星鳴きのまにまに(+ドラみつ)
- sick0826
- 9月2日
- 読了時間: 32分
墨の入った蟀谷を指の側面でそっと撫でてやれば、うつらうつらとしていた瞼がふっと糸が切れたようにひらかれる。ちらりと横目で三ツ谷を見上げてくる黒橡の瞳には、けれど未だ微睡が撓んでいて、またすぐにゆっくりと閉じられた。
その様が、普段は凛々しく、しゃんと背筋を伸ばした気高い猫が自身の膝の上では気を許し、丸くなっている姿を彷彿とさせ、ふっと無意識に笑みが漏れる。薄い耳たぶにつけられたピアスを擽るように指先でなぞれば、目を閉じたままの龍宮寺の口元がかすかに笑ったのが見えた。
「三ツ谷ぁ、くすぐってえ……」
「寝そうじゃんドラケン。危ねえから寝んなよ」
「んー……」
なぞっていた耳たぶを指でつまみ、わずかに広がった耳孔を覗き込む。普段から手入れしているため、覗き込んだ耳の中は綺麗なもので、摘まんだ綿棒で申し訳程度に表面を撫でてやる。耳の中を緩やかに撫でられる感触が心地良いのか、龍宮寺はゆっくりと息を吐いた。
「三ツ谷の耳かきすげえイイ……」
「褒めてもらえて光栄だけど、お前の言い方、なんかちょっと……」
「なに」
「……いかがわしくてやだ」
「いかがわしいってなんだよ」
く、とかすかな笑い声が漏れると同時に膝の上でちいさく頭が揺れる。
無防備なものだと思う。関東で随一を誇る巨大暴走族である東京卍會の副総長を務める彼のことを、界隈で知らない者などいないだろう。高い上背に特徴的な金の辮髪、蟀谷に刻まれた龍のタトゥー。見た目も余程人目を惹くが、彼の名を知らしめているのはその容姿、容貌ではない。
体躯に見合った腕力、兵隊100人以上を相手にしても負けることを知らない。無敵を冠する佐野の隣に立って尚、霞むことのない圧倒的な強さ。拳を振るい、三ツ谷よりも体躯の大きな者を軽々と吹き飛ばすその姿は鬼気迫るもので、まさに鬼のようだと思うことも間々ある。数多の不良たちから尊敬や憧憬と同時に、畏怖を孕んだ眼差しを向けられる、そんな彼が。
三ツ谷の膝の上では、まるで微睡む猫のようで。
そこには普段の気迫も殺気もなく、精悍な黒橡の瞳はゆるやかに撓んでいる。
節の目立つ大きな手に握った細い綿棒を差し出し、「耳かきして」なんてまるで幼い子供みたいなことを言って、なんの警戒もなく横たわり、三ツ谷の膝に頭を乗せる。
うとうとと瞼を揺らし、猫が日向で伸びるように三ツ谷の膝に沈み込んでいるその姿を、それでも情けないなどと思うことはなく、笑みが漏れるばかりだ。
結われた金髪の指を差し入れ、生え際を撫でるようになぞる。髪の中で指が動く感触がむず痒いのか震えるように肩が揺れた。
「俺がやるまでもねえじゃん。綺麗なもんだな」
耳孔から綿棒を抜き、逆さにして外耳をなぞる。仕上げにふっと耳に息を吹きかけてやれば、膝の上に乗せていた頭がひく、とあからさまに揺れた。
「終わったぞ、起きろ」
「なんだよ」
「あ? なにが?」
「今なんで息吹きかけた?」
「ああ……癖? 昔母ちゃんが耳かきの仕上げにやってくれててさ、今でもルナマナにやってるから。悪い、やだった?」
「嫌とかじゃねえけど……ビックリした」
体を起こし、耳を抑えた龍宮寺が困惑したように呟く。彼が猫だったら毛が逆立っていたかもしれない。
未だもぞもぞと耳を触っている龍宮寺を横目に、座っていたベッドの縁から立ち上がり、綿棒をゴミ箱に捨てる。
「最近マジで寒くなったよな」
「ああ、週末雪降るかもってよ」
「マジかよ。まあもう2月だしな……あ、2月といえば聞けよドラケン。俺こないだたまたまタケミっちと逢ったんだけどさ、アイツどこに居たと思う?」
「あ? タケミっち? ……マイキーの家とかか?」
返ってきた言葉に思わず苦笑してしまった。最近、龍宮寺に花垣の話題を振れば、すぐに佐野の話になる。逆もまた然り。ふたりのことはもうそっとしておこうと決めたが、これまで数ヶ月に渡り、彼等の動向を気にし続けてきたせいか、その時の思考の癖が抜けていないのだろう。佐野の家と応えた龍宮寺の気持ちも、分からないでもない。
「チョコ売り場だよ」
「チョコ売り場ぁ?」
「バレンタインの」
「……ウソだろ」
「いやマジで」
眉を寄せた表情で固まってしまった龍宮寺にうんと無意味にひとつ頷く。
それは数日前、1月も終わるころだった。手芸や裁縫の材料の買い出しがてら、軽く買い物をしようと向かった先のショッピングモールで偶然花垣と鉢合わせたのだ。
ある程度買い物も終わり、夕飯の食材を買い足しておこうと地下のスーパーマーケットに向かうため、エスカレーターを降りていた。エスカレーターが下降するにつれ、目に賑やかな色彩が飛び込んできて、おや、と思ったのだ。普段とは些か様子が異なる。エスカレーターが下りきり、地下に降り立って初めて、世間は間もなくバレンタインデーを迎えようとしていることに気が付いた。ショッピングモールの地下にはスーパーマーケットの他に書店や雑貨店、コーヒーショップ、そしてたくさんのスイーツ店のテナントが軒を連ねている。そしてどのテナントも、鮮やかな色に染まっていた。
三ツ谷は決してイベント事に疎いわけではないし、バレンタインに無縁というわけでもない。毎年母や妹以外の女性からもチョコレートを貰うし、妹たちを手伝ってチョコレートを作ったこともある。
けれど三ツ谷自身がバレンタインというイベントに興味があるかと言われると微妙なところだ。チョコレートを貰えても、貰えなくても、さほど大きな感情の起伏はない。甘いものは嫌いではないけれど、それほど好きでもない。本命がいるにはいるが、かわいらしくラッピングしたかわいらしいチョコレートを用意するような相手ではなかったし、それは三ツ谷も同様で、本命である龍宮寺とは恋人という関係ではあるもののバレンタインに贈り物を贈り合ったことはなく。
三ツ谷にとってやはりバレンタインというのは、イベントの中では影が薄い日であった。
ゆえに眼前に広がる鮮やかなスイーツ売り場を見て、はじめて、そういえばもうすぐバレンタインだな、と気が付いた。気が付いたところで、三ツ谷の目的地はスーパーマーケットであることに変わりはなく、賑やかなスイーツ店を横目に通り過ぎようとした時、鮮やかな風景の中に見慣れた後ろ姿を見つけたのだった。
「……タケミっち?」
一瞬見間違いかとも思ったが、その後ろ姿は間違いなく花垣のもので、わずかに振り向いたその横顔も、やはり見慣れた後輩のものだった。
花垣とてスイーツを食べたい気分になることもあるだろうから、彼がスイーツ店にいておかしいということはないが、やはり時期的に場違い感は否めず、こんなところでなにをやっているのだろう、と思いながらスイーツ店のショーケースをあちこち見ている花垣をすこしはなれた場所から眺める。
よもや、自分用にバレンタインのチョコレートでも買いに来たのか、とそんなことを思ってハッとした。
おそらく、という前提はつくものの、花垣はついひと月ほど前から佐野とつきあいはじめた。つまり、恋人ができたのだ。
つきあいたての恋人と初めて迎えるバレンタインデー。自分用ではなく、まさか、佐野へのチョコレートを買いに来たのか、といささか衝撃を受けながら愕然と花垣を眺めていたら、ショーケースから顔を上げた花垣とふいに目が合った。
三ツ谷だと認識するのに時間がかかったのか、数度瞬きを繰り返した花垣は、けれどすぐに笑顔になり、遠くからひらひらと手を振ってきた。
「三ツ谷君! 偶然ですね、こんなところで逢うなんて。買い物ですか?」
「あ、ああ、うん。タケミっちこそ、買い物か? ひとりで?」
「はい。アッ君や千冬も誘ったんすけど、みんな今日は予定あるみたいで……家にいても暇だから、買い物でも行こうかなと思って」
「へえ。マイキーは?」
「え?」
つい安易に佐野の名前を出してしまい、慌てて口を噤んだが、口に出してしまったことはなかったことにはならず、「マイキー君?」と花垣は首を傾げた。
「いや、最近ふたりで遊びに行ったりしてんだろ?」
「ああ、まあ、たまにですけど。さすがに暇潰しの買い物に、マイキー君を付き合わせるわけにはいかないっすよ」
そういうものだろうか。つきあっているのなら、デートがてら買い物に来ても良さそうなものだ。佐野も花垣の誘いなら断りはしないだろうし、恋人の買い物に付き合うくらいは嫌がらないと思うが。
「……もしかして、チョコレート選ぶからか?」
「え? なにがすか? チョコレート?」
「いや、タケミっち、チョコ見てたじゃん」
マイキーにあげるチョコ選んでたんじゃねえの、と聞きたかった。聞きたくて聞きたくて仕方がなかったが、それを聞いてしまうと、佐野と花垣の関係に気付いていると吐露することになるため、聞けなかった。
「ああ、すごいっすよね。この時期、うまそうなチョコいっぱいあるんすよ」
「バレンタインだしな。タケミっち、この時期にこういう場所来るの尻込みするタイプかと思ってたけど、意外とメンタル強いな」
「いやまあ、さすがに女の人多くてちょっと居心地悪かったっつうか、恥ずかしかったっすけど……。けどバレンタイン用のチョコって、うまそうだけどやっぱ結構いい値段しますよね」
「そうだな、凝ったやつ多いしな」
「三ツ谷君は自分で作れちゃいそうっすね」
「いやさすがにあそこまで凝ったやつは無理だろ。溶かして固めるくらいはやったことあるけど」
「すげえ、作ったことあるんすか?」
「ま妹達の手伝いでな」
「バレンタインのチョコといえば、手作りも定番すもんね」
マイキーにか、と聞きたかったけれど、やはり聞けなかった。聞くわけにはいかなかった。
「どれか買ってくのか?」
「いや、ちょっと見に来ただけなんで。月末だし、俺今月小遣いやばいんすよ」
さっき服買っちゃったし、と下げていた紙袋を掲げる。所謂、下見というやつだろうか。
この後はもう帰るという花垣とその後しばらく話をして別れた。花垣と別れた後も、花垣は佐野へ贈るチョコレートの下見に来ていたのか、とか、佐野と花垣はそういうイベント事をちゃんとやるタイプなのか、とか、そんなことばかりが気になって、購入しようと思っていた食材をうっかり買い忘れてしまう始末だった。
「やっぱあれ、マイキーにあげるチョコ選んでたのかな。どう思う、ドラケン」
「俺に聞くなよ。マイキーにせがまれたんじゃね」
「ありうるな。けどもしそうだとすんなら健気だよな。恥ずかしいの我慢してチョコ売り場行って、なけなしの小遣い叩いてマイキーのためにチョコ買うんだから」
「たけーの買ったってどうせ味なんか分かんねえんだから、アイツには板チョコで充分だってのにな」
「言うじゃん。……つうか、なんかすげえ変な感じするな」
「なにが」
「俺等マイキーの話はよくするけど……マイキーがバレンタインに好きな子からチョコ貰うかも、みたいな話……したことねえじゃん」
「……むしろしたくねえわ、そんな話」
げんなりと言い放つ龍宮寺の気持ちが分からないでもない。今まで佐野が色恋とは無縁だったことも起因しているが、たとえ花垣とつきあいはじめたとしても、自分達のイメージする佐野が変わるわけではない。自分勝手で横暴で傍若無人で、誰よりも仲間想いで信頼に厚く、頼りになる。無敵を冠するに相応しい強さと、誰もが総長と認める器とカリスマ性。龍宮寺ほど近しい人間であっても、憧れがなくなることはないと言う。けれど普段はずぼらで幼く、我儘放題だ。
そんな佐野が。まさかあの佐野が、ともう何度思ったか分からないことを未だ繰り返し思う。
あの佐野に、まさか恋人ができたなんて。
「しかもなんだかんだ、うまくいってるみてえだし」
「ま、うまくいってんならそれに越したこたねえけどよ」
「喧嘩でもしようもんなら、マイキーめちゃくちゃ機嫌悪くなりそうだもんな」
「そういうとこガキだからなアイツ」
花垣がうまく佐野の手綱を握ってくれていれば良いが、一筋縄ではいかないのが佐野という男である。まだまだ花垣の手には余るだろう。
「俺等もやる? バレンタイン」
「なんだよ三ツ谷、チョコ欲しいの?」
「べつに……甘いのそんな好きじゃねえし」
「だよなあ。ま、俺等はチョコよりラーメンでも食い行こうぜ」
「いいねえ」
毎年バレンタインが近くなると三ツ谷は家族から、龍宮寺は店の女性達からたんまりとチョコレートを貰うため、甘いものはそれで腹いっぱいだ。大の甘党である佐野ならまだしも、そのうえ更に甘いものを贈り合うより塩気のあるものが欲しい。
イベント事を気にしないわけではないが、互いに食べ盛りでもある。色気より食い気だと言われれば、否定はできなかった。
龍宮寺とラーメンを食いに行くという約束は、互いになんだかんだと予定が重なり、図らずも2月14日のバレンタイン当日になった。しかも本当にたまたま、龍宮寺や三ツ谷が図ったわけでもなく、まったくの偶然で、その場に佐野も同行することになり、そして店を出たあと、佐野と約束をしていたらしい花垣と合流することになった。
すこし前までは彼等の様子を探るためにあの手この手で彼等が揃う場に合流したり、それらしいことを言ってふたりを呼び出したりしていたのに、そっとしておこうと決めた途端この様だ。世の中とはままならない。
「結構うまかったね」
「お、珍しいじゃん。マイキーがラーメン気に入るの」
「甘味にしか興味ねえのにな」
「あ? んなことねえし」
「何食いに行っても店出たあと、パフェ食いてえだのどら焼き食いてえだの言うだろ」
「食後のどら焼きは別腹じゃん」
「女かお前」
平日の放課後に合流したため、外はすっかり暗くなってしまった。それでも周囲は街の灯りで明るく照らされている。
花垣とはすこしはなれた場所で待ち合わせており、店の前に停めたバイクに跨り、待ち合わせ場所へと向かった。
「タケミっち、まだ来てねえじゃん」
「珍しいな。いつもなら先に来て待ってんのに」
「学校出るの遅くなったから、ちょっと遅れるって」
バイクを降り、街頭とベンチがある方へ歩いていく佐野が閉じた携帯をジャケットのポケットに仕舞う。どうやら連絡は頻繁に取り合っているらしい。しょっちゅう逢っているようだから、連絡の遣り取りくらいは行っているのだろうが。
以前、佐野から中々メールの返信が返ってこない、と花垣が嘆いていたが、交際をはじめて、そのへんは改善されたのだろうか。
2月の夜。凍てつくような空気の中、暗い空を見上げている佐野の横顔は、寒さなんてまるで感じていないかのようで、薄くひらかれた口元から吐き出された気息が流れるように夜の暗がりへと消えてゆく。
花垣と逢う約束をしている、と言った佐野の口振りは、わずかな不自然さや違和感すらなく、それが彼等にとってごくごく日常的なことであるということを知った。学校が終わったあと、人知れず夜にふたりで逢うことは、そう稀ではないらしい。
東京卍會の集会は毎週決まって行われるし、体感として佐野の付き合いが悪くなったというようなこともない。龍宮寺にも確認してみてが彼も同意見らしい。にもかかわらず、合間にふたりで逢う時間も作っているようで、花垣はともかく、佐野もそういったことに関してはわりあいにマメだったのだなとすこし意外に思った。どちらかといえばフットワークが軽い方だとは思うが、毎日とは言わないが学校にも行っているし、総長としてやるべきこともやって、自分達とも遊んでいるから、面倒くさがりな性格が起因して、怠い、とか、面倒くさい、とかそんなことを言って、ふたりで逢う時間は後回しにしているのかもと内心思っていた。
それがこうやって、わざわざ待ち合わせまでして、花垣が遅れるときは寒空の下で文句も言わず待っているらしい。意外と尽くすタイプなのかも知れない。
「そういえば、ドラケンには言ったけど、このあいだタケミっちと逢ったよ」
「ふうん。どこで?」
「バ、」
レンタインデーのチョコ売り場で、と言いそうになって、果たして佐野にそれを言ってしまって良いのか、ふと思いとどまった。或いは佐野には内緒にしているのかもしれない。花垣から言っていないことを三ツ谷の口から告げて良いものか。
「『ば』?」
「……場地と行ったことがあるとこ」
「は? どこだよ」
「……買い物してたって言ってたよな」
「ああ、うん、そう、それ」
さすがに見かねたのか、龍宮寺が助け船のようにショッピングモールの名を口にし、それにこくこくと頷けば、釈然としない表情を浮かべた佐野に「分かったけど、なんで場地? 最近いっしょ行ったの?」と尋ねられ、曖昧に頷いた。
「服買ったって言ってた」
佐野から見えない角度で龍宮寺に軽く背中を小突かれ、そんな龍宮寺に内心で謝罪と礼を述べながら、なんとか話を続ける。
花垣の話題には反応を見せたが、花垣の買い物の内容までには興味がないだろうと思いつつも会話が不自然に途切れないよう言葉を絞り出す。案の定、さほど関心がなさそうな素振りで顎を揺らした佐野は、けれど一拍置いて、ふ、と口元を撓ませた。
「またダッセェ服買ったんだろ、アイツ」
ダセェ服は買うなつってんのに、と言いながら笑みを浮かべている佐野の横顔に、些か唖然とする。そろりと隣を見上げれば、龍宮寺はそんな佐野の表情を見ないようにするためか、薄目で前を向いていた。
再度佐野に視線を戻し、未だ唖然とする気持ちを抱いたまま、分かってんのかマイキー、と内心で呟く。
どう見ても、友達の話をする顔ではなくなっている。友達としても、距離感が異常なふたりではあったけれど。
すこし前まで、佐野がその表情を見せるのは、花垣を見つめているときだけだった。今でも、たとえ花垣の話題が出たとしても、逐一表情を変えるわけではないけれど。
ずっと、佐野の内心が分からなかった。彼の気持ちに気が付いたのは、隣で笑う花垣を見つめるその横顔や眼差しを目交いにしたからであって、それ以外では花垣の話題を振ってみても喜ぶわけでも、特別嬉しそうにするわけでもなかったから、その真意を図りかねる時間が長く続いた。
すこし前までそうやって、自分達の前でその感情を表に出すことはなかったのに。
なにかしら、変化があったのだ。その変化というのは、やはり、佐野と花垣が―――。
「……マイキ、」
「すいません、遅くなりました!」
やっぱりお前等、つきあいはじめたんだろ、と思わず佐野に詰め寄りそうになった直前、聞き慣れた声が聞こえてきて我に返った。
手を振りながら、まるで無邪気な仔犬のように駆けてくる花垣の姿をどこか呆然と眺めつつ、前のめりになった体を抑える龍宮寺の服の袖を無意識に握り締める。
あぶなかった。佐野の思いもよらぬ表情に動揺して、花垣が現れなければ思わず余計なことを口走ってしまうところだった。
「……よお、タケミっち」
「珍しいな、お前が遅れるなんて。なんかあったんか?」
「こんばんは、三ツ谷君、ドラケン君。年明けのテストでちょっとひでえ点取っちゃって、居残りさせられちゃったんすよ」
佐野をはじめ、自分達を待たせているからと、急いできたのだろう。バイクに乗るにしては薄着だし、指先も、頬も鼻の頭も真っ赤に染まっている。それでも快活に笑いながら、下ろした金髪を揺らし、申し訳なさそうに頭を掻く。
そして龍宮寺と三ツ谷の肩越しに佐野を見つけ、嬉しそうに笑った。
「遅くなってすいません、マイキー君」
「居残りお疲れ。顔真っ赤じゃん、タケミっち。ガキみてえ」
「そっすか? 急いで来たんで……」
「寒かった?」
「急いでたんで、むしろ暑かったっす」
「だからそんな薄着なの? けど汗引いたら寒くなるよ。あったかい飲み物でも買うか? あっち自販機あるし」
「そっすね。いいですか?」
「いいよ、行こ。ケンチン、三ツ谷、俺等飲み物買ってくんね」
「おー、行ってこい」
相変わらず親しげ笑い合いながら自動販売機がある方へと歩いていく佐野と花垣を見送る。時折顔を見合わせて楽しそうに笑いながら歩くふたりの姿は、もうすっかり見慣れたものだ。
「こう見るとなにも変わんねえように見えるけどな」
「けど、ドラケンだって見ただろ。マイキーのあの顔」
「見てねえ。マイキーがあんな甘ったるい顔するわけねえだろ」
「見てんじゃん。マジで驚いたわ……思わずマイキーの胸倉掴みそうになったぜ。止めてくれてありがとな、ドラケン」
「それはいいけどよ。そっとしとくんじゃなかったのか?」
「そうだけど、つい……つうかドラケンは気になんねえの? わりと冷静じゃん」
「……つきあってるかどうかはともかく、マイキーがタケミっちのこと好きだってのはもう分かったからな」
「落ち着いたんだ?」
「落ち着きゃしねえけど……マイキーがそう言うんなら、俺等が口出すことでもねえだろ」
そんな話をしていると、飲み物を買いに行った佐野と花垣も戻って来た。佐野は既に開封したらしいおしるこに口をつけながらのんびりと、花垣はパーカーの裾を袋のようにして三ツ谷達の元へ駆けてくる。
「ドラケン君、三ツ谷君、コーヒーで良かったですか?」
「俺等の分も買ってきてくれたのか? 良かったのに」
「パシリみてえなことしてんじゃねえよ、タケミっち」
「寒い中待たせちゃったお詫びなんで、気にしないでください」
威圧的な龍宮寺の言葉を気にした風でもなく笑い、缶コーヒーを手渡してくる。遠慮しつつも受け取れば、冷たい空気できんと凍ったようにかじかんでいた指先があたたかいコーヒーに温められ、ほぐれてゆくようだった。
「ありがとな。けど金払うよ。年下のお前に奢ってもらうわけにはいかねえだろ」
「そんな、良いっすよ。マジで気にしないでください。それに、俺の分はマイキー君が出してくれたんで」
「……へえ」
人に奢るという行為ができたんだな、と思いながら脇を通り過ぎ、さっさと歩いていく佐野の背中を横目で見遣る。花垣と待ち合わせていたのはお互いの家から丁度中間あたりにある公園で、遊具の数はそう多くないわりにそこそこ広い。公園というより広場といったほうがしっくりくる。敷地の周囲に街頭やベンチがあるが、すこしでも風を避けるためか、佐野は端の方にあるちいさなガゼポへ向かって行った。
先にひとりで座り、三ツ谷達が追い付いてくるのを待ってのんびりとおしるこを飲んでいる。かと思えばおしるこの缶から口をはなし、「タケミっち、早くこいよ」と両手で缶コーヒーを握り締めて暖を取っている花垣を呼んだ。
「タケミっち、こないだ三ツ谷と逢ったんだって?」
「あ、はい。買い物してるときに、偶然」
「ダセェ服は買うなつったろ」
「か、カッケェ服しか買ってないすよ!」
「ふうん。まいいけど。他になんも買わなかったの?」
「そっすね。チョコとか見に行ったんすけど、思ったより高かったんで買わずに帰りました」
「チョコ?」
そんなつもりはなかったのだが、図らずも龍宮寺の大きな体が風避けになり、龍宮寺の影に隠れるようにしてあたたかいコーヒーで暖を取っていると、そんな会話が聞こえてきたギョッとした。言うのか、と思いながらも何食わぬ顔をして、耳を欹てる。
ふたりがつきあっているとしたら、いやたとえつきあっていなくてもお互いのことを想い合っているのはたしかで、バレンタインの話題など振ろうものなら、気恥ずかしさや居たたまれなさを感じるのではないか、と思ったのだけど、会話を続ける佐野と花垣にそんな気配は感じられない。
「バレンタイン近かったんで地下にチョコ売り場とかできてて、見に行ったんすよ」
「ああ、そういや今日バレンタインだっけ。見に行っただけ? 買わなかったの?」
「高かったんで……」
「そんなすんの? チョコだろ?」
「いやいや、何言ってるんすかマイキー君。そのへんで売られてる板チョコとはわけが違うんすから」
「板チョコうまいじゃん。俺板チョコ好き」
「うまいっすよね。俺も好きっす」
なんだその会話は、と声を上げそうになるのをグッと堪える。具体的な会話など想像したくはないが、それでも「俺に買ったの?」とか「マイキー君に買おうと思ったんすけど」とか、そんなことを言い出すんじゃないかと思ってハラハラしていたというのに、聞こえてきたのはまるで子供の会話だ。本当につきあってんのかお前等、と言いたくなるが、それは決して言えないのである。
ちらりと横目で龍宮寺を見上げてみるが、缶コーヒーに口をつけた龍宮寺は余所を向いている。聞いていない振りを決め込む腹積もりらしい。
「つうかバレンタインの時期にチョコとか見に行くんだ」
「バレンタイン仕様の特別なやつとか出るらしいっすよ。母親に聞いたんすけど」
「へえ。けどこの時期、そういうとこって女ばっかじゃねえ?」
「すごかったっすよ。さすがにちょっと恥ずかしかったっす」
「入りにくいよな、ああいうとこって」
「……マイキー君でもそういう風に思うことあるんですね」
「……お前俺のことなんだと思ってんの?」
「いやだって、そういうの全然気にしなさそうっていうか……やっぱ女子の目とか気になるんすか?」
「べつに気にはしねえけど、居心地の悪さはあるじゃん」
「俺ちょっと、マイキー君のこと近くに感じます」
「舐めてんのかお前」
横目で花垣を睨む佐野と、そんな佐野に怯えながらも否定する花垣と。
いつものように戯れているふたりに気付かれぬよう、龍宮寺にそっと声をかける。
「なあ、マイキーって学校の女にチョコ貰ったりしねえの?」
「学校の奴等はねえんじゃねえ? どっちかっていうと怖がられてるし」
「顔悪くねえし、喧嘩だってつええのにな」
「俺等からしてみれば喧嘩強くてかっけえけど、女は喧嘩するって時点でアウトなんじゃね?」
「ああ、喧嘩するってだけで結構引くよな女子って」
「……まあそういうのが好きって女にはわりとモテてるみてえだけど」
「そういうって?」
「喧嘩がつええ男が好きって女」
その手の男を好む女性なら、たしかに佐野以上の男はいないだろう。
「学校の奴等はねえけど、街歩いててたまに声掛けられたりはしてる」
「マイキー有名人だもんな。……そういう子達にチョコ貰ったのかな」
「さあ? いつもは声かけられてもスルーしてっけどな」
佐野は甘いものが好きだからチョコだけなら受け取るかもしれないが、もし花垣とつきあっているのだとしたら、花垣としてはそのへんはどうなのだろう。さっきまで若干不穏な気配が漂っていたのに、そんなことなかったかのようにもう笑って話をしている佐野と花垣を見遣る。
バレンタインの話題が出たにもかかわらず、佐野は花垣から貰えるのか、花垣が他の誰かにチョコレートを渡したのか、そんなことを気にしている様子はないし、花垣も佐野が他の誰かからチョコレートを貰ったのかどうか気にしている様子もなければ、渡すタイミングを伺ってそわそわしている風でもない。いつも通り、ただ楽しそうに笑って話をしているだけだ。
「バレンタイン、チョコじゃなくて餡子でも良くね?」
「いやバレンタインはやっぱチョコじゃないすか? 和菓子もないわけじゃないと思いますけど、餡子っていうより砂糖? 和三盆のお菓子とか聞いたことあるっすよ」
「なに、和三盆って」
「そういう砂糖があるんすよ。なんか伝統的な砂糖らしくて、わりと高級らしいっす」
「へえ、よく知ってんな」
「母親がそういうの好きで、取り寄せとかよくやってるんすよ」
「うまい?」
「うまいっすよ。砂糖の味がします」
「……タケミっち舌死んでるもんな」
「死んでねえっすよ! マジで砂糖の味がするんだって!」
「そりゃ砂糖なんだから砂糖の味するだろ」
「違うんすよ、なんていうかこう……高そうな砂糖の味がするんすよ!」
「……母ちゃん可哀想だから、お前もう母ちゃんが買った菓子食うな」
もうバレンタインの話でもなくなっている。軽い言い合いみたいな遣り取りをしながらも、それでもいつしかふたりとも笑顔になって、寄り添うように隣に座り、顔を見合わせて笑っている。今回は三ツ谷や龍宮寺がいっしょにいるけれど、たとえふたりきりだったとしても同じように飽くことなく他愛ない会話を交わし、楽しそうに笑っているのだろう。怠いとか、面倒だとか、言うわけないか、と楽しそうに笑っている佐野を見ながら思う。呂色の瞳はどこまでも優しく、柔らかく、もうすっかり見慣れてしまった眼差しで、花垣を見つめていた。
しばらくそうやってガゼポで他愛ない話をして、夜も深くなってきたころ解散することになった。とくになにかしたわけでも、どこかへ行ったわけでもないけれど、ただみんなで話をしているだけでも楽しいものだ。時間はあっという間に過ぎていく。
「空き缶捨ててくるから、タケミっち先帰ってていいぜ。そんな変わんねえけど、タケミっちがいちばん遠いだろ」
「良いんすか?」
「うん。奢ってもらったしな」
「じゃあ、お願いします」
空になった缶を受け取り、龍宮寺と連れ立ってゴミ箱へと向かう。佐野は当然のように花垣についていったけれど、その動向を気にする必要はないだろう。ふたりが会話しているあいだ、あわや爆弾発言が飛び出すんじゃないかと耳を欹て続けていたが、子供みたいな会話を繰り返すばかりで、色っぽいことなどなにもなかったのだ。バレンタインの話題が出たというのに、ふたりは気にした風でもなく、いつものように他愛ない会話の一端になって終わっただけだった。
佐野も花垣も男だから、肉体的な欲求があるにはあるだろうが、或いはまだ傍にいるだけで良い、なんて、そんな可愛らしい恋愛なのかもしれない。それならなにも心配することはないだろう。
「じゃあな、気ぃ付けて帰れよタケミっち」
「夜道は危ねえからな、転ぶなよ」
「はい。それじゃあまた」
頭を下げる花垣に軽く手を上げ、別れを告げれば、花垣は佐野と連れ立ってバイクを停めている駐車場へと向かって行った。
そうやって三ツ谷にあたたかな眼差しで見守れていることなど気付くはずもない花垣は、駐車場に停めていたバイクに跨り、その冷たさにちいさく身震いする。2月の夜はさすがに冷える。家を出るときは慌てていたから薄着のままきてしまったが、もっと着込んで来れば良かった、とかじかむ指先に息を吹きかける。家に帰ったら風呂に入って、体をゆっくり温めたほうが良さそうだ。
「今日、待たせちゃってすみませんでした」
「まだ言ってんの? ケンチン達いたし、そんなに待ってねえから気にすんなって」
「いや、そうは言ってもマイキー君待たせちゃうのはやっぱ申し訳ないっすよ」
「いいよ、急いで来たんだろ」
そう言って呆れたようにため息を吐いた佐野の口元が白く霞む。佐野はジャケットを着込み、マフラーを巻いていてあたたかそうだ。バイクに乗る時は佐野のようにしっかり着込んだ方が良いだろう。
「マイキー君達のこと、待たせてるっていうのもそうなんですけど……逢えると思ったら嬉しくて」
「……上着も着ねえで急いで来たの?」
「……はい」
「しょうがねえなあ、タケミっちは」
息を吐くように笑った佐野の瞳が柔く歪んでいて、街頭を撥ねて煌くその瞳の表面にうっすらと自分が映り込んでいるのが分かる。それが嬉しくて笑い返せば、ふいに首元に柔らかく、あたたかい感触を感じた。
先程まですうすうと心許なかった首筋がじんわりとあたたかく、いいにおいがする。目の前にある佐野の顔と腕を見下ろしながら、マイキー君のにおいだ、と思ってはじめて、彼の首元に巻かれていたマフラーが、自分に首に巻かれていることに気が付いた。
「バイク乗るには薄着過ぎだろ」
わずか数センチ、というわけではないけれど至近距離で低く甘い声が囁く。そろ、と視線を上げれば、綺麗な呂色と目が合って、すこしだけ恥ずかしかった。
「……気を付けて帰れよ」
「……はい」
「また連絡する」
マフラーから手をはなす際、すり、と頬を撫でていた指先がはなれていくのが惜しく、目で追ってしまう。またすぐに逢えるのは分かっていても、別れ際はいつもすこしだけ寂しかった。
「……マイキー君、あの、」
「ん?」
「あの……」
マフラーから手をはなすと同時に花垣からすこしだけ距離を取った佐野を見遣り、羽織っていたパーカーのポケットに手を入れる。先日買い物ついでに寄ったショッピングモールの地下で売っていたチョコレートほど、煌びやかでも華やかでもないが、近所のコンビニエンスストアで買った、ラッピングされたチョコレート。佐野は余りマメな質でもないから、こういったイベント事に便乗するのは嫌がるかもしれないと思って、渡すかどうか迷っていたのだけれど、或いは、受け取ってくれるかもしれない。
つきあって初めてのバレンタインだし、当たって砕けても数年後には笑い話になるかも、と意を決してチョコレートを取り出した。
「あの、これ……」
「なにこれ」
「……チョコレートっす」
「チョコ? ……俺に?」
「はい。今日、バレンタインなんで……あ、けど、バレンタインとかはあんま気にしなくていいっつうか、差し入れくらいの感覚で受け取ってもらえたら……」
恐る恐る差し出した指先が若干震えてしまうのは半分が寒さのせい、半分が佐野が喜んでくれるかどうか分からない、そんな不安のせいだ。佐野とはひと月半ほど前からつきあっていて、彼が自分を好きでいてくれていることは知っているけれど、イベント事に便乗するような行為を喜んでくれるかどうかは分からない。花垣とつきあいはじめたからといって佐野の性格や性質が変わったわけでもなく、乱暴で横暴なところは変わらないけれど、恋人としてはいつも優しいから、或いは困らせてしまうかもしれない。
「……こういうの、やだったらすいません」
差し出したチョコに佐野が手を伸ばす気配はなく、やっぱり嫌だったのかも、と思いながら手を引っ込めるかどうか迷っていると、おれ、とふいに甘くまろやかな声が静かに響いた。同時に、チョコレートを差し出すかじかんだ指先に、あたたかな指が触れる。
「……バレンタインに好きな子からチョコ貰うの、はじめて」
手からゆっくりとチョコレートの箱が抜き取られてゆく。箱を握る花垣の指に指を絡めるように撫でていく感触はあたたかく、心地良く、思いのほか嬉しそうに響いた佐野の声にどこか呆然としながら顔を上げれば、声と同じように嬉しそうに笑う佐野と目が合った。
「手作り?」
「や、買ったやつっす……すいません」
「なんで謝んの? 買ったやつでも嬉しいよ」
「あ、いや、手作りの方が良かったのかなあって」
喜んでくれるか分からなかったし、気合いが入っていると一目で分かるチョコもなんだか気恥ずかしくて、コンビニで簡単に買ってしまったけれど、こんなに喜んでくれるなら少々値が張っても、もっとちゃんとしたチョコレートを用意すれば良かった。
はじめて、と呟いた佐野の声は花垣ですら稀だと思うほど、至極嬉しそうなもので。
簡素な包装紙でラッピングされた箱を、指先でなぞって嬉しそうに笑っている佐野の顔を見て、そんなに大したものじゃないのにな、なんて。
こんな顔が見られるのなら、もっとちゃんと選べば良かった。お菓子なんて作った経験どころか、作ろうと思ったこともないけれど、佐野が欲しいと言うのなら挑戦くらいは、しても良かったのに。
「けど、俺の手作りより、絶対うまいと思うんで……」
「……タケミっち、舌死んでるもんな」
すこし前に同じ言葉を言われたが、その時とはまったく違う声色で、その柔らかさに肺が軋むような感覚に陥る。細胞が収縮するように震えている気がして、吐き出す気息すらかすかに。
「その……来年は、頑張ります」
「……うん」
伸びてきた腕に抱き寄せられて、バイクに跨ったまま佐野の肩に顔を埋める。あたたかくて、いいにおいがして、耳のすぐそこで佐野がかすかに笑ったのが分かり、たまらない気持ちになる。なにも哀しくないのになぜだか涙が出そうになって、佐野の衣服を握りしめることでなんとかこらえた。
「タケミっち」
「……はい」
「……すげえ好き」
「……っ」
ありがと、と耳元で低く甘い声が囁き、柔らかな感触が耳に触れる。俺もです、と返した言葉は掠れてしまったけれど佐野には伝わったようで、鼻先が触れ合い、口唇が重なる直前、緩やかに歪む呂色を目の前に見た。
***
銀紙に包まれた板チョコを切れ目に沿って割り、欠片を口に放り込む。
最近バレンタインの話題に触れる機会が多く、よくチョコレートの話をしていたためか食べたくなって、龍宮寺の部屋に向かう道すがら、コンビニで購入してしまった。家に帰れば妹たちが作ってくれたチョコレートがまだ残っていたが、飾り気のない板チョコが食べたかったのだ。
ベッドの縁に座り、まるで巣に残り、親鳥の帰りを待つ雛鳥のように、あ、と口を開けた龍宮寺の口内にも欠片を放り込んでやる。しばらくして、あま、と漏れた声は決して嬉しそうなものではなく、苦笑するほかなかった。
「たまに食べるとうまいよな」
「たまにならな」
「ドラケンが欲しいっつうなら作ってやってもいいけど、お前お菓子よりおかずの方が好きだもんな」
「チョコはいいから卵焼き作ってこい」
「安上がりなやつ」
そのままベッドに横たわった龍宮寺は、そういえば、と思い出したように瞬きをした。
「マイキー、チョコ貰ったってよ」
「あ? なにそれ、タケミっちに?」
「さあ。誰に貰ったかまでは聞かなかったから、タケミっちかどうかは分かんねえけど」
「そこ大事なとこじゃん。なんで聞かなかったんだよ」
「……タケミっちって言われたら、俺どんな顔すりゃいいんだよ」
さしもの龍宮寺も平然としていられるほど大人にはなりきれないらしい。龍宮寺の性格的に、動揺や困惑を、佐野やその他の前で態度に出すことはないだろうけれど、その内心が衝撃を受けてぐらぐらと揺れることがあることを三ツ谷は知っている。なんなら三ツ谷の前ではたまに、態度にも出る。
三ツ谷とて、佐野や花垣には直接聞けない。本人達から直接的な言葉を聞いて動揺せずにいられる自信がないし、その動揺により迂闊なことを口走って、こっそり彼等のことを観察していたことを知られてしまうわけにもいかないのだ。
見守るくらいならいい。だが巻き込まれたくはない。
「タケミっちからだとしたら、デパ地下のたけえやつかな」
「そういうの似合わねえけど、あのふたり」
「けどバレンタインの話してる時、全然そんな雰囲気じゃなかったけどな」
「タケミっちじゃないんじゃね?」
「マイキーがタケミっち以外から受け取るか?」
「まあそうだけどよ」
あのふたりがつきあいはじめてからも、結局彼等の話題になると以前と同じような遣り取りを繰り返している。佐野や花垣とはわりあいに親しく、話題に挙がることも多い。そしてそのふたりが想い合っていて、ついにつきあいはじめたという話が、三ツ谷と龍宮寺の間でしか共有できない話題だから致し方ないことかもしれない。
「意外とイベント事とかちゃんとやるんだな、あのふたり」
「……あのマイキーが、バレンタインなあ。あんま想像できねえけど」
「まあ気持ちは分かるけど。けどま、うまくいってるみてえで何よりじゃん」
「そーだな」
横向きに横たわっていた体勢から仰向けになり、頭の下に両手を敷いて天井を見上げる龍宮寺に習って三ツ谷も天井を仰ぐ。
バレンタインの日、花垣を見送ってから三ツ谷達の元へ戻って来た佐野は、たしかに巻いていたはずのマフラーをしていなかった。状況から察するに恐らく、花垣にくれてやったのだろう。花垣は随分と薄着だったし。
もし佐野が花垣からチョコレートを受け取ったのだとしたら、あのタイミングだったのだろうか。佐野は両手をジャケットのポケットに突っ込んでいたから、その手にチョコレートの包みが握られていたのかどうかは分からなかった。
三ツ谷達の元へ戻ってきて、そして別れるまで、佐野はいつも通りの足取り、表情で、とくに浮足立っているようにも、はしゃいでいるようにも見えなかった。どんな状況でも、浮足立ち、はしゃぐ佐野というのも想像しにくいが。
けれど或いは、若干の変化はあったのかもしれない。それは注意深く見てみなければ分からない変化だったのかもしれないけれど。
冷たい空気に晒されて赤くなっていた頬や鼻は、或いは寒さとはべつの理由も混ざっていたのかもしれないし、時折わずかに瞼を伏せる横顔は、花垣のことを思って柔く歪んでいたのかもしれない。
そういうものを自分達はただ、いくつもいくつも、見落としていただけで。
気が付かなかっただけでたしかにそこにあって、だからこそ佐野と花垣はすこしずつ、自分達の知らないところで寄り添うようになっていったのかもしれない。
恐らく誰よりも早く自身の気持ちに気が付いていただろう佐野は、それを見落とすことなく、ずっと大切にしていたのだろう。
花垣に触れる指先、花垣を呼ぶ声色、彼を見つめる眼差しひとつでさえそれを如実に現わしていて、佐野の想いを知って、それらを目交いにするたびに思うのだ。
自分達はただ、気が付いていなかっただけなのだと。
気が付いてみれば、こんなにも、と。
「……あのマイキーが恋とはねえ」
「そういう言い方やめろっつってんだろ」
いつものように、自分達の前を歩いていた見慣れた背中を思い出す。ずっと見てきた彼の心を、あんなにも揺さぶる相手が現れるなんて想像もしていなかった。
「タケミっちってやっぱすげえな」
「……この流れで同意したくねえんだけど」
佐野に最も近しい位置にいるためか、やはり佐野と恋愛という組み合わせ、バレンタイン、両想いの相手からチョコレートを貰った、などといった話に拒否反応は否めないらしい。仰向けから壁際を向いた体勢になり、想像したくねえ、と往生際悪く言っている龍宮寺の広い背中を笑えば、間髪入れず柔らかなクッションが飛んできた。

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