くなったような気がする。

 重い空気が肌を撫でるように纏わりつき、無意味に喉を鳴らした。

「雨やみそうにないですね」

「ああ。服乾いたら帰るよ」

「けど、また濡れちゃいますよ。こんな雨の中運転するの危ないですし、やむまでいてください」

「………………」

 重い空気に耐え切れず口をひらけば、ふいに佐野が立ち上がり、テーブルを挟んで正面まで移動してくる。ラグの上に腰を下ろした佐野は卓上のカップを手に取り、まだ湯気の立つコーヒーに口をつけた。

「意外とうまいね」

「なにがですか?」

「コーヒー煎れんの」

「たまに親に言われて煎れるんで……自分ではあんまり飲まないんすけど」

「タケミっち、甘いののほうが好きだもんな」

「スティックのカフェオレとかばっかっすね」

「ま、あれはあれでうまいけど」

「寒い時期になると絶対常備してるんすよ」

 花垣にも大きめの服は、やはり佐野にもすこし大きかったようで佐野は袖をまくっており、その手首に黒い髪ゴムがついている。

 とくに意識して見ていたわけではないのに、あとになっても、なぜかその光景を鮮明におぼえていた。

「腹減りません? なにか食べますか?」

「いらねえ」

「そっすか……テレビとか観ますか?」

「ううん」

 コーヒーのカップに口をつけ、わずかに顔を傾けるたび、長い髪がさらりと揺れる。合間から見える顎の輪郭、大きめの服の襟から覗く白い首筋、浮き上がる鎖骨。

 雨の音がうるさい。

 空気が纏わりついてくるようで。

 震えそうになる気息を飲み込むたびに、こく、とちいさく喉が鳴る。

 さらにわずかに陰った部屋にそろそろ電気をつけようか、と立ち上がろうとしたが、まるでそれを遮るように。

「……どうすんの?」

「え?」

 ふいに聞こえてきた声に顔を上げる。まずいちばん最初に視界に入ったのは卓上に置かれたマグカップだった。

 それから佐野がテーブルに頬杖をついているのが分かって、長い髪の合間から、ゆるりと花垣を見遣る呂色の瞳と目が合った。

「やまなかったら」

「……っ」

 佐野が言った言葉に、先程自分が言った『やむまでいてください』という言葉が脳裏を過る。佐野はそのことを言っているのだろう。

 大した言葉ではなかったと思う。気に留めるような疑問ではなかった。

 けれどそのとき、異様に恥ずかしいことを指摘されたような気がして、頬が熱を持ったのが分かる。

 自分でも分かるくらいだ。佐野も気が付いただろう。

 は、と吐き出した気息が震え、無意味に瞬きを繰り返す。

 まるで肺が圧迫されているかのような息苦しさ。

 空気が重い。

 ―――重いというより、なんだかひどく濃厚で。

「……タケミっちさ、ちょっと油断しすぎなんじゃねえ」

「なに、……」

「親、帰ってこねえんだろ?」

 果実の皮を剥くように、花びらを毟ってゆくように。

 ひとつ、ひとつ。ゆるやかに、ゆっくりと暴かれていくような感覚。

 佐野を直視することができず、そこになにがあるわけでもないのに、ゆらゆらと揺れている淡い湯気を無意味に見ていた。

 甘く、重く、どうしようもなく濃厚な空気がわずかに揺れて、佐野が立ち上がったことが分かる。

 じわじわと染み入ってくるような、痺れるような感覚が肌を這う。それは先程からずっと体に纏わりついていて。

 衣擦れの音がして、すぐそこに佐野の気配を感じる。

 視界の端で、長い髪が揺れた。

「……なのに、俺呼んだの?」

 耳元で低く甘い声がして、息を飲む直前、強い力で肩を引かれる。そのままその場に組み敷かれ、一旦閉じた目を開ければ、目の前に佐野の顔があった。

 片手で花垣の肩を抑え、倒れ込んだ体に乗り上げてきた佐野が手を伸ばし、ただ佐野を見上げることしかできない花垣の顎を指の関節でゆるく撫でる。

「タケミっちはさ、もう気付いてるよね、俺の気持ち」

「っ…、マイ、キーく、」

「……分かってて、部屋に上げたの?」

 上から降ってくる聞き慣れた声はいつもより低く、いつもより甘く。顎の輪郭をなぞるようにすれすれの位置を動く指の感触に、吐き出した息はもうあからさまに震えていて。

「親もいねえのに?」

「…、っ」

「そんな状況で部屋に入れたら、なにされるかくらいは想像できんだろ? 分かんなかった?」

 ぐ、と顎を持ち上げられ、頬に長い髪が触れる。雨音が響く室内は薄暗く、窓から入り込むほのかに明るい光を撥ねて、呂色の瞳が水面のように潤びっている。

 肩を抑え付けていた手がゆっくりとはなれていって、ゆっくりと腕をさすり手首までおりていく。そのまま脇を撫で、腰を辿って、体のラインをなぞるように下肢へと。

「抵抗しねえの?」

 一旦手が止まり、また低く甘い声が聞いてくる。

「……嫌がれよ。そしたらやめてやる」

 一方的に組み敷かれている状態なのにすぐそこで響く声はどこまでも甘い。目の前の瞳は熱に浮かされたように潤びって揺れている。

 震える気息を吐き出す。鼓動が早く、心臓が締め付けられるような感覚。肺が圧迫されるように息苦しい。

 雨の音がうるさい。

 神経が過敏になって、窓の外を音をやけに敏感に拾ってしまう。

 震える指先で、体を撫でる佐野の手を掴む。その際、すり、とただ掠るように佐野の肌に触れた指先が疼くような痺れを生んだ。

「……、ぃやじゃない…」

 どうしようもない焦燥のような気持ちが湧き上ってくる。早く、はやくと、頭がその焦燥を理解しているわけでもないのに。

「……っ分かってて、呼んだから」

 マイキー君、とその名前を口にしようとしたけれど、それはかなわず。

 濡れたように揺れる呂色の瞳に飲み込まれたかと思えば、口を塞がれ、薄くひらいた口唇をこじ開けるように舌を差し入れられる。

「んぅ…ッン、んぁ……っ」

 剥き出しになった内臓を思う様嬲られて、それに応えるように舌を動かす。肉厚な舌を舐め、吸って、啜って、しゃぶって。互いの口内で響くくちゅくちゅという唾液の混ざり合う音が頭蓋の中を満たし、どうしようもなくいやらしいことをしているような気分になる。

 注ぎ込まれる唾液を飲み込んで、ちいさな頭を抱くように首に腕を回せば、キスはさらに深いものになってゆく。

「…っぁ、ぃきーく……っ」

 る、と口の中から濡れた舌が引き抜かれ、舌と舌のあいだで唾液が糸を引き、ふつっと音を立てるようにして途切れる。

 それがまるで、自分たちが理性を手放す合図のようだった。





 薄暗い部屋の中に、ざあざあとやむことなく降り続く雨の音が響き、同時に、雨音とは違う水音が混ざる。

 ちゅぐ、と響いた音は濡れたそこが、体内に入り込んでくるものを締め付けている音だと馬鹿になった頭で判断しながら、抉り、穿たれる感覚にあられもない声を上げた。

「っぅあ、ア、あぁ…ッ」

 背後から穿たれながら、奥に入り込んでくる快感に身も世もなく悶え、腰を掴む指に指を絡める。

 鼻先で髪を掻き分けるようにしながら首やうなじに吸いついてくる柔らかな口唇の感触。忙しなく吐き出される熱い息が肌にぶつかり、合間に何度も名前を呼ばれる。

 いつもより甘くとろけた聞き慣れた声が名前を呼ぶたび、脳が溶けてしまいそうなほどの快感に襲われて、壁を擦り上げる性器をきつく締め付けては夢中になって腰を揺すった。

「あ、ぁ…っも、ぉく、おくぅ…っ」

「……っ」

 引き抜かれる感触に無意識にねだるような声を上げれば、耳元で息を詰める音が聞こえる。

 直後、ぢゅぷん、と耳を塞ぎたくなるほど卑猥な音が体内に響いて、一瞬、目の前の風景がどろりと溶けだしてしまったかのような錯覚を憶えるほどの快楽が全身に響いた。

「ぅあア…ッ」

 快楽で震える体を宥めるように背中に密着してくる肌の感触と圧し掛かってくる重みがどうしようもなく気持ちが良い。

「…っぃき、く…っまいきーく…ッ」

 それしか知らないように、馬鹿になった頭で叫ぶように彼を呼びながら、指に絡む指を力いっぱい握り締める。

 体を揺さぶられながら、ふと視線を向けた窓を雨が伝い落ちてゆくのが見えた。

 まるでこの部屋のなかに自分たちを閉じ込めるように、激しい雨は降り続いている。

 ざあざあとやむことのない雨音が、鼓膜の奥に響いていたけれど。

「……っ、けみち」

 たけみち、と名前を呼ぶ、熱に浮かされとろけたような甘く低い声に耳を塞がれ、それ以外はもうなにも、聞こえなくなった。










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