気が付けば、いつの間にか月が出ていた。
日が暮れ、空の端にわずかに滲んでいた濃い色をした紫もなりを潜め、空は既に夜の様相を呈している。
日中と比べて気温もいくらか下がってしまったため肌寒さを感じるが、思いきり遊んで火照った体温には心地良かった。
日が暮れてしまったせいか、外灯の灯る公園の遊歩道にさほど人気はなく、点在している落ち葉を踏みしめるたびに乾いた音がちいさく響く。街の喧騒は聞こえてくるもののどこか遠く、休日にしては静かな夜だった。
この日は朝から佐野と連れ立って出かけていて、待ち合わせて昼食をとったあと、アミューズメントセンターで日が暮れるまで遊んでいた。ボーリングをしたり、ビリヤードをしたり、バスケをしたり。
佐野は運動神経が抜群に良く、対してさほど運動神経が良くない花垣では相手にならないのではと花垣自身がそう思うのだけれど、手加減してくれていたのか、それとも遊びで本気は出さない質なのか、一方的に抑え込まれるということはなく、勝敗としては佐野に軍配が上がっていたけれど、勝負としては花垣も充分に楽しめた。
つい先程までそうやってふたりで遊んでいて、そろそろ帰ろうかと店を出たとき、外はすでにとっぷりと暮れてしまっていた。
時間はさほど遅くないのだけれど季節柄、日が暮れるのもはやい。
帰りは佐野が送ってくれるとのことだったので、彼のバイクの後ろに乗っていたのだけれど、信号待ちで停まった際、外灯の光を浴びて暗闇に浮かび上がる紅葉が視界の端にうつった。
ぼんやりと淡く浮かび上がるようなその光景に惹かれ、すこし歩きたいと言ったところ、佐野は「いいよ」と頷いてくれて、公園に寄り道することになった。
肌を撫でる風は心地良かったし、それに、抱き締める温度があたたかく、佐野とはなれがたかったのもある。
舗装された遊歩道の両脇には欅が植えられていて、黄色、橙、赤と美しく色づいている。けれどその半分くらいは夜の色に染まり、ゆえに尚更、外灯の光を浴びて揺らめく紅葉が鮮やかで、どこか艶めかしくすらあった。
「マイキー君、寒くないすか?」
「寒くはねえけど腹減った。帰り、なんか食ってく?」
「そうですね。時間大丈夫すか?」
「なにその質問。タケミっち、俺に門限あると思ってんの?」
笑いながら聞いてくる佐野に、花垣も思わず笑ってしまう。
東京最大の暴走族の総長に門限があるなんて、花垣でなくても想像すらしないだろう。
ゆったりと歩く佐野の歩調に合わせて暮れた遊歩道をゆっくりと歩いて行く。公園自体がわりあいに広く、公園の周辺をぐるりと回るように敷かれている遊歩道に終わりはない。
しばらく他愛ない話をしながら歩いていると、ふと道の端にキッチンカーが停まっていることに気が付いた。しかも、立ててある看板を見るに、佐野の好物であるたい焼きが売っているらしい。
先程空腹を訴えていたし、風はいくらか冷えているし丁度良い、と佐野の服の裾を引いた。
「買って行きませんか?」
「行こ行こ」
指をさして言えば、佐野の歩調がすこしだけ早くなる。普段年齢よりずっと大人びているように見えるのに、こういうところは子供染みていて、そのギャップに頬が緩む。歩みに合わせて揺れる淡い色をした髪を見ていたら、ふいに見慣れた横顔が振り向き、「タケミっち、早く」と急かす声に呼ばれた。
立ち寄ったキッチンカーのメニューには色々あったけれど、スタンダードなたい焼きをふたつ注文して、その場で焼き上がるのを待つ。やがて、カウンターからふたつのたい焼きを差し出され、財布を出そうとする佐野を制して花垣が支払いを済ませた。
「今日ほとんど出してもらいましたし、帰りも送ってもらってるんで、このくらい俺が出します」
言えば、佐野は数度瞬きをする以外、とくに反論らしい反論はせず、「そ」と笑うだけだった。
「どうぞ。まだ熱いから気を付けてくださいね」
「うん」
焼きたてのたい焼きを佐野に手渡し、また遊歩道を歩きはじめる。すぐに隣で「あち」という声が聞こえ、まだ熱いと言ったのに、と思いながら齧りついたたい焼きは想像以上に熱く、花垣も同様に「あち」とちいさく声を上げた。
「そういえば、今日ハロウィンですね。メニューにハロウィン限定のメニューありましたし」
「ああ……タケミっちはコスプレとかしねえの?」
「コスプレじゃなくて仮装じゃないですか?」
「どっちもいっしょじゃね?」
「いや、意味違うと思いますけど……あんま考えたことないですね。興味あるんすか?」
「ねえけど」
「マイキー君はなんでも似合いそうですよね。格好良いのはもちろんすけど、きれいなのも、かわ、」
「……『かわ』?」
「か、かわ……変わった、衣装も……」
「……まあ良しとしてやる」
低い声で言われた言葉にホッと息を吐く。
佐野とて年頃の男だ。かわいい、と言われて彼が喜ばないことは知っている。
うっかり口に出しそうになった言葉を寸でのところで押し留めた自分を内心で褒めながら、まだいくらか熱いたい焼きを頬張った。
たい焼きを食べ終わり、包み紙を手の中で丸めて、適当なゴミ箱へ放る。
ごちそうさま、と隣から聞こえた声がなんだかやけにくすぐったかった。
「俺が言い出しといてなんですけど……こうやってただ歩くだけって、なんか新鮮ですね」
「まあ移動はほとんどバイクだしな。たまにはいいんじゃない、デートっぽくて」
「で、デートって……」
突然飛び出したあからさまな言葉に動揺すれば、それに気付いたのか佐野が息を吐くように笑った。
佐野と恋人といって遜色ない関係になってからしばらく経つ。
暴走族の総長という肩書だけでなく、彼の苛烈で凶暴な一面も多々見てきた。はじめはこわくて、ただ恐ろしくて、行動をともにするのだってほとんど脅された結果だったけれど、いっしょにいるようになって、佐野の印象は徐々に変わっていった。総長でないときの佐野はどこかのんびりしていて穏やかで優しく、花垣の知っている佐野とは全然違う人間みたいだった。けれどやはり佐野は佐野で、相反するその二面性を内包しているのが佐野という男だということを知った。
日常的に花垣へ向けられる恫喝や脅しがほとんど本気ではなく冗談で、彼にとっては戯れのようなものだということもそのうち分かってきたし、それ以外では優しく扱われる。
佐野がそんな風に扱うのは自分だけだと知ったころ、佐野に好きだと言われた。
そのときにはもう優しい声や柔らかな眼差し、かすかに触れてくる体温の温かさを手放したくなくなるほど、花垣もまた佐野に想いを寄せていて、その告白を断る理由などなかった。
それからふたりで逢うようになって、こうやっていっしょに出かける機会も増えた。
花垣が佐野を好きだと想うのは、佐野に好きだと言われたからではなく、その前からずっと育っていた感情だ。
ゆえに、ふたりきりで傍にいれば、相応の欲求は沸いてくる。
手を繋いで、抱き合って、キスもした。ふたりでいっしょにいるとき、他愛ない話をして笑っているとき、自分たちのあいだの空気がすこしだけ変わったことも分かる。
佐野をなにより大切に想っているし、佐野に大事にされていることも、自惚れでなく知っている。
佐野の恋人だと、佐野が恋人だという自覚は充分にあるのだけれど、あからさまなことを言われるとまだすこしだけ照れてしまう。
けれど、そうやって慣れずに動揺する花垣を見て、佐野はいつも静かに笑うだけだった。
「違う?」
「……違いませんけど」
居たたまれなさから佐野を直視できず、若干俯いて答えれば、佐野は「顔赤いよ」とやっぱり可笑しそうに笑った。
熱を持った頬に吹き抜ける風は心地良く、足元の落ち葉がかさかさとかすかな音を立てる。
外灯に照らされた遊歩道はあちこちに影を作ってはいるものの明るく、周囲には静かな秋の夜が広がっている。
すぐそこで長い髪が揺れ、距離が近いせいか鼻に慣れたいいにおいがした。
「次どこ行く?」
「次って、遊びに行くときですか?」
「うん。次のデート」
「で、……」
同じ言葉でまた動揺しかけ、ん、と咳払いをして誤魔化す。当然それで誤魔化せるはずもなく、横目で様子を伺っていた佐野が吹きだすように笑ったが、見なかった振りをした。
「……来月、観たい映画が公開されるんすけど、いっしょに行きませんか?」
「映画? ジャンルは?」
「アクションで、シリーズものなんですけど、前作観てなくても楽しめると思います。今日みたいに待ち合わせして、買い物でもして、適当なとこで飯食って……ってどうですかね?」
「いんじゃね。迎え行く?」
「や、そんなマイナーな映画じゃねえし、どこの映画館でもやってると思うんすよね。マイキー君がいっしょに行ってくれんなら、俺等んちから中間くらいの映画館にするつもりなんで迎えは大丈夫っす」
「そ。じゃ場所決めたらメールして」
「マイキー君、来月ダメな日ありますか?」
「今んとこ集会以外はとくにないよ。逆に日にち決めといてくれたら、その日は予定入れねえから」
「分かりました。じゃあ日にちと場所決めたらメールしますね」
立ち止まり、携帯電話を確認しながら次の予定を決める。佐野に映画のあらすじを聞かれたため、カレンダーや劇場の場所を確認しつつ、あらすじを伝えた。
ふたりで話し、ある程度予定を固めたところで携帯を閉じてまた歩き出す。
「タケミっち、わりと映画観るけどアクションしか観ねえの?」
「まあ……基本そっすけど、サスペンスとかミステリーもたまに観ますよ。恋愛モノとかヒューマンドラマ系も嫌いじゃないすけど……唯一観ないジャンルは、ホラーくらいですかね」
「全然?」
「全然です。自分から進んで観たことないっすね、……あ、いや、」
今までホラー映画の類を観たことがあるだろうか、と自身の記憶を探ってみるが、パッと出てこない。
映像でこわい思いをしたことはあるはずだけれど、それは夏にやっているホラー特集とか、その手の類のものばかりだ。
元々怖がりでホラーが苦手だから、自分から進んでホラー映画を観ようと思ったことはない。
ゆえに佐野にもそう答えたのだが、その直後、ふいにいつだったかに観た映像が脳裏を過った。
あれはたしか、映画だったはずだ。
「前に一回だけ、自分で借りて観たことあります」
「どんな映画?」
「有名なやつですよ。ほら、あの……」
いつの間にか、月が出ていた。
顔を上げれば、振り返った佐野の肩越しに、暗い空に浮かび上がる丸い月が見える。冷たい風に煽られるように、暗い夜空を背景に淡い色をした金色の髪が揺れている。
古びた、ノイズがかった映像が脳裏を過る。
その映像が今目交いにしている光景と重なるわけではないけれど、同じ状況を彷彿とさせるようで、無意識に息を飲んだ。
満月の夜。
空には、闇と月だけが浮かんでいた。
そしてそんな空を背景に、光を撥ねて煌くように浮かび上がる赤い双眸。
佐野の目は赤い色ではないけれど、外灯の光を撥ねて濡れたように揺れている様は変わりなく。
瞳をゆるやかに瞬かせながら花垣を見つめる佐野の口元が笑い、血に塗れているような錯覚を憶える。
その姿は暗闇の中であっても鮮やかで美しく、どこか艶めかしささえ感じさせるほど鮮烈なもので。
村人を襲い、最終的には焦がれる相手すら蹂躙しようとしたその男の名を、憶えてはいないけれど。
「タケミっち?」
「あ、えっと……」
手のひらや口元を汚す赤い血を舌で舐めずり、大きな瞳を歪ませて妖艶に笑う佐野の姿を見た気がして呆然としていると、ふいに低く甘い声に呼ばれて我に返る。
目の前で訝しげに首を傾げる佐野の口元は当然血で汚れた痕跡などなく、単なる錯覚だということを理解する。
けれどなぜだかしばらくのあいだ、動悸が止まらなかった。
「……人狼の、話で……」
「人狼? 狼人間ってこと?」
「そうですね。大分前の映画ですけど」
「へえ。面白かった?」
「観たの結構前なんで、面白かったかどうかあんまり憶えてないんですけど、……」
「けど?」
それはとあることが切っ掛けで、満月の夜に狼人間に変身してしまう男の話だった。狼人間になり、正気や理性を失ってしまった男は次々に村人を襲い、そんな自分に恐怖し憎悪しながらも、最終的には恋人だった女性すら蹂躙しようと襲ってしまう。
たしか、そんな話だった。
内容を思い出そうと記憶を探っているとそのときに観た映像が浮かび上がり、そして先程錯覚した光景も同時に浮かび上がってくる。
ゆるやかに歪んだ大きな瞳、笑んだ口元から覗いた血に塗れた歯牙、同じように血に塗れた長く鋭い爪。
佐野は花垣には優しい。凶悪な一面があることは知っているけれど、恋人としてそれを花垣の眼前に晒したことはない。
けれど先程錯覚した凶悪さは、そういった類のものではなくて。
「……マイキー君は、」
「ん?」
「……俺を食ったりしないですよね?」
「……は?」
丸い月と暗い空。
夜の闇の中に立っていた佐野は、今にも花垣に襲いかかってきそうで。
それを恐ろしいと感じる反面、どこまでも蠱惑的だった。
先程感じた感情をそのままに佐野に尋ねれば、珍しく面食らったような表情を浮かべている。
自分でもなにを言っているんだと思うけれど、あの錯覚を目交いにしながら感じたのは、襲われる、や、殺される、ではなく、食われる、というものだった。
「……いやそのうち喰うけど」
「えっ」
突拍子もない問いかけに返ってきた言葉もまた、花垣にとっては予想外のもので、今度はこっちが面食らってしまう。予想としては、そんなことするわけねえじゃん、とか、そんな言葉が返ってくると思っていたのに。
驚いて佐野を見遣れば、とくにおかしなことを言った風でもなく平然とした顔をしていて、尚更困惑してしまう。
「ちょっとくらいは待ってやってもいいよ。でもマジでちょっとだけな。俺あんま我慢効くほうじゃねえし」
「が、我慢してくださいよ。俺おいしくないすよ?」
言えば、ふ、と可笑しそうに笑われる。
「タケミっちは我慢できる? 腹が減ってしょうがなくてさ、目の前にずっと喰いたかったもんが置いてあんの。……けどずっと我慢してる」
正面から花垣を見つめてくる呂色の瞳がゆるやかに歪む。それは先程の錯覚で見たものと同じ凶悪さを孕んではいるものの、残酷なものではなく、優しく、けれど熱を滲ませたもので。
その目でじっと見つめられると、理由は分からないけれど体が硬直してしまう。
指一本動かせず、視線すら。
視線を動かすだけ、そんなわずかな隙を見せただけで今にも取って食われてしまいそうで、身動きできない。視線を逸らすことができない。
佐野が純粋に食べ物のことを言っているわけではないことは、とっくに理解していた。
「喰おうと思えば、本当はいつだって喰えんだけど、まだダメって言われるからさ……いいよって言われんの待ってんだ」
「………………」
「そんな状況で、いいよって言われたとき、タケミっち我慢できる?」
「そ、れは……できないと思いますけど……」
「だよな」
大きな瞳を見つめ返しながら答えれば、佐野は満足そうに笑って頷く。
呂色の瞳にはもう先程の凶悪さは感じられず、ゆる、と歪む瞳はいつも通りだ。柔らかく、まだ若干の熱を孕んではいるものの顕著というわけでもなく、優しく。
「だから、あとちょっとくらいは待ってやるからさ、」
しばらく歩き、体が冷えたのか、それとも夜が深まったせいなのか、吹き抜けていく風はいくらか冷たく、わずかな肌寒さを感じたかも知れない。
けれど異様に熱くなった頬には冷たさなど微塵も感じず、風が吹いたことにすら気付けなかった。
「……はやく、いいよって言ってね」
「っ!」
「それまでは待ってやるから。けど、マジであとちょっとだけな」
笑いながら歩いていく佐野を呆然と見つめることしかできず、その場に棒立ちになる。なぜこんな話になったんだ、と思わないでもないが、自分の発言が切っ掛けだったことは明らかだ。
あのとき、錯覚した佐野に感じた恐怖と、それとはまったくべつの感情。もしあれが錯覚ではなかったとしても、きっと花垣はこの場から逃げられなかっただろう。
その場で襲われて、取って食われたとしても、佐野にだったら良いと思う。佐野になら、そうされたいと思う。
佐野は花垣の恋人で、佐野もそう思ってくれていることを知っている。
佐野をなにより大切に想っているし、佐野に大事にされていることも、自惚れでなく自覚している。
ゆえに、ふたりきりで傍にいれば、相応の欲求は沸いてくる。
手を繋いで、抱き合って、キスもした。
それ以上を望むのだって、当然のことで。
こわい、と思う反面、感じたのは期待だ。誘惑されて、陥落したい。暴かれてしまいたい。
あの手で、あの口唇で、あの体で。
抱き締めた体温に溺れてしまいたいと思うのは、決しておかしいことではないだろう。
おかしいことではないけれど、そんな自分を自覚して、そのはしたなさが佐野に見透かされたような気がして、それがどうしようもなく恥ずかしく、体温が上がっていく一方だった。
「タケミっち、はや、」
振り返った佐野が言葉を止めたかと思えば、一度瞳を瞬かせたあと、破顔したように笑う。
明るい外灯に照らされた遊歩道でなにを見たのかと思えば、彼はすぐに教えてくれた。
「タケミっち、顔やべーよ。真っ赤」
「…っ、だ、だって……マイキー君が……っ」
「……まだ待ってやるって。ちょっとつついただけで、タケミっち死にそうじゃん。さすがに手出せねえよ」
笑いながら戻ってきた佐野に手を引かれ、そのまま引きずられるようにして歩き出す。
「俺としてはもうちょっとつついてやってもいいんだけど、お菓子もらったから、これくらいにしといてやる」
「お菓子? って、たい焼きのことですか?」
「そ。ハロウィンだから」
そういえば、お菓子を渡せば悪戯されないんだったか。
もう充分過ぎるほど悪戯された気分だが。
取ってつけたように言う佐野にそんなことを思いながら、前を歩く背中を追いつつ、あたたかい温度を握りしめる。
花垣が望むように、きっと佐野だって望んでいる。それを分かっているつもりだったけれど、いざ眼前に突き付けられるとたまらない気持ちになる。
当然嫌だとは思わない。けれど同性はもちろん、異性との経験すらなく、佐野が初めての相手だ。恐怖や不安がないと言ったら嘘になる。いずれは受け入れるつもりでいるが、今はまだ心の準備ができていない。
佐野はそんな花垣の焦燥や困惑、不安や葛藤をきっとすべて、知っているのだ。
知っているからこそ、彼がそう言ったように待ってくれているのだろう。
「今日はもう帰ろ」
「……はい」
「わりと風冷たくなってきたけど寒くねえ?」
「……熱いくらいです」
答えれば、は、と声を上げて笑われる。花垣の手を握っている佐野にも、熱いくらいの体温が伝わっていただろう。
すっかり夜に包まれてしまい、けれど、外灯に照らされて明るい遊歩道を手を繋いで歩く。吹き抜ける風は地面に落ちた落ち葉をすくいあげ、暗闇の中に連れて行ってしまった。
「飯、なんにする?」
「……米がいいっす」
「主食聞いたんじゃねえんだけど」
笑いながらバイクに跨る佐野の後ろに乗り、あたたかい温度を抱き締めれば、冬の気配が滲みはじめた空気と、佐野のにおいがする。
あたたかい体に体を寄せながら、明るい遊歩道を見遣る。
間もなく冬が来て、欅はすべて葉を落とし、周囲の風景をまったくべつの景色へと変えてしまうだろう。来月あたりになれば、このへんもイルミネーションで飾られてさらに明るくなるのかもしれない。
雪が降ればまた、違う景色へと変わるだろう。
そうやって季節が巡り、景色が変わっても、同じ温度に寄り添って、同じように笑い合って。
変わらず、彼と歩いていければ良いと思った。
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