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朝も、昼も、夜も(+ドラみつ)





 頭上に浮かんでいたはずの弓なりの月は、生い茂る木々の枝葉に隠れて見えなくなってしまっていた。

 恐る恐る足を踏み出すたびに腐葉土を踏みしめる筆舌に尽くしがたい音が響き、自身の足が枯れ葉や枯れ枝を踏む音にさえいちいちびくついてしまう。

 既に空はとっぷりと暮れていて、周囲は夜の気配に満ちている。

 ただでさえ暗いのに、周囲を草木に囲まれているせいでささいな光源さえ差し込まない。

 頼りになるのは握り締めた懐中電灯だけで、それに縋りつくように手の中の懐中電灯を握りしめれば、ふいにあたりを照らす光が明滅し始めた。

「えっ、嘘だろ! ちょっと待って、消えんな消えんな!」

 叫ぶように言いつつ明滅を繰り返す懐中電灯を叩いたり、上下左右に振ったりするが、花垣の願いも虚しく、ふっつりと糸が切れるように懐中電灯の明かりは消えてしまった。

「嘘だろ……」

 情けないとは思うが、自分でも泣きそうに震えた声が周囲の暗闇に響くでもなく消えてゆく。懐中電灯を握り締める手が震え、やがて膝まで震え出した。

「なんで俺がこんな目に……」

 それもこれもアイツらのせいで、と水分が滲み出した視界を誤魔化すように、友人たちの姿を思い浮かべた。

 事の起こりは数時間前に遡る。

 学校の授業を終え、帰り支度をしていた花垣のもとへ、山岸と鈴木がなだれ込むように駆け寄ってきた。「タケミチィ」と語尾を伸ばして花垣を呼ぶその口調から碌でもないことを考えているのは明らかで、眉を寄せながらひっついてくるふたりの体を押し返す。山岸と鈴木の肩越しに千堂と山本の姿が見えることがまだ救いだが、揃って呆れたような疲れたような表情を浮かべていることから、やはり碌でもないことだということは理解できた。

「なんだよ、ひっついてくんな!」

「タケミチ、今日このあと予定あんの?」

「ねえよな?」

「なんでねえって決めつけんだよ。あるかもしれねえだろ」

「あんの?」

「……ねえけど」

 暴露すれば、目の前の見慣れた顔が揃ってにんまりと笑う。ぜってー碌でもねえ話だ、と思ったけれど、告げられた言葉は予想とは違うものだった。

「じゃあこの後俺等と遊びに行かねえ?」

「たまにはいいだろ。お前最近マイキー君たちとばっか遊んでんじゃん」

「遊んでるわけじゃなくて、呼び出されてんの」

「呼び出されて遊んでんだろ」

「だから遊んでるわけじゃ……遊んでんのかな」

 呼び出されるまま彼等のもとに向かっているため、遊びに行くという感覚ではなかったのだけれど、言われてみればたしかにバイクに乗せてもらってあちこち連れて行ってもらったり、誘われるまま食べ歩きをしたり、彼等の部屋に行って話をしたり。

 はじめのころは呼び出されるたびに、良くて使い走りにされるか、最悪暴行を加えられるかもしれないと怯えていたけれど、実際にそんなことはなく、ただ普通の友達のようにいっしょにいるだけだった。

 中でも佐野に呼び出されるわりあいは高く、必然的にいっしょにいる時間も多い。誰かと比較するわけではないけれど、佐野とともに過ごす時間は花垣にとって楽しいものだ。

 総長としての佐野といるときは尊敬や憧憬はもちろんあれど、同じくらい畏怖や恐怖もあって、緊張を禁じ得ないからそんな風に感じる日がくるなんて思っていなかったのだけれど。

 普段の佐野は穏やかでのんびりしていて、花垣を揶揄したり玩具のようにして遊んだりすることはあるものの、基本的に優しい。いつも柔らかな眼差しで花垣を見て、笑って花垣の話を聞いてくれる。

 佐野は時折、花垣を見て黒目がちの瞳をゆるやかに歪めて笑うことがある。くすぐるような、あやすような眼差し。

 その眼差しは、優しい、というのとはすこし違う気がするのだけれど、花垣はあの目で見られるのがいちばん好きだ。どこかくすぐったいような、すこしだけ恥ずかしいような気分になるけれど、ゆるく歪む瞳を見ているとなんだか嬉しくなる。

 佐野の名前を呼びたくなる。もうすこしだけ近くに寄りたくなる。

 楽しくて、嬉しくて。

 このまま、時間が止まってしまえばいいのに、とさえ―――。

「だからたまにはいいじゃん」

 ふいに聞こえてきた山岸の声にハッとして顔を上げる。

 そういえばみんなで遊びに行くという話だったか。山岸たちに告げた通り、とくに予定があるわけでもない。揃っているのは馴染みのメンバーで楽しい時間を過ごせるだろうことも経験上分かっている。

 断る理由もないだろう。

「おし、じゃあ久々に遊び行くか!」

「さっすがタケミチ!」

「話が分かる男だぜ!」

 がた、と音を立てて席を立てば、左右から山岸と鈴木が飛びついてくる。口々におだてられ、調子に乗って「まあな! ほらお前等行くぞ!」と言いながら教室を横切りつつ千堂と山本の肩を叩く。そういえばふたりは微妙な表情を浮かべていたけれど、あれはなんだったのだろう。

 そんなことを思ったとき、ため息を吐いた千堂が口をひらいた。

「おい、やっぱタケミチは、」

「いーからいーから!」

「ほら、アッくんも早く行こうぜ!」

「タクヤも行くぞ!」

「……いいのか、ほんとに」

 けれど山岸たちの大声が千堂の言葉を遮り、千堂の言葉を最後まで聞くことはかなわなかった。代わりに、背中を叩かれた山本が疲れたような息を吐いたのが分かる。

 そんな二人の態度を疑問に思わなかったでもないが、背中をぐいぐいと押され、廊下に出たころには千堂と山本の様子など頭から吹っ飛んでしまっていた。

 先導するように先を歩く山岸と鈴木のあとをついていきながら、そういえばどこに行くんだろう、と思わないでもない。学校を出て、繁華街とは逆の方向へと向かっている。

 まあ、誘ってきたからには行きたい場所があるのだろう、と思いながら進む道すがら、これ引いて、と前を歩いている山岸から5本の割りばしを差し出された。

「なんだこれ」

「いーからいーから。引いて」

 よく分からないが、言われるまま5本の中から1本の割りばしを引き抜く。引き抜いたはいいものの花垣が引いた割りばしは、なんの変哲もない、至って普通の割りばしだった。

 隣で同じように割りばしを引いた千堂や山本の割りばしは先端が青く塗られていたが、花垣の割りばしにはなにも塗られていない。

 残りのふたりが引いた2本は赤く塗られていた。

「よりにもよってタケミチかよ。マジ運ねえなコイツ」

「いや俺達的には面白えんじゃね」

「なあ、これなんだよ」

「いーからいーから。あとで分かるって」

 前を歩きながらこそこそと何事か話しているふたりに詰め寄るが、適当な言葉で煙に巻かれてしまい、結局そのとき割りばしの意味は教えてもらえなかった。

 それからしばらく歩き、ふと、様子がおかしいな、と思ったときには、花垣は既に草木生い茂る雑木林の中に立っていた。

 放課後、しばらく歩いたということもあり、時間帯は既に日暮れを迎えようとしている。秋も深まった時期だ。夜になるのは早い。

 なんでこんな時間に、こんな暗い場所に、と思いながら千堂の背中に隠れるようにして周囲を見渡していると、突然目の前に異様な顔をしたものがぬっと姿を現わした。

「ギャーッ!」

「うるっせ。耳元で叫ぶんじゃねえよタケミチ」

 ドクンと心臓が痛いほど跳ね、反射的に叫び声を上げれば、軽く頭を叩かれる。

 マコトだよ、と聞こえてきたため息混じりの山本の声に顔を上げれば、たしかにそこに立っていたのは懐中電灯で顔を照らし、口を開けて笑っている鈴木だった。

「なっなんだよ、ビビらせんなよ!」

「こんくらいでそこまでビビんの、タケミチくらいだろ」

 けたけたと笑っている鈴木と山岸を殴りつけるも効果はなく、驚いた際の花垣の真似をしだす始末だ。

「つ、つうかなんだよここ! 遊びに行くんじゃねえの!?」

「いやだから遊びにきたんだろ」

「は?」

「ここ、このへんじゃ結構有名な心霊スポットなんだぜ」

「……へ?」

「はいタケミチ。これお前の分な」

 山岸たちがなにを言っているのか分からず、ポカンと口を開けていると、手になにやら握らされる。状況を飲み込めず、口を開けたまま手元を見下ろせば古びた懐中電灯が握らされていた。

「つうわけでタケミチ、肝試ししようぜ!」

 気が付けばその場にいた全員懐中電灯を握り締めている。先程まで山岸と鈴木に隠れていて気が付かなかったが、ふたりの後ろにちいさな祠のようなものが建っていた。

「組み分けはさっきくじで決めたんだけど、俺と山岸、アッくんとタクヤ。んでタケミチ、お前はひとりだ!」

「がんばれよタケミチ! 大丈夫だ、途中で漏らしても黙っててやるからな!」

 いい笑顔で親指を立てる山岸と鈴木を、いまだぽかんと眺めていると、まるで慰めるようにぽんと肩を叩かれた。

「ドンマイ、タケミチ」

「俺等はやめようって言ったんだけどさ……でもまあ、もう来ちゃったしな」

 宥めるようなその言葉にようやく状況が飲み込めてきて、一歩後ろに後退る。ふるふると首を左右に振るが、それに意味がないことなど自分でもわかっていた。

「ふ、ふざけんな! 肝試しなんかやるわけねーだろ!」

「じゃひとりで帰るか?」

「歩いてきたから分かると思うけど、帰り道暗いぞお?」

「このへん出るって噂だから、ひとりでいるタケミチのとこにくるかもよお?」

 ふたりの言葉に慌てて背後を振り返れば、いつの間に日が暮れたのか歩いてきた道が暗く陰っているのが分かる。雑木林の中にある獣道のような道だから曲がりくねり、そうでなくとも木々に覆われ、先は見えない。

 風も吹いていないのにざわざわと枝葉が揺れ、すぐ背後になにかが迫ってくるような不気味な空気を感じた。

「わっ」

「ワーッ!」

 ふいに耳元で大きな声を出され、飛び上がるほど驚いた。バクバクと鳴る心臓を押さえ、はっはっ、と犬のように浅い息を吐きだしながら山岸たちの方を向けば、山岸と鈴木が笑い転げているのが分かる。千堂と山本も顔を逸らしているが、肩が震えているのが分かった。

「まあもう参加するしかねえんだ、諦めろタケミチ」

「大人しくついてきたお前が悪い」

 両肩を山岸と鈴木に叩かれ、ぶっ飛ばしてやろうかと思ったけれど、恐怖の余り膝が震え、握り締める拳にも力が入らない。

 そうこうしているうちに肝試しを始めることになってしまったらしく、初めに山岸と鈴木、ついで千堂と山本、そして最後に花垣の順でスタートすることになった。

 コースとしては雑木林の奥に古びたお堂があるらしく、携帯電話のカメラでそのお堂の写真を撮って、スタート地点まで戻ってくる。

 山岸が説明しているあいだ文句も言ったし、そもそも肝試しなんかしない、と言い張ったけれど、じゃあひとりで帰るか?、とそのたびに花垣の文句は押し退けられた。

 まず山岸と鈴木が、そして千堂と山本が雑木林の奥へと消えてゆく。どちらも大体20分くらいで戻ってきた。

 そしていざ花垣がスタートするころには既に日がとっぷりと暮れていて、雑木林はほとんど闇に呑まれてしまったといっても過言ではないほどだった。

 そんな暗闇の中、山岸たちに背中を突き飛ばされるようにして雑木林の中に入り、恐る恐る奥へと進んでゆく。10分ほど歩けば件のお堂が見えてきて、それを震える手で写真におさめ、とっとと帰ろうと踵を帰したとき、ポケットに入れていた携帯電話が鳴り響いた。

 突然のことに心臓が止まったかと思ったが無事動いていて、浅い息を吐きだしながら確認すれば山岸からのメールであることが分かる。

 内容は、先に麓におりて、その先にコンビニで待っているからひとりで帰ってくるように、というものだ。

 どうやら、花垣を置いてさきに帰ってしまったらしい。そうやって花垣の恐怖を長引かせるのも狙いのひとつだったのだろう。

 そのメールに怒ればいいのか、絶望すればいいのか、混乱を極めている最中、ふと、近くの草木がざわりと揺れた気がした。

 そして、冒頭の状況に陥ったというわけだ。

 おそらく電池が切れてしまったのだろう。懐中電灯としての役割を失ってしまったそれを、だからといってそのへんに打ち捨ててしまうわけにもいかず、両手で抱き締めるようにしながら周囲を見渡す。

 いくらか暗がりに目が慣れたとはいえ、明かりなしに歩くには余りにも暗すぎる。

 視線といっしょに体も動かしていたせいか、自分がどちらから歩いてきて、どちらへ向かっていたのかも分からなくなってしまった。

 ふいにガサッと脇の藪からひと際大きな音がして、ビクリ、と体が跳ねる。動物や蛇の類でも潜んでいたのだろうか。

「な、なんだよお……」

 ずり、ずり、と足を引きずるようにして無意識に後退る。

 この日は晴れていたが、昨日、一昨日と雨が降っていたせいで足元がすこしぬかるみ、靴底から嫌な感覚が伝わってくる。

 帰り道が分からない。自分がどこにいるのかすら。

 すこし情けないが、背に腹は代えられない。山岸たちにメールをして、懐中電灯が壊れたから迎えに来てほしいと頼んでみよう、と思いつつ携帯電話を広げ、絶望した。

「け、圏外? なんで……?」

 そこまで山奥というわけでもなく、さっきまで電波が立っていたはずなのに。

 そういえば、雑木林を進んでくる道すがら、携帯を見ていた千堂が「電波入りにくいな」と言っていたような。

 携帯を頭上にかかげて左右に振ってみるが、圏外のまま、電波が立つことはなかった。

「と、とりあえず、雑木林抜けねえと……」

 右も左も、前も後ろも分からないが、だからと言ってこの場に佇んでいるわけにはいかない。こわい。余りにこわすぎる。

 壊れた懐中電灯を握りしめたまま、とりあえず道のようになっている場所をすこしずつ進んでゆく。暗がりに目が慣れたせいか、真っ暗というわけではなく、木々や道くらいはなんとなく分かる。

 雑木林の奥ではなく、元居た場所に戻れなくとも、せめて人がいそうな方へ、と思いながらしばらく歩いていると、暗がりの中に古びた建物が見えてきた。

 どうやら使われていない倉庫のようで、木々の合間に突然現れた。

 周囲は今まで歩いてきた場所よりいくらか平坦になっており、倉庫を通り過ぎて歩いてゆけば街のほうへ出られるかもしれない。

 人工的な建物が見えてきたことでホッと息を吐き、先程よりいくらか速度を速めて歩く花垣だったが、ようやく倉庫へ辿り着くというころ、ふいに倉庫から、バンッ、とものすごい音が聞こえてきて、今度こそほんとうに跳び上がってしまった。

「っ!?」

 驚きの余り声も出ず、音がした目の前の倉庫を凝視するように見上げる。今にも朽ち果てそうな倉庫の外観は暗がりであるため、はっきりとは見えないが、脇の方に階段があり、上階があることが伺い知れる。

 花垣は地上にいるから上の様子はよく分からないけれど、大きな音がしたのは上の方からだった。

「な、なに……」

 なにか、置いてあるものが崩れただけだろう、きっとそうに違いない、と自分を納得させようとした矢先、ずり、ずり、となにかを引きずるような音が聞こえてきて、思考も体も硬直した。

 おばけなんて、いるわけないじゃん、と硬直した思考で思いながらも体を動かすことができず、すこしずつ近付いてくる音に比例して恐怖も高まってゆく。

 直後、再度けたたましい音がしたかと思えば、階段の先からなにかが現れ、それは勢いよく花垣の目の前に落ちてきた。

「ヒイィッ!」

 高さはさほどないとはいえ、どさ、と音を立てて落ちてきたなにかに声に思わず悲鳴を上げ、逃げ出そうとしたのだけれど、駆けだしたはずの足はなぜか動かず、その場に座り込んでしまう。

 こんな状況で信じられないことに、腰が抜けてしまった。

「…っ…ッ……!」

 声にならない声を上げながらはくはくと口を動かし、なんとかその場を立ち去ろうと座り込んだまま、ずり、後ろに下がったとき、再度、上から何かが落ちてきた。

 先程より軽い音を立てて地面に降りてきたそれははじめ、暗がりの中でぼんやりと淡くまたたく、柔らかい光のようなものに見えた。

 けれどそれは地面に落ちた刹那、真っ直ぐ花垣に向かってきて、かと思えばものすごい勢いで胸倉を掴み、その勢いのままぐい、と花垣の体を持ち上げた。

「おっ俺、おいしくねえからあ…ッ!」

 そのとき、脳裏に過ったのはなぜか、食われる、という言葉で、考えるより先に口が動く。冷静になって考えれば、余りに馬鹿げた発言だったなと思うのだけれど、そのときは必死でそんなことを考えている余裕などなかったのだ。

 終わった、とそんな諦めを一瞬抱いたとき、けれど、場違いにも聞き慣れた声が聞こえてきたのだった。

「あ? ……タケミっち?」

「へっ?」

 甘く低い、耳に馴染みのある声。佐野の声だ。

 何故こんなところで佐野の声が、と思い、閉じていた目を恐る恐る開ければ、目の前に怪訝そうな表情を浮かべる佐野の顔があった。

「ま、マイキー君?」

「なにやってんだよタケミっち、こんなとこで。思わず殴っちゃうとこだったじゃん」

 掴んでいた胸倉からパッと手をはなされ、代わりに腕を掴まれる。そのまま腕を引く手に支えられ、立ち上がる。改めて確認してみても目の前に立っているのは、たしかに私服姿の佐野で、首を傾げて花垣を見つめていた。

「マイキー君こそ……こんなとこでなにやってんすか?」

「俺? 俺は、」

「オイ、マイキーこっち片付いたぞ……って、タケミっちか? お前なにやってんだよこんなとこで」

「は? タケミっち? マジでタケミっちじゃん」

 佐野の声を遮って、こちらも聞き慣れた声が聞こえてきたかと思えば、佐野の背後の倉庫から私服姿の龍宮寺と三ツ谷が顔を出す。彼等の手にはすっかり伸びてしまっている不良たちの襟首が握られており、佐野がここでなにをしていたのか、大方察することができた。

「喧嘩ですか?」

「そうだよ。一瞬で終わったけどな。で、お前は? 喧嘩じゃねえよな」

「あ、はい。俺は……」

 斯斯、然然。

 花垣がこの場にいる簡単な経緯を説明する。すこしだけ恥ずかしかったけれど、佐野に怖がりなことはもうバレているし、そのせいで佐野の前で泣いてしまったことも、それを宥めてもらったこともあるため、今回のことも素直に吐露した。

「それで、とにかく人がいそうなほうにと思って、歩いてきたんです」

「ふうん。けど逆方向じゃね? このまま進んでくと山上っちゃうよ」

「えっ、そうなんですか?」

「うん。だから俺等と逢えて良かったねタケミっち」

 にっこりと笑う佐野の言う通りだ。佐野たちと遭遇せず、このまま進んでいたら本格的に遭難することになっていただろう。

 ゆえに佐野の言葉にこくりと頷く。

 良かった。はじめは幽霊かお化けと遭遇してしまったかと思って、ものすごくこわかったけど。

「だから幽霊とかお化けとか、いるわけねえだろ」

「わ、分かんないじゃないですか。遭ったことがないのに、なんでいないって言えるんですか?」

「俺がいねえっつったらいねえんだよ」

「だってそれは、」

「あ? 俺の言うこと間違ってるか、タケミっち」

「う」

「マイキーの言うことが間違ってるわけねえよなあ、タケミっち」

「うう」

 ずい、と目の前に佐野の顔が迫ってきたかと思いきや、その後ろから意地の悪い笑みを浮かべた龍宮寺が覗き込んできて、体が後ろに傾ぐ。

 佐野と龍宮寺のふたりに詰め寄られて言い返すことなどできるはずもなく、言葉にならない声を漏らせば、ふたりの後ろから困ったように笑う声が聞こえてきた。

「あんまいじめてやんなって」

「三ツ谷君……!」

 龍宮寺の背中を叩きながら顔を覗かせた三ツ谷に後光が差しているように見える。思わず感嘆の意を込めて三ツ谷の名を呼べば、「いじめてねえし」と佐野がいくらか不満気な声を上げた。

「タケミっちが幽霊こわいって言うから、そんなんいねえって教えてやっただけだし」

「そうだぞ」

 頷き合っている佐野と龍宮寺に挟まれながら、救世主がごとく現れた三ツ谷を拝みたい気持ちで見上げていると、はじめは笑っていた三ツ谷がなにかに気が付いたように眉を寄せた。

「泥だらけじゃんタケミっち」

「ああ、雑木林の中歩いてきたんで……さっき転んじゃいましたし」

 マイキー君にビビって、という言葉を飲み込む。

「制服の泥って中々落ちねんだよなあ。このへん、昨日一昨日の雨でぬかるんでるし、滑りやすくなってるから気ぃ付けろよ」

「タケミっち鈍くせえからな」

「ドラケンも肘のとこ汚れてっけど」

「あ? どこ?」

「そっちじゃねえ逆。こっち向いて。……あ、ここもちょっとほつれそうじゃん」

「やって」

「道具持って来てねえよ。明日な」

 そんなこと言いながら暗がりのなかで重なるようにしてふたりは龍宮寺の服を見下ろしている。

 三ツ谷の言った通り、雑木林の道もぬかるんでいた。恐る恐る歩いていたから滑ることはなかったけれど、足元には気を付けたほうが良いだろう。

 そんなことを思っていると、ふいに目の前に手のひらが伸びてきて、反射的に顔を上げれば、伸びてきた手が頬に触れた。

「汚れてる」

「え」

「泥で」

 すぐそこで聞こえる佐野の声と頬を指で撫でる感触。ゆっくりと頬を撫でる手はあたたかく、その感触は優しいもので、数度行き来する手を黙って受け入れる。

 優しい感触がどうしようもなく心地良く、つい、すり、と頬を寄せれば、ふ、と佐野がかすかに笑ったのが分かった。

「すいません……取れました?」

「うん、取れたよ」

 暗がりだったため、自分の頬についていたらしい泥を拭った佐野の手が汚れていたかどうかまでは判断できなかったけれど、頬の汚れは取れたらしい。

 ありがとうございます、と礼を言えば、佐野は一度だけ頷いた。



「……タケミっち、汚れてた?」

「いや……男の顔なんて、んなマジマジ見ねえから分かんねえよ。暗かったし」

 ちょっと目をはなした途端、また距離感が異常なことになっている佐野と花垣をさり気なく横目で見つつ、ふたりには聞こえないように龍宮寺と言葉を交わす。

 さっきまで普通の距離感を保っていると思ったのに、龍宮寺の服を払ってやって顔を上げれば、もうほとんど密着するような距離にまで近付いていて目を剥いた。

 汚れてる、とかなんとか言っていたのは聞こえたけれど、三ツ谷にはただ佐野が花垣の頬を撫でているようにしか見えなかった。

「……まあしょうがねえことだとは思うけど」

「しょうがねえって?」

「……触りたくなんじゃん、やっぱ」

 好きな相手が傍にいて、近寄ることを許してくれるのなら。

 触れたくなるのは仕方のないことだと思う。

 三ツ谷も傍で見ていて、ドキドキしたりハラハラしたり、度肝を抜かれて硬直したりはするけれど、佐野の行動を咎める気にはどうしてもなれない。

 触れたい、という欲求はどうしようもないものだと三ツ谷とて知っている。

 だから佐野のそれも理解はできるが、花垣に触れる佐野の手には下心というものが余り感じられないから、単純に触れたいと思っているだけなのだと思う。

 もちろん佐野も男だから、花垣自身に対する下心はあるのだろうけれど。

「俺、最近マイキーより気になることがあるんだよね」

「なんだよ、マイキーより気になることって」

「……タケミっちなんだけど」

 そういって佐野と話をしている花垣へと視線を向ける。

 佐野が花垣に対して手を握ったり、抱き締めたり、得も言われぬ眼差しを向けたりする理由はもう分かった。花垣のことが好きだからだ。これはもう間違いないだろう。

 けれどじゃあ、花垣はどうなのだろう。

 手を握られて、抱き締められて、決して他には向けられない眼差しを向けられて、それを嫌がるでも拒否するでもなく、ただ受け入れている。

 佐野の行動は、佐野をよく知っている三ツ谷や龍宮寺から見て、驚くようなことばかりだ。

 反面、佐野のことをよく知らない者から見れば、さほど驚くようなことではないことも多かったかもしれない。

 だが、花垣は?

 佐野のことをよく知らない、とは嘘でも言えないだろう。

 花垣は、他でもない佐野にそれをゆるされて、佐野万次郎という男のことをよく知っているはずだ。

 或いは、自分たちの知らない、気付かなかったことでさえ、花垣は気付いて知っているのではないかと思う瞬間が間々ある。

 けれどそれもさもあらんことかもしれない。

 花垣はおそらく、佐野にとって唯一の人間だ。

 そんな花垣が、あそこまで佐野の内側に入ることをゆるされた人間が、佐野の行動をなんの変哲もない行動だと思って受け入れているのだろうか。

 そこになにも感じないのだろうか。

「タケミっち、全然気付いてないのかな」

「うーん……そればっかりはなあ……」

「まタケミっち本人しか分かんねえことだけどさ」

 結局、佐野の気持ちも、花垣の気持ちも、彼等が口にしない限り、ハッキリとはしないのだ。

 佐野のことはよく知っているから、彼の変化にはおそらく他より敏感に気付けるけれど、花垣の気持ちは曖昧なまま三ツ谷にどうしても分からない。

 優しく、素直な人間だから、優しくされたり、好意を向けられたりしたなら、佐野にそうするように誰に対しても嬉しそうに笑うのかもしれない。

 だから花垣が佐野に好意を向けているかどうか、判断できないのだ。

「うまくいけばいいとは思うけど、だからってタケミっちにマイキーを好きになれって言うわけにもいかねえしなあ」

「そりゃそうだろ。そんなんマイキーだって望んでねえよ」

「ままなんないよね、人の感情って」

 だから結局三ツ谷と龍宮寺は、様子を伺い、ふたりの動向を観察して、ただ見守ることしかできない。

 ほつれを見ている振りをして、龍宮寺のカーディガンをぎゅっと握り締める。

 うまくいけばいいけど、と思いながら思い出すのは、龍宮寺に対する気持ちを誰にも言えなかったころのことばかりだ。

 元々言うつもりはなかったし、受け止めてもらえるとも思っていなかった。

 それで良かった。

 友達として、仲間として、ただ凛と前を向いている彼の背中を見ていられるのなら、それで良かった。

 そう思っていたのに、裏腹に彼に対する気持ちは大きくなっていく一方で、あるとき気が付けば一歩も歩けなくなっていることに気が付いた。

 足を一歩踏み出すだけ、腕を軽く振るだけ、わずかに身じろぎするだけで、彼に対する気持ちが溢れてしまいそうで、そこまで大きくなっていることに自分でも気が付けなくて、気が付いたときにはもう。

 好きで好きでどうしようもなかった。

 低い声が名前を呼ぶたび、優しく歪む切れ長の瞳が自分を見るたび、大きな手のひらがわずかに触れるだけで、どうしようもなく泣きたくなって、苦しくて苦しくて仕方がなかった。

 吐き出してしまえば楽になれると分かっていても、うまく吐き出すこともできず、吐き出すすべさえ知らず。

 どうしてと、友達でいられなかった自分を恨むことしかできなかった。

 好きにならなければ良かった。好きになんかなりたくなかった。

 そうすれば、彼の隣でただ、笑っていられたのに。

 口を閉ざし、これは違う、なかったことにしよう、友達に戻ろう、そうすればいずれきっと、この気持ちもなくなってゆくんだと、そんな愚かなことばかり考えた。

 そう思う時点で、友達になんか戻れるはずもないと分かっていたのに。

 名前を呼ばれて、見つめられて、傍にいて、触れて。

 眠れない夜を過ごし、彼のことを考えるだけで泣きたくもないのに涙が出て、大事だと思うからこそどんどんなにも言えなくなってゆく。

 そんな恋を知っている。

 日に日に肥大してゆくばかりの気持ちを、あてどなくかかえ続けるしかない苦しさを三ツ谷は知っているから。

 だから、佐野の恋がうまくいけばいいと。

「三ツ谷」

「、ん?」

「どした?」

 ふいに名前を呼ばれてハッと我に返る。顔を上げれば目の前に龍宮寺の顔があって、怪訝そうな顔をした彼はついで、ぎゅっと眉を寄せた。

「マジでどうした」

「なにが?」

「なんで泣きそうな顔してんだよ」

「……いや、それは、べつに」

 まさかと思って咄嗟に頬に手を当てるが、濡れていなくてホッとする。

「なんでもない。ちょっと……昔のこと思い出しただけ」

 龍宮寺を見上げて笑えば、龍宮寺は眉を寄せたまま、背後の佐野や花垣から隠すように体の向きを変え、三ツ谷の前に立った。

「本当に平気か?」

 低い声で囁くように言って、大きな手のひらで頬を撫でる。

 まるで流れていない涙を拭うように動くあたたかな手の感触に、目を細めて笑う。

 昔の話だ。今はもう苦しくない。

 好きにならなければ良かった。そう思った時期もあったけれど。

「……ほんとに平気」

 大きな手のひらに頬を寄せ、言い聞かせるように言えば、すこしだけ強張っていた龍宮寺の体から力が抜けるのが分かる。

「ならいいけど。なんかあったらちゃんと言えよ」

 そう言って息を吐いた龍宮寺は頬から手をはなし、体の向きを変えて佐野と花垣へと視線を遣る。

 そんな龍宮寺にならうように三ツ谷もふたりへ視線を向け、握り締めていたカーディガンからゆっくりと手をはなした。



 この後のことだろうか、背後でなにやら話をしていたらしい三ツ谷と龍宮寺がこちらを向いたのが分かり、花垣も顔を上げる。

「マイキー、タケミっち、そろそろ帰るぞ」

「だって。帰ろ、タケミっち」

「あ、はい」

 倉庫へと向かって歩き出した佐野の後を追って、花垣もぬかるみに足を取られないよう注意しながら進んでゆく。

 前を歩く佐野が手を貸してくれたからそれに掴まりながら慎重に歩いていると、佐野がふと思い出したように声を上げた。

「そういえばタケミっち、友達と来てたんだろ。連絡入れとかなくてへーき?」

「ああ、そういえば……でもこのへん、電波入んないすよね」

「さっき倉庫の裏手側で携帯見たけど、電波立ってたよ」

「マジすか?」

「うん」

 佐野たちに現在地を尋ねたところ、山岸たちが屯しているだろうコンビニエンスストアがある方向とはやはり逆の方向に歩いてきてしまったらしく、コンビニへ行くには迂回しないとならないようだ。

 帰りは佐野がバイクで送ってくれると言ってくれたけれど、回り道してもらうのはさすがに申し訳ない。

 佐野の言う通り、連絡を入れて帰したほうがいいだろう。

「じゃあ、ちょっと連絡入れていっすか?」

「いいよ。ケンチン、三ツ谷、俺タケミっち送ってくから先帰っていいよ!」

「おー、分かった」

「気ぃ付けろよ。じゃあなタケミっち」

「気ぃ付けて帰れよ」

「あ、はい! ふたりも気を付けて!」

 すこし先を歩いていた龍宮寺と三ツ谷は軽く手を上げて暗がりの中を進んでゆく。

「タケミっち、こっち」

 ふたりに別れを告げたあと、倉庫の裏手側へと向かう佐野のあとに続く。

 周囲は相変わらず暗く、懐中電灯も復活したわけではない。灯りなどなにもない状況は変わらないのに、佐野の後ろをついて歩いていると恐怖なんてまったく感じなかった。

「さっき、このへんで携帯触ってたけど」

 言いながら倉庫の壁からすこしはなれた場所に立つ背中を見つつ、携帯電話をひらく。

 瞬間、パッと光を帯びる画面は足元を照らすほど強い光ではないが、暗がりに慣れた目にはいささか眩しく目を細める。

 携帯の画面以外が暗闇に沈んでしまったような錯覚を憶えたが、徐々に目が慣れてくる。

「このへんすかね」

 まだいくらかぼやけた視界で携帯をわずかにかかげ、数歩歩いたとき、足の裏に感じる地面の感触がいささか変わった気がした。

「そのへん崖になっててベニヤ貼ってあるだけだから、足元気を付けろよ」

「えっ」

 注意を促す佐野の声が聞こえた直後、バキ、と足元で嫌な音が響いたのが分かった。

 それと同時に自身の足がなにかを踏み抜いたような感覚があって、ず、と視界がブレる。

 なにが起こったのか理解できなかったにも拘わらず、落ちる、となぜかハッキリ思った。

 踏み抜いたベニヤの下に地面はなく、ぽっかりと開いた穴に落ちてゆくような奇妙な感覚をおぼえる。

 踏み抜き、割れたベニヤの端が引っかくように肌を引き裂くのが分かる。けれど落ちてゆく感覚のほうが余程強く、痛みは余り感じない。

 後ろ向きに倒れた体が重力によって、ぐん、と背後に引っ張られるような感覚がして、視界に移った光景がさかしまに見えた。

「タケミっち!」

 ふいに佐野の声が聞こえ、強い力で腕を掴まれる。

 けれどそのときには落下し始めていた体は止まることはなく、腕を掴んだ佐野をまるで道連れにするように崖を落ちてゆく。

 背中が斜面に当たる強い衝撃を一度感じたあと、頭を抱くように佐野の腕の中に引き寄せられたのが分かる。けれど、理解できたのはそこまでだった。

 転がり落ちてゆく体は止まることなく、そのあと続けて襲い来る強い衝撃に花垣は意識を失った。



 ふと意識を取り戻したとき、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。けれど、おそらくそう時間は経っていないのだろう、すぐに崖から落下したことを思い出し、目を開ける。

 頬に濡れた腐葉土の感触を感じて気持ち悪い。あちこちが痛み、慎重に体を動かして怪我の具合を確認してみるが、擦り傷や打撲ばかりのようで、大した怪我はなさそうだ。

 わりあいに長い時間転がっていたような気がするから、そこそこの高さがある場所から落ちたと思ったのだが、この程度の怪我で済んで良かった。

 と、思った直後、血の気が引いた。

「ッマイキー君!」

 なぜ、自身の体がそれほど怪我を追っていないのか。

 それは花垣が落ちてゆく際、花垣の体を抱いて庇ってくれた佐野がいたからだ。

 慌てて起き上がり周囲を確認すれば、すこしはなれたところに倒れている佐野が視界に入り、慌てて駆け寄る。見たところ四肢に異常はなさそうで、一見して大きな怪我も見当たらないが、安心できるはずもない。

「マイキー君! マイキー君……ッ!」

 もし怪我をしていたら、と思うと揺さぶられるのも憚られ、佐野の体に手を当て、ちいさく揺らしながらただ佐野の名前を呼ぶことしかできない。

 ひとりで雑木林の中を歩いているときなどとは比べ物にならないほどの恐怖だった。

 もし佐野が、このまま目を覚まさなければ。

 もしこのまま動かなければ。

 考えたくもないのに嫌なことばかり脳裏を過り、そんな場合ではないと分かっているのに目元にたまった涙が地面に落ちてゆく。

 喧嘩をしていたにも拘わらず、一片の汚れもなかった佐野の服は今や泥に塗れ、白くまろやかな頬も汚れているのが分かる。

 腕や足が折れていない確認するために、そっと四肢に触れたとき、う、とちいさく呻く佐野の声が聞こえた。

「っ、マイキー君!」

「……タケミっち、声でけえ」

 かすかに身じろいだかと思えば、ゆっくりと体を起こし、わずかに顔を顰める佐野をどこか呆然と眺める。

 起き上がる体に手を貸すが、触れれば壊れてしまうかもしれないという、そんなありえない錯覚に囚われ、指先が震えた。

「け、怪我は…っ」

 尋ねた声が自分でも分かるほど震えていて、情けないと思ったけれど震えも涙も止められない。

 口元や指先が目に見えて震えてしまい、それが佐野にも分かったのだろう。自身も傷だらけだというのにまるで花垣を安心させるように、目元をゆるりと撓ませて笑ったあと、優しく花垣の腕を撫でた。

「大丈夫だよ、大したことねえ」

「そんなはずないじゃないすか、だってマイキー君……俺のこと、庇って……っ」

 花垣が負うはずだった傷を佐野が受けたはずだ。大したことがないはずがない。

 佐野に抱かれていた花垣ですら、何度も強い衝撃を感じた。負った怪我は花垣より酷いはずだ。

「マジで大したことないって。ちょっと足が痛えくらい。けど折れてはなさそうだから、すぐ治るよ。落ち着けタケミっち」

「ほ、他には!? 他に痛いとこは!?」

「ないよ。そんな高くなかったし、タケミっちみてえに貧弱でもねえからマジで大丈夫。それより、いいからちょっと泣きやめ」

 体を起こしたあと、その場に胡坐をかいて座り込んで手を伸ばし、目元から溢れてゆく涙を指ですくうように拭ってくれる佐野は嘘をついているようには見えないが、どくどくと激しく動く心臓が落ち着くことはなく。

 全身が震え、このままじっとしていたらどうしようもない恐怖に飲み込まれてしまいそうで、無意識に手を伸ばす。

 佐野の足や腹、腕や肩ををぺたぺたと触り、大きな傷がないか確認する。

 佐野はなにも言わずじっとしていて、怪我を確認するために頭に触れ、頬に触れたとき、じっとこちらを見上げる黒目がちの瞳と目が合った。

「まい、きーく……」

「な? マジで大丈夫だから」

「マイキー君……っ」

「……目溶けそうだねタケミっち」

 ようやく佐野が無事で、大きな怪我もないのだと実感し、体中から力が抜ける。それと同時に目元も緩んだのか大量の涙が溢れるように流れてゆくのが分かる。

 ぼろぼろと落ちてゆく涙を腕で拭いながらその場にへなへなと座り込めば、ゆっくりと頭を撫でられた。

「ごめ、なさ……っマイキーくっ、ごめんなさい…ッ」

「なんでタケミっちが謝んの。なんも悪くねえじゃん」

「だって、俺のせいでマイキー君が……!」

「俺も言うの遅かったし、べつにいいよ。つうかもしタケミっちが悪かったとしても、ここでお前責めてなんになるんだよ。状況変わんねえだろ」

「そ、れはそう、ですけど……」

「な? だからもうこの話終わり。次謝ったら殴んぞ」

「う……ぁい……っ」

「『あい』って」

 ふ、とすぐそこで笑う気配がしてゆっくりと顔を上げれば、こんな状況なのにも拘わらず、佐野が笑っているのが分かる。

 普段喧嘩をしたときだってほとんど怪我を負わない彼が、今は傷だらけになっていて、あちこち泥だらけだ。大きな怪我はないと言っても、斜面を転がり落ちてきたのだ。全身が痛むはずなのに。

 いつも通り、平然とした顔をしているが、座り込んだまま立ち上がろうとしないから、或いは足を痛めているのかもしれない。そういえばさっき、足が痛むと言っていた。

 慌てて佐野の足を触って確認すれば、足首がほんのすこしだけ腫れているの分かる。けれど頭上から「大したことないよ」と優しい声が降ってきた。

「ちょっと捻っただけだし。すぐ治るから」

「でも…っ、立てないんでしょう……ッ?」

「あ? 俺を誰だと思ってんのタケミっち。普通に立てるわ」

 そう言って佐野は本当にすっくと立ち上がった。

「ちょっと痛いだけだって言ってんじゃん。立てるし、歩けるけど、こんなに暗い中、これ上んのはさすがにあぶねえと思って座ってるだけ」

 これ、と言って、自分たちが転がり落ちてきた崖を指さす。のち、立ち上がったままの状態で、ずい、と顔を近付けてきた。

「言っとくけど、昼間だったらこれくらい上れるから。今は敢えて上んねえだけ。分かった?」

 腰に両手を当て、不機嫌そうに言ってくる佐野に気圧され、こくこくと頷く。どうやら、立てない、と言った言葉が余程気に障ったらしい。

 再度その場に勢いよく座り込んだ佐野は、「貧弱なタケミっちとはちげえんだよ」と吐き捨てるようにそう言った。

「……げ、元気っすねマイキー君」

「だからそう言ってんじゃん。こんくらいの怪我なんともねえよ」

 知ってはいたけれど、潜り抜けてきた修羅場の数に相当の差があるのだろう。肉体の強度に関して言えば、花垣と同じ生物ではないのかもしれないとすら思った。

 佐野の頑丈さに驚きはしたものの、ほんとうに大した怪我はなさそうでホッとする。

 座り込んだ状態で腕を組み、まだなにかぶつぶつ言っている佐野にようやく頬が緩み、笑うことができた。

「……良かったです。マイキー君が無事で」

「やっと分かった? つうかタケミっちも怪我してんじゃん。痛くねえ?」

「痛いは痛いすけど、マイキー君が庇ってくれたおかげで、俺のほうは本当に大した怪我じゃないんで……大丈夫です」

「ならいいけど」

 ちいさく息を吐く佐野の姿を改めて見下ろす。服や頬、髪は泥で汚れ、あちこちに擦り傷や切り傷ができている。

 先程触れた足首の腫れはさほど酷くはなさそうだったけれど、それでもじんわりと熱を持っていた。

 大したことはないという言葉に嘘はないだろう。けれど、あのとき花垣に手を伸ばさなければ、掴んだ手をはなしていれば、服や体が汚れることも、怪我をすることもなかっただろうに。

 けれど、それについてなにも言ってこない。俺がいなければとか、俺が助けてやったとか、そんなことは一言も。

 ただ、花垣はなにも悪くない、とそれだけ言ってくれた。

「………………」

 立ち上がり、佐野の傍に寄って、汚れた頬に手を伸ばす。手の汚れを制服で拭き、綺麗になった手で泥のついた頬を撫でれば、大きな瞳がゆっくりと瞬いた。

「……汚れてる」

 泥で、と先程佐野に言われた言葉を口にし、指先で頬を拭う。

 ゆっくりと頬を撫でれば、息を吐くようなかすかさで佐野が笑った。

 どうしてこんな状況に陥っているにも拘らず、いつもと変わらず笑ってくれるのだろうと思いながら、頬を撫でる手はそのままに、膝を曲げて座り込み、佐野の顔を正面から眺める。泥で汚れていたまろやかな頬は、今は綺麗になっていて、なめらかな感触が手のひらに伝わってくる。

 花垣をじっと見つめ返してくる黒目がちな大きな瞳が、暗がりの中で瞬いたのが分かる。

 指先にかすかに睫毛が触れた。

「……このままここでじっとしてるわけにもいかないんで、俺周り見てきますね」

 佐野に大した怪我がないことが分かって、もうちゃんと安心できたのに、頬を撫でる手のひらがかすかに震えているのが自分でも分かって、それを誤魔化すようになめらかな頬から手をはなして立ち上がる。

 けれど一歩足を踏み出すよりさきに、伸びてきた手に止められた。

「あぶねえから動き回んなって。こんな暗いとなんも見えねえだろ」

「けど、」

「いいから、ここにいろ」

 それはいつものように強い口調でも、脅すような口調でもなかった。

 甘く低い、聞き慣れた優しい声。

 強制するようなものでも、命令するようなものでもないのに、なぜか抗うことができず、そのまままた座り込む。

 まろやかなにおいがした。

 甘くて柔らかくて、どこか夕暮れを彷彿とさせるような、佐野のにおいが。

「携帯、やっぱり電波入りませんね」

「ケンチンか三ツ谷が気付いて来てくれるって。朝になったら自力で帰れるし」

 片手でひらいた携帯電話の電波を確認するが、やはり圏外のままだ。携帯で助けを呼ぶことは不可能だろう。

 わずかに肌寒いが、夜を越せないほどの気温というわけでもない。心配なのは佐野の怪我の具合だが、彼の様子を見るに、言葉通り、酷い怪我ではないのだろう。

「……寒くないですか?」

「俺はへーき。タケミっちはへーき?」

 そうやって、花垣の具合を尋ねてくるのもいつものことだ。

 低く甘い耳に慣れた言葉が、いつものように恫喝するでも、揶揄するようでも、くすぐるように笑みを孕むわけでもなく。

「俺も大丈夫です。制服も着てますし」

「そ」

「はい」

「けど、タケミっち」

 ―――ただ、静かに。

「……手、震えてるよ」

「……っ」

 早く助けを呼ばなければ、と焦る気持ちがないわけではない。早く帰りたいと思う気持ちがないわけでは。

 けれど、握られた手があたたかくて、それがもうどうしようもなくて。

 佐野が無事だということは分かったし、安心もした。不安も余り感じない。恐怖は佐野と顔を合わせたときからどこかへいった。

 不安も、恐怖も、哀しいことなんてなにもないのに、なぜだかどうしようもなく涙が出そうで。

 指先が震える。

 指先をすこし動かすだけ、顔を上げるだけ、すこし身じろぎするだけで、なにかひどく大切なものが溢れだしてしまいそうで、咄嗟に空いた手で口を覆う。

「こ、れは……その」

「こわいの? 幽霊なんていねえって言ってんのに……しょうがねえなあタケミっちは。ほら、こっち来い」

 そう言って、緩やかに手を引かれ、腕の中に抱き寄せられる。

 柔らかい髪が頬に触れ、あたたかい腕が体を抱く。花垣の手とさほど大きさの変わらない手が、宥めるようにゆっくりと背中を撫でる。

「安心しろよ、幽霊出たら追い払ってやるから」

「……物理、効きませんよ、多分」

「は? 関係ねえし、効くまで殴る」

「マイキー君らしいですね」

 すぐ耳元で聞こえてくる声に笑いながら返すけれど、どうしても上手く笑えない。

「……なんもこわくないよ」

「………………」

「俺がいるから。な」

 背中を撫でる手は優しく、幼子をあやすような声は甘く、柔らかくて。

 目を合わせるようにゆっくりと体をはなされ、促されるまま、いつもより低い位置にある佐野の顔を見下ろす。

 黒目がちの大きな瞳が暗がりの中でもゆるやかに歪んだの分かる。

 この瞳が自分を見て、優しく笑うのを見るのが好きだ。

 彼が笑っているのを見ると嬉しくなるが、その瞳が自分を見て笑うと、ちゃんと自分のことを見ていてくれているんだということが分かる。

 花垣が話す、他愛もないどうでもいいような話も、佐野はいつも笑って聞いてくれる。

 けれど、そうでなくたって、佐野はいつだって―――。

「……だから泣くな、タケミっち」

「……っ」

 この手のひらが、あたたかいことを知っている。

 この温度が、佐野の体温だと知っている。

 このにおいが、佐野のにおいだと知っている。

 甘えたなことも、わがままなことも、強引なことも、格好良いことも。

 花垣がいちばん好きなあの眼差しが、自分にしか向けられないことも。

 佐野はいつだって優しくて、自分を大事にしてくれているということも。

 いつからだろう。

 誰にも言えない想いをかかえている。

 はじめは気のせいだと思った。だから気付かないふりをした。

 こんなことあるはずがない、ありえない。佐野はきっと自分のことを、兄に似た友人だとしか思っていないのだからと。

 けれど見て見ぬ振りをしているあいだもその感情は育っていって、気が付いたときにはもうどうしようもなかった。

 名前を呼ぶ甘く低い声、ゆるやかに歪む黒目がちの大きな瞳、あたたかな温度。

 耳にするたび、目交いにするたび、感じるたびにたまらない気持ちになる。

 吐き出してしまえば楽になれると分かっていても、あふれそうになるこの感情を現わす言葉が出てこない。どれだけ言葉を尽くしてもこの気持ちは伝えられない気がする。

 叫ぶように名前を呼んだ、低く甘い声が耳からはなれない。腕を掴んだ力の強さが、そのときの手の感触が。

 自身の体が傷付くことも厭わずに花垣の体を引き寄せて抱き締めた体温が。強く感じた佐野のにおいが。

 傷だらけで、たしかに顔を顰めていたのに花垣を見て、大丈夫だと優しく笑ってくれたゆるやかに歪んだ黒目がちの大きな瞳が。

 思い返すだけで、指先が震え、細胞が収縮するような感覚に陥る。

 どうして、友達でいられなかったのだろう。

 友達でいられたなら、ずっと、彼の傍で笑っていられたかもしれないのに。

 もう碌に笑うことすらできない。

 好きで好きでたまらない。

 優しくされるたびに泣きたくなる。名前を呼ばれるたびに好きになる。

 ゆるやかに歪む瞳で見つめられるたびに、恋をしている。

 決して言葉では言い現わせない想いをかかえて、朝も昼も夜も。

「…っ、…マイキー君…ッ」

「………………」

 背中を優しく撫でる手は、花垣がなにかをこわがっていると思っているのだろうか。

 それならそれでいい。そのまま気が付かないでいてほしい。

 そんなことを思いながらも、自分にだけ向けられるゆるやかに歪む眼差しの意味を知りたくて。

 もしかしたら、なんてそんな希望を捨てられなくて。

 結局、いつも優しい佐野に甘えてしまう。

 想いを言葉にすることすらできないのに、もう友達になんて戻れないのに。

 甘く低い声で名前を呼ばれて、やわらかな眼差しを向けられて、あたたかな体温に触れるために、友達の振りをして。



 そのあとしばらく、花垣が泣きやむまで佐野は黙って背中を撫でてくれていた。

 ようやく落ち着いたころ、「もうこわくなくなった?」と聞いてくる声はいつも通り優しくて、それにわずかな罪悪感をおぼえると同時にホッとする。

 泣いたせいで違和感をおぼえる瞳を瞬かせつつ、目の前の佐野の顔を見つめる。

 花垣を見上げ、ゆるやかに歪む瞳は泣きたくなるほど優しくて。

 ゆっくりと手を伸ばし、なめらかな頬に触れる。やわらかい髪が手に触れて、それをそっと指先ですくう。

「つうかその年になって、幽霊がこわいからって泣くなよ。そもそも幽霊なんていねえし」

「いるからこわいんじゃなくて、いてもいなくてもこわいんですよ」

「意味分かんねえ。いねえならこわくねえじゃん。ま、いてもこわくねえけど」

「マイキー君にはこわいものなんてないですもんね」

「まあね」

 口端を上げて笑う佐野に笑い返しながら、なめらかな頬をゆっくりと撫でる。すり、と擦り寄る頬があたかかくて体から力が抜ける。大きな目が気持ち良さそうに細められて。

「けどタケミっちがこわがりじゃなくなったらつまんねえから、こわがりのままでいいよ」

「……っ」

 優しく笑って、優しい声で言う佐野の言葉にたまらない気持ちになって、胸がいっぱいになる、

 まだこの気持ちを上手に言葉では現わせそうにないけれど、もう言ってしまっていいだろうか。

 これ以上、ひとりでかかえていられそうにない。

 たとえ、友達だと言われても、もしかしたら傍にいることをゆるしてくれるかもしれない。そうしたら今度こそ、ちゃんと友達でいるから。

 或いは、優しい声や眼差し、温度を失ってしまったらと思うと、どうしようもなくこわいけれど。

「、ま」

「マイキー! タケミっち!」

 意を決して口をひらこうとしたとき、頭上から聞き慣れた声が聞こえ、咄嗟に口を閉じる。タイミングが良いのか悪いのかは分からないが、どうやら助けが来たようだ。

「ケンチン! こっち!」

「こっちってどっちだよ!?」

「下! 落ちた!」

「あ!? 落ちたあ!? 怪我は!?」

「大したことねえ! けどちょっと足やっちまったから手貸して!」

「ちょっと待ってろ!」

 そんな遣り取りをしたあと、助けにきた龍宮寺と三ツ谷の顔が見えて、佐野はちいさく息を吐いた。



 佐野と花垣と別れたあと、たまたま通りがかったコンビニで花垣の友人たちを見かけた。

 別れる直前、先に帰るよう連絡を入れると花垣と佐野が話していたはずだが、彼等に帰る様子はなく不思議に思ってバイクを停める。

 声をかければ一斉に立ち上がり、「三ツ谷君!」と声を揃えて三ツ谷を呼んだ。

 話を聞いてみたが花垣から連絡はきていないとのことで、いささかおかしいとは思ったのだ。

 倉庫が建つ場所はたしかに電波が入りにくかったが、道を見失っていた花垣はともかく、佐野は場所を把握しているのだから電波が入る場所まで移動して連絡を入れれば良い。

 時間を確認してみても、それぐらいの時間はあったはずだ。

 それなのに花垣からの連絡はないという。

「ドラケン、マイキーに連絡してみて」

 いっしょにいた龍宮寺に頼んだところ、やはり佐野とも連絡が取れないという。

 よもや、なにか進展があったのでは、と勘繰ったが、それにしたって花垣の友人に連絡くらいは入れられるだろう。

 嫌な予感がして龍宮寺とともに倉庫まで戻ってみれば、やはり佐野のバイクは残ったままで、佐野と花垣がまだこの周辺にいることを知らせている。

 暗がりにふたりきり。

 色っぽいことになっているかもしれない、と思わないでもなかったが、そうでない場合、ちょっと気が引けるな、などと言っている場合でもなくなる。

 そしてやはり、そんな場合ではなかったのだ。

 しばらく周辺を捜索した結果、佐野と花垣が倉庫裏の崖下へ転落していたということが判明した。

 倉庫裏にあったベニヤ板が割れており、まさか、と思って崖下を覗き込めば、暗がりの中、泥だらけになったふたりを発見したのだった。

「大丈夫か?」

「俺はへーき。大した怪我じゃねえし。タケミっちのほう見てやって」

 手を貸し、なんとかふたりを崖の上まで引き上げる。佐野は片足でしばらく跳ねていたが、さほど酷い怪我でもなかったのか、そのうち両足で普通に歩き出した。

 さほど高くはないといえ、崖から転げ落ちたというのにぴんぴんしている。

 知ってはいたけれど驚くほど丈夫だ。

「俺もそんなに大した怪我じゃないんで大丈夫ですよ。マイキー君、ほんとに大丈夫ですか?」

「大丈夫だってば。蹴る?」

「え、遠慮しときます……」

 死ぬんで、と怯えた声を出す花垣の言葉に苦笑する。龍宮寺、辛うじて三ツ谷も耐えられるかもしれないが、花垣は間違いなく死んでしまうだろう。

「マイキー、バイク乗れそう?」

「うん」

「なら良かった。けど怪我してるし、タケミっちは俺が送っていくわ。タケミっちもそれでいい?」

「あ、大丈夫です。本当すいません、俺の不注意、」

「次謝ったら殴るつったよなあ?」

「す、すいま、あっ……す、すいません……」

「……まあいいけど」

 顔を見合わせて話をしているふたりはいつも通りだ。顔を見合わせて笑いながら話をしている。

 さすがにあの状況ではなんもないか、と思いながら手を貸すために怪我をしている花垣の傍に寄る。

「、」

 そのとき、ふと、とあることに気が付いた。

「マイキー君……あの、今日は本当にすい、」

「んー?」

「……ありがとうございました」

 ほとんど反射みたいなものなのだろう、謝罪を口にしようとした花垣の顔を覗き込むように佐野が首を傾け、びく、と肩を揺らした花垣が訂正する。

 その言葉に佐野は目を細めて笑った。

「いいよ。つうか送ってってやれなくてごめんな」

「そんな、全然……気を付けてくださいね、帰り道」

「ん。タケミっちもね」

 そんな会話を交わしているふたりからそっとはなれ、花垣の友人達に連絡を入れていた龍宮寺の傍に寄る。くい、とカーディガンを引いて顔を見上げれば、言いたいことがあると察してくれたのか、すぐに身を屈めてくれた。

「どした?」

「今、タケミっちから……マイキーのにおいした」

「……あ?」

 先程花垣の傍に寄ったとき、たしかに花垣から憶えのある佐野の香水のにおいがした。

 かすかにした、という程度ではなく、あれは間違いなく佐野のにおいだと断定できるから、おそらく密着していた可能性が高い。

 しかも察するにわりあい長い時間だ。

「こんな状況じゃなんもねえかって思ってたけど、なんかあったかも」

「なんかって……」

「つきあう、とか……?」

「いやそれはねえだろ。タケミっちの気持ちもまだ分かんねえのに」

「そうだけど……マイキー言っちゃったかもよ」

「それにしてはいつも通りじゃね?」

「うーん……でも絶対なんかあったんだと思うんだよね。あれ絶対マイキーのにおいだったし」

「……べつの男のにおいなんか憶えてんじゃねえよ」

「いや言ってる場合かよ」

 冗談なのか本気なのかムッとしたような声を出す龍宮寺を軽く睨めつける。大体、佐野のにおいなら、龍宮寺だってよく知っていると思うのだが。

 そんなことを考えていると「じゃあ俺帰るわ」と声を上げ、花垣と話し終えたらしい佐野が脇を通り過ぎてゆく。

 ふたりに話を聞けない以上、一体なにがあったのか把握するのは不可能だろう。

 佐野と花垣の様子はいつも通りだし、大したことではなかったのかもしれない。

「俺達も帰るか。疲れたしな」

「そうだな。帰ろうぜ、タケミっち」

「……すいません三ツ谷君、ちょっと待っててもらっていいすか?」

「ん? うん、いいけど」

 声をかければ一旦こちらへ寄ってきた花垣は、しかしその場で立ち止まり、佐野へと視線を向ける。

 そしてそのまま、バイクに跨っている佐野のほうへと向かって行った。

「あの、マイキー君」

「ん? どしたのタケミっち」

「……あの、…」

 バイクに跨っている佐野になにか言おうと口をひらき、考え込むようにして口を閉ざし、かと思えばまた口を開ける花垣を佐野は不思議そうに眺めている。

「えっと…、その、ですね……」

「……マジでどした?」

「いや、その……」

 言葉を探しあぐねているのか、それとも余程言いにくいことなのか。

 首を傾げている佐野同様、三ツ谷もなんだ、と思いながらその光景を眺めていたのだけれど。

「、っ!?」

 ふと、気が付いた。

 花垣の頬がほのかに赤く染まっていることに。

 意を決したように口をひらいては、躊躇ったように口を閉ざす。

 佐野と目を合わすように視線を上げ、困ったように俯く。

 ともすれば泣き出しそうな顔で俯く花垣を見て、まさか、ともう彼等を観察するようになって、何度思ったか分からない言葉が頭に浮かぶ。

 けれどいつもと違い、そのあとに続くのは、あのマイキーが、ではなく。

 まさか。

 まさかタケミっち、マイキーのこと―――。

 花垣の様子からその可能性に思い至り、そしてその想像がほぼ的中しているだろうことも察してしまった。

 人の感情の機微に、疎いほうではない。おそらく佐野も気が付いただろう。

 花垣から目を逸らしたくなかったけれど、佐野の様子も確認したくて佐野へと視線を向ければ、佐野は大きな瞳を見開いて花垣を凝視するように見つめていた。

「あの、俺……」

「……っ」

「…、その……っ」

 あのとき。

 花垣を送っていくから先に帰れと佐野に言われた、あのとき。

 帰った振りをしてふたりの様子を見ておくべきだった。

 花垣の様子から、佐野に言おうとしている内容に予想がついてしまい、三ツ谷は愕然としてしまう。

 なぜ。一体いつから。

 そして、一体なにがあったんだ。あの暗い崖の下で。

 時間にして、1時間程度のはずだ。

 その短い時間で佐野ではなく、まさか花垣に変化が現れるなんて。

「…、マイキー君、俺……ッ」

 ごくり、と音がしたのは、自分の喉からだったのか、それとも隣に立って同じ光景を見ている龍宮寺からだったのか。

 声が聞こえるほど近い距離にいるため、暗がりの中でも花垣が赤くなっているのが分かる。瞼が震えるように揺れていて、その奥から見え隠れする大きな瞳の表面に、うっすらと膜が張ったように水分が滲んでいる。

 顔を赤くして、佐野と視線を合わせようと顔を上げ、でも耐え切れないように視線を逸らし、意を決したように口をひらいては、思いとどまるように口を閉ざす。

 この状況がなにを意味しているのか佐野も分かっているのだろう。

 愕然としたように目を見開きながらも口を結び、やはり平静を保つことができないのか、佐野の頬も赤く染まっている。

 ついでに多分、三ツ谷と龍宮寺の顔も赤かった。

 なんか妙にドキドキする、と思いながら固唾を飲んで行く末を見守る。

 目を見開いていた佐野が緩やかに瞬いたと思えば、直後、一瞬だけだけれど、その顔が泣き出しそうに歪んだのが分かった。

「ッ……その、き、気を付けて、帰ってくださいね……もう、暗いすから……」

 すわ告白か、と緊張で空気が張りつめていたのだけれど、やはり踏み切れなかったのか、花垣は強張らせていた体からふっと力を抜き、絞り出すような声でそれだけ言って肩を落としてしまった。

「あ、うん……分かった……」

 花垣には悪いが三ツ谷はいくらか拍子抜けしてしまい、さすがの佐野も戸惑っていたようだけれど、佐野は佐野で今し方繰り広げられた状況を整理するのに忙しいだろうから、なんなんだよ、と花垣を責める気持ちにはならないだろう。

 その証拠に頬はいまだ赤いままで、珍しく瞬きを繰り返し、若干俯いている。

 それはそうだろう。三ツ谷だって驚いた。

 まさか佐野からでなく、花垣から言い出すような状況になるなんて。

 数時間前、素直に帰ってしまったことが悔やまれる。

 本当に一体、あの崖下でなにがあったんだ。

「……じゃあ、俺、帰るね」

「……はい」

 そう言って視線を合わせたまま、佐野も花垣もしばらく動かなかったけれど、そのうちどちらともなく視線を逸らし、それを合図にするように佐野はバイクにエンジンをかけ、帰って行ってしまった。

 遠ざかってゆく佐野のバイクのコール音を聞きながら、なに帰ってんだよマイキー、帰るねじゃねえだろ、と言ってやりたい気持ちもあるにはあったが、佐野の気持ちを考えるとそれも酷なような気もした。

 今、バイクを走らせながらなにを考えているのか想像すると、そっとしておいてやりたい気持ちもある。まだ信じられない気持ちもあるだろう。

 佐野が花垣を好きだということは、もうおおよそ気が付いていた。友人として、佐野の恋がうまくいけばいいと思いはするものの、肝心の花垣の気持ちが分からず、もどかしく思っていたのだけれど。

 先程の花垣の態度から察するに恐らく、花垣も佐野と同じ気持ちなのだろう。しかもこちらも推測でしかないが、その想いは昨日今日はじまったものでもなさそうだ。

 佐野が、花垣の気持ちに気付いていたかどうかは分からない。けれどまさか、花垣から告白されるような状況に陥るなどと思ってもいなかったのだろう。

 顔を赤くして、目を見開いて、愕然と花垣を見ていた佐野の表情を思い出し、珍しい表情だったな、と思う。珍しいというか三ツ谷ははじめて見た。

 さすがの佐野も、今夜は先程の出来事と花垣のことで頭がいっぱいだろうから、帰宅中に事故だけはしないように祈っておこう。

 ゆっくりと三ツ谷のもとへ戻ってきた花垣は、どこか落ち込んでいるようにも見えて、なんで言わなかったんだよ、などと言う気にはなれなかった。

 あの暗い崖下でなにがあったのか、三ツ谷には知る由もない、

 けれど花垣には、想いを伝えずにはいられなくなるほどのなにかがあったのだ。

 そして結局、言葉にできなかった気持ちも分かる。

 ままならないものなのだ。自分の気持ちがハッキリ分かっていたとしても、相手の気持ちがうっすらと透けて見えたとしても。

 相手を大切に思うからこそ、壊れてしまうのがこわい。

 想いを上手く伝えられないことがこわい。

 拒絶されるかも、という考えはどうしたって足をすくませるほど恐ろしいものだ。

「……良かったのか? マイキー、行っちゃったけど」

「……はい」

「……そっか」

「じゃあ俺等も帰るか、タケミっち」

「っす」

 わずかに俯いたまま、後ろに乗り上げる花垣の重みを感じながらちいさく息を吐く。

 佐野が、花垣が足を止めるのは、言葉にできないのは、相手を余程大切に思っているからこそだ。

 軽く、簡単な気持ちだったらもっと楽だっただろう。べつに壊れてしまってもいいと思えただろう。

 けれど、そんな風に思えないから、こうやって悩んでいるのだ。

 龍宮寺へ視線を向ければ、思うところがあるのか、ちいさく息を吐いている横顔が見える。

 彼もそんな想いをしたことがあるのだろうか。もしその相手が三ツ谷だったのだとしたら、嬉しいような、もどかしいような、遣る瀬無いような、なんとも言い難い気持ちだった。

 ふと顔をこちらへ視線を向けた龍宮寺と軽く頷き合って、バイクのキーを回す。

 舗装された道を走り、流れてゆく景色を横目に見ながら、腰と背中にぬくい温度を感じて、花垣が佐野を好きなのだということをなぜか今になって実感する。

 脳裏に浮かぶのは、顔を見合わせて、楽しそうに笑いながら話をするふたりの姿ばかりだ。

 すこし前、薄闇の中で見たふたりの姿を自然だと感じたのは、だからだったのか、と納得する。

 両想いかあ、と思いながら、甘酸っぱいというよりはやはり、嬉しいような、もどかしいような、遣る瀬無いような、なんとも言い難い気分になった。









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